太極拳 4
101009 呼吸と全身
6月の初め頃になりますが、太極拳教室で先生から呼吸の仕方に注意を受けました。いわく、「もっと頭のてっぺんで呼吸するように」。
――「頭のてっぺんで呼吸する」。
もひとつついでに言うと、「足の踵で呼吸する」。
ヒトの身体構造ではどちらもありえない話ですが、これらは確か仙人の呼吸法――と、いつか何かで読んだような。
「はあー、話に聞いたことはあったけれど、まさか私が『してみろ』と言われるとはなあ……」。なんとも言えない感慨におそわれぼんやり思考停止してしまい、その場で具体的な“練習方法”を聞く機転がはたらきませんでした。
で、仕方がないので例によって、勝手な自主練習を始めることにしました。
言うまでもなく私の鼻の穴は、顔の真ん中にあります。したがって実際に頭のてっぺんで呼吸するのは無理です。そこでとりあえず、吸った息を頭のてっぺんに巡らせるよう、イメージしながらゆっくり呼吸してみます。すると、頭全体にすがすがしい感じがあると同時に、くっと姿勢が伸びます。
その瞬間、「ああ、なるほど。練習中、頭が前に倒れる癖への注意だったのだな」と自分なりに納得しました。
ところがそうしてしばらく“てっぺん呼吸”を続けていると、ふと、肋骨というか鎖骨というか、胸の上側がぴくりとも動かないことに気付きました。平生の軽い呼吸ならともかく、これだけゆっくりした深い呼吸をしていて骨が少しも動かないのは不自然です。
ははーん、肋骨か鎖骨に問題があるのだな。
そう了解して施術を始めてみると、ぴたり的中、鎖骨に沿った深い部分
(ということは肋骨?)から問題がざらざら見つかります。
ごそごそ施術して、一段落したら“てっぺん呼吸”。
それから施術を再開すると、今度は、より肩関節に近い部分から問題発覚。
一段落してもう一度“てっぺん呼吸”をしてみると、今度は肋骨の横側から問題が見つかります。
呼吸をしたり整体したり、太極拳を練習したり整体したり、……と適当に様子を見ながらその作業を繰り返します。至って漠然とした“呼吸”動作を丁寧にしているだけなのに、続々と芋づる式に問題部位が見つかります。
おもしろいなあ、ここもこんなふうに悪いのかあ。お、ここはこうすれば立て直せるのかあ……なんて感心しながら施術するうちに時は経ち、最近になってようやく、一段落の目途が立ってきました。
一連の施術を振り返ると、先生からの注意をきっかけに展開した施術としては、最長の“シリーズ”だったかもしれません。
結局、鎖骨、肋骨、おなか、内臓
(?)、骨盤、股関節、膝関節、腕、肘関節、手の小指、首、あご、のど、……。ほぼ右半身全体にわたる筋肉、関節、靭帯、皮膚への施術が繰り広げられました。4ヶ月かけての大仕事です
(と言っても4ヶ月間、毎日施術したわけではないですが)。
これだけたくさんの施術が、すべて呼吸から派生したことは、改めて本当に驚きです。
「筋骨格系のはたらきは、すべて、横隔膜
(=筋肉)を起点にしている」――そう理解している私には、理屈でいえば当然すぎる結果です。ですが実際に、見事にばっちり足にまで連絡が及ぶのを目の当たりにすると、我が身体ながらちょっと感動してしまいました。
そしてその感動ついでに、太極拳での変化も述べておきたいところですが、実は自分ではあまりよく分かっていません。
身体の横側の懐が、以前に比べて広くなったような気が……とか。
下半身の安定が良くなったような気が……とか。
練習中、手先の感覚が以前よりは鋭くなったような気が……とか。
こまかい“感じの変化”はいろいろありますが、どれもみんな、なんとなくそんな気がするだけ。
整体屋としてはこの「主観の変化」が何より大切なのですが、報告のために必要な「客観的な変化」は私自身には分かりません。ですから実際のところ、“施術の効果”と言えるほど説得力のある変化はよく分かりません。
ここ一週間ほどで施術の腕前が明らかに上がったことを考えると、きっと、変化していることだけは確かです。とりあえずもう少し様子を見て、先生から「頭を起こして」と注意されずに済むかどうか
(=客観的評価)を確認の目安にしたいと思います。
101123 「実際の筋力」と「実際に発揮できる筋力」の違い
ここ最近、太極拳教室での歩行練習が楽しくて楽しくて仕方ありません。
歩行練習なんて地味で単純な練習なのに、なにがそんなに楽しいのか。
それは、左右完全対称な仕方で歩きたいのに、どうしても同じにはできない!――そんなもどかしさを強く実感できるからです。
太極拳の歩行では、ゆっくりゆっくり移動しながら、一方の足に完全に体重を乗せきります。
勢いを使わずに歩くので、左右が非対称なのはいやでも目立ちます。
私の場合、右足にはがしっと乗り込み過ぎで、左足はふらふらと頼りなくなります。
この差を素直に理解すると、右足の筋力は強く左足の筋力は弱い、ということになるかもしれません。
けれど、私の解釈はもう少し、ひねくれます。
「実際の筋力の強さ」ではなく「実際に発揮できる筋力の強さ」は、「バランスする筋力の強さ」に制限される、と考えるからです。
具体的に、右手で物を持ち上げる動作を考えます。
現実に物を持ち上げるのは、もちろん右手の筋肉です。
ですがこのとき身体のしくみの都合上、
右手の筋力を発揮するには、その力は、どこか他の筋力とバランスする必要があります。
たとえば、左手の筋肉とか、右足の筋肉とか。
このときのバランスは無意識のうちにされるので、通常、自覚することはありません。
けれどこのしくみがあるために、右手の筋肉は、
バランスする相手と釣り合う力しか発揮できないことになります。
分かりにくいので、適当な数字を使ってみます。
右手の筋力が10、左手の筋力が5、右足の筋力が12とします。
右足とバランスした場合、右足の筋力は大きい
(12)ので、右手は最大で10の筋力が発揮できます。
ところが左手とバランスした場合、左手の筋力は右手の半分の強さしかない
(5)ので、この場合、右手そのものの筋力
(10)に関わらず、発揮できる筋力は左手と釣り合う筋力――5になります。
バランスする相手が右足
(12)の場合は、上限を作るのは右手の最大筋力です。
ところが、バランスする相手が左手
(5)の場合、上限を作るのは筋力の小さい左手です。
つまり、実際に発揮される筋力は右手のものであっても、それを右手単独の筋力として評価することはできないわけです。これが、身体のしくみのおもしろいところです。
ちなみに自然な動作では、右手に対してどの筋肉がバランスするかを決めるのは、筋力的な効率です。
一方、意図的に動きを作る場合は、身体の動かし方を変えることで、バランスの組み合わせをある程度まで変えることができます。
外に現れる姿勢や動きの力強さが変化するのは、ある筋肉を、どの筋肉とバランスさせるかが違うからだと私は考えます。
身体のしくみをそんな風に理解すると、単純に見えたはずの歩行練習も、たちまち複雑さを増してきます。
左足に体重を乗せると、なぜふらつくのか?
左肩が悪いのか、右足が悪いのか、背骨の調子が悪いのか。
この謎を突き止めるためには、私の大好きな実験・観察が必要です。
左足に乗るとき意識的に右肩をぐっと入れ込んでみたらどうだろう?
左足をもうちょっと外側に開いてみたら?
左膝の向きが悪いのかな?
首の向きを少し変えてみたらどう?
ぶつぶつぶつぶつ考えながら練習していると、飽きるどころではありません、疲れて嫌にはなりますけど。
しかもこのときに得た予測をもとに、整体で身体を立て直し、動きを改善しなければならない使命
(!)が私にはあります。
趣味と仕事が濃厚に入り混じった、絶妙の課題:歩行練習。まだしばらくは夢中でできそうです。
101215 2つの焦点で身体を捉える
12月の初め頃かそのもう少し前、突然に、身体への理解が一段深くなりました。
これまでの仕方を「焦点が1つ」と呼ぶなら、ここ最近の仕方は「焦点が2つ
(以上)」。――1つと2つ。言葉にするとちょっとした違いですが施術する立場からは、大違い。目からごそっとウロコが落ちたような大変化でした。
どう違うのかというと、たとえばお客さんで、「右肩」と「左足」にケガがあり「腰全体」に痛みのある方がいたとします。
以前までの施術では、「右肩」を選べば右肩
(とそのケガに関連するところ)だけ、「左足」を選べば左足
(とそのケガに関連するところ)だけ。どっぷり焦点が定まって、少し極端に言うと、1度に1つの関連しか考慮できませんでした。
たとえ施術は全身におこなっても、状況を“読む”基準はあくまで1つ。「1つのケガ」だけでした。
ところが現在の施術では、右肩と左足、均等に焦点を当てることができます。2つのどちらをじっくり見るかはその時々でかなり自由に選べて、「一方を選んだらもう完全にそっちに掛かりきり」という固定した感じはなくなりました。
施術の最中こまめに“焦点の置き場”を変え、より全体的で複雑な理解をする――そんな良いリズムができています。
「焦点1つ」での施術を「通りを普通に歩く」状態にたとえるなら、「焦点2つ」は「すたすた歩きながら瞬時に2本の通りを移動する」ようなものです。一瞬で見える風景ががらっと変わり、自分がいまどこにいるのか、どこから来たのか――そのつながりを見失います。
焦点の数が1つから2つになった当初、私の中でちょっとした混乱がありました。お客さんの身体のあちこちに施術していて、その部分部分のつながりというか意味を、うまく連絡させながら把握することができなくなったのです。
前回とのつながりも読めなければ1回の中でのつながりも読みきれない。でも、施術の手応えは悪くない――むしろ良い。
どうなっちゃったんだろう……? と思いながら気付いたのは、この感じが、現在の太極拳教室に移った後に自分を整体していて感じた混乱ととてもよく似ている、ということでした。
当時、お客さんへの施術はまだ「焦点1つ」でしています。ですから“対お客さんの整体”に混乱はありません。けれど“対私の整体”は、ずいぶん長い間、まったく展開が読めませんでした。
どんどんどんどん施術は展開していくのに私は状況を把握できない、だから起こっている変化の説明がつけられない。
「なんだか成り行き任せな施術だなあ。太極拳で要求される動きが複雑で緻密だから、それに対する整体も、私の理解を超えて複雑になるのかなあ」と、不思議にあっさり受け流していましたが、いま思えばすでに、自分の身体は「焦点2つ」で施術していたのかもしれません。
私が現在習っている陳式太極拳は、手足を螺旋的に動かします。そしてこの螺旋の動きは構造的に、手足末梢の筋収縮のバランスを変えません。
言い換えると、屈筋/伸筋の区別なく腕全体の筋肉が均等に収縮し、同時に弛緩していなければきれいな螺旋にならないのです。
言うまでもなく私は、この螺旋がまったくできませんでした。それが、いまはちょっとそれらしくなっています。この「まったくダメ→ちょっとマシ」の変化を引き起こしてくれたのが、「焦点2つ」の施術だったのではないか、と勝手に想像しています。
――そしてこれにはまだ続きがあります。
手足の螺旋がきれいに出せるようになった暁には
(私はまだですが)、その次の課題「手足の螺旋と背骨との関連」が待っています。こちらはきっと、手足の螺旋以上に手強い相手。うまい解決ができれば、そのときはまた、大喜びで作文したいと思います。
110119 武式と陳式
武式
(ぶしき)と陳式
(ちんしき)――どちらも太極拳の流派です
(……“流派”と表現して良いのかどうか自信がありませんが、とりあえずここでは流派で通します)。
私がふだん習っているのは陳式
(の中の新架)という流派です。それが先日、初めて武式を習うことができました。
もっとも、習ったと言っても参加したのは半日だけのセミナーなので、96手順ある型の始めの9つか10ほどをもたもたと真似してきたに過ぎません。が、それでも十分楽しめたのが素敵です。
太極拳の中でも動きが派手な陳式に比べ、武式はずいぶん地味です。予め、友達から「地味だよ」と噂には聞いていたのでそこは予想通りです。……なるほど、確かに地味だわ。
でもじゃあ何が地味なのだろう? 自分なりに考えてみて、その要点のように思えたのが、肩関節と股関節の使い方です。
陳式では、手足の関節に掛かる力をできるだけ偏らせずに動きます。肘も膝も曲げきらず伸ばしきらず、動きに合わせてゆるやかにねじりながら、胴体からの力を指先へとつないでいきます。
この仕方は肩関節・股関節も同じで、曲げきらず、伸ばしきらず、ゆるやかに開いた位置を保ちます。
ところが武式では、肩関節・股関節の開きが少なくとも陳式ほどには要求されないようでした。すとんと肩は落とした位置で、股関節は特に意識せず比較的高い姿勢で。
私のイメージでは、陳式の基本姿勢を「大」の字にたとえるなら、武式の基本姿勢は数字の「1」というか縦の1本線です。そしてこの姿勢から動きを作っていくので手足の横への広がりが陳式のようには大きくなりません。
――というのが、9つか10、習ったところでの私の印象でした。
そしてここからはお得意の妄想です。
広範囲にわたって古傷がある私の身体には、陳式の動きを正しくなぞるのは至難の業です。とくに習い始めた当初は、その古傷に関連した筋肉や皮膚の癒着
(=慢性炎症に伴う瘢痕)があちこちに残っていたので「手足の関節に掛かる力を偏らせない」という最初の条件が、もう既に守れませんでした。
肘の動きを優先すれば肩が挙がる、肩を下げれば手首の形が崩れる、手首を整えれば首の位置が傾く――あちらをいじればこちらが狂う、そんな不毛なやりくりが順順に続くだけで、全体をぴたっと収めることができません。
ところがそんな身体の私がしても、武式はとっても動きやすいのです。肩と股という2大関節を自由にさせてくれるので、動きの要求が格段にゆるやかです。
と同時に、肩と股を開かずに動くので、陳式とは比較にならないほど蓄熱効果が高いのです! ちょっと動いただけですぐ身体が温まります。
動きやすい。すぐに体温が上がる。――この2点から想像するに、武式を編み出した武さんは@頭か首に癒着がある、A腰かおしりに癒着がある、B寒いところに住んでいる、のどれかではないだろうか。あるいはそんな人のために編み出した型が武式なのではないだろうか……と、またまた勝手なことを考えていました。
Bなら、確かに実用的ですね、と私は納得します。
が、@かAであったなら、私は猛烈に感激します。太極拳の理論を損わずに自分にできる動きを作り出して新たな型を編み上げる――太極拳に限らず、これは私の描く“運動の理想”そのものです。
フォームに身体を合わせるのではなく、身体に合わせて独自のフォームを作る――本当の意味で身体に良く、しかもその人なりの実用を達成するためには、この方式しかないのではないかと私は考えています。
そしてそれを自分でも確認してみたいけれど、実践するだけの能力も創造力も私にはないことを自覚しています。
だからこそ、もしも武式がそんな意図の下に創られたのなら――! と、考えるだけで私はわくわくしてしまいます。
実際がどうだったのか知りたいなあ。単純に習ってみて、おもしろかったなあ。そんないろいろな好奇心が刺激され、「武式を、いつかきっちり習ってみたいなあ!」と思うようになりました。
実際にいつ習えるのかはともかくとして
(本当に習うには教室が遠い!)、とても有意義なセミナーでした。
110218 しもやけと足首
ここ数年、寒くなると足にしもやけができるのが私の“定番”でした。なるのは決まって、左足の薬ゆび
(=4趾)1本だけ。他の部分は冷えてはいてもしもやけにはなりません。
こういう、「左側だけ」とか「4趾だけ」とかいう現れ方は、まさに私の興味のツボです。左側・4趾を取っ掛かりに、どんどん想像を膨らませてしまいます。
「経絡でいえば4趾は胆経の領域だから、問題は右の胆経にあるのかしら、それとも左の三焦経かしら。はたまた全然予想外のどこかから影響を受けているのかしら……」。
が、足のしもやけだけでは少々情報不足です。想像はできても決め手に欠きます。そしてこういった場合、手当たり次第に検査して問題点を突き止めるのもひとつの手ですが、相手は所詮、軽いしもやけ。それだけの手間も面倒です。まあいいか、と放置したまま数年が過ぎていました。
ところで先日の太極拳教室です。
またまた、体重移動の左右差が気になっていました。が、前回
(101123)とはちょっと様子が違います。
前回気になっていたのは歩行練習のときの左右差です。これは主に、前後方向の体重移動における左右差でした。こちらの左右差は、「股関節の靭帯への施術
(110204)」がうまくいってからはほとんど気にせずに済んでいます。
一方、今回気になったのは横方向への体重移動での左右差です。この場合は、左足に乗せたときに比べ、右足には体重がきっちり乗せきれないことに気付きました。
ざっと考えた感じでは、
「前後方向の体重移動」に左右差
←←←「股関節の前後回転の不具合」が原因
「左右方向の体重移動」に左右差
←←←別の関節の「左右回転の不具合」が原因
――と想像することができそうです。
では別の関節とはどこか? ――検査した結果、足首でした。
体重を右足に乗せきるためには、右膝の動きに合わせて、右足首が自然にねじれなければなりません。けれど私の場合は足首の筋肉
(短腓骨筋?)に癒着があったので、右足首を一定以上にはねじれなかったようです。
なるほどなあ。納得しながら後日、右足首に施術します。
施術が一段落したら本来は、すぐに動作確認をするべきです。が、なんだかそれが面倒くさい。まあいいや、動作確認は次回の教室で試そうっと。横着してそのままにしていました。
――と、その数分後。ふと気付くと左足4趾にあったしもやけ特有の腫れぼったい気配が消えています。
あれっと思って見てみると、いつもはきゅっと縮こまっている左4趾が、他の趾に並んですっと伸びています。そして、赤みも消えています。
おおっ、しもやけなくなってる! 驚きつつ、納得します。――そういえば、足首も、胆経の管轄だったのでした。
110222 体重移動にまつわる誤解
先日の太極拳教室ではまたまたひとつ、私の思い込みが解決されました。
誤解があったのは体重移動についてです。
太極拳を習い始めた当初私が理解したのは、「均等に両足で立っているように見えても、太極拳では、重心は必ず左右どちらかの足に片寄せて乗せている」というものでした。
右足に10なら左足は0、右足が7なら左足は3。私の理解では重心の片寄せ方は割合はっきりしたもので、またはっきりさせておくことが当然なのだと思っていました。
が、そこに大きな勘違いがあったようです。その方式が通用するのは最初に習っていた型
(簡化)の話で、1動作の間に頻繁にこまかい体重移動を繰り返すいまの型
(陳式)では、7とか3とかよりも遥かに微小な比率で重心配分を変化させます。たとえば4.5とか5.5とかいった具合にです。
そしてこうなるとゆっくり上半身を左右に移動させている時間はありません。その位置で身体の向きだけを回転させる感じになります。
この回転の動き――股関節の回旋こそが、どうやら陳式の醍醐味だったようです
(! 今更!)。
力は腹から発生させるけどその力はいったん地面に落とし、踵かららせん状に上がってきたものを手に伝える――という説明の意味がやっと分かりました。
足の裏を地面に固定して踏ん張ると、その力は胴体に伝わります。その伝わった力でもって胴体を左右に動かしていたのがこれまでの私。ここで使うのは主に股関節の垂直方向の屈伸です。極端に言えば内股にしたり外股にしたりといった動きです。
一方、踏ん張った力をそのまま胴体には伝えず、股関節の部分で骨盤だけに作用させるのが今回の発見です。そしてこのとき使うのが股関節の回旋です。
理屈で考えると「股関節の回旋=太ももの屈伸」みたいに思うのですが、太ももの屈伸が骨盤そのものの形をほとんど変化させないのに対し、ここでいう股関節の回旋では骨盤自体にもねじれの力を伝えます
(=仙腸関節を動きに巻き込む)。力の方向が骨盤⇒太ももではなく太もも⇒骨盤になり、その過程で骨盤そのものをひねりあげることこそが肝腎だ、ということなのかな、と理解しました。
そう思って振り返れば、しばらく前に先生がそんなこと言ってらしたような……
(←あまり聞いてない、というか分かってない)。それはともかく、ひとしきりその違いをしみじみ納得したら、後は練習です。とりあえず、ひたすら動きを繰り返しては感覚の違いを確かめます。
練習する限りでは、まったくできない動きではありません。よほど意識して丁寧に動けば、少なくとも右足は一応それらしく動けます。
けれど、無雑作に動いても勝手にそうなる、という自然さ・当然さまではありません。これは、どこかに癒着があって、どこかの筋肉に無理がかかっている証拠です。
翌日。期待通り、がちがちに筋肉痛になりました。痛いのは、両足の太ももの前側
(大腿四頭筋)です。
整体的には、右股関節の靭帯と右足首周囲への施術はすでに済んでいます。とすると、残っているのはその真ん中――膝の周囲でしょう。私の場合、乳児期に右半身から転落しているので、とりあえず膝の外側を調べてみます。
と、見事に問題が見つかりました。股関節を支える大事な筋肉というか靭帯に、派手な癒着があります
(大腿筋膜張筋〜腸脛靭帯)。
まずはそこに施術すると
(この時点で筋肉痛は消失)、連鎖的にあちこちに変化が広がります。その流れを追いかけると、鼻、頬、のど、首と施術が展開して、再び股関節に戻ってきました。
そこまで施術が済んだ時点でちょっと動いてみます。――なかなか、良い感じです。踏ん張った足の動きに合わせて股関節がねじり上がり、と同時に骨盤がねじり下がる感じがあります。
試しに以前のような動きをしてみると、なんだか平板で物足りなく、力の連結が途切れるのが分かります。
この調子なら、良いだろう。身体の変化が確認でき、方向性も確信できたところで、続きの施術は明日以降に持越しです。
110308 幸福な1週間
ああ、もったいない。それぞれ3週間ずつ間隔を開けて起こってくれたら、向こう半年くらいはずっと、じわじわ幸せを噛み締めていられたのに……と思わず恨み言を言いたくなるほど嬉しい出来事が、この1週間ほどの間に立て続けに起こりました。
まずは前回の太極拳教室です。「腕の力が抜けていない!」という先輩からの総攻撃に意地になり、よーし、それなら何としても来週までに腕の力を抜いてやる!――と思っていたら両前腕にこれまでにない施術ができました。
何をすればこんなところにできるのだろう? と自分でも不思議なでき方の癒着で、原因は不明です。左右の腕に同じような癒着――というとバレーボールのレシーブ? とか思ってもみますが、状況から考えるともっと子どもの頃にできた癒着のようです。しばらく考えて分からず、まあ良いか、取れたから、と理由は考えないことにしました。
その前日、大好きな友だちから「すごい人がいるのだけれど会ってみたい?」というお誘いがありました。「あ、ぜひぜひ。いつ会えるの?」「この日とかこの日はどう?」「じゃあこの日!」「分かった、連絡しとくね」――というやり取りの下、後日、ヨガ教室に初参加しました。お目当ては、ヨガの先生です。
あの友だちが言うのだからさぞかしすごい人だろう、と思っていたら予想に違わずすごい方でした。
たとえばその日の教室では、私にはできない動きが2つありました。ひとつは、仰向けに寝た姿勢で形を決めて、ぐっとおしりを持ち上げる動作。もうひとつは、仰向けに寝て身体をねじり、そこからおしりを上げていく動作です。
どちらも私がすると、おしりが上がりません。そしてどちらのときにも先生が手伝いに来てくれました。が、ひとつめの時には手を触れてみてすぐ手伝いを中止され、ふたつめの時には手を触れてそのまま正しい動き方を誘導されました。
些細なことのようですが、この区別をされた瞬間「お」と思い、そして動き方を矯正ではなく誘導された瞬間、私は先生に惚れました。「動き方は正しく理解できているけれど、動けない」ことと、「動き方の理解が間違っているから、動けていない」こととの区別をうまくつけられる方、そして相手に抵抗を感じさせずに動き方を変更させられる方にはなかなか簡単には出会えません。
しかもすごいのは、この惚れッぷりが少しお話するうちにみるみる倍増したことです。先生の語られる地道な正義感に大きく肯きつつ、いつか誰かに教えてほしかった私の大事な疑問を訊くことまででき、ものすごく実り大きな時間でした。
誘ってくれた友だちと、珍客の相手をしてくださった先生にただただ感謝やわ……とうっとりしながら帰ると、予想通り、ガタガタの筋肉痛が始まりました。ヨガの途中から骨盤が外れそうな危機感はあったので覚悟はしていましたが、この筋肉痛はなかなか強烈でした。でもお陰で、右脇部分の肋骨周辺にあちこち施術ができました。
そして土曜日。遠方より友来る。私の理屈っぽいブログを読んで興味を持っていてくださった方が、とうとうお客さんになってくれました
(!)。
実際にお会いしてみると、想像していた通り、ココロザシに近いものを感じます。偶然同じ本に惚れ込んだことからご縁が始まり、活動分野は違うものの良く似たことを考え、私はいまその人の身体の立て直しに参加している。これはすごいことです。
初対面は「ひえーッ」と感激しながら施術して、翌日にもまた来られたので今度はもう少し落ち着いて施術して、お互い改善の手応えをつかんでお別れすることができました。
そしてこの間にもう1度太極拳教室がありました。ここでもまたまた急展開です。前回は腕の動きを注意された私でしたが、今回は腰の弛みを問題にされました。いわく、「アンタのはまったく力が抜けていない!」。
さっと先生の動きを指差して「あれが正しい動き」
(そりゃそうだ)。「アンタのはここが硬い」「ここが弛んでいない」としばらくダメ出しが続いた後で、親分肌の先輩が「ここに手を置いてごらん」と背中を向けられます。
言われるまま骨盤に手を当てていると、骨盤がぐいーっと下に! びっくりした私が「うわっ、私のはこんなに動かんわッ」と感激していると、おそらくあまりの大騒ぎに呆れたのでしょう、先生が次の動きの説明を始められました。
が、骨盤の動きにすっかり度肝を抜かれた私はまったくの上の空で、ぼんやり帰途につき、帰宅後、ふと思いついて施術を始めました。狙うのは、神闕
(しんけつ)――ヘソです。
ヘソにある神闕は、一説には“生命の出入りするところ”なのだとか。聞くからに力のありそうなツボですが、「どうやって使うのだろう?」。謎の多いツボでした。ヘソに鍼なんて打てるんだろうか……と思っていたのですが、後日調べるとお灸に使うそうです。納得。
しかし私の技術では鍼・灸でなくキリを使うので、とりあえず検査をしながらヘソをいじってみます。――と、これが非常におもしろい。うまくいくとぐぐぐっとヘソのひねりが変わるのが分かり、「ヘソも生きているんだなあ!」と当たり前のことに感激します。
生まれるとき、私はへその緒を首に巻いて出てきているので、ヘソも傷めているのかもしれません。そういえば子どもの頃、「ヘソのゴマを取ると腹痛になる」と言われました。本当かどうか確かめたくてひたすらゴマを取りまくってピカピカにしたことがありますが、腹痛にはなりませんでした。言い伝えがウソなのかと思っていましたが、その頃すでに私のヘソはおかしかったのかもしれません。いまになって、妙に納得しました。
施術が一段落して試してみると、ぴくりともしなかった骨盤がちょっと下がるようになっています。これは、見込みがありそうです。
――といった具合で、やたらに嬉しいこと続きの1週間だったのでした。やっぱり、いっぺんに続いたのはもったいない。小分けにしてほしかった。
110328 膝のお皿と太ももの筋肉
私の持病
(?)の1つに、「腰というかおしりというか
(正確には右の仙腸関節なのですが)、そこに時折、鋭い痛みがはしる」というものがあります。
持病はたいてい、ふっと姿勢を変えたとき――たとえば寝返りを打つとかだらしない姿勢から身体を起こすとか、そんな動きの瞬間に起こります。
一瞬の痛みは、うっ……と思わず固まるくらい痛いのですが、その余韻が去れば後には引きません。これがぎっくり腰とは大きく違うところです。
ここしばらく、この持病の頻度が異常に増していて、ちょっと動くたびにピシピシ痛くなっていました。こうちょいちょい痛くなられては面倒だなあ……。うんざりしかかっていたところに太極拳教室の日が来ました。
その日の課題
(のひとつ)は、膝の動きです。
先生の説明を聞き、「“腰の動きに膝を巻き込む”のではなく“足の踏ん張りに合わせて膝を変化させる”のだな」。そう納得して、自分に言い聞かせながら練習しますが、どうがんばっても固まったまま膝がちっとも動きません。と同時に右の仙腸関節には、ピシッと痛くなりそうな危険な気配が感じられます。
と、ここでようやく、ピシピシ痛いのはもしかして膝に問題があるからか? と思い至りました。
太ももの前側には大腿四頭筋という大きな筋肉があります。四という数字が示すように、この筋肉は4つのパートからできています。
太ももの骨
(大腿骨)を真ん中において、その内側にある内側広筋と、外側にある外側広筋。これはどちらも大腿骨と膝のお皿
(膝蓋骨)をつなぎ、一部はすねの骨にまで達する筋肉です。
残る2つは太ももの前側に重なってあります。
より前側にある筋肉は大腿直筋と呼ばれ、骨盤から膝蓋骨をつなぎ、さらにすねの骨までつなぐ長い筋肉です。それより後ろ側、というか奥側にあるのが中間広筋で、こちらは大腿骨から始まって膝蓋骨に終わる短い筋肉です。
それぞれ1つずつしかない内側広筋・外側広筋はともかく、前側に重なる2つの筋肉の意味が、学生の頃から私にはよく分かりませんでした。同じような場所で同じような仕事をしているのならいっそ1つで良いじゃないか、そう思っていました。
が、これが大きな間違いなのでした。
膝、と思った問題は、実は中間広筋の癒着にありました。
中間広筋の状態が悪く、その補助を、大腿直筋やおしりの筋肉が引き受けていた。そしてこの癒着と補助に加減から、私の身体のあちこちにはちょっとした不具合が起きていたのだな、と今回見事に実感できました。
不具合の一例を挙げると――、
姿勢を変えたときのピシッという痛み
(右仙腸関節)。歩くときの微妙な膝のぶれ。自転車をこぐときの左股関節のこりこりいう音。そしてこれはまだ確認できていませんが、太極拳のある動作をするといつも右股関節がつりそうになっていたのも改善できそうな気がします。
今回のいちばんの勉強は、大腿直筋と中間広筋はやっぱり別の筋肉なのだな、と身をもって知ったことです。
構造的に、2つの筋肉が連動してはたらくのは確かだろうと思います。けれど、膝関節・股関節に関わる大腿直筋と、膝蓋骨に関わる中間広筋の間には、本来はっきりと役割分担が存在します。私の場合、一方の具合が悪かったから他方がかばっていただけの話で、決してふだんから同じような仕事をしているわけではありません。
なるほどなあ、と納得しながらふと気付きました。
――ということは、「歩くと膝が痛い」とか「軟骨が磨り減って」とかいう膝の症状も、膝関節ではなく中間広筋から考えていくとおもしろいかも――。思わぬところで新たな可能性も見えてきました。
中間広筋。地味だ地味だと思っていたけれどちゃんとはたらきはあったのね。今更ながら、大いに反省です。
110706 虫刺されと整体、ついでに太極拳。
整体でこりや痛みがらくになるのだから、虫刺されだって良くなるはず。だって、どちらも原因は血行不良なのだから――。
というわけで、今回は蚊の刺され跡を起点に施術を始めてみました。
きっかけにしたのは、右足かかとの内側、集中的に食われた3ヶ所のハレです。
いくら私が実験好きといっても、放っておいて引くハレならば、こんな面倒な手間はかけません。素直に放っておきます。
けれど、このハレだけはダメでした。ハレっぱなしで一向に引かないうえに、ともかく猛烈に痒いのです。
ああ、この痒みだけでもなんとかしたいッ! いったいここはどれだけ血行が悪いのかッ!
で、我慢できずに施術しました。
結果は、良好。
足の裏から足首にかけて、かかとの骨をめぐる広範囲から癒着が見つかりました。
癒着の原因はよく分かりません。
手応えの感じでは小学生かそれくらいの頃のケガのようですが、どうもはっきりしません。
状況も、かかとの骨がすね部分にめり込んでいるような感触からすると、飛び降りたときの着地ミスが原因? と予測はできます。が、はっきり記憶に残るようなケガには心当たりがありません。
ま、なんでもいいや。
原因の追究はあきらめて施術を続けると、ひととおり済んだところでたちまち、我慢できない眠気に襲われました。
これは、施術を受けるとときどき見られる現象で、良い徴候のひとつです。施術がうまくいって、筋肉のバランスが急激に変化すると、この眠気が起こります。
30分ほどガクッと眠ればスキッと目覚める特徴的な眠りです。
で。
この施術が一段落すると、私にとってひとつの奇跡が起こっていました。太極拳の動きで、重心の移動が、少しだけゆっくり大きくできるようになっていたのです
(!)。
自分で言うのもなんですが、私の太極拳はとてもちまちましています。
現時点の体質が、「上半身の安定が悪く、低い位置で重心を落ち着かせきれない」状態にあるため、“大きく”とか“ゆったり”とかいった動きがうまくいかないのです。
大きく動くとふらふらする。ゆったり動くと間がもたない。結果、なるべく動きはこぢんまり、さくさく動くことになります。
私の予想では、重心が収まりきらない直接の原因は、右の股関節の不具合にありました。
股関節の収まりが悪いからどしっと重心が落とせず、落とせない重心がふらふら上にあがる、だものだから上半身の安定が悪くなる、そんな感じです。
しかしそこまで想像していても、具体的にどこをどう施術すれば私の股関節の収まりが良くなるのかは分かっていませんでした。
どこが悪いんだろうなあ……。考え続けて、早や8年
(くらい)。
それをあっさり、1匹の蚊に指摘されました。――指摘、というか、見切られたというか。
人も先生、蚊も先生。人生が、いつでもどこでも誰からでも学べということなのか。はたまた私の根性が、転んでもタダでは起きないようにできているだけなのか。
まそれはこの際どっちでもいいですが、とりあえず、夏はまだ始まったばかりです。
もう2、3回ばかしぷすぷすっと刺されれば、もっともっと施術が進展して私は元気になって、ついでに太極拳も上達しちゃうかもしれません。
しばらく、蚊任せな展開を見守ろうかと思います。
110712 身体の癖、膝の痛み。
しばらくぶりで、あるお客さん――Qさん
(仮)が来られました。数ヶ月ぶりのご来店です。
状況をお聞きすると、いきなり左膝が痛くなって立ち歩きがきつくなった、とのこと。
最初に痛みに気付いたのは数日前。ちりちりっとした軽いものだったのが徐々にひどくなり、来店当日には階段を上るのもやっとのこと、平地を歩くのも痛い状態になっていた――。
「こんな症状は初めてです」。心当たりのない突然の痛みに、Qさんはやれやれといった感じです。
それをふむふむと聞きながら私は、“Qさんの古いケガ記録”を見直します。と、「ああ、なるほど。これが原因か」。あっけないほど簡単に、因果関係が判明しました。
Qさんの右膝には、子どもの頃のケガの痕――古傷があったのです。
右膝の古傷(癒着)が左膝に痛みを出した――これは、私には極めて分かりやすい構図です。
そこで、気になるのは「なぜ今になってこんな痛みが出てくるのか?」です。
飛び飛びではありますが、Qさんとは数年来のお付き合いになります。当初から膝には、慢性的な疲れやすさ・だるさがあるとお聞きしていました。けれどここまで急激な痛みは出ていませんでした。
それなのに、なぜ今になって症状が出たのだろう? そしてなぜ今まで症状は出なかったのだろう――古傷は、数十年前からあったというのに。私にはこれは、ちょっと興味深い疑問です。
が、話し始めるとすぐ謎は解けました。Qさんは、数ヶ月前に始めた太極拳を、いまも続けているというのです。
ざっくり言って、スポーツ全般・あらゆる運動には、量と質の側面があります。量は、時間です。そして質は、どのように動くか――フォームです。
太極拳は、きちんとすれば、フォームへの要求がかなり大きい運動です。そしてフォームへの要求に応えようとすると、
自分の身体の癖に逆らった動きもいろいろすることになります。
たとえば、身体の癖は外股なのに、足は平行で立たなきゃならないとか、腕を伸ばすと肩が上がる癖があるのに、肩は下げとかなきゃならないとか。
先生の言い付けどおり、足を平行にしたり肩を下げたりしていると、身体には無理がかかります。無理、といって聞こえが悪ければ努力といってもいいですが、要は、いままでと違う身体の使い方をすることになります。おそらくそれが、今回の膝痛のきっかけになったのでしょう。
「痛いのは左膝なのに原因は右膝ですか……」「そうそう。そうなんです」。
珍しく
(?)確信に満ち満ちた余裕の態度で施術していると、ふと思い出したようにQさんが、「そういえばこの間の発表会、来られてました?」。――え? 「ざっと会場を探しましたが会いませんでしたね」。
発表会は、複数の太極拳教室が集まって開きます。
「――ああ、今年は私、参加しませんでしたから」。うつろな声で返事しながら、そのとき初めて、大事なことに気付きました。
……そうか。Qさんが太極拳を始めたということは、悪くすると、私の太極拳
(もどき)がQさんに見られるかもしれんということか……。
あまりにも遅い気付きに、一瞬で、意気消沈。
――ああ、ちょっと真面目に練習しなくては。とりあえず、あんまりみっともない失敗だけは、しないようにしなくては……。
なんだか急に、全然別の意味で余裕が消え去ってしまいました。
もちろん仕事はきちんと収めましたし、後日いただいたメールでも結果はちゃんと出ていたようです
(良かった)。
が、こんな大事なこと、施術中に気付かせるのは反則です。不意を衝かれて、思いっきり素で動揺してしまいました……。