太極拳 1
080907 思い通りに動く
太極拳には、“守らなければならない動きの決まり”がたくさんあります。
たとえば「肩の力を抜く」「視線を定める」「股関節をゆるめる」「背筋を伸ばす、でも反らさない」……などなど。言葉にすると、結構な数になります。
そして厳密には、その決まりから外れた動きが全部“ダメな動き”とされます。
そこで、習う側の意識としては、“いかに身体を思い通りに動かすか”が問題になります。
「手はそうじゃなくてこう」と言われて手を直した途端、足の動きがずれてしまえば「足はさっきのままで」と注意されます。つまり足の状態を維持したままいかに手の状態だけ変化させるか、とかが重要になるわけです。
そんなことを考えながら練習していると、「身体は、どの程度思い通りに動くのだろうか?」が気になってきます。
そこで今日は、このナゾに対する私なりの結論を書きたいと思います。
ちなみに先取りして言うと、ここで得た結論が、いまの私の整体観の基礎になりました。
それは、太極拳を習い始めて1年目か2年目のことでした。
当時の私は、「膝が入る」という“ダメな動き”に悩んでいました。
太極拳では、腰を落とした状態が基本姿勢。膝は、ゆるく曲げた状態で維持します。このとき、「爪先の向き」と「膝頭の向き」と「股関節の開き具合」を一致させるのが正しい姿勢――「膝が入らない」状態です。
一方、ダメな動きの「膝が入る」状態では、ゆるく曲げた膝が内側に倒れます。つまり「爪先の向き」と「股関節の開き具合」は一致させたまま、「膝頭の向き」だけがズレた状態です。
背骨から足の爪先までの筋肉や骨の配置を見た場合、「膝が入らない」状態ではねじれが生じず、「膝が入る」状態ではねじれが生じます。
ねじれを嫌う太極拳が、「膝が入る」状態を“ダメな動き”とするのはこのためです。
技術的な“ダメさ”だけでなく、膝が入った状態で練習していると、膝を傷める可能性も高くなります。当時の私の先生はそれもあって、ことあるごとに私の「左膝の入り癖」を注意してくださいました。
何度も何度も「膝!」と言われたおかげで、さすがの私も、「うーん、膝の動きがよろしくないのだな」ぐらいのことは分かるようになりました。けれど、何がどうよろしくないのか、膝が入るとはどういう“感覚”なのかは、どうにもよく分かりませんでした。
それがあるとき、私の「左膝の入り」を、先生がみっちり直してくださっていたときのことです。
「あの動作からこの動作に移るときに、膝が入るから気をつけてね」と先に指摘を受けた上で、私はその要注意動作を何度か繰り返していました。
もちろん私は、その動きに気をつけて、慎重に動いているつもりです。――が、何度繰り返しても、膝はすっと入ってしまいます。しかも私には、「あ、いま膝が入った!」と気付くことすらできません。
先生が横から、「ホラいま入った」「ホラいま!」と声をかけてくださって鏡を見ると、膝はもう入っている……。けれど私には膝が動いた自覚さえない――そんな状態に陥っていました。
これは考えてみるとおかしなことです。
膝が入った状態、膝が入るタイミング、どちらについても私は説明を受け、理解しています。なのに実際に動いてみると、自分自身の膝の動き、膝の位置が変化したことは、まったく
感覚できないのです。
仕方がないので、「膝が動いた感覚が分からないのですが、無理に意識してでも膝を止めておくものですか? それともちゃんとできていれば膝は当たり前に動かないものなのですか?」。先生に聞いてみました。
と、先生はちょっと思案されてから、「無理に止めておくものではないですねえ……」。
それをお聞きして私は、初めて、「私の意識と膝が、うまく連絡していない」ことを知りました。そして、「連絡できていない以上、自分の膝を“完全に思い通りに動かす”ことも、おそらく無理なのだろう」と、いうことも。
じゃあ、膝と意識の連絡を回復させることはできるのだろうか? それを整体でできないだろうか? ――この思いつきが、いまの整体をすることになったひとつのきっかけでした。
その日、練習を終えた私は帰宅してすぐ、左膝をじっくり見てみました。すると、子どもの頃に転んですりむいた傷痕が、白い瘢痕組織
(はんこんそしき)になって残っています。
「もしかすると、ケガをしたから感覚がなくなったのかも……?」興味半分そう考えて、左膝に施術をしてみました。
さて、その翌週。教室で、もう一度先生に見ていただける機会がありました。
と、驚いたことに、「左膝の入り」が少し軽減しています!
完璧な動きではないにせよ、一週間練習せず、膝には意識を払わずに動いた結果の変化としては、上出来のように思えました。
今から振り返ればやや勘違いの気配はあるにせよ、これが、「ケガ」と「動き」と「整体」の結びつきを実感した最初の瞬間でした。
そしてこのときの発見「ケガの痕があると、身体は、思い通りには動かせない」が、それ以降の、私の整体に対する考え方を変化させることになります。
080913 丹田について
太極拳をしていて、私が最も「ああ、武術をしているなあ」と実感する言葉は、
丹田(たんでん)です。
一般的には、「腹の真ん中あたりにあって、意識・気の集中するところ」と説明されます
(諸説あるようですが)。練習中
、先生に「そこから気が生まれて、また戻っていくんです」なんて解説されると、意味もなくしみじみ、「武術っぽいなあッ」とうれしくな
ります。
が、整体師として冷静になると、また違うことを思ってしまいます。
「丹田って、解剖学的には何なんだろう?」と思うのです。解剖学的にみて丹田の近くにあるものといえば、“
大腰筋(だいようきん)”が思いつきます。
大腰筋は、背骨と太股
(ふともも)の骨をつなぐ大きな筋肉です。
股関節を支えるのが主な仕事ですが、実質的には、
上半身と下半身を支えるはたらきをもつ、大事な筋肉。
と、ここまで考えて私は、「丹田=大腰筋」を納得します。けれどすかさず、「じゃあどうして、いままで誰も『大腰筋に力を込めて!』と
は言わなかったのだろう?」と疑問が湧きます。
もしかして、「先生にも生徒にも、解剖学の知識がなかったから」?――でもこの答えはあまりぴったりきません。なぜなら、代々の武術家には、“武術家でしかも医師”という人がけっこう多いからです。
現在の解剖学用語とは違っても、一人くらい、長い武術史のなかの有名な人が「丹田(実は“大腰筋”)」などと書き残していてもおかしくないのでは? なんて考えてしまいます。
そこで私の出した結論は、
「身体には、動かしやすい部分と、動かしにくい部分があるから」というものでした。
基本的に人間は
(と言って言い過ぎなら、少なくとも私は)、解剖学の知識がどれだけあろうと、「この筋肉を収縮させよう」と意図してその筋肉を収縮させることはできません。
「腹筋運動のように動く⇒腹筋が収縮する」または「腹筋を収縮させたい⇒腹筋に効果的なように動く」とすることはできても、
「意図的に腹筋を収縮させた⇒腹筋運動になった」ということは起こりません。
つまり、たとえ筋の位置を知っていたとしても、「あの筋ではなくこの筋を収縮させよう」と選り分けて収縮させることは簡単ではないのです
(特別な訓練をつんでできるようになった人はいる、と聞いたことはありますが)。
さらにまた、私の個人的な感じでは、大腰筋はとくに「動いている」感覚がつかみにくい筋です。
感覚を、一度つかんでしまえばそれ以
降は、区別するのは簡単です(「あ、この感じ」)。けれど、その感覚を他の人に説明するとなると、これがまたかなり難しい。
うっ
かり、「腹の奥に力を入れて」などというと、動かしやすい腹筋が先に動きます。そうすると肝腎の大腰筋には力が集中しないのですが、それを
指摘するのもまた、困難です。
動かしたい筋肉の種類に注文はつけられず、動いた感覚もつかみにくい。しかも、中途半端に動かし方のコツを言うと、全然ちがう筋肉が先に動い
てしまう――。これではいくら正しい動き方を伝えたくても、どう伝えたらいいのか分かりません。
そんな事情を踏まえて考え出されたのが、「腹の真ん中あたりのどこか」という、分かったような分からんような、イメージできるけれど具体的には感覚できない「丹田」という“場所”だったのではなかろうか……、と、私は理解することにしました。
080917 私の練習方法
今回は、私流「太極拳の練習方法」をご紹介したいと思います。
ただし紹介と言っても、「他の人にお勧めできるか」というと、あまり役には立たないようにも思いますが
(……)。
太極拳教室では基本的に、
- 先生の模範演技(模範演武?)を見る
- 先生から動きの説明を聞く
- 生徒が真似をして動く
という流れをたどります
(私の習った教室ではそうでした)。
1ではひたすら、動きの雰囲気をつかみます。
2では、動きの雰囲気に自分なりの「意味・理由」をつけます。
そして1と2を合わせて頭の中に、具体的な動作手順を叩き
込みます。この最後の動作手順が、私の
お手本イメージになります。
さて、3では、作ったばかりのお手本イメージになるべく合うよう、自分の身体を動かしてみます。
注意点は、「頭→身体に、正しく指示が伝わっているか?」です。ここでは、「ちゃんと動けているかどうか」より、「自分の身体に
“存在感の薄い部位”がないかどうか確認すること」を重視します。
ここで言う“存在感の薄い部位”とは、頭からの指示が伝わっていないとか、動いている感覚が把握できないとか、そんな部位を意味します。
私の考えでは、
「存在感が薄い」=「“頭との連絡”が途切れている」=「“ケガによる変形”がある」ということになります。
つまり私にとって“存在感が薄い部位”は、
要施術部位、ということです。
さて、しばらく練習を続けていると、そのうち先生がダメな部分を指摘してくれます。そのときには、必ず、
- 「お手本イメージがちがっている」(⇒イメージを修正する)
- 「お手本イメージは正しい」(けれどできていない=私の身体には“できない動き”)
のどちらなのかを、それとなく
(?)先生に確認します。
お手本イメージが違っていれば正しい動きを教えてもらい、イメージ作りからやり直し。
お手本イメージが正しければ、自分で何度か動いてみて、“存在感の薄い部位”はどこか、地道に探します。
太極拳の練習では、“存在感の薄い部位”を探すのが、私にとっていちばん重要な目的です。いまになって思えば、私は、「“存在感の薄い部位”を探して施術をし、動きが変化したかどうか確認する」、この作業をしたくて太極拳を続けているのでした。
そしてそんな私に言えるのは、
施術がうまくいけば、動きは必ず変わるということです。実際、
- “存在感の薄い部位”には、“ケガによる変形”がある。
- その“変形”を改善すれば、筋バランスが回復し、できなかった動きができるようになる。
- それと同時に、薄くなっていた存在感も強くなっている。
この3点については、私の身体でしつこいほど確認済みです。
私は、この5年ほど、いわゆる反復練習やトレーニングは一
切していません。「そういった訓練をしなくても、動きは変わるのだろうか?」が知りたかったからです。そして“実験好きの整体屋”としては、自分で確認しなければ気が済みませんでした
(ただし、太極拳は動きが複雑です。その型を覚えるまでは必死に反復練習はしました)。
最初のうちこそ、「反復練習やトレーニングはしないでおこう」と思っていました。が、そのうちする気がなくなりました。
「できない動き
や“存在感の薄い部位”を見つけて、身体を整体する」ことのほうがおもしろくなったからです。
“整体をする私”は施術に励み、“太極
拳をする私”は、「その施術が適切かどうか」を確認する。――この連係作業が楽しくて、いまは太極拳をやめられないのです。
081230 双重の病と重心移動
双重の病と書いて「そうじゅうのやまい」と読みます。
太極拳で、両方の足に均等に重み(体重)をかけきった、不安定で融通の利きにくい状態を表す言葉です。
どんな状態かというと、たとえば歩くときの足の動きを考えます。
右足を前に出すとき、空中に浮いた右足に重みはかかっていません。ぶらぶらにしたまま前に振り出して、手頃な
ところで地面に降ろします。そして地面についた瞬間から、今度は体重は右足に乗せられて、左足はぶらぶらになります。
つまり歩くとき
には自然に、
体重は片足に乗せて、もう片方はぶらぶらにする。次は反対の足をぶらぶらにしてもう片方の足に体重を乗せるという動きが繰り返されます。
確かにこうしなければスムーズに歩けませんし、実際に歩き続けているとき両足は交互に
ぶらぶらになり、同時に体重がかかることはありません。
大まかにいうと、これが
双重の病でない状態です。
太極拳の場合、動きがゆっくりで両足を地面に着けている時間が長いので、両足均等に体重をかけることが可能です――ついでにうっかり両足間の体重移動をやめてしまうことさえも。
けれど太極拳では、「ゆっくりだけど止まっていない」のが正しい動き。両足が着地していても重心はゆっくり移動を続け、どしっと1か所に留まることはありません。
ここ2ヶ月ばかり、私は双重の病を直すことに四苦八苦しています。
整体的対処法として、最初は、左足の小趾のひび(?)の痕に施術しました。「ちょっと改善
したかな?」とひそかに期待していましたが、まだまださっぱり動きまでは変化しません
(重心の感覚だけは微妙に変化しましたが
)。
今度は右のおしり
(殿筋群、股関節)に施術し、骨盤
(仙骨、尾骨)に施術し、全身の左右のバランスを整えてみました。
「ちょっとはマシになったんじゃないかなあ」と自分では少し前向きですが、先生に見ていただくのはお正月明けです。
結果報告はまた年明け早々にでもするとして、ちょっと更新をサボりすぎましたので、中途半端な途中経過だけお伝えしておきます。
こんな気ままなペースですが、来年もどうぞ、よろしくお付き合いくださいませ。
090110 胸を開く〜または両腕の感覚をつなぐ〜
新年早々の教室で教えていただいたのは、
胸を開く動作でした。
単純にいえば、深呼吸のときに両腕を同時に左右に開いて後ろに伸ばし、肋骨全体をストレッチするようなあの動作です。基本になるのは「背骨を中心に両腕を協調させる」動きで、これには、背骨を軸にして左右の腕の力をきっちりバランスさせることが必要になります。
私の場合、右肩周囲の状態が悪く、筋のはたらきが至っていい加減なので、左右の腕がバランスできないだろうことは分かっていました。
動かしてみると案の定、
右手と左手が背骨を介してつながっている感覚を感じることができません。それでも無理やり
動かし続けていると、両腕から背中にかけて、
やたらに緊張している部分と、さっぱり感覚できない部分の違いがなんとなく自覚されてきました。
もしもここで、
筋緊張=こり⇒⇒悪い!と考えると、「ダメなのは、やたらに緊張している筋だ!」と思ってしまいます。
けれど見方を変えて、やたらに緊張している部分は正常な筋で、感覚できない部分の方がはたらいていない筋
(悪くいえば“病的”な筋)――と考えると話は違ってきます。
筋の仕事は「緊張する」こと。であるから「緊張しすぎる」ことより「緊張できない」ことの方がより問題は深刻、と私は理解します。
つまりこの場合は、感覚できない部分にある「はたらいていない」筋の方を、悪い状態と考えます。
筋肉の感覚に注意を配りながらせっせと動かしていると、緊張している部分の筋は、早くも筋肉痛気味になってきました。こうなってくるとしめたもので、予想通り
(狙い通り?)翌日には、背中から肋骨にかけて一面ひどい筋肉痛ができあがります。
息をしても痛いくらいの筋肉痛では、まるでどこもかもが痛いように思えます。が、注意して動かしてみるとおもしろいことに、
ぽっかり筋肉痛から免れた部分
が見つかります。これが、はたらきの悪かった部分です。
私の場合は肩甲骨周囲がそうでした。状態の悪い肩甲骨の筋はほとんど収縮していないので、かえって筋肉痛にはならないのです。
という具合で、めでたくも新年第1回目の教室で、見事に施術すべき部分が見つかりました!……ありがたいことです。
教室の翌日、筋肉痛に泣きながら肩甲骨に施術をすると、すぐさま
(背中から肋骨にかけての)筋肉痛が和らぎました。筋緊張がゆるみ、血行が良くなった証拠です。
両腕を動かしてみると、教室で動いたときよりずっと、両腕のつながる感覚がはっきりしています。両肩の位置も左右が揃ったように感じます。
まだ少し、鋭い筋肉痛が残っているので、もうちょっと施術できるかなあ、と楽しみにしています。
090116 「今の自分」という基準
新年2回目の教室は、私にとって、「両腕の感覚をつなぐこと」+「
(感覚をつないだ)両腕と全身を、協調して動かすこと」が課題でした。ピアノにたとえると、前回は右手だけ練習、今回は両手で練習といったところでしょうか。
教室に行くまでは「整体もうまくいったし、今日はちょっとマシなんじゃないのっ」と気を良くしていました。が、こまかい練習が始まるとすぐ「あれあれあれ??」となり、終わる頃には結局、両腕ができていないのか、全身との協調ができていないのか、その両方なのか、さっぱり分からなくなっていました。
整体をし太極拳をしていると、
人間の身体には「今の自分」という基準しかないのだなあ、とつくづく思い知らされます。
頭痛がひどいときに「頭痛がないときの私」の晴れ晴れした感じは実感できないし、頭痛がないときに「頭痛に悩む私」の鬱々した気分は体感できません。さらに言うなら、頭痛がないときの状態を、わざわざ頭痛があったときと比べて「いまは晴れ晴れしている」と改めてありがたがることはありません。痛くないのが当たり前、と、痛かったときのことなどさっぱり忘れています。
それと同じで、骨折する前と完治した後とで、あるいは整体を受ける前と受けた後とで、身体の動きがどう変わったかも実感し続けることはできません。変化
した瞬間に「あ、変わった」と感じても、その後1日もすれば、変化した新しい状態が当たり前になります。そしてもはや以前の状態がどんなだっ
たかは思い出せなくなっています。
これは考えてみるとすごいことで、調子が良くなった場合でも悪くなった場合でも関係なく、
身体は「今の状態」のみを把握し、またその状態に応じて全身の筋肉・神経・血流等を管理していることを意味します。
客観的に、「以前の身体の状態」と「今の身体の状態」とを比較する場合には
、特定の動作を目安にして、それが「できるか/できないか」で判断する必要があります。
私の場合、目安にしている動きはいくつかあります。そのうちのいくつかは、整体をすることで確かに改善しています。けれど「全体的にはどうなんだろう
?」と考えると、よく分からないままです。
どうやら私の課題は、まだしばらく持ち越しのようです。
090122 動きを観察する
昨日も太極拳教室でした。いつものように入室して準備体操やらなにやらを済ませて先生と対面した瞬間、先生から「やせた?」と聞かれちゃいました。そして、「なんかシュッとしてるよ」と。
内心ニマニマしながら私が「やせたんじゃないです、首が伸びたんです」と答えると、すかさず「首が伸びたということはここが伸びたということよ。首だけが伸びるんじゃないから」と背中の中ほど
(いわゆる肩引き。肩甲骨の間です)を指されました。
説明すると長くなるのでその場では言いませんでしたが、こっそり私は「鋭いな〜っ」とわくわくしていました。というのも先週から昨日までのあいだに私は、肋骨と胸骨
(要は胸の谷間ですね)にちょこちょこちょこちょこと、かなりたくさん施術をしていたからです。
胸がゆるむと背骨がゆるみ、背骨がゆるむと首が伸びます。つまり先生の指摘は、そのままズバリだったわけです。
何も言っていないのに「すぱっ!」と見透かされてしまうのは、とっても気持ちのいいものです。が、太極拳の先生の観察眼に感動したのはこれが初めてではありません。
太極拳を習い始めて2年目くらいの頃です。
当時の教室で、私は後輩に当たるオニイサンから「僕の動き、どこが悪いんでしょう?」と聞かれました。私はちょっと見て、「手が伸びてないから動きが小さいのかなあ?」とかなんとか言ってました。ああかしら、いやいやこうでしょうと2人でゴチャゴチャしていると、そこへ先生が来られて、見るなり「もうちょっと足をこうしてごらん」と一見なんの問題もない足の位置をほんのちょこっとずらされました。
意外な指摘に私は、「え。足、かなあ?」と半信半疑。ですが足の位置を少し変えた途端、それまで伸びなかった手が自然に伸びてきたのです
(!)。
一部が変われば全体が変わる――整体をしていると、この変化はとってもよく分かります。
足の小趾
(こゆび)に施術するだけで全身のバランスがガラッと変わったり、肘の状態を改善するだけで顔色や頭の位置がスカッと良くなったり。そんなことはちっとも珍しくありません。
整体屋として日々、一部と全体のつながりを目の当たりにしながら私は、ともすると人間の身体を構造的に捉え過ぎます。骨があって筋肉があって、こことここがこうつながって……と直線的に理解してしまうのです。
けれど太極拳の先生は違います。
動いているナマの身体を見て、その「ぱっと見た感じ」だけで動きの全体を捉えられます。
その鮮やかな観察(感覚?)を目の当たりにすると、
(指摘を受けたのが自分じゃなくても)ものすごく得をした気分になります。
そんなわけで昨日は、とてもいい気分でした。
そして予想通り今朝は、ふとももと背中がずっしり筋肉痛でした……。
090201 整体に失敗する
前回の太極拳教室の課題は、手足の関節で円を描く、言い換えると、手足の関節をまるく動かすでした。
動かしたのは両手首、両肘、両肩、両膝、両股関節の合わせて10関節。このうち私が動かせなかったのが、右肩、左肘、両手首、右股関節の5関節。10の5、ちょうど半分が動かせなかったことになります。
ふつう、これだけ「動かせない関節」が多いと、
(整体的に考えて)いったい本当の原因はどこにあるのか見当をつけることも難しくなります。けれど幸い(?)私の場合は、極端なまでに右股関節が動きませんでした。
そこで帰宅後、右股関節に集中的に施術してみました。と、どんどん施術がはかどります。――それにすっかり気を良くして、いい加減なところで施術をやめてしまったのが、失敗でした。
その日の晩、急にのどの調子が悪くなりました。風邪の引き始めのような感じです。
整体を中途半端なところで切り上げてしまうと、こんなふうに突然、身体の調子を崩すことがあります。完全な、し損ないです。
「きっとそれだな」と自覚があったので、放っておくとどんな経緯をたどるのか、全身の様子をうかがうことにしました。すると、今日になって右の鼠径部
(そけいぶ。股関節の前側です)にそれらしき反応が出てきました。
ゴソゴソ施術をし、ピタッと手応えがあった後、咽喉のイガイガがフッと軽くなりました。これで今晩早く寝れば、風邪もきっと良くなるでしょう。
やれやれ、ひどい目に遭いました
(……といっても自分のせいですが)。
090205 動きのリズム
また今回の教室でも、おもしろい発見ができました。
これまで私は、ある一連の動きを「ちゃっ、ちゃっ、ちゃっ」と3手順で理解していました。が、実はこれは3手順の動作ではなく、「ちゃ
ちゃちゃちゃ
ちゃちゃっ」の6手順動作だったようです。
3手順が6手順になると、同じ動きをするのでも、これまでは意識していなかった“隙間の動き”を明確に意識するようになります。そして隙間を意識するようになると、動き全体への「意識の密度」のようなものがより均一になって、流れが細やかになります。
同じ動作をするのでも、「3手順をゆっくりする」のと「6手順をふつうの速さでする」のとでは、動いている感じがまったく違います。なんだかとても新鮮でした。
これまでも、練習中に何度か「動きが速すぎる」と指摘されていましたが、ようやく謎が解けました。
動きが速くなる理由のひとつは、イラチ
(大阪風せっかち)だからというだけじゃなくて、私の動作イメージがずいぶん大雑把過ぎたから、だったのですね!
これにまた、私の最大の問題点「足が使えていないから」という理由が加わるのは、重々、自覚していますが。