のぞみ整体院
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整体・身体観 8

100723 施術の説明は難しい……。

 私がまだカイロプラクティックの学生だった頃、複数の先生から、「施術内容を説明することがどれッッだけ難しいか!」を忠告されました。
 先生方からその難しさへの覚悟を迫られる度に、「えー、そんなん、施術の方が難しいでしょう、だって説明は言葉ですれば良いけれど、施術には腕が要るんですよー」なんて能天気な答えを返していました。

 が。浅はかでした、私。
 いま、説明の難しさに泣き暮れ泣き明かしてみて改めて、言葉で考えを伝えることの、そしてそれを実感してもらうことの難儀さを痛感しています。

 もともと、カイロプラクティックや整体は、1回で完結する種類の療法ではありません。ある程度の回数を重ね、段階的に身体を立て直すことで症状および体質を改善しようと考えます。
 つまりはっきりした効果はしばらく後に現れ、けれどそれ以前に説明は、ある程度終了しておく必要がある、とそういう状況になるわけです、必然的に、第1回目の施術後に。

 仕事を始めた初期の頃は、まだそれでも説明はできました。肩がこるというお客さんには肩の周囲に、腰が痛いというお客さんには腰や足の周囲に施術をする、といった具合で、比較的、関連性も理解していただけやすかったからです。
 それがややこしくなり始めたのは、5年ほど前、何をどうがんばっても改善できなかったお客さんの、「左足が痛い原因は、痛くない右足にあるのだ!」と気付いた瞬間からです。ここから私の、整体的至福と説明的大苦労が始まることになりました。




 現在ではその方式がより一層洗練(?)されて、「ヒトの身体は全身、どこもかしこも、ひとつながりなんだなあ……」の境地に達しています。

 これは気付いてみれば当たり前のことです。
 骨は、隣の骨と関節していてひとつひとつが独立しているわけではないし、筋肉は、2つ以上の骨をつないで初めて居場所が安定します。血管や神経は身体のなかを川のように走り流れ、皮膚に至っては全身を一枚で包んでいます。

 構造的にもはっきりした境界があるわけではないし、はたらきとなるとそれ以上に境界線を引くことはできません。すい臓でつくられたホルモンが全身の細胞で作用したり、脳に出入りする神経が内臓や筋肉を動かしたり感覚情報を処理したり、腕の筋肉と足の筋肉が背骨を軸に使って共同してはたらいたりと、身体の自然な動き・はたらきは常に協調的分業制で、したがって常に全身的なのです!
 ひとくちに腰が痛いといっても、ここからここまでが腰で、問題はこの範囲だけにある、と区分することなんて、到底できません。いきおい、どんな症状も、全身の問題として考えることになります。




 先日、初めて来られたお客さんに整体をしていて、「これはいったいどういうしくみの整体なの?」と聞かれました。「肩のこり」が悩みのお客さんの、おなかに施術をしていたときのことです。
 お尋ねの様子から少し踏み込んだ説明をし、「何となく分かります……?」とお聞きすると、「言いたいことは分かるけどピンとは来ないなあ」とのお答え。

 この「ピンと来ない」感じ、というのはとても言いえて妙です。
 そうですよねぇ、ピンとは来ませんよねぇ。私だってそうなんです、実は。――と、力いっぱい同意します。

 身体のしくみをああだこうだ言っている私も、自分自身の身体の状態とか不調の原因にはピンと来ることはできません。他人様の身体を外から見て、整体屋として判断するからこそあれこれ推測できるだけのことで、自分自身の身体は、どれだけ考えても観察しても、ちっとも理解できません。
 これは、観察力の有無とか努力とかの問題ではなく、「身体」と「意識」の間にある一種の“距離”の問題です。




 生き物としてのヒトには、「私(という意識)に自覚できることと、自覚できないこと」というのがはっきりあります。

 「目玉に入った映像は、上下が逆さまになっている」。この事実を知り、確かにそれが真実だったとしても、私に自覚することはできません。逆さまになった映像を、私の意識は感覚できないからです。

 また、腕の曲げ伸ばしをするときに「いまは〇〇筋だけを使って腕を曲げよう」と、はたらく筋肉の種類に注文をつけることも出来ません。筋肉のことを勉強すれば「こう動かすと〇〇筋が、別の動かし方をすると△△筋が特によくはたらく」と理解することはできますし、その知識を利用して、「より〇〇筋をはたらかせるために、こう動かそう」と意図することはできます。
 けれど一足飛びに、「〇〇筋を縮めよう!」と意図することはできません。というか意図はできても(意図だけなら何だってできます)意図通りに動いているかどうかを正確に確認することはできません。私の意識は、個々の筋肉の状態をつぶさに感覚できないからです。

 身体の不調もそれと同じです。
 「左足が痛い」ことは自覚できても、「痛くない右足が抱えている問題」を自覚することはできません。その問題をかばうために右足の動きがどう変化したか、左足にどんな負担がかかっているかも、自覚することはできません。
 ですから、「正しい歩き方に戻そう、変にかばって歩くのはやめよう」と意図しても、その意図が、筋肉のはたらきをどう変化させたのかも自覚はできないのです。




 では、自覚できないから問題は無いのか、というとそうではないのがややこしいところです。
 そしてまた、自覚できている部分だけが問題なのか、というとそれも違うと私は理解しています。
 ヒトは、身体にできた不調を「問題があるかないか」ではなく「痛いか痛くないか」「動くか動かないか」で自覚します。けれど身体の状態を根本から立て直すには、「痛いところ」「動かないところ」ではなく「問題のあるところ」に施術することが肝腎だ――と私は信じて整体をしています。

 この方針が、間違っているとはこれっぽっちも思いません。が、これをどう説明すれば、美しく、分かりやすい、そして一瞬でストンと腑に落ちる、そんな劇的で奇跡のような言葉で表現できるのでしょうか……。これについてはもうずいぶん長く考え続けてはいますが、いまだにピッタリ来る説明を思いつけません。

 いつの日か。
 ピタッと決まるウルトラC級の説明をして、「なるほどッ、身体の状況が良く分かりましたッ!」と、初めて来られたお客さんから大いなる理解が得られる――そんな日が私にも来るのでしょうか。
 ……せめて一度くらいはそんな経験、してみたいんだけどなあ……と、じたばたもがきながら説明方法を模 索する、そんな今日この頃です(って、ずいぶん長い今日この頃ですが)


100729 足の裏の癒着

 偶然にも、2日続けて、別々の人の「右足の裏」に施術する機会がありました。

 普段の私は、足の裏に限らず、施術した「部位」に注目することはあまりありません。それが今回とくに偶然を感じたのは、足の裏に施術をしているときに、ふと、「足ツボに使う反射区と足の裏の施術には何か関係があるのですか」と訊かれたからです。

 反射区は、足の裏の特定の範囲に、特定の臓器や部位を関連させたものです。直接触れない臓器や部位に起こった不調を、足の裏の、関連の深いツボを刺激することで立て直そう、あるいは、足の裏のツボを探ることで、まだ表面化していない臓器や部位の不調を推測しよう――そんな使い方がなされます。
 簡単なものではお風呂屋さんの足ツボ板が、専門的にはタイだったか台湾だったかが本場だったような違ったような……。

 ――反射区についての私の知識は至って大雑把です。こんな私に、反射区と施術の関係を答えることは不可能です。なので、「は、反射区ですか……。すいません、私にはよく分かりません」と、さっさと白旗を揚げました。

 それが昨日のことでした。そしてまた今日、別の方の足の裏に私は施術しています。「お、奇遇だわ」と注目してしまうのも仕方のないことです(?)
 というわけで、ちょっとした比較検討をしてみました。




 1日目に来られた“前日氏”は50代の男性です。その日の主症状は、心臓付近のあるいは胃部の不快感。脈は、全体的に上ずったような弱い脈で、特に左手3ヶ所の脈が揃って、微かになっています(脈診では、左右の手首3ヶ所、合わせて6ヶ所の脈の打ち方を比較します)
 右足の裏の傷は、人差し趾(ゆび。足のゆびは、この漢字を使います)と中趾の付け根付近にあります。ちょうど、私が勝手に「肉球」と呼んでいる辺りです(何となくイメージできますでしょうか…)
 施術では、足の裏を特に集中的に立て直し、それに組合わせて人差し趾、中趾、背中などをみていきました。

 一方の“後日氏”です。こちらは60代の男性です。長く来ていただいている方ですが、一貫して足のしびれ、特に左足のしびれが主症状です。この日の脈診では、左手の1ヶ所(寸口)が極端に力のない打ち方になっていました。
 右足の裏の傷は、表面的には見えません。が、検査と手触りの様子からは、ちょうど土踏まずの部分に癒着があるように推察されます。
 施術では、土踏まずを中心とした足の裏と、足首の内側、踵の骨の周囲などをこまかくみていきました。

 施術直後に、状態の変化をお聞きすると、前日氏は、早くも施術途中から不快感が軽快してきたとのこと。後日氏の方は、口惜しいことに、状態が極めて複雑です。「うーん……、ちょっと軽くなっているかな」程度の変化で、明らかな軽快を自覚されるまでには至りませんでした。




 ざっとまとめると、こんな感じです。

 これだけ見ると、前日氏の足の裏と心/胃部不快感は関連が深そうです。一方、後日氏の足の裏と症状は、あるいは関連が浅いと言えるのかもしれません。
 ところが実は、少しだけ内情を明かしてしまうと、前日氏と後日氏とでは、傷の深さが全然違うのです。

 まったくの門外漢からしてみると、反射区ではこの深さ――皮膚、皮下脂肪、筋膜、筋……と層状に重なる“厚み”の概念は、どう扱っているのでしょう。気になります。
 あくまで皮膚における範囲として平面的に考えるのか、それとも症状の深刻さと厚みの関係、とかいうような関連が想定されているのか。

 中国医学で気の流れの道筋をあらわす「経絡(けいらく)」の場合は、「浅いところにある」という人と「浅いところから深いところまで(厚みが)ある」という人がいるようです。そしてその解釈に応じて、鍼を挿す深さも変化するようです。浅いと考える人は皮膚の表面で十分効くと言い、文献によると、深く挿す場合は臓器にまで達して鍼を挿す仕方もあるそうです。つまり、解釈・処置の仕方はいろいろにせよ、皮膚表面に引かれた線で表される経絡図には、厚みの概念があるわけです。

 反射区の場合は、どうなんでしょう? 図は、経絡と同じく皮膚表面に色分けで表されます。ここには、厚みの概念はあるのでしょうか? あるとしたら、その処置は手技の使い分けとかでされるのでしょうか?――なんだか気になってきました。

 ……仕方がないので、機会を見つけて近いうちに、調べてこようと思います(ついでに前日氏と後日氏の、反射区と症状の対応関係についても調べてきます)


100809 足の裏の癒着〜結果報告

 足裏の反射区(100729)の続報です。




 前述の、前日氏・後日氏から日を置いて、また“更に後日氏”が来られました。
 先のお2人とは別の方で、この方も、足の裏に傷があります(というか新たに見つかりました)

 “更に後日氏”は40代、男性。その日の主症状は腰のしんどさでしたが、自覚的にはずっと、足の長さが違うような気持ち悪さをお抱えです。その日の脈診では、左手の1ヶ所(尺中)の脈が弱く感じられました。
 傷は、左足裏の親指の付け根、これまた肉球と呼びたい辺りにできています。
 施術では、左足全体――足底、すね、おしり、ふとももの後ろ側を広範囲にみました。
 状態の変化をお聞きすると、両足の安定感が良くなった、ただしまだ完全ではない感じ、とのこと。

 これは、足の裏への施術としては、妥当な結果(そして適切な感覚・感想)かと思います。
 足の裏のように、体重のかかる部位への施術は1回で完結することはありません。立っているとき、歩いているとき、走っているとき、またそれぞれの持続時間やスピードによって、足にかかる重さが違ってくるからです。

 立っているだけなら耐えられるけれど歩くと具合が悪いとか、歩くだけなら良いけれど走ると症状が復活するとか、10分歩いても問題はないけど1時間歩くと痛くなるとか、足にかかる負担の大小によって症状の有無は変わってきます。そして、どの程度の負担でどの程度の問題が表面化するのかは、実際に負担をかけてみなければ分かりません。

 寝転んだ姿勢で施術をしていて、ときどき立ち上がってもらっては負担をかけてみる。そうしながら施術はしていますが、試しに立ち上がるのと終わってから立ち上がり、歩いたりかがんだりといった日常動作をするのとでは、いろいろ違ってきます。
 とりあえずこの日の“更に後日氏”には、「ふだんの生活でいろいろ動いてみて、問題が出てきた頃合を見計らってまた来てください」とお願いしました。




 さて。
 以上3名について、反射区と症状、施術内容との対応関係を調べてみました。
 数種類のリフレクソロジー、マッサージ関連の専門書に当たったところ、まったく同じではないものの、知りたかった部分に限ってはそれほど大きな違いは見受けられませんでした。
 前日氏の位置は肺、後日氏の位置は小腸・腎臓、“更に後日氏”の位置は心臓、とのこと。

 ……うーむ、私には関連が良く分からない。
 前日氏から肺の症状をうかがったことはないですし、後日氏、“更に後日氏”からも同様です。ただ、当然ながら私がお3方のすべてを知っているわけではないですし、ご本人もご自身の身体のすべてをご存知のわけではありません。何か、気付いていない関連があるのかもしれない――ことは完全否定はできません。
 が、そもそも私は反射区を使った施術をしていたわけではないですし、反射区で対応させたのは、「圧して痛いところ」ではなく「古傷のあるところ」なのでした。
 と、いうことは。――古傷の位置と反射区は、あんまり関係がなかった、かも、というのがこの場合のまっとうな結論かと思います。

 ちなみに、「反射区に深さの概念はあるのか?」という(私にとって)非常に興味深かった(はずの)疑問は、調べてくるのを忘れました。というか「反射区と古傷はあんまり関係がなさそうねえ……」と思った時点で、疑問そのものを忘れちゃってました。
 我ながらいいかげんなことですわ。


100810 緊張して、する施術。淡々と、する施術。

 1ヶ月ほど前から数回に渉り、がん患者のお客さんに施術させてもらいました。詳しい経緯は省きますが、現時点で、左首のリンパ節にがんがあり、整体に併行して抗がん剤治療を受けておられます。

 初めて施術した1ヶ月前には、2日間で5回という超高密度な頻度で施術しました。その後、約1ヶ月の空白期間があって、今月初め、1週間弱の間に3回みせてもらいました。

 それまで、「以前、がんでした」というお客さんはみたことがあったものの、「いま現在」という方は初めてです。
 当然、いろいろな意味で緊張しながら施術に臨むことになりました。

 初日の時間配分は、午前と午後の2時間ずつ、計4時間の滞在です。
 そのうち最初の1時間は、挨拶やら施術方法の説明やらこれまでの病気の経緯・現在の病院での治療内容などを伺うことに費やしました。正味の施術に使ったのは、締めて3時間。

 この3時間では、左首のがんの周囲に施術しました。
 がんのある左首は皮膚の張りも熱感も強く、その真っ只中に恐る恐る手を付けるといった感じで私の緊張は凄まじく、大抵の施術では疲れることのない私が本ッ当にへとへとになりました。最初から最後まで、検査結果に従って施術しているとは言え、「たかが3時間の施術でこんなに疲れるようでは、こっちの集中力がもたないなあ……」と、内心、大いに心配しました。
 この迫力というか集中力要求量の凄さこそががんという病気の怖さなのかもしれない、などと考えていました。

 ところが、翌日の午前2時間の施術では、状況が一転します。施術部位を決めるための検査をすると、その日に施術すべきは、がんのある左首ではなく右首(――正しく書くと、「首の左側ではなく右側」)となったのです。

 一般的な法則として、

「左手が痛い⇒施術は、右手の古傷に」。
「右足が痛い⇒施術は、左足の古傷に」。

というように、症状の、左右反対の部位に施術するというのが、私のお得意のパターンです。ですからこの方の場合も、がんのできた左首ではなく一見平穏な右首に施術する方が、「私の施術手順」としてはまっとうです。

 ああ良かった、いつもの手順で進められそうだわ。
 安心しながら施術を始めると、前日にはあれほど緊張していた私がウソのように、気持ちはゆったり平常心で感覚は寛ぎ、しかも淡々と、確実に施術が進みます。

 ――ああ、そうか。整体をするに当たっては、がんも、特別に考えて構える必要はないのだな。と、ちょっと悟りにも似た実感に浸りながら、その日の施術を終えました。




 その後、今月に入ってからの3回の施術でも、直接患部に施術することはほとんどなく、ときどきちょこっと近くをかすめてもまた周辺へ周辺へと施術範囲は広がります。
 この傾向はとても素敵なことで、どんな症状でも“全身”を相手にする東洋医学の理に適っています。意識の焦点は症状に置くけれど、作業の焦点は全身をさまよう、とでもいうような。

 全体としてみると、お客さんの顔色はずいぶん良くなり体調の悪化はなく、施術の手応えとしては予想以上の好感触だと言えます。が、このまま施術を進めるとなると、いずれ抗がん剤治療との兼合いがややこしくなりそう……そんな予感がします。
 そこで、そのことを説明した上でご本人の判断を仰ぎ、ひとまず整体は中断することになりました。




 今回の施術で整体屋としての私は、「がんのような大きな病気も、小さな不調と地続きだ」という貴重な感触を得ることができました。
 そしてもうひとつ、「施術しながら緊張してしまう整体には、警戒してかかれ」というのも、大事な教訓でした。整体は、頭ではなく身体でするもの。異常な緊張を伴う施術は、施術者である私の身体の拒否反応・警戒信号と思って間違いなさそうです。

 検査結果に従うからこそ、ときには緊張しながらしか施術できないかもしれない。そこからしか、施術が始められないかもしれない。けれどそれは、必ずしも“安全”な施術ではない、かもしれない。
 今回、平常心で淡々と施術して、淡々とお客さんの状態が変化していくのを目の当たりにしながら、「きっと、正しい軌道に乗った施術とは、私が緊張せずに平常心でできる施術なのだ」という思いを強くしました。


100821 がんを考える

 医者でも学者でもない、一介の整体屋に過ぎない私ですが、実は長いこと、漠然と「がんとはどんな“病気”なんだろう?」という不思議を考え続けてきました。
 2年前、ある本に出会ってようやく、「がんという病気は、もしかするとそういうことなのかもしれないなあ」という、私なりの理解が固まりました。そしてその理解があったからこそ、前項の方(100810)に施術させてほしいと願い、施術させていただき、私なりの手応えを感じつつも抗がん剤と併行した施術は避けた方が良さそうだと判断したのでした。

 がんについては、恐ろしいほどたくさんの情報があふれかえっています。なるほどと納得してしまうものからいかにも荒唐無稽なものまで、まさに玉石混交。
 そこで本項では、結論だけを書くのではなくそこに至るまでの過程も含めて、私の考えたこと・感じたことを書いておきたいと思います。きっと長くなりますが、これをきちんと書いておくことが、前項の方への私の義務でもあると考えました。ぼちぼちと、読んでもらえたら嬉しいなあと思います。




 そもそも最初に、具体的に、がんを不思議だと思い始めたきっかけは、専門学校の授業で聞いた次のような断片的な特徴でした。
  1. 日々、多数のがん細胞が身体のあちこちにできている。が、それらは逐時、免疫(=身体の防御にはたらくしくみ)により食べられている(らしい)
  2. がん細胞は、“完全に異常な細胞”というわけではない。その証拠に、免疫も、がん細胞を攻撃しないし、場合によってはリンパ節を素通りさせることもある(この結果、転移が起こります)
  3. がんのなかには、“自分専用”の血管を新たに作ってまで増殖するものがある。
  4. 正常細胞ががん化・増殖するには、数段階もの手続き(≒形質転換)を踏む必要がある。
 aを見ると、身体のあちこちでがん化する細胞を、免疫はこまめに食べていることが分かります。aの文末に小さく(らしい)と付けたのは、これが、免疫細胞の一種であるNK細胞の仕事だとかそうではないとか、当時は曖昧な部分も残っていたからです(今もでしょうか?)
 ところがbでは、ちょうどその逆のことが言われます。逐時食べられているはずのがん細胞が、あるときには見逃され、育ち、リンパ節を通り越えて転移するというのです。
 これは、不思議なことです。戸惑いながら私が思ったのは、  考え始めるといよいよ不思議になり、結局のところ――、

いったいぜんたい免疫は、がん細胞を食べるのか・食べないのか?
身体にとってがん細胞は、除くべき敵なのか・そうとも言えないのか?

 そして何より大事なこととして、

がん細胞ができていることを、身体は気付いているのか・いないのか?

 基本的なところに立ち返り、この一点で留まったまま、私の頭は混乱しました。

 そして混乱したままcの記述を見て、「がん専用の血管を新しく作る……。これはいくらなんでも、身体に無断ではできないんじゃないかなあ、血管を作る材料とか空間とかも要るわけだし。ということは身体はがん細胞に気付いているのかしら。……ところでなんでもっと簡単に、既にある血管に寄生しないんだろうか?」と謎が深まり――。
 またdを見ても、「数段階にも及ぶ手続きの間、身体がまったくそのことに気付いていないなんて不自然なんじゃないかなあ」と不満を覚え――。
 どうも、すんなり納得できませんでした。

 aはともかく、b〜dを見る限りの印象では、「“巧妙な悪事”をはたらくように、身体には極秘の状態でがん細胞は増殖している」というより、「身体も了解済みの“正式な事業”として、がん細胞は増殖している」と理解する方が素直なように思えてきます。
 そしてその仕方で考えるなら、がんには認可済みのものと未認可のものとがあって、「aの場合は、未認可な増殖だったからこそ、免疫が食べたのかも?」とも思えます。
 当時の私は、「がんは確かに病気なんだろうけど、ちょっと一筋縄では理解できないなあ……」。ぼんやりと、素朴な違和感を感じていました。




 時が経ち、その間もあれこれ文献にあたるうちに、近藤誠医師の『患者よ、がんと闘うな』(文藝春秋)に出会います。そこには、
  1. がん細胞の成長期間と大きさの関係を調べると、「際限なく急激に増殖を続ける」というより、「できてしばらくの間は急速に分裂・増殖するが、一定の大きさになると成長はゆるやかになっていく」可能性が高い。
  2. 手の施しようがない、と、医師から余命を宣告されながら、その余命よりも長く、元気に生きているがん患者が少なからずおられる。
  3. 胃がんの患者で、目立った苦痛はなく、徐々に食欲が減り、元気がなくなり、最後は眠るように亡くなった方がおられる。かつての老衰には、見逃された胃がん患者が多く含まれるのではないか。
  4. ↑この例でみるように、がんは本来、(骨や肝臓に転移したがんなどを除いては)苦痛の少ないものなのではないか。
といったことが書かれてあり、ますます私のなかでは、「がん細胞=悪者」という見方が揺らいできます。
 そしてまた、(専門書、エッセイ等々)複数の本からは、
  1. 何らかのきっかけでがんが消えたり小さくなったりすることがある。
という報告があることを知ります。




 ところで。
 a〜iは、ヒトのがんに限った話でした。それが2年前、ヒト以外のがんを扱った極めて興味深い本に私は出会います。それが、岡田節人(ときんど)先生の『がん細胞―その奇妙なふるまい―』(東京大学出版会 1979)でした。
 医学ではなく生物学に分類されるこの本では、取り上げられるのは、主に、カエルとかイモリ、植物などにできるがんです。これらヒト以外の生物にできるがんは、失われた身体の「再生」と大きく関係しています。

 大まかに言うと、細胞にはそれぞれはっきりした“顔つき”があります。
 この顔つきを決めるのは、神経細胞なら神経細胞の、皮膚細胞なら皮膚細胞の、それぞれのはたらきに応じた形や性質です。ですから、はたらきの定まった細胞にはそれなりの顔つきがあり、一方、はたらきがまだはっきりしない細胞には、顔つきもまだ、はっきり表れていないことになります。
 この、顔つきが決まっていることを「分化」した状態、まだ顔つきが決まっていないことを「未分化」な状態と言います。

 さて、再生には、二段階があります。
 まず最初の段階では、顔つきのはっきりしない細胞(=未分化細胞)を急速に増やします。そして、ある程度まで未分化細胞の数が増やせたら、今度はそれに、“顔”をつけていきます(=分化)
 通常、分化が完了した細胞は分裂しなくなるので、急激な細胞増殖はやがて収まり、再生の手順が終了します。

 岡田先生のご本では、急激に増殖する未分化細胞を便宜上、がん細胞とみなしています(自然界に見られる腫瘍も扱っているので、なかには「良性」か「悪性」か判断しにくい未分化細胞塊も含まれています)。その上で、イモリやカエル、植物、ラット、ヒトなどの腫瘍について考察を重ねていきます。
 その結果、「未分化な状態のがん細胞を正しく分化させることが、がんという病気の消失につながるのではないか」「増殖した未分化細胞が適切に分化できないことが、がんという病気の本体なのではないか」と考えをまとめながら、最終的には、「全身とがん細胞との相互作用」に注目していかれます。

 私がこの本を初めて読んだのは2年前ですが、実際に書かれたのは1979年です。昨今の科学進歩の速さから考えると、もはや古典に近い本なのかもしれません。したがって、現在の“科学的・医学的常識”と本の記述との間にどれほどの相違があるのかないのかは私には分かりません。
 けれど、この本に書かれてある内容に、私は大いに納得させられました。




正常な細胞には、それぞれきちんと“顔”がある。
新しく作られた未分化細胞には明確な“顔”はまだないが、しかしやがて“顔”は作られ、正常な細胞へと分化する。

 これが正しいしくみなら、「“顔”がない」ことの問題は、“顔”が「ない」ことではなく“顔”が「作れない」ことにあるはずです。がん細胞で言い直せば、がんという病気のもつ問題は「がん細胞」それ自体にあるのではなく、がん細胞の「分化をコントロールできなくなった」ことにある――と言えるはずです。

 切っても切っても生えてくるしっぽを当たり前に持つトカゲと違って、ヒトには(特に成長したヒトには)、「再生」は身近ではありません。よく言われる「皮膚の再生」についても、厳密に言えば「再生」と呼べないものが多数含まれています(火傷の痕のケロイドとか切傷の痕にできる瘢痕組織などは、「再生」というより「応急処置」です)
 けれど。
 もしもヒトでも、外からは見えない身体の中では割に頻繁に「再生」がおこなわれているとしたら――。傷ついた臓器や組織の増殖・分化が、特に珍しくもなくおこなわれているのだとしたら――。
 ひょっとすると、未分化細胞の塊=がん細胞が見つかること自体は、それほど驚くことではないのかもしれません。
 そしてもしそうであるなら、大事なのは、新しく作った細胞を分化させ、周囲の細胞がそれを受け入れるに至るかどうかに懸かっている、と言えそうです。

 分化と、受け入れ。これが重要であるなら、ひょっとすると直接がん細胞に照準を合わせなくても、がんという病気に対処することができるんではないだろうか。全身の状態を立て直していくことが、分化のコントロールの改善につながるんではないだろうか。
 そんなように考え、私は整体に期待しています。


100827 背骨の形、肩甲骨の動き。

 前回の太極拳教室では、「肩甲骨を自由に動かそう」というのが課題(?)でした。またまた私の苦手動作です。

 そもそも太極拳に限らず中国古来の身体観では、肩甲骨までが、「腕」(「手」?)に含まれます。西洋の身体観が、「肩関節までが腕、その根元にある肩甲骨は“胴体と腕をつなぐもの”」と位置づけるのに比べると、中国式の腕は、範囲が長くなります。
 ですから当然、中国武術である太極拳を教わっていて「腕の動きはこう」と言われたときには、西洋式の短い腕ではなく、肩甲骨までを含めた長い腕を意識しなければなりません。

 が、これがなかなか難しい。もちろん私はできていません。
 なんせ私の肩甲骨は、見事なまでに動きません。肋骨にびたっと貼り付いたまま、動く気配すら見せません。ただ普段の生活ではそれで困ることもないので、日頃は、肩甲骨が動いていないことを気にもしていません。

 ところが今回、自由に動く先生の肩甲骨を見ながら、「はあー、肩甲骨ってばホントはよく動くのねえ」と、改めて感心しました。そして動かぬ我が肩甲骨を振り返り、「これではイカン!」と思い立った次第です。我ながら、素直というか単純というか……。ハイハイ教室の翌日いきなりハイハイに目覚める赤ちゃんの気分です。

 そんなわけで今回は、「身体を立て直して、肩甲骨の自由な動きを取り戻そう!」を整体の課題としました。




 まずは、どこを立て直せば肩甲骨に影響するかを調べます。
 静かに意識を集中し、肩甲骨を動かそう動かそうとひたすら努力。ただしこの段階ではまだ何の施術もしていないので、どれだけがんばっても肩甲骨は動きません。また、実際に動くことを期待もしていません。言ってみれば、超能力もないのに念力の練習を始めるような心積もりです。

 とにかく一生懸命「動かそう」とすることで、「動かしたいけれど動かせない部分がある」ことを身体に認識させるのがここでの目的です。整体をするには(特にいまの私のように目立った症状のない身体に整体をするには)、この手続きが不可欠になります。
 「全身が問題なくはたらけている」つもりの身体と脳に、「ここは動かせませんよ」と訴えかけて、気付かせる。そしてその気付きをきっかけにして、検査を展開させていきます。




 結局、問題は骨盤から見つかりました。
 なかでも、おしりの真ん中にある骨(仙骨)に貼り付いている「腱」に問題があるようです。

 一般に、仙骨に貼り付く「腱」の多くは、「背骨を支える筋肉」と「仙骨」をつないでいます。
 「背骨を支える筋肉」の多くは、いわゆる姿勢筋。背すじの安定にはたらく筋肉です。
 とするとここの問題を立て直すことで、私の長年の悩みの種(って特に悩んでもないけど)、極端な猫背が解決するかもしれない……? 軽く期待しながら、とりあえずぽちぽち、施術を始めました。

 が、正直言って、仙骨の施術を自分でするのはかなり面倒な作業です。猫背だからこそ腕は後ろに回りにくく、かといって腕を後ろに回さなければ仙骨に施術はできない。
 これまで、お客さんはともかく自分の背中の施術がなかなかはかどらなかったのは、ひとえに腕を後ろに回すことのしんどさゆえです。すぐに、だるくなって億劫になって邪魔臭くなって嫌になる。「ああ、もう、またにするか」と、何度投げ出したことか。

 ですが、今回は良い感じです。ぶつぶつぼやきながら施術を始めましたが、ほどなくして、腕のだるさが気にならなくなってきました。「お、お、良いんじゃないの」と上機嫌が拍車をかけて、作業もそれなりに進みます。

 仙骨に貼り付いた腱から始まって、背骨に及び、いよいよ「背中と腕をつなぐ筋肉(広背筋)」にまで施術ができました。広背筋は、長いあいだ気になりながらも、なかなかうまく立て直せなかった筋肉です。これが施術できただけでも十分嬉しい。
 一連の施術にかかるうち、尾骨がすんなり伸び下がり、肩甲骨の位置が正常な場所に近付き、本来の目的であった肩甲骨の動きも良くなっているように感じます。また、こっている自覚はなかったものの、肩首がすっきりと軽くなりました。

 かなり不承不承始めた骨盤・背中の施術でしたが、結果だけ見れば期待以上。おもしろい整体になりました。


100921 筋断裂とストレッチ

 「3年程前に物をぶつけ、太ももの筋肉をひどく断裂した」という方が来られました。初めて来られたのは8月の初め。9月中旬の現時点で、7回施術させてもらいました。

 まだしばらく立て直しには時間が掛かるでしょうが、この方が初めて来院されたとき、開口一番に言われたことがどうにも引っかかっているので、それを書きたいと思います。




 おっしゃられたことというのは、「ケガの後リハビリをしたけれど、すればするほど動かなくなっていく感じがしたので途中でやめた」というものです。

 実は、こういった話を聞くのは、初めてではありません。
 上半身のケガとか五十肩の方とかから聞いたこともありますが、深刻に話されるのは大抵、下半身のケガに関連してです。

 「このまま歩けなくなったら困る」という危機感は、手先が使いにくくなることよりもきっと想像しやすいのでしょう。この方も必死で、勧められるままにストレッチや運動療法(主にウォーキング)をしばらく続け、にも関わらず日に日に動きの悪くなる膝を見て、ストレッチを中止したとのことです(ウォーキングというか散歩はまだ、ときどき続けていらっしゃいます)

 「ケガをしたときはびっくりしたけれど幸い骨には異常がなくて、真面目にリハビリを続けてさえいれば、いずれは元通りになると思っていたのに」と口惜しそうにおっしゃる姿を見ながら、私は複雑な気分になりました。
 ここには、2つの大きな誤解があると私には思われるからです。




 1つ目の誤解は、ケガをした身体がいずれ元通りになる、ということ。
 これは、残念ながら、なりません。
 どれだけきれいに傷が消えたとしても、「ケガが治る」=「ケガがなかったことになる」ではありません。

 たとえば、一度破いた紙をどれだけきれいにつなぎ合わせても、継ぎ目はうっすら残ります。
 あるいは、へこんだ車のボンネットを裏から叩いてどれだけきれいにならしても、どこかに金属的なひずみは残ってしまいます。
 それと同じで、一度ケガをした身体も、ケガをしていなかったときと同じに、完全に元通りに復元するわけではありません。

 これは些細なようでいて、実はとても大事なことです。
 ケガをした後の身体は、いくら傷痕が見えなくても、また痛みやつっぱり感が感じられなくても、明らかに以前の丈夫さとは異なっています。
 ひとつながりだった皮膚、皮下脂肪、筋線維、血管、骨、……。それらが一度断ち切られれば、いくら手術できれいにつなぎ直そうと自然治癒で治ろうと、以前に比べて確実に“弱く”なっている。もう、以前と同じ無理は、利かないかも知れない――。
 そんな覚悟を少し持つだけでも身体の使い方は慎重になり、今後起こるかもしれない病気・ケガへの危険を減らせるはずです。




 2つ目の誤解は、これはあくまで私の考えですが、ケガによってはリハビリが逆効果になる場合もある、ということです。
 これは、「したケガの種類」「リハビリの内容・量」などにも依るので一概には言えません。ただ、筋断裂部分へのストレッチは、考える限り「してはいけない」部類に入ると言えます。

 ストレッチは、言うなれば、束にしたゴムひもの両端を持って、ゆっくり引き伸ばす作業です。
 ゴムひも(=筋線維)が丈夫であればそう簡単には千切れませんし、うまくすれば、ちょっと血行も良くなって気持ち良かったりもします。
 ですがそれは、筋線維が丈夫であれば、のことです。
 筋線維が切れているあるいは切れかけている状況でむやみにストレッチをすれば、起こるのは、全然別のこと。つまり傷口(=筋の断裂部分)を開くことにつながりかねないのです。

 先述の、新しく来られたお客さんの場合がそうでした。
 触ってみると、筋肉部分の凸凹は激しく、切れた線維が多数、しかも広範囲に渉っていることが分かります。
 また、所々“だま”のような固まりに触れるので、どうやら切れたはずみで線維が縮こまり、断裂面どうしが大きく隔たっているらしいことも分かります。

 こんな状況でストレッチをすれば、切れた筋線維の断裂面どうしはどんどん遠ざかることになります。そしてこの危険を阻止するために物言わぬ身体にできることといえば、全身の筋肉を緊張させて、ストレッチに抵抗することくらいです。
 お客さんが、「ストレッチをして身体が固くなった」と感じたのはこの抵抗のためであり、その時点でストレッチを投げ出してくれたことに私は心からほっとしました。


101009 呼吸と全身

 6月の初め頃になりますが、太極拳教室で先生から呼吸の仕方に注意を受けました。いわく、「もっと頭のてっぺんで呼吸するように」。

 ――「頭のてっぺんで呼吸する」。
 もひとつついでに言うと、「足の踵で呼吸する」。

 ヒトの身体構造ではどちらもありえない話ですが、これらは確か仙人の呼吸法――と、いつか何かで読んだような。
 「はあー、話に聞いたことはあったけれど、まさか私が『してみろ』と言われるとはなあ……」。なんとも言えない感慨におそわれぼんやり思考停止してしまい、その場で具体的な“練習方法”を聞く機転がはたらきませんでした。
 で、仕方がないので例によって、勝手な自主練習を始めることにしました。




 言うまでもなく私の鼻の穴は、顔の真ん中にあります。したがって実際に頭のてっぺんで呼吸するのは無理です。そこでとりあえず、吸った息を頭のてっぺんに巡らせるよう、イメージしながらゆっくり呼吸してみます。すると、頭全体にすがすがしい感じがあると同時に、くっと姿勢が伸びます。
 その瞬間、「ああ、なるほど。練習中、頭が前に倒れる癖への注意だったのだな」と自分なりに納得しました。

 ところがそうしてしばらく“てっぺん呼吸”を続けていると、ふと、肋骨というか鎖骨というか、胸の上側がぴくりとも動かないことに気付きました。平生の軽い呼吸ならともかく、これだけゆっくりした深い呼吸をしていて骨が少しも動かないのは不自然です。
 ははーん、肋骨か鎖骨に問題があるのだな。
 そう了解して施術を始めてみると、ぴたり的中、鎖骨に沿った深い部分(ということは肋骨?)から問題がざらざら見つかります。

 ごそごそ施術して、一段落したら“てっぺん呼吸”。
 それから施術を再開すると、今度は、より肩関節に近い部分から問題発覚。
 一段落してもう一度“てっぺん呼吸”をしてみると、今度は肋骨の横側から問題が見つかります。

 呼吸をしたり整体したり、太極拳を練習したり整体したり、……と適当に様子を見ながらその作業を繰り返します。至って漠然とした“呼吸”動作を丁寧にしているだけなのに、続々と芋づる式に問題部位が見つかります。
 おもしろいなあ、ここもこんなふうに悪いのかあ。お、ここはこうすれば立て直せるのかあ……なんて感心しながら施術するうちに時は経ち、最近になってようやく、一段落の目途が立ってきました。




 一連の施術を振り返ると、先生からの注意をきっかけに展開した施術としては、最長の“シリーズ”だったかもしれません。
 結局、鎖骨、肋骨、おなか、内臓(?)、骨盤、股関節、膝関節、腕、肘関節、手の小指、首、あご、のど、……。ほぼ右半身全体にわたる筋肉、関節、靭帯、皮膚への施術が繰り広げられました。4ヶ月かけての大仕事です(と言っても4ヶ月間、毎日施術したわけではないですが)

 これだけたくさんの施術が、すべて呼吸から派生したことは、改めて本当に驚きです。
 「筋骨格系のはたらきは、すべて、横隔膜(=筋肉)を起点にしている」――そう理解している私には、理屈でいえば当然すぎる結果です。ですが実際に、見事にばっちり足にまで連絡が及ぶのを目の当たりにすると、我が身体ながらちょっと感動してしまいました。

 そしてその感動ついでに、太極拳での変化も述べておきたいところですが、実は自分ではあまりよく分かっていません。
 身体の横側の懐が、以前に比べて広くなったような気が……とか。
 下半身の安定が良くなったような気が……とか。
 練習中、手先の感覚が以前よりは鋭くなったような気が……とか。
 こまかい“感じの変化”はいろいろありますが、どれもみんな、なんとなくそんな気がするだけ。
 整体屋としてはこの「主観の変化」が何より大切なのですが、報告のために必要な「客観的な変化」は私自身には分かりません。ですから実際のところ、“施術の効果”と言えるほど説得力のある変化はよく分かりません。

 ここ一週間ほどで施術の腕前が明らかに上がったことを考えると、きっと、変化していることだけは確かです。とりあえずもう少し様子を見て、先生から「頭を起こして」と注意されずに済むかどうか(=客観的評価)を確認の目安にしたいと思います。


101012 丹田とマイケル・ジャクソン

 5、6年ほど前のことになります。
 「丹田の高さは人によってばらばら」という話を、太極拳の1人目の先生からお聞きしました。
 見つけ方は、肩幅に足を開いて楽に立ち、そのままずうっと後ろに身体を引いていって、倒れそうになる瞬間に力の集まっているところを探す。それが、その人の丹田の位置なのだとか。

 その話を聞いて私は、何かの本で読んだ「上丹田」「中丹田」「下丹田」の区別を思い出していました。
 これもきっと、人によって丹田の高さはまちまち、ということを言っているんだろうな。でも分からないのは、「そんな高い位置にある丹田をどんな風に使うのか?」ということです。

 太極拳に限らず大抵の武術を想像すると、重心を下げておくことが要求されても、上げておくことが要求される状況はなさそうに思われます。そしてそうであれば、下丹田を鍛錬することは理解できても、上丹田を鍛錬する、あるいはそれ以前にわざわざ「上丹田」と名前を付けてそんな丹田を“設定”する意味が分かりません。
 “上にある”丹田ではなく正しい位置より“上過ぎる”、間違った丹田。今後鍛錬して下げていくべき丹田。ただそれだけのことであって、正しい丹田に上とか下とかいった種類はないのではなかろうか?――そんなことを、考えていました。




 この疑問を、先日ようやく解消してくれたのが、かのマイケル・ジャクソンでした。
 「集団で踊っていても一人だけ目立つ」と言われる理由が知りたくて、ビデオを見ていたときのことです。体側に身体をひょいと倒して「く」の字というか「S」字というかを描く動きで、一人だけ姿勢が起きていることに気付きました。
 どうやら、マイケルだけ折れ曲がり位置が高いようなのです。

 そう思って見ていると、踊っている間中ずっと、マイケルのみぞおちは動きません。他の大多数の人たちが腰を動かさずに踊っているのに比べると、おもしろい違いです。
 身体の軸を、腰(へその高さ)に作るか、みぞおちの高さに作るか。この違いがはっきり動きに現れるのに気付いたとき、「ああ、もしかしたらこれが上丹田の使い方なのかもしれないなあ」と、妙に納得してしまいました。




 下丹田の高さには、股関節と背骨をつなぐ強大な筋肉「大腰筋」があります。
 それに対して上丹田の高さには、肋骨と背骨をつなぎ呼吸をつかさどる筋肉「横隔膜」があります。

 昔の日本は、足腰に頼る生活が当たり前です。移動も人力、引越しも人力、運搬も人力。否応なく足腰が鍛えられます。
 重心はどんどん下に下がり安定を求め、そうして鍛えられた身体が作り上げる文化・武術・芸術は必然的に下丹田重視の技術になります。

 日本で一般的に「丹田といえば肚・下腹」とみなされるのは、この生活文化のせいなのかもしれません。
 では、上丹田中心の生活形態とは――?
 足腰を、それほど使わない生活……? と考えていて思い至ったのが騎馬民族、狩猟民族の生活です。全体重を足裏だけでは支えない、かなりの部分をおしりで支えつつ上半身は立てておかなければならない文化です。どしっとその場に留まる足腰の強さだけでは、乗馬も狩りもできなさそうです。

 と、そこまで考えて、またまた妙に納得が行きました。
 中国は、民族構成が多様です。騎馬民族だって、もちろんいます。
 武術とか医学の分野で交流していれば、丹田の位置がばらばらなのには気付くでしょうし、しかもそのばらばらさに単純な“優劣”が付けられないことも分かる。それで、上・中・下の区別を付けるようになったのかもしれません。




 思いつきから始まった妄想が暴走し、もしもそうならおもしろいなあ、と勝手に調子付いてきました。

 農耕文化=下丹田、狩猟文化=上丹田という身体文化の傾向がもしもあるのなら――

・ 現代日本の身体文化はいったい何になるのか?
・ 位置の個人差は、現代日本の生活が多様であることを反映しているのか? あるいは多様さとは無関係に、生活が同じでも個人差があるのが普通なのか?
・ 鍛え方によって、丹田の位置は変化させることができるのか?
・ また、そのための鍛え方とはどんななのか?

 答えを出す気も、また簡単に出せるとも思っていませんが、興味深い疑問です。

 下丹田をてこに使うのが武術の文化だとすると。
 上丹田をてこに使う文化は馬+弓……?
 とするとひょっとしてマイケルは、武術をするより流鏑馬をした方が様になったのかも……?? 流鏑馬にいそしむマイケル・ジャクソン。――なんだか、見たいような見たくないような。


101022 のどの風邪を引く

 夜中の咳に始まり、ここ2日ほど、のどの調子が良くありません。
 左鼻の奥の方がなんだかスカスカするようで、少しひりつく感じがあります。

 風邪を引きかけているのか、あるいは久しぶりに編物なんか始めちゃったので古い毛糸のホコリ(!)でのどが荒れたのか。

 どちらにしても、中国医学は結果重視です。バイキンかホコリかの原因よりも、のどを傷めた結果を問題にするので話は楽です。
 要は、のどの“守り”が弱くなっているのだな、そこに何らかのきっかけがはたらいて症状が出たのだな、と理解すれば差し当たり施術はできます。




 ちょうど、お客さんでお2人、なんとしても大急ぎでのどの調子を立て直したい方がいらっしゃいます。
 ですから私がこのタイミングでのどを傷めるのは、実は願ったり叶ったり。自分を実験台に使って施術を検討することができます。

 と、いうことでのどの痛みが本格化しかけた1日目。
 お気に入りの風邪薬を飲んで、早くも毛布を引っ張り出して。
 暖かく眠る準備を万端整えた上で、痛むのどに集中的に施術をしました。

 風邪薬を飲むのは、「風邪のせい?」という疑いへの一応の予防線。
 毛布を被るのは、「冷えのせい?」という可能性を払拭するため。
 そしてのどだけに施術するのは、「痛むのどに施術した場合、のどの痛みはどう変化するか?」を改めて観察するためです。

 薬も毛布も使った上で、それでものどが痛くなったなら、「のどへの施術が悪かったから、かも」の確率は高くなるはずです(もちろんあくまで“確率”ですが)




 「痛みがある部位に施術する」ことは私にとってとても大切なことです。
 私の整体方法では、痛みのある部位に施術することはまずありません。
 経験的に、効果がないかあるいはむしろ逆効果であることを知っているからです。

 けれど、施術を受ける立場から見たとき、「痛い部位に触らない」整体が頼りなく思えることも知っています。

 のどであれば、「のどに施術した方が、早く楽になるんじゃないの?」。
 私の手順を理解していてくれているお客さんでも、たとえば2週間後に発表会で声を出す必要がある、とかいった場合には気持ちが焦ります。
 施術している私だって、もちろん焦ります。

 その結果、「理屈ではあれこれ言っているけど、本当はのどに施術した方が早いんじゃないの――?」。私にも、疑念というか不安というかが湧いてきます。
 このときに起こる視野狭窄――症状部位への施術の誘惑こそが、私には怖いのです。

 身体を全体で理解する中国医学において、症状部位への視野狭窄はまさに致命傷です。全身を見渡すバランス感覚がごちゃごちゃに狂ってしまい、分かるものまで分からなくなります。

 そんなとき、「ほらね、やっぱり私の方法では、痛む部位に施術してはダメなのだよ」と確認し、視野狭窄を抜け出す手立てがあれば、それは天の助けです。
 そしてこの場合は、自分の痛むのどに施術し、より痛みを悪化させることができれば、それが天の助けになるわけです。




 さて翌朝。見事にのどの痛みは悪化していました。
 薬も飲んだし冷えてもないし、なのにのどは昨日よりガラガラ。
 これは、のどへの施術が悪かったせい、と推測できそうです。

 のどの痛みにうんざりしながらも、ほおっと一安心。
 それを確認したら今度は、全身への施術です。
 ごそごそ調べてみると、腰の骨から問題が見つかりました。

 せっせと施術していると、のど首の辺りがほわっと温かく弛むのが分かります。
 全身の中でも関係の深い、腰とのど。早速影響が出たようです。
 おかげでガラガラは少し軽快、ただしときどき全身に熱感は感じるので、体温調節はまだうまくないようです。

 夜になって、みぞおちに少し施術し、薬は飲み忘れて毛布は被って寝ました。
 翌朝、風邪の感じはあるものの、ガラガラが悪化している気配はありません。
 ついでなので、これも、安心材料に含めておきます。




 その後、大急ぎでのどを立て直したかったお客さんのうちのお1人から、何とか無事、用の間に合ったとお聞きしました。
 もう1人の方は、用事の日までまだもう少し、時間があります。


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