のぞみ整体院
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太極拳 3

090819 ぐにぐにのカーペットの上で

 このところ、よほど気が乗らないときを除いて、ほぼ毎日、太極拳のおさらいをしています。
 おさらいといってもせいぜい10分かそこら、長くて30分動く程度の、簡単なものです。
 後片付けを済ませてベッドを隅に押しのけて、ちょっと広い場所を確保して。そこで、練習開始です。

 店の床は、ピータイル(Pタイル? 会社の事務室によくある、つるつるの床です)の上に、タイルカーペットを敷いています。
 実はこのタイルカーペットは、結構、年季がいっています。数年前、初めてこの店舗を借りたときに工務店のお兄さんが敷いてくれました。よくある60センチ平方ほどのタイルカーペット。位置を合わせて、向きを揃えて、糊で貼ってしたものです。

 時が過ぎ、ベッドの周りだけ極端にカーペットが痩せてきました。気になった私は、独自にその部分の張替えを決行。
 お兄さんが予備に残してくれたカーペットを引っ張り出し、当時の見よう見真似で向きを揃え、敷き詰めてみました。真新しいカーペットは、やけに周りから浮きましたが、まあまあ、いい具合です。
 ただし、業務用糊が手元になかったので横着して、ぱたんぱたんと並べただけで済ませました。

 糊を使わずに並べただけ――それでも、仕事には差し支えません。が、太極拳の練習には、おおいに差し支えることが、ほどなく、分かりました。
 うっかり、ぐぐぐと踏ん張ると、それに押されてカーペットがずずずとずれるのです。

 最初の内しばらくは、「あ、またやってしまった」くらいなもので、反対からぐいぐい押し返して、元の位置に収めていました。
 ところがそのうち、おもしろいことに気付きました。踏ん張ったときの左足の「ずらし率」が、右足に比べて明らかに高いのです。
 「いつも同じところで練習するから、ここだけずれやすくなったのかも?」。そう考えて、立ち位置や身体の向きを変えてみても、やっぱり、左足だけカーペットをずらします。




 そこで思い出したのが2つの注意です。

 ひとつは、半月ほど前、新教室に移ってからすぐに指摘された、「力が手に伝わっていない」という注意。

 もうひとつは、それを遡ること数年前、太極拳を習い始めた初心の頃に受けた注意です。
 当時の先生から私は、「足から力を出す、伝える」ことの大切さを教わっていました。いわく、「手の力だけで押そうとするのではなく、足が地面を押す力を手に伝えるのだ」。今までずっと私は、これを「もっと足を踏ん張れ!」という指示だと理解していました。

 が、「カーペットがずれること」と「力が手に伝わっていないこと」を足し合わせると、どうやら私には長年の誤解があったらしいことが見えてきます。

 つまり、私の動き方(というか身体の状態)では、いくら足を踏ん張ったところで、その力は手には伝わらず、そのまま足⇒床に抜けている(!)と、いうこと(だと思うの)です。

 これは実にカッコ悪い、そしてずいぶん致命的な発見です。
 もしも、型通りに動き、理屈通りに足を踏ん張りながら、それでも力が手に伝わっていないなら、それは、私の身体の、足から手につながる「力の道すじ」が切れている――と理解するしかありません(それ以前に「型通りに動けていない」、「足の踏ん張りが甘い」可能性ももちろんありますが、とりあえずここでは考慮しません)

 足から手につながる「力の道すじ」なんて漠然とした言い方ですが、要は、足から手にかけての範囲に、筋のはたらきがうまくかみ合っていない部分があるということです。
 そしてこれは、言葉にすれば一言ですが、範囲で考えれば「ほぼ全身」の問題といえます。

 切れた「力の道すじ」をつなぎ直すために、「ほぼ全身」を対象に施術する。これはだいぶ大掛かりな作業になりそうだなあ。一応の覚悟はしつつ、整体に取り掛かりました。

 作業は、「ちょっと動いては施術して、また動いてみては施術して」、といういつもの段取りを繰り返します。
 結果的に、数日かけて、股関節から足の内側(筋間中隔も含む)、肩関節、胸骨、おなか……と、ずいぶん広範囲に動かすことになりました。




 数日後、作業が一段落したところでもう一度動いてみると、見事に、カーペットのずれは小さくなっていました(!)
 まだまだ、「どれだけ無雑作に動いてもカーペットがずれない」境地には至っていません。が、少なくとも、踏ん張り方や力の伝え方に注意を払えば、ずるずるずるずる、際限なくずれるようなことはなくなりました。

 「カーペットがずれない」ことが上達の目安になるのか? と聞かれたら、それは私にも分かりません。単なる自己満足の可能性も、もちろんあります。
 自己満足であまりに妙な動きになっていたなら、次回の教室で先生が直してくださるでしょう。

 それよりいまは、私ひとりの感じで「なんかうまくなった気がする!」のが、ちょっと良い気分なのです。
 なにより、ぐにぐにのタイルカーペットの意外な使い途に、とっても得した気分ですし。


091009 この頃の、太極拳。

 7月下旬に新しい太極拳教室に移ってから、早くも数ヶ月が経過しました。
 今度の先生は、動作要求をきめ細かく丁寧にしてくださるので、物分りの悪い私でもなんとか付いていくことができています(たぶん)。そしてそのお陰で、これまでになく膨大かつ複雑な「自分整体」をすることができました。

 が。
 その内容が膨大かつ複雑に過ぎたために、なにをどう整体したのか、自分でも追跡しきることができませんでした(…)。なんせ「先生の要求通りに動こう!」と思っただけで、山のような施術が必要になるのです(どれほど“動かし勝手”の悪い身体なのだ……)

 「〇〇を練習するためにはまず、あっちとこっちを立て直さなきゃ」。
 で、ちょっと施術を始めると、思わぬところのバランスが変わったり芋づる式に問題点が見えてきたりして、作業量が急激に膨れ上がります。それで「ああ、アカン、ここがまだおかしいわ」とか「ここに施術したらあそこのバランスも変えとかなきゃ」とか、ぶつぶつぶつぶつ施術を重ねるうちに、そもそも何から手をつけたのか分からなくなっている――。まるで、盛り上がるだけ盛り上がったけど何の話をしていたのかは覚えていない、絶好調の世間話のような日々が、見事に続いたのです。

 毎日毎日、「へえー、こんなところに、こんな施術ができるのか!」とか「あらら、私、こんなところも傷めてたのか!」と、驚きと発見の連続で、それはもう楽しくて楽しくて、しかも気が付いたら格段に身体の安定感は上がっていました(当社比)
 「これは、そろそろ記録しとかなければ忘れるぞ」と振り返ってみると――、残念ながらもう、きれいさっぱり細かな内容は忘れていました……。

 そもそもブログを書き始めた当初の予定では、

@太極拳の先生が教えてくれた通りの仕方で、実際に動いてみる。
A先生から訂正を受け、「できているつもりだけどできていない」動きの状態を確認する。
B確認した内容をもとに、自分の「身体のずれ」を探し出す。
C「身体のずれ」に整体する。
D動きが変化したかどうか、再確認する。

という手順を想定していました。けれどよく考えるとこれは、ひとまずは@ができると仮定された上での展開です。まさかいきなり@の時点から動けないとは思っていなかったので、すっかり予定が狂いました。

 とりあえず明らかな成果として把握しているのは、

使う道具が変わったこと
数ヶ月前から私の(整体の)腕前が上がったこと

などです。
 わずか数ヶ月に起きた変化としては劇的・奇跡的な成果です。本当に、ありがたいことです。




 ところで、前回の太極拳教室では「パンチ」の仕方を習いました。

 先生の「ここは拳(パンチ)じゃなくて肘打ちでも良いですよ」の声に振り返ると、応用版の動きを見せてくださっています。
 私はなぜか、昔から「肘での攻撃」が大好きで(というとヘンな人ですが、形状的にいちばん“攻撃に向く”関節ですし、攻撃距離が近い分、動きに無駄感がなくて美しい)、反射的に、「おおっ、私もあれがしたい!」と飛びつきたくなります。

 が、しかし。
 実はあの動作には、危険な罠があります。素早い肘打ち動作は肩甲骨の動きが悪くてはちっともサマにならない――どころかかなり不細工に見えるのです。負けず嫌いの私としては、うっかり人前で練習するわけにはいきません。
 「私もしたい!」とはやる心を抑えつけ、「いまの私の肩甲骨では、まだ不細工だからダメ!」と諦め、とりあえず、見て憶えて宿題とします(そして、帰ってから1人でこっそり練習する)

 ちょうど、先々週に習った動き(「雲手」を使った練習動作)にも、引き続き課題が残っています。
 「雲手」は、全身を左右対称に使う横方向の動きです。連続的な重心移動に合わせ、なめらかに腕を動かす――と、こちらも肩甲骨のはたらきが絡んできます。
 「雲手」と「肘打ち」。両方に共通の問題点を探っていけば、新しい何かが見えてくるかもしれません。

 ということで、両方の練習を(帰ってから1人で)、丁寧に何度か繰り返しました。力の入っていない部分(具体的には筋)はどこか、重心を乗せきれない部分はどこか、などを探るための練習なので、形は重視しません。そうして不安定な部分を見つけるたび、練習を中断して施術。 それが済んだらまた動いてみて、不安定個所を探す……。

 そんな作業を繰り返していると、最終的に、重要そうな部位が見えてきました。今回は、どうやら仙骨・尾骨(ともに、おしりの骨)が重要だったようです。
 「仙骨・尾骨のはたらきが悪く、重心を後ろに引きとめておけないため、身体が前のめりになる。その結果、やや上がり気味になる重心を支える必要から、肩の動きに制限がかかる」というのが施術の骨子かな、という印象でした。

 考えてみると、これまであまり仙骨・尾骨に施術をした記憶はありません。確かにここは、手を伸ばしての疲れる施術に加えて、1人では検査がしにくいところです。今回も母に助っ人を頼み、ようやく半分くらい作業が済みました。

 とりあえず今週は教室がお休みです。来週、動きが変化していれば、施術は成功といえるでしょう。
 どうぞ、うまくいってますように。


091027 発勁(はっけい)の泥沼

 恐るべき“発勁(はっけい)の泥沼”に落っこちて3日経ち、ようやく這い上がってきました。

 発勁とは――、と、まずは発勁のことを説明したいのですが、なんと説明すれば良いのでしょう。太極拳で使う瞬間的な攻撃動作のひとつ――いや、攻撃動作じゃなく力の出し方? 「でもアレは力の出し方なのかなあ??」と考えると、それも違うような。
 知ってる人には説明不要、知らない人にはイメージしてもらう方が早いので、とりあえずは、能とか狂言、歌舞伎なんかで足を「たんっ」と踏み鳴らす動作、あんな感じをイメージしてください(我ながら頼りないなあ…)




 整体屋的な理解では、発勁のしくみは次のようなものでした。

 人はふだん、体重を足の裏で支えています(言うまでもないですが、両足で立っているときの話です。座ればおしり、逆立ちすれば手のひらが体重を支えます)
 このとき、「体重を支える」筋は、足の裏を起点にして収縮を維持します。これは、具体的かつ大雑把に言うと、足⇒脛とふくらはぎ⇒太股⇒骨盤やおなかや腰まわり⇒…という順番で、筋の収縮が連鎖した状態です。
 そしてこの「足の裏が起点になった状態」というのは、どのくらいの力で収縮するか、どの筋で体重を支えるか、といった全身に及ぶ筋収縮のきっかけを「足の裏が作っている」ことを意味します。

 それに対して発勁は、瞬間的に「起点の位置を変える」――これがミソなのではないかと私は理解しています。
 たとえば仰向けに寝た赤ちゃんが、両手両足を同時に突っ張って“伸び”をする。このとき、起点になっているのはおなか・腰です。
 それと同じで、二本足で立った状態で意識的に起点をおなか・腰に移し、瞬間的に両手両足を突っ張る――それが、発勁なのではないか、と思うのです。

 前回の太極拳教室に行くまでは、これが、私なりの「発勁像」でした。が、それが見事に混乱しました。




 前回の教室での私は、近年まれにみるダメぶりで、久しぶりに、腹の底から落ち込みました。なんせ、習う動作のことごとくが私にできない動き、すなわち発勁絡みの動作だったのです。

 念のために言っておくと、この場合の「できない」は、先生みたいにできないとかカッコ良く動けないとか手順通りに動けないとかそういう贅沢なレベルの「できない」ではありません。
 そもそも、普段の私のいるのが「それよりだいぶ下」のレベル。手順に混乱してウロウロするのが日常茶飯なので、大抵のことでも落ち込んだりはしません(と、なぜか強気)
 今度の「できない」は、もっともっともっと、も――っと低いレベル。文字通り、どう動いたら良いか分からない=動けない=ぼーっと見てるだけ、のレベルでした。

 基本的なことですが、足を「たんっ」と踏み鳴らすには、まず足を上げなきゃなりません。が、私にはこれができない。「まずは起点の位置を変えよう」と思っても、どうすれば変わるのかが分からないのです。

 (ぴょん)だんっ、(ぴょん)だんっ、と練習する先輩方の隅っこで、(ぴょん)ができずに固まる私は、めちゃくちゃ惨めでした。
 小学校でか中学校でか忘れましたが、方程式の習い始めに記号“x”の意味が分からず、混乱したことがあります。「何を、何のために記号で置き換えるのか、しかもいきなりエイゴで……?」と、鉛筆を握ったまま動かない私は、個人的には無様でした。が、このときは、人知れず固まっていただけで済みました(確か、後でこっそり聞きに行った)

 しかし、発勁は音がします。姿も見えます。そのなかでひとり、音も立てず、動きもしない私はとっっっても目立ちます。頭のなかを「帰りたい、もう帰りたい」で一杯にしながら、それでも動けませんでした。
 たぶんこのとき、先生が温かく放っておいてくださらなかったら、エライコトになっていただろうなあ、と自分でも恐ろしくなります。
 仕方がないのでその日は、どうしても聞かなきゃならなかったことだけお聞きして、説明とお手本動作をしっかり頭に詰め込んで、帰途に着きました。

 で、ひとり練習です。
 最初はもちろん、悲壮な気持ちで始めました。が、そのうち練習のコツが分かってきました。すると、仙骨(おしりの骨)から腰にかけての靭帯やら筋に、施術が必要なことが分かってきました。
 どうやら、だんっ、と踏み鳴らす(そしてその衝撃を支える)には、腰・おなかの筋の安定感が不足していたようです。

 施術の効果が出て、ちょっと踏み鳴らせるようになってくると、私の「発勁像」の誤りが分かりました。

 人は、「コップを取ろう」と思った時にわざわざ「腕を伸ばすためには、まず肩甲骨を固定しなきゃ」とは考えません。腕が伸びるときには“自動的”に、肩甲骨を固定しています。
 それと同じで、「足を踏み鳴らす」時にも「まず重心の位置を変えて」と考える必要はなかったのです。重心や起点の位置を変えるのは“自動的”にされることであって、指示して行う動作ではない。それを私は一々指示してしまったので、身体が混乱して、(ぴょん)ができなかったのだと理解しました。

 要は、先生のおっしゃるとおり、「何も考えずに踏む」のが正解なのでした。
 あれだけ落ち込んで出した結論がこれ(↑)、というのも拍子抜けですが、ま、結果良ければすべて良し、ということで。


091118 猫背からの脱出

 私の中学生頃からのチャームポイント(?)、かなりな猫背がようやく改善できそうです。というか現在、既にやや改善しつつあります(まだ途中)

 これは私にとって、本当に本ッ当にめでたいこと。なんせ中学時代の担任の先生に始まり、会う人会う人から「背中曲がってるよ」と指摘されるほど、極端な猫背なのです。
 「猫背が気になって」と整体に来られたお客さんより私の方が猫背で、お互い言葉に詰まった、なんて笑えない話もあるほどです。

 「背中曲がってるよ」という指摘は、「伸ばせば伸びる」ことを前提にしています。しかし私の背中は、「ついうっかり丸くなっていた」のではなく、「丸いのが標準」。がんばっても、あんまりうまく伸びません。

 私の背中が丸いのは、きっと肋骨の角度が悪いから。
 ⇒肋骨を、あるべきところであるべきように支えるのは筋。
 ⇒ということは、どこかの筋に問題があるはず。
と、ここまでは予測していました。
 が、どの筋がはたらいていないから肋骨の角度が悪いのか。それが、さっぱり分からなかったのです。

 もちろん、直接の原因になっているのはきっと肋間筋とか前鋸筋のような肋骨周囲の筋肉です。けれど私の施術方法では、もっと全身的な立て直しを狙います。
 ですから大元の原因が分からないことには、肋間筋とか前鋸筋だけに注目しても、施術はうまくいきません。




 太極拳を習い始めたときも、「身体が前に倒れてる!」と何度も注意されました。1人目の先生とはお話しする機会があったので、「私はこういう体形(?)なんです」とご理解(ご勘弁?)いただきました。2人目、3人目の先生のときは、特に説明する機会がありませんでした。
 そして先日、4人目の先生から2度目(3度目かも?)の注意を受けました。2度目とは言っても久しぶりのことで、前回注意されたのは半年ほど前のことです。

 注意の間隔が空いたのは、決して猫背が直っていたからではなく、「言っても直りそうにない/それより他に注意すべきところがある⇒だから言わない」だったはずです。
 それを、久しぶりに注意されたその感じから、なんとなく「いまが猫背に施術するタイミングなのかも?」という予感がしました。
 そこで今回は、特に猫背に注目して、自分整体をしてみました。

 結果、予感的中。「筋」ではなく、広い範囲の「皮膚」から問題が見つかりました。

 まず最初に施術できたのは、右腕の骨の、肩関節の部分です(これは骨と筋への施術)。その後、右腕の皮膚と右足の皮膚、つまり右半身側面の広い範囲の皮膚から、よじれが見つかりました。

 皮膚への施術方法は、これまたちょっと特殊です。皮膚の一点を目打ちで押さえて固定し、全体のよじれを引き伸ばすように手とか足全体を動かします。そうすると、徐々に皮膚の状態が収まってきます。
 関節のむくんだような感じが取れて、すんなりすれば一段落。この感じは、ちょうど、ずり下がってしわになった靴下をごそごそ引き上げる感じに似ています。ピタッと収まった瞬間、すっきり違和感がなくなるところも同じです。

 この状況を「これまで私は皮膚をよじったまま着ていたのだな」と想像すると、ちょっと愉快です。
 肩の位置とか腰のすわりはいままでとは感じが変わり、鏡で見ても、これまでになく自然に背中がまっすぐです。“猫背でない人”の姿勢なんて、これまで体験したことがないからなあ、なんてちょっと照れながら、引き続き、変化を追っていきたいと思います。




 余談です。
 右手の皮膚を、左手で持った目打ちで押さえたまま、右腕をめいっぱい動かすのは至難の技です(右手の位置に、左手が届かなくなるから)
 今回私は母に手伝ってもらいましたが、もしも1人でするなら“目打ちの固定具”が必要です。「なにで固定すれば適当かなあ?」と考えるうち、鍼に思い至りました。
 鍼をぷすっと刺しておいて、1人でごそごそ動けば良いかも、と思うのです。

 私は鍼師ではないので人様に打つことはできません。けれど、自分で自分に打つ分には自由です。
 「一度試してみるのも楽しいかもしれない…」と、またまた妙な思いつきが湧きました。

 そもそもむかしの中国には、お医者さんであると同時に武術家でもあった人が少なくないと聞きます。ちょっとオジイチャンな先生が、鍼を打ったまま気功や体操(導引?)をしている――なんて、私的にはちょっと素敵な光景です。
 実際にそんな奇特な方法を実践する人がいたかどうかは知りませんが、いなければ私が第一号。いずれ、機会があれば試そうと思います(もしかしたら私が知らないだけで、鍼の、至ってふつうの使い方なのかもしれませんが)


091228 ほくろを取る

 たぶん小学生の頃だったと思いますが、私は、右膝にあったわりと大きなほくろをカッターで抉(えぐ)り取ったことがあります。
 理由は、ほくろの黒さが何でできているのか知りたかったから。結局、見つかったのは単に黒いだけの皮膚で、期待外れな結果にがっかりしたきり、忘れていました。




 それから時が経ち、数年前から、ふとした拍子に右の股関節がカクッと鳴ることに気付きました。立ち上がって歩き始める瞬間とか、歩く向きを変えるときとか、主にそういったときに鳴ります。
 ごきっ、ごきっと鳴らしてみて、どこかの筋肉のバランスが狂っているんだろうな、くらいの見当はつくものの、どの筋がどうおかしいのかまでは予測できません。痛みもないし放っておくか、とそのままにしていました。




 ところがさらに時は過ぎ、2週間前の太極拳教室でのことです。
 その日は、「右足の力を右手に伝えてアチョッと打つ」みたいな動作を習いました(←何のことだか分からないでしょうが、読み流してください。動作の名前を憶えていないのです)

 先生のお手本では、右手で突いた瞬間、全身にコツンと引っかかる感じが現れます。これは、全身の筋がうまく引き合ったときに生まれる、独特の感じです。

 ところが私がアチョッとしても、その引っかかり感がまったく現れません。だらっとだらしなく腕が伸びるだけで、てんで、突きにならないのです。
 仕方がないので例のごとく、できない課題を持ち帰り、1週間、練習しながら考えました。一体どこが悪くて、だらしない突きしかできないのか。コツンと引っかからないのか。でも、よく分かりませんでした。

 抉ったほくろのことを思い出したのは、その次の週を迎え、教室を終え、その帰る道すがらでのことです。
 私にとって、ひとつのことを意識し続けて、それでも分からなくて、ほど良く煮詰まったころに何かがひらめく――。これは、神のお告げも同じです。

 帰宅して早速検査してみると、案の定、ほくろを抉ったあたりからいくつも問題が出てきました。さくさくと施術して、そこそこ状態が整ったところで試運転。するとこの時点でもう、股関節の音はずいぶん軽くなっていました。アチョッとしたときの引っかかり感も、少し手応えが返ってきます。
 よしよし、もうちょっと練習と施術を重ねれば、なんとかなるぞ。ようやく、見通しが明るくなりました。




 ほくろを取った、あるいは偶然ケガで取れた方は、そう珍しくありません。私が見ているお客さんのなかにも、ほくろを取った/取れた方が数名いらっしゃいます。
 こけた拍子に顔を打ち、鼻の近くのほくろが取れた方は、長い間、ときどき無性に鼻が痒くなっていたそうです。それが、ほくろの傷痕に施術して以来、痒みがなくなったと驚いていました。
 肩甲骨近くにあったほくろを手術で取られた方も、その周囲からあれこれ問題が出ていました(たとえば手に力が入りにくいとか。ただしこの方の症状と問題はかなり複雑なので、あまり限局的な形では言えません)

 ほくろを「取る」。――作業自体はそれほど難しくもないのでしょう。なんせ子供がカッターででも取れたくらいです。が、後に問題が残らないわけではありません。
 そしてその“後遺症”を考えるなら、できるだけほくろは取らない方が良さそうです。

 実は私は背中にも、大きなほくろがひとつあります。ちょうど手が届かないところなので無傷ですが、目と手の届くところなら間違いなく抉っていました。……背中で良かったです。


100216 「これが幻の湖ッ!?」的感動

 前回(正しくは2回前)の太極拳教室で、先生から、頭の傾きを注意されました。
 頭は、しゃんと立てておくのが正しい姿勢。それは分かっているのですが、私の頭は気付くとがっくり前に倒れています。気付くと倒れている、ということはずーっと気を付け続けなければ立てておけないわけで、そんな根気の持ち合わせがない私は、開き直ってふだんから倒しっぱなしにしています(要は、いつもうなだれている)

 不思議なことに、いつも倒しっぱなしの頭なのに、指摘されるときとされないときがあります。毎週毎週教室に行って、毎度毎度うなだれているはずなのに、「頭!」と言われるときと「手の位置はそうじゃなくて……」「足の向きはこっちの方に……」と言われるときがあるのです。
 「あまりにも手足の動きがひどいから、頭まで注意できないのでは?」と言われればたぶん、その通り。ですが同じように不細工な動きをしていても、先生の感じられる不自然さにはきっと、その時時で「注意すべき順序」があるのでしょう(と、いうことにします)
 で、前回は頭でした。




 教室で指摘された不自然さを正せるよう、自分の身体を立て直す――この方式で私は自分に整体しています。「頭!」と言っていただいたからには、頭を立て直す施術を考えなければなりません。

 私がこれまでにした大きなケガ・事故は、主に2つ。生後数ヶ月で寝返りを打ってベビーベッドから転落した事故と、小学生の頃、立て掛けてある和机を蹴飛ばして下敷きになり、頭を打ったケガ(情けない……)。寝返りの方は、落ちてもそのまま寝ていたそうですが、頭の方は出血し、何針か縫っています。
 このうち、頭のケガは、中心点がはっきりしています。机の角の当たった点です。一方の転落は、右半身全体で着地しているので、衝撃を受けた点があまりはっきり分かりません。ただ、どうやら右肩から落ちているらしいことだけは、分かってきました(←ケガのできようのひどさから推測)
 いまの整体を始めてから数年経ち、ずいぶんあちこち立て直しています。いよいよ残っているのは問題の深い傷、という見当もついています。そんな状況で「頭!」を指摘されたので、「ついに肩に施術できるときが来たのかも」と大いに期待しました。

 帰って早速調べてみると、期待通り、肩のややこしい関節からいろいろ反応が出てきます。ごそごそ施術するうちに、肩、鎖骨、背骨、胸骨、肋骨、首…と、右上半身の広い範囲を立て直すことになりました。施術が一段落すると、心なしか姿勢もしゃんとしたようで、なかなか良い感じです。
 準備万端な気分で、先日、再び教室へ。が、練習が始まってすぐ、またまた頭の倒れを指摘されました。「あららら、まだ立て直せていないのか」とがっかりしかけましたが、注意して聞くと、ちょっとだけ、先生のおっしゃりようが違っています。前回は、「頭が前に倒れている」。けれど今回は、「目線が下に下がっている」。
 これはひょっとすると、大事な違いかもしれない。そんな直感がはたらいて、今度は、目玉の筋肉を意識しながら施術することにしました。

 東洋医学の考え方で目玉と関係の深いところ。身体の構造・位置関係から目玉と関係の深いところ。しかもケガと関係していて……とぶつぶつ考えながらふと思いつき、何気なく、頭の傷を調べてみました。と、ものすごいたくさんな問題が、続々と出てきたのです!
 机の角の当たった部分からは、500円玉大の癒着が出現! まるで骨と皮膚が一体化したようで、頭の皮をゴイゴイずらそうにも、その部分だけびくともしません。そしてその周囲の皮膚にしても、あっちに撚れたりこっちで癒着したりと、ごちゃごちゃになっています。

 これまでももちろん、頭に傷があることは知っていました。施術だって、何度もしています。けれどこれほどのひどさが表面化して、頭の施術がはかどることは未だかつてありませんでした。




 以前あるお客さんと、「一番目立つところからしか施術できない」という話をしていて、「幻の湖みたいですねー」と言われたことがあります。昨日までは砂漠か空き地かだったかした場所に、一夜明けると、だったか一週間ほどするとだったか、湖ができている、という幻の湖です(いい加減な記憶でスイマセン)。「ロマンチックなたとえだなあ」と聞いていましたが、まさか私の身体でそんなことが起きるとは思ってもいませんでした。
 これまで何度探しても癒着を見つけられなかった頭から、突如、ごちゃごちゃに癒着が出てくるなんて! ぎやー、これはおもしろいわッ。と、またまた感動。

 頭の立て直しが一段落すると、目の奥に力が付いたような、充実した感じが出てきました。と同時に、肩のおかしさがまた目立ってきたり、肋骨・胸骨・背骨の3人衆からも施術できそうな気配が感じられたり、首の根のムチウチから、ようやく立て直せそうな手応えがでてきたりと、あちこちから反応が出始めました。きっと、頭がちょっとマシになった分、他の部分の頼りなさが自己主張を始めたのでしょう。
 おもしろいことに、姿勢の悪さも見事に復活しました。どうやら、姿勢を維持するには右上半身の安定が必要で、右上半身の安定を維持するには頭の安定が必要、のようです。この場合、頭と、右上半身全体は、組合わせで立て直さなければなりません。これは大掛かりで、楽しい作業になってきました。

 作業が順調に行ってうまく間に合えば、次回の教室では心持ち、頭がしゃんとしているでしょう! いひひ、楽しみですわ〜。


100408 激動(?)の4日間と咽喉の施術

 4月3日から6日までの4日間は、整体的かつ精神的に、とてもめまぐるしく過ぎました。1行日記風にまとめるとこんな感じ――

3日 太極拳教室で、歩くときの足の運びを注意される。
4日 朝から筋肉痛に泣きつつ、股関節へ施術。
5日 難しいお客さんへの、もう一歩踏み込んだ施術ができず、落ち込む。
6日 落ち込みを引きずりつつ自分の身体であれこれ実験。思いがけない咽喉の施術に成功し、喜ぶ。

 喜怒哀楽というか起承転結というか、メリハリの利いた4日間でした。

3日 太極拳教室で注意されたのは、「後ろ足を前に持ってくるときに、腰の高さを変えないように」ということです。
 日常的な歩き方では、腰は高い位置に上げたまま股関節から足を振り回すようにして歩きます。一方、太極拳では腰を低く落として歩きます。腰の位置は低くして、股関節から振り回すというよりおしりから巻き込む格好で後ろ足を前に運ぶので、低く落とした腰の下を足が通過するときも、腰の位置は上下しません、正しくは。しかし私が歩くと無意識のうちに腰が上がり身体が伸びます。
 そこを指摘され、「そうじゃなくてこうだよ」と横でお手本を示してくださる先生に合わせ、丁寧に、右足を前に、次に左足を前にと一歩ずつ練習。理屈と動き方の感じをしっかり覚えたら、あとは自宅で復習です。ぺこりと頭を下げて、その練習はそれで終わり。教室は次の練習に移りました。




で、翌4日 前日たった2歩丁寧に歩いただけで、朝から股関節が筋肉痛です。今までいかに横着な歩き方をしていたのかとげんなりしつつも、痛みの場所がちょっとおもしろいことに興味を覚えました。
 前日のような歩き方をする場合、直接に力が掛かるのはおなかの奥の筋肉(大腰筋)です。そしてこの筋肉が痛みを出す場合、痛いと感じるのは多くは腰です(引越し作業翌日の腰痛と同じ感じ)。ところが私の筋肉痛はふとももの外側、気をつけの姿勢で手首が当たるくらいの位置に出ていました(大腿筋膜張筋?)
 これから推測できるのは、どうやら足を前に運ぶことよりも股関節の位置を固定しておくことの方が、私の身体には難しかったようです。で、心当たりの範囲を検査し、施術し、立て直してみました。すると直後に筋肉痛はなくなり、前日の練習を試してみると、割にすんなり歩けるようになっています。問題があったのはおなかやふとももの筋肉ではなく、おしりの筋肉のようでした(中殿筋?)




5日 整体に来られるお客さんは、症状もさまざま、状態もさまざま、もちろん、経過もさまざまです。とっても重症そうに見えてささっと良くなる方もいらっしゃれば、けろっと元気そうに見えて施術するとなるとなかなか難しい方もいらっしゃいます。
 5日は、もうずいぶん長い間お付き合いいただきながら大きな一山を越えられない、私にとってとても難しいお客様を前にして、がっくり落ち込みました。
 施術方法が独特、身体観が独特となった今では、施術に行き詰まると本当に困ります。本を調べるとか人に聞くといった解決方法が使えません。結局、自分の身体を立て直し、感覚を磨き、お客さんの身体から直に解決方法を拾い上げるしか手の打ちようがないのです。
 自分の身体のどこを立て直せば良いのか。どこを立て直せばお客さんの整体につながりそうなのか。――このことだけを念じながら、ただひたすら思いつめていきます。経験上、こういった問題は頭で考えすぎても答えは出ないし、仮に無理やりリクツをひねり出しても、そうして得たリクツは大抵見当外れです。一見非科学的なようですが、思考をやめた状態でじいっと思いつめ、煮詰まって煮詰まって動けなくなったところでぷかっと浮かび上がってくる直感の後を、静かに付いていく方が、はるかに簡単に、正解に近付きます。
 そう信じて、じいいっとがんばってみましたが、浮かび上がってくる気配はありません。思いつめ疲れて、その日は未解決のまま諦めました。




6日 午前中休みを利用して、昨日に引き続き自分の身体に意識を集中します。どこがおかしいんだろうなあ……とひたすら考えるともなく考えて、良い具合に煮詰まってきたそのとき、ふと、「咽喉……?」と鈍いひらめきが。
 なぜ咽喉か。それは私にも分かりません。差し迫って咽喉が痛いとかしんどいとか、調子の悪さを自覚することは、ここ最近ではありません。実際、検査を始めるまでは、「咽喉ぉ? 咽喉の何をみれば良いのよぉ」と自分のひらめきに対して思いっきり半信半疑でした。が検査を進めるうち、不思議な施術が要求されました。印象では、気管と食道のあいだの癒着を剥がすような感じです。
 「こんな施術、したことないなあ」と興味津々の気分で、検査結果にしたがいます。軟骨があってちょっと硬い感触の気管の裏をキリの先で押さえ、指でつまんだ気管をそこからぺりぺり剥ぐように動かして――と、途端にふわっと首の筋が弛み、位置がすとんと収まり、その一瞬で、施術が完成しました。「え? え? なに今の?」と驚いて、ちょっと位置を変えて第2弾の施術。さっきほどの感激はないにせよ、同じようにすすっと首が弛みます。
 おもしろいなあっ! と嬉しくなって鏡を見ると、首の形にあまり変化はありません。どうやら弛んだのは奥の筋肉のようです。第3弾、第4弾と施術を加え、触れる範囲の気道を一通り済ませてみましたが、それでもやっぱり見た目の変化はありません。が、腕の動きには大きな変化がありました。
 これまでは、太極拳で腕を動かすと、右手の動きに首が引きずられる感じがありました(そういえば、数回前の教室で、先生にもさらりと注意されていました)。首を動かした場合も同じです。首の動きに合わせて、なんとなく右手がうろうろ動くのです。それが、かなりきれいに分離するようになりました。腕をぐるぐる動かしても、首の位置はぴたりと決まってぶれません。気持ちの良い感覚です。




 咽喉もとには、血管、神経、筋肉が入り乱れ、血圧を感知するセンサーが備わります。それ以外にも甲状腺、副甲状腺、リンパ、……。大事な組織の密集地区です。したがって、たとえ自分の身体であっても咽喉の施術は軽い気持ちではできません。
 それを恐れ気なく施術できたのは、「癒着を剥がす」という目的と、「キリ」という道具、そして「一度押さえた位置からキリの先を動かさない」という作業方法が揃っていたからです。そのどれが欠けても、私は怖気づいて施術はしなかった(できなかった)でしょう。

 こんな風に咽喉を施術したのは初めてでしたが、とても良い施術でした。
 そしてこの施術は、5日のお客さんにも効果がありそうな予感がします。まったく同じ施術は不要だったとしても、なんらかのヒント――決して小さくはないヒントが得られた手応えはあります。次回の施術に心から期待したいところです。


100413 全体と部分

 先日の太極拳教室では、珍しく“全体”に対する注意を頂戴しました。

 先生から一通りの説明を聞き、各自で練習を始めたときのことです。例によって、「こうして、こうして、それからこうして――」と自分なりにぶつぶつ考えながら練習していると、それを見ていた先生から、すかさず「動きが軽い!」と一言。

 不意を衝かれてきょとんとして、「どこが軽いんですか?」と聞き返す間もなく、先生がお手本を示されます。普段なら、「このときの手はこう」とか「このときの足はこう」とかかなり具体的に指摘していただけるのですが、このときは、“本日の課題”の動きの一連を丁寧に見せてくれて、「こう!」という感じで具体的な説明がありません。
 残された私は、「どこがどう、とかじゃなくて全部が軽いのだな……」とがっかりしながらとりあえず練習再開。でも全体的なことは自分一人ではよく分からないので、先輩に助けを求めます。

 「ちょっと見てて」とお願いして、軽くならないように意識しながら一通り動いて、「――軽い?」と尋ねると、「軽くはないけど身体が前に倒れている」とT先輩。T先輩は映像記憶に秀でた方で、人の動きの癖とか特徴をとても上手につかまえられます。お手本の動きをすぐに覚えられない私にとっては、まさに、救いの神のような人です。

   「こうなってるってこと?」「そうそう」「正しくはこうってこと?」「まあまあ、そうそう。ちょっとわざと反り過ぎだけど」とT先輩に付き合ってもらって微調整を重ねながら感じをつかみます。力の入らない具合から考えて、どうやら腰に問題がありそうです。
 なるほどなあ、腰か……。とぼんやり考えていると、もう一人の救いの神、K先輩が「手の動きがこうなんじゃない?」と横から助言。
 慌てて我に返って、「え、こう?」「いやいやそうじゃなくて、こう」「こう?」「そうそう」。ふーむ、とまたちょっと考え込みながら動きを繰り返していると、今度はT先輩が「足がもうちょっとこうなんじゃない?」「え、こうってこと?」「あ、もうちょっとこっちかな、あ、いやいやそうじゃなくてこっち」「ああ、身体の向きが悪いんじゃない? ほら、先生はもっとこっち向いてるよ」「え、こっち?」「いや、手の動きが――」なんてことを3人でごちゃごちゃしているうちに、正直、私は何が何やらさっぱり分からなくなってきました。

 ちょっと待って、一度やり直すわ。えーと、私はもともとどう動いていたんだっけ、と最初の軽いと言われた動きに戻ろうと思っても、もう手遅れ、覚えていません。しかも足をあっち、手をこっち、とばらばらに動きを組替えたために全体的な流れも怪しくなっています。あらあらあら、困ったなあと一人で笑い出しそうになりながらとりあえずごそごそ動いて、そうするうちに時間が来て、その日の練習は終わりになりました。




 こんなことがあると、「人の動きを直すこと、人に動きを直されること」の難しさがよく分かって、楽しくなります。
 経験上、部分を直されすぎて混乱する場合もあれば、ぴしっと部分を指摘されて全体がすっきり直る場合もあります。また、全体を漠然と指摘されて具体的に何をどう直せば良いのか分からなくなるときもあれば、全体でしか指摘できないしそうされるしか問題を把握できない場合もあります。
 この直す側、直される側のさじ加減って、いったい何なんだろうと興味深いのです。

 数年前のことですが、太極拳を習い始めて1、2年が過ぎると、教室の“後輩”からちょこちょこしたことを訊かれるようになりました。訊かれると言っても、「この次の動きってどうでした?」とか「このときは右足が前だっけ?」とか、そんな手順の確認がほとんどです。
 けれどあるとき、ある動作について、「何かしっくり来ないんですけど、どこがおかしいですか?」と訊かれたことがあります。「ええっ」とうろたえる私の目の前で動いて見せて、後輩は意見を待っています。逃げられなくなった私は、ううーん……と考えて、「手がもうちょっとこうなんじゃないの?」と言ってみると「こう?」と後輩。「いやそうじゃなくってこう(?←早くも逃げ腰)」「え、こう?」。ああでもないこうでもないともたもたしていると、そこへ先生が来られて、「なに騒いでるの?」。
 助かった、と思って説明して、後輩が動いて見せると先生は、「足をこっちにこう」と一見問題のない足の位置をちょこっとだけ直されます。え、足? 手じゃなくて? と面食らいながら様子を見ていると、――足の変化に釣られて重心の位置が変わり、身体の向きが変わり、手の位置がすすっと収まります。

 その一連の、一瞬の変化を目の当たりにして、私はもちろん、感動。練習の後で先生に、なぜ明らかにおかしい手ではなく足を直したのか、足を直そうと判断したのか、飛んで聞きに行きました。先生は、「私もいろいろ考えてるのよ、いろいろ試してきたし」と笑って軽くかわされましたが、このときの印象は鮮烈に残っています(めちゃくちゃカッコ良かった!)

 人の動きを見て、全体の問題をつかむことも部分の問題をつかむことも、そしてそのそれぞれをどう指摘するのかも、そのどれにも判断というか直観が必要です。中国医学・哲学では、確かこの直観のはたらきを「神」とか「聖」とか呼んでいました。
 ある動きを見ていて、なぜ部分のズレを指摘するのか、なぜ全体の違和感だけを指摘するのか。そのときの判断・直観の裏にどんな意識・無意識――神や聖がはたらくのか。
 私にはまったく想像できない作業なだけに、ものすごくものすごく、興味のあるところです。

※ ときどき、「整体で身体を見ているんだから、そういうこともよく分かるんでしょう?」と訊かれる方がありますが、とんでもないことです。少なくとも私にとっては、身体全体を見ることと身体の動きを見ることとはまったく別物です。私にとって動きを見るのはとっっっても難しいことで、上手くできた試しがありません。動きを見るには、根本的に別の能力? 訓練? が必要なのだと思います。


100527 右腹の癒着、剥がれる。

 数年前、カイロプラクティックの流派のひとつ「AK(アプライド・キネシオロジー)」のお師匠と先輩、そのお2人から、ほぼ同時期に施術を受けたことがあります。
 当時、私が既に整体の独自路線を走り始めていたことをご存知だったお師匠からは、「お互いに施術をしあおう」という交換条件の下で施術していただき(名誉なこと!)、先輩には、私が自分から予約を取って施術をお願いしていました。
 結果的にはどちらも長く通うことにはならなかったのですが、偶然にも、お2人から「君は右の卵巣の具合が悪い」というようなことを言われたのが、強く印象に残っています。

 説明を受けていて、お2人の示された位置がほとんど同じであったことには感心し、けれど卵巣の不調にさっぱり心当たりが無かった私にその指摘はとても意外で、そして「なぜ皮膚でなく筋肉でなく筋膜でなく腸でなく、卵巣なのだろう?」という微妙な疑問だけが頭にこびりつきました。

 立体でできている身体には、当然、「深さ」があります。外から指し示す位置が確かに卵巣の付近であったとしても、実際に卵巣にたどり着くまでには皮膚、皮下脂肪、筋膜、筋肉、腸なんかが存在します。
 その途中のどれでもなく、卵巣と言ってしまえる根拠は何なのだろう? そしていったいどういった力がはたらけば、外界から隔絶された卵巣に問題が生じるのだろう?
 単なる揚げ足とりではなく、私には、極めて興味深い疑問でした。




 話は変わって、3週間前の太極拳教室からずっと、気分のハレバレしない日が続いていました。どうやら「教室で注意をいただく⇒自分で施術する⇒動きが変化する」という私の必勝パターン(?)が、上手くはたらいていないようなのです。理由は、分かりません。
 教室で注意はいただきます。それを受けて自分で施術もしてみます。そして確かに手応えは十分得られます。なのに、動きが期待通りに変化してくれないのです。

 これまでは、施術がうまくいけば筋肉のはたらきが変化して、それに伴って動きも改善できました。動きが改善できない場合は施術が上手くいっていないからで、そのときは大抵、手応えも良くありません。
 手応えがないまま施術を終えると、試しに動いてみる前から「あ、ダメだな」と分かる感じがあります。実際動いてみてもやはり改善はしていません。そんな予測が成り立つくらい、施術の手応えと出来具合、動きの変化には関連があったのです。

 が、今回は違います。ひと通りの施術が済んで「よしッ、これでどうだ!」と思って動いているのに、動きがちっとも変わらない。これ以上いったい何をすれば良いのか……途方にくれながらとりあえず施術を続けてみる3週間でした。




 それが先日の教室の後に、ようやく落着いたしました。
 “右斜め後上方へ力を出す”動きの拙さを指摘された日の夜中です。ぐうぐう寝ていた私は突然目が覚め、「ああ、右のお腹の皮の具合が悪い」と天からのお告げ(?)を受け、半分寝ぼけたまま施術に取り掛かりました。
 調べてみると、筋膜の深さにべったり癒着があります。方向からいって、腹横筋か内腹斜筋のようです。それを、明かりもつけずにべりべりべりべり剥がしながら、「この3週間の悩みが、この施術で解決するかもしれないなあ」と確信に近い期待を感じていました。

 お腹の施術が一段落しもう一度寝ようと思って寝返りを打つと、突如、右の心臓の裏側というか肺というか背骨というか、少し奥の方に差し込むような鋭い痛みが出てきました。
 あいたたたたと呻きながら「早いなあ、もう筋肉痛が出てきたわ」と一安心。これは、施術がうまくいった証拠です。




 いまになって振り返ると、この3週間の施術は、すべてが一セット――ひとつのまとまりだったことが分かります。
 セットの目的は全身のねじれを正すこと。そのために、右肩、右胸、背中から首にかけて、右足、頭、……広範囲に施術する必要がありました。
 けれどこの一連の施術は、一回で終わらせるには範囲も広いし内容も複雑すぎる。そこでやむをえずそれを小分けにして、ひとつずつ順番でこなすことにする。施術が小分けだから動きの変化はいちいち実感できない、が、総仕上げに当たる右腹の筋膜の癒着を剥がした瞬間、ひとつの変化が完成した――そんなところかと思います。

 全身のねじれの中心は右腹、というのがもしも正しいなら、その負担が卵巣部分に集中している可能性は否定できません。
 けれど整体屋の私にとって、「卵巣が悪い」のと「卵巣に負担が集中している」のとではずいぶん大きな違いがあります。

 お師匠にこの経緯を報告し思い付きを質問してみたいところですが、本国に帰国された今となってはそれも叶いません(というかそれ以前に英語の壁が……)。仕方がないのでひとり、「もしかすると、あのとき卵巣と言われたのはこれのことだったのかもしれないなあ」とぼんやり思いました。


追記:お陰さまで、動きは無事、改善しました。これでまた、今度の教室で泣かずに済みそうです。


100827 背骨の形、肩甲骨の動き。

 前回の太極拳教室では、「肩甲骨を自由に動かそう」というのが課題(?)でした。またまた私の苦手動作です。

 そもそも太極拳に限らず中国古来の身体観では、肩甲骨までが、「腕」(「手」?)に含まれます。西洋の身体観が、「肩関節までが腕、その根元にある肩甲骨は“胴体と腕をつなぐもの”」と位置づけるのに比べると、中国式の腕は、範囲が長くなります。
 ですから当然、中国武術である太極拳を教わっていて「腕の動きはこう」と言われたときには、西洋式の短い腕ではなく、肩甲骨までを含めた長い腕を意識しなければなりません。

 が、これがなかなか難しい。もちろん私はできていません。
 なんせ私の肩甲骨は、見事なまでに動きません。肋骨にびたっと貼り付いたまま、動く気配すら見せません。ただ普段の生活ではそれで困ることもないので、日頃は、肩甲骨が動いていないことを気にもしていません。

 ところが今回、自由に動く先生の肩甲骨を見ながら、「はあー、肩甲骨ってばホントはよく動くのねえ」と、改めて感心しました。そして動かぬ我が肩甲骨を振り返り、「これではイカン!」と思い立った次第です。我ながら、素直というか単純というか……。ハイハイ教室の翌日いきなりハイハイに目覚める赤ちゃんの気分です。

 そんなわけで今回は、「身体を立て直して、肩甲骨の自由な動きを取り戻そう!」を整体の課題としました。




 まずは、どこを立て直せば肩甲骨に影響するかを調べます。
 静かに意識を集中し、肩甲骨を動かそう動かそうとひたすら努力。ただしこの段階ではまだ何の施術もしていないので、どれだけがんばっても肩甲骨は動きません。また、実際に動くことを期待もしていません。言ってみれば、超能力もないのに念力の練習を始めるような心積もりです。

 とにかく一生懸命「動かそう」とすることで、「動かしたいけれど動かせない部分がある」ことを身体に認識させるのがここでの目的です。整体をするには(特にいまの私のように目立った症状のない身体に整体をするには)、この手続きが不可欠になります。
 「全身が問題なくはたらけている」つもりの身体と脳に、「ここは動かせませんよ」と訴えかけて、気付かせる。そしてその気付きをきっかけにして、検査を展開させていきます。




 結局、問題は骨盤から見つかりました。
 なかでも、おしりの真ん中にある骨(仙骨)に貼り付いている「腱」に問題があるようです。

 一般に、仙骨に貼り付く「腱」の多くは、「背骨を支える筋肉」と「仙骨」をつないでいます。
 「背骨を支える筋肉」の多くは、いわゆる姿勢筋。背すじの安定にはたらく筋肉です。
 とするとここの問題を立て直すことで、私の長年の悩みの種(って特に悩んでもないけど)、極端な猫背が解決するかもしれない……? 軽く期待しながら、とりあえずぽちぽち、施術を始めました。

 が、正直言って、仙骨の施術を自分でするのはかなり面倒な作業です。猫背だからこそ腕は後ろに回りにくく、かといって腕を後ろに回さなければ仙骨に施術はできない。
 これまで、お客さんはともかく自分の背中の施術がなかなかはかどらなかったのは、ひとえに腕を後ろに回すことのしんどさゆえです。すぐに、だるくなって億劫になって邪魔臭くなって嫌になる。「ああ、もう、またにするか」と、何度投げ出したことか。

 ですが、今回は良い感じです。ぶつぶつぼやきながら施術を始めましたが、ほどなくして、腕のだるさが気にならなくなってきました。「お、お、良いんじゃないの」と上機嫌が拍車をかけて、作業もそれなりに進みます。

 仙骨に貼り付いた腱から始まって、背骨に及び、いよいよ「背中と腕をつなぐ筋肉(広背筋)」にまで施術ができました。広背筋は、長いあいだ気になりながらも、なかなかうまく立て直せなかった筋肉です。これが施術できただけでも十分嬉しい。
 一連の施術にかかるうち、尾骨がすんなり伸び下がり、肩甲骨の位置が正常な場所に近付き、本来の目的であった肩甲骨の動きも良くなっているように感じます。また、こっている自覚はなかったものの、肩首がすっきりと軽くなりました。

 かなり不承不承始めた骨盤・背中の施術でしたが、結果だけ見れば期待以上。おもしろい整体になりました。


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