のぞみ整体院
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整体・身体観 7

100413 全体と部分

 先日の太極拳教室では、珍しく“全体”に対する注意を頂戴しました。

 先生から一通りの説明を聞き、各自で練習を始めたときのことです。例によって、「こうして、こうして、それからこうして――」と自分なりにぶつぶつ考えながら練習していると、それを見ていた先生から、すかさず「動きが軽い!」と一言。

 不意を衝かれてきょとんとして、「どこが軽いんですか?」と聞き返す間もなく、先生がお手本を示されます。普段なら、「このときの手はこう」とか「このときの足はこう」とかかなり具体的に指摘していただけるのですが、このときは、“本日の課題”の動きの一連を丁寧に見せてくれて、「こう!」という感じで具体的な説明がありません。
 残された私は、「どこがどう、とかじゃなくて全部が軽いのだな……」とがっかりしながらとりあえず練習再開。でも全体的なことは自分一人ではよく分からないので、先輩に助けを求めます。

 「ちょっと見てて」とお願いして、軽くならないように意識しながら一通り動いて、「――軽い?」と尋ねると、「軽くはないけど身体が前に倒れている」とT先輩。T先輩は映像記憶に秀でた方で、人の動きの癖とか特徴をとても上手につかまえられます。お手本の動きをすぐに覚えられない私にとっては、まさに、救いの神のような人です。

   「こうなってるってこと?」「そうそう」「正しくはこうってこと?」「まあまあ、そうそう。ちょっとわざと反り過ぎだけど」とT先輩に付き合ってもらって微調整を重ねながら感じをつかみます。力の入らない具合から考えて、どうやら腰に問題がありそうです。
 なるほどなあ、腰か……。とぼんやり考えていると、もう一人の救いの神、K先輩が「手の動きがこうなんじゃない?」と横から助言。
 慌てて我に返って、「え、こう?」「いやいやそうじゃなくて、こう」「こう?」「そうそう」。ふーむ、とまたちょっと考え込みながら動きを繰り返していると、今度はT先輩が「足がもうちょっとこうなんじゃない?」「え、こうってこと?」「あ、もうちょっとこっちかな、あ、いやいやそうじゃなくてこっち」「ああ、身体の向きが悪いんじゃない? ほら、先生はもっとこっち向いてるよ」「え、こっち?」「いや、手の動きが――」なんてことを3人でごちゃごちゃしているうちに、正直、私は何が何やらさっぱり分からなくなってきました。

 ちょっと待って、一度やり直すわ。えーと、私はもともとどう動いていたんだっけ、と最初の軽いと言われた動きに戻ろうと思っても、もう手遅れ、覚えていません。しかも足をあっち、手をこっち、とばらばらに動きを組替えたために全体的な流れも怪しくなっています。あらあらあら、困ったなあと一人で笑い出しそうになりながらとりあえずごそごそ動いて、そうするうちに時間が来て、その日の練習は終わりになりました。




 こんなことがあると、「人の動きを直すこと、人に動きを直されること」の難しさがよく分かって、楽しくなります。
 経験上、部分を直されすぎて混乱する場合もあれば、ぴしっと部分を指摘されて全体がすっきり直る場合もあります。また、全体を漠然と指摘されて具体的に何をどう直せば良いのか分からなくなるときもあれば、全体でしか指摘できないしそうされるしか問題を把握できない場合もあります。
 この直す側、直される側のさじ加減って、いったい何なんだろうと興味深いのです。

 数年前のことですが、太極拳を習い始めて1、2年が過ぎると、教室の“後輩”からちょこちょこしたことを訊かれるようになりました。訊かれると言っても、「この次の動きってどうでした?」とか「このときは右足が前だっけ?」とか、そんな手順の確認がほとんどです。
 けれどあるとき、ある動作について、「何かしっくり来ないんですけど、どこがおかしいですか?」と訊かれたことがあります。「ええっ」とうろたえる私の目の前で動いて見せて、後輩は意見を待っています。逃げられなくなった私は、ううーん……と考えて、「手がもうちょっとこうなんじゃないの?」と言ってみると「こう?」と後輩。「いやそうじゃなくってこう(?←早くも逃げ腰)」「え、こう?」。ああでもないこうでもないともたもたしていると、そこへ先生が来られて、「なに騒いでるの?」。
 助かった、と思って説明して、後輩が動いて見せると先生は、「足をこっちにこう」と一見問題のない足の位置をちょこっとだけ直されます。え、足? 手じゃなくて? と面食らいながら様子を見ていると、――足の変化に釣られて重心の位置が変わり、身体の向きが変わり、手の位置がすすっと収まります。

 その一連の、一瞬の変化を目の当たりにして、私はもちろん、感動。練習の後で先生に、なぜ明らかにおかしい手ではなく足を直したのか、足を直そうと判断したのか、飛んで聞きに行きました。先生は、「私もいろいろ考えてるのよ、いろいろ試してきたし」と笑って軽くかわされましたが、このときの印象は鮮烈に残っています(めちゃくちゃカッコ良かった!)

 人の動きを見て、全体の問題をつかむことも部分の問題をつかむことも、そしてそのそれぞれをどう指摘するのかも、そのどれにも判断というか直観が必要です。中国医学・哲学では、確かこの直観のはたらきを「神」とか「聖」とか呼んでいました。
 ある動きを見ていて、なぜ部分のズレを指摘するのか、なぜ全体の違和感だけを指摘するのか。そのときの判断・直観の裏にどんな意識・無意識――神や聖がはたらくのか。
 私にはまったく想像できない作業なだけに、ものすごくものすごく、興味のあるところです。

※ ときどき、「整体で身体を見ているんだから、そういうこともよく分かるんでしょう?」と訊かれる方がありますが、とんでもないことです。少なくとも私にとっては、身体全体を見ることと身体の動きを見ることとはまったく別物です。私にとって動きを見るのはとっっっても難しいことで、上手くできた試しがありません。動きを見るには、根本的に別の能力? 訓練? が必要なのだと思います。


100419 ガングリオン、その後。

 嬉しいことに、このブログを読んでくださっているお客さんから、「そういえばガングリオンはどうなりました?」と気に掛けていただきました。
 にゅっと手首を差し出して、「いまこんな感じです」と触ってもらうと、「ほとんどぺたんこですねえ!」とお墨付きを頂戴。めでたく証人になってくれましたので、ここを区切りに、報告をまとめることにします。

 実は、厳密には、「完全に完璧に跡形もなく消え去った!」状態とは言えません。極薄いぐにゅぐにゅした膜? の感じがまだ皮膚の奥に残っています。お客さんが、「まったくぺたんこ」ではなく「ほとんどぺたんこ」とおっしゃったのもこの膜のためです(良い感覚ですねえ!)。ただしそれ以外の症状――突っ張りや痛みはありませんし、脈もきちんとその奥に触れます。
 一般的なケガや手術でできる皮膚の傷痕の場合でも、施術が進めば、ほとんど分からなくなるくらい傷痕はきれいに薄くなるのですが、よおおく見れば、白い痕は見分けることができます。丁寧に触れば感触の違いも分かります。一度傷ついた組織なのだからまったく真ッ更のようには修復できない――とすると、この辺りが限界なのかもしれません。個人的には、悔しいことですが。

 結局、全体的な施術は、六段階で推移しました。細かく書くと際限がないので、それぞれの要点だけまとめます。

第一段階 右前腕、右肩、左前腕、胸骨から左下部肋骨にかけて、と広範囲の立て直しになりました。
右肩の施術は、正確には烏口突起周囲。胸骨というのは、胸の真ん中にあるネクタイ状の骨のことです。
主に皮膚〜筋へ施術しました。

第二段階 左手首のガングリオン局部から左手(手掌・手背とも)にかけての皮膚に施術。浅い癒着を細かく剥いでいく作業でした。
この時点で腫れはずいぶん小さくなり、名残のように、しこりというか手触りの違う固まりが触れる程度になりました。

第三段階 左手人差し指の付け根、左肘の近く、右手人差し指の傷痕。以上が皮膚〜筋への施術。
それに組合わせて、ふたたびガングリオン局部の皮膚の癒着を剥がすことになりました。


 この第三段階までは、比較的、予想していた流れに沿うものでした。
 左手首親指側に腫れ物ができた⇒原因は右手親指側にあり、癒着そのものは左手首〜手に広がっているだろう――そういう予想です。ですが、ここまでの施術では大きさ・硬さは変化したものの、腫れの実体はなくなっていません。これだけでは明らかに不十分だったわけです。
 で、続きです。

第四段階 顔、頭、首周囲の施術になりました。
施術そのものはとてもおもしろい作業でしたが、ガングリオンに直接関連するものかどうかはよく分かりません。この頃にはもう、ぐりぐり押しても熱を持たず、判別する方法がありませんでした。印象では、あまりはっきりした関係はなさそうです。

第五段階 左手小指の施術。

 今回、個人的に一番わくわくしたのは、この左手小指の施術でした。

 東洋医学が問題にするのは、身体の「バランスの崩れ」です。そしてバランスは、右と左、上と下、前と後ろ……などなど、なにに注目するか、どこに注目するかによっていくらでも見つけることができます。
 第五段階で出てきたバランスは、左手の、親指側と小指側のバランスです。ささやかな、取るに足りないような細部のバランスがガングリオンに関係していた、この発見はとても嬉しいものでした。そして経絡(けいらく。気の通り道のことです)的な話で言うと、親指と小指はそれぞれ、まさに上半身の前側と後ろ側を司る経絡に属します(親指=肺経。上半身の前側に当たる。小指=小腸経。上半身の後ろ側に当たる。※小指には心経も入りますが、今回の範囲では小腸経が中心のようです)
 うーん、やっぱり理論通りになるのねえ! と興奮しつつ、こんな細部にまで理論が染みとおっていることに改めて嬉しくなります。

 そして生活における実感を付け加えておくと、左手の小指は、私自身の身体のなかでも「意識することの少ない部位」と言えます。痛みもなく痒みもなく、とくに目立った問題(肌荒れとか逆剥けとかばね指とか)を起こすこともない。あえて言えば、「小指を立てる癖が左手にだけある」「キーボードの“A”キーを押す操作がやけに鈍臭い」「ポキポキ鳴らそうと思っても小指だけは鳴らせない」くらいが特徴でしょうか。
 その優等生的左手小指が、親指側の腫れ物に関係していた――これはなんともおもしろいことです。


 ここに至り、腫れとしてのガングリオンはほぼ消失、飛び出た内膜が手に触れるような、ごにょごにょした感触だけが残りました。脈は、そのごにょごにょ越しに、辛うじて感覚できる状態です。痛みや突っ張りはありません。しかしよくよく観察していると、左手首を伸ばしきらないように無意識のうちに動きを制限している――いわゆる癖ができていることに気付きました。

 ここで、たかが癖、と笑えないのが整体屋の悲しさです。動きの癖は、そこになんらかの問題があることを意味します。
 ごにょごにょがなくなれば癖もなくなるか? そんな予測はつくものの、本当にこのごにょごにょがなくなるかは、今のところ、確信できません。「……そろそろこの辺を限界としようかな」。諦めて報告(? この文章です)をまとめに掛かったとき、先述のように「咽喉の施術(100408)」が展開し始めました。

 ということで、

第六段階 咽喉、顔、右ふともも、おなか、腰の骨、と範囲を拡大・変更しながら、最終的に左手親指の内側――ガングリオンに関係する筋肉に直結しそうな場所に施術が進みました。
 そういえばここは、数年前、指圧のバイトの研修中にばね指になって泣かされたところなのでした。できた歴史としてはガングリオンの方が古いので、手首に腫れがあったからばね指になったわけでしょうが、突然のばね指は急性の腱鞘炎みたいなものなのかもしれません。当時お世話になっていた研修先の先生が、「生まれつきか? いきなりなったんか?」と聞いていらっしゃったことが印象に残っています。

 親指の施術が一段落する頃には、手首のごにょごにょはずいぶん小さくなっていました。冒頭でも書いたとおり、そのつもりで触ればまだ見つけられるし、手首の角度を調整すればかなりはっきりした手応えが感覚できます。けれど、脈診は不都合なくでき、癖もほとんどなくなりました。今後、さらにごにょごにょが小さくなるかは観察を続けたいと思います。




〜まとめ〜
 たかが左手首にできたちっぽけな腫れ物ひとつのことですが、予想通り、広範囲に渉る複雑な施術になりました(ただし、第一〜第三段階については、それぞれ別に心当たりがあります。長くなるので書きませんが、直接的な意味ではガングリオンとは無関係だと思います)

 技術的には、キリ(錐)でなければできなかった施術がほとんどです。特に、皮膚の浅い層の癒着を引っ掛けるように剥がす作業は、目打ちでも滑ってダメだったと思います。
 今回初めてした咽喉の施術は楽しいものでした。同じく初めての、手首を曲げてたるませた腱の裏側の癒着を剥がす作業も、かなり独特でおもしろいものでした。こちらは、手首や足首のような腱の多い部分では、重要な方法になるはずです。

 突然腫れ出したことへの対応と、興味本位から始めた一連の施術の観察でしたが、いろいろと、良い勉強ができました。
 結果的には、自分の脈が取りやすくなったことが、私にとっては何よりの収穫です。これでまた、実験の幅が広がるでしょう!




〜さらにその後、の報告〜
 左手の親指に施術した後、しばらくして、右手の親指の傷痕に施術が進みました。今現在、ごにょごにょはほとんど手に触れません。近々、冒頭のお客さんにまた確認してもらいますが、きっと驚かれることと思います。
 すごいなあ、いらなくなった組織(癒着の痕)はきちんと片付けるんだなあ、としみじみ、身体のはたらきに感動しているところです。


100426 咽喉の施術、その後。

 ああ、めでたい。お陰さまで、咽喉の施術は大成功でした。

 「咽喉の施術方法」発見(?)の最初は、私自身の気管−食道間にできた癒着の引き剥がしでした。これは主に、咽喉の真ん中=正中線に対する施術です。ここで終わってしまえば、幅というか奥行きというかの少ないミニ発見に過ぎないのですが、その後、ここ数日の間にどんどん腕前が上がり(←私の!)、有難いことに、咽喉の横、首の付け根、胸骨…と施術の深みを増しながら随時、範囲を拡大。ミニ発見は大発見へと無事成長を遂げました。
 そうして、さらなる準備が整ったところへ、いよいよ、5日のお客さん(100408)――発見の必要へと私を追い込んでくださったお客さんへの、発見後2度目の施術の機会が訪れました。

 まずは5日さん(仮名)から、前回(=咽喉の施術の1回目)の後の、状況変化をお聞きします。
 それによると、ちょこちょこ症状はあるものの、概ね、大きな問題は生じていないとのこと。――まずは、一安心です。

 それを確認した後で、いざ、2度目の施術に入ります。
 どなたの場合もそうですが、身体の状態は、前回おこなった施術を受けて、毎回、必ず変化しています。施術の前に毎度毎度、状況変化をお聞きして、脈を診て、ひとしきりあれこれ頭をひねってみる――この一連の作業を儀式のように丁寧に繰り返すのは、ひとえに、「前回の身体と今回の身体は同じではない」と考えるからです。
 5日さんの脈も、前回とは違う脈でした。が、とりあえずは前回の続きから見れそうなので、深みを増した技術を駆使して(!)、首・咽喉の施術に取り掛かりました。

 基本的に整体は、1回1回で完結する種類の施術ではありません。前回の続きで今回の施術が展開し、今回の続きで次回の施術が組上げられる、そしてその次の施術はその前の施術を受けて……と、日は隔てても作業は連続しています。
 5日さんの場合も、手始めに前回の続きで首・咽喉から施術を始めはしましたが、脈も変わっていることですし、前回と同じ作業で終わるとは思っていません。何らかの、発展があるはずです。

 で、――ありました。
 首・咽喉から展開して、背骨の、広範囲に渉る癒着が剥がせ始めました。1度ではとても取りきれない質(?)・量なので、続きは次回に持ち越しです。が、もう上出来ッ! の展開です。これが越えるべき「5日さんの一山」だったんだなあ、と感慨深く確信できるほど、会心の出来映えでした。
 ここに至れるまでお付き合いくださった5日さんに、もう、ただただ感謝です。




 ところで、咽喉の施術に関連して、ひとつ注意点が浮かんできました。それは、咽喉の施術に伴って腕に痛みが出る場合がある、ということです。
 これは言ってみれば、「大きな問題をどければその陰に小さな問題が隠れていた」、そんな状態です。咽喉の癒着を剥がしに掛かると、その分、腕の動きは自由になります。そしてそれに伴ってそれまでは表面化していなかった手や腕の癒着が目立ち始めます。この目立ち始めた手・腕の癒着が、新たな痛みを発しだすようです。
 ただし、このときに現れる手・腕の癒着は、咽喉の癒着のおまけのようなものである場合がほとんどです。咽喉の施術がもうちょっと進めば、割合すぐに、簡単に痛みは消えてしまいます。つまり「痛くなる」ことが問題というよりも、「思ってもいなかったところが痛くなる」ことが問題と言えそうです。

 これに対する私の技術的対処は、「首・咽喉の施術をしたときには、腕・手にも癒着がないかしっかり確認する」。これが何より大事です。が、同時に、「もしかすると腕が痛くなるかもしれません」とお客さんに断わっておくことも必要です。確認し損ねた癒着や、日常的な動きによって表面化してくる癒着が、ないとは限らないからです。

 整体が失敗して痛くなったわけではない、新しくどこかが悪くなって痛くなったわけではない、原因不明の病気とかで痛くなったわけではない。これだけのことを了解しておいていただくと、お客さんは(少なくとも、私の関わっているお客さんは)、とても柔軟に対処してくださいます。
 それより本当の問題は、うっかり者の私が、ついうっかり言い忘れてしまわないかどうかです。――やっぱり、一番信用できないのは私のアタマです。


100508 坐骨神経痛(様の痛み)と腕の傷

 Zさん(ZAKOTUのZ。……安直ですね)の悩みの種は、左足外側を縦に走る、強い痛みです。

 お医者さんから「この痛みは腰の骨からきている、まあ昔でいう坐骨神経痛ですね」と言われたらしく、自分では腰が悪いのやら神経が悪いのやら良く分からない、でもとにかく痛いのは足、しかも腰の辺りから足首にかけての広い範囲、外側全体の痛みです――。

 ふつうの痛み止めではほとんど埒が明かず、どうにも我慢が利かなくなると、神経ブロックの注射を打ってもらってしのいでいる。神経ブロックは、お医者さんのなかにも「打つまでもない」という人と「そんなに痛いのなら」という人とがあって、耐えられない痛みを抑え込むための必要から、注射を打ってくれる病院を選んで行っている。――こんな状況ですが何とかなりますか? 切羽詰った表情で尋ねられました。




 厳密なことを言えば、お医者さんの“診断”と私たち整体屋の考える“問題”とはまったく別のものです。ですからお医者さんが「腰の骨が原因」と言ったとしても、「これは神経の問題です」と言ったとしても、必ずしも私が腰あるいは神経に注目するかというとそうではありません。
 来られたお客さんの症状を聞き、私がこっそり「ああ、いわゆる坐骨神経痛かもなあ」と思いついたとしても、それは、それだけの話。「この痛みは、どうすれば改善できるのか」という実際の対処にはまったく別の理解(整体屋的理解)が必要で、そこからしか具体的な施術手順は組立てられません。

 「注射はできれば打ちたくない、手術もしたくはない、でも痛い」と落ち込むZさんに、にっこり笑顔で「任せてください」――と言えれば親切な整体屋さんなのでしょうが、「確約厳禁・断言厳禁」がこの業界絶対のオキテです。「まあまあとりあえずは覚悟を決めて、騙されたと思って続けてみてください」と至って説得力のない言葉で、けれど内心では祈るような気持ちで説得し、Zさんは「じゃあしばらく続けてみようかなあ」と半信半疑のまま、来られることになりました。

 じわーっと指圧が気持ち良いでもなく、骨を派手に動かすでもなく、終わって「はあースッキリ」と分かりやすいでもなく。使っている道具こそ物騒なようだけれど、取り立てて痛みがあるわけでもない。「……こんなおまじない(!)みたいなので良くなるんですか?」と混ぜっ返し3不安7の気分で確認するZさんでしたが、数回目の施術で大きな変化が現れました。

 それは、右腕にある皮膚の傷痕に施術したときのことです。施術途中で試しに立ち上がってもらうと、本人が驚くほど痛みが軽くなっていました。「よっしゃー、よっしゃー、わーいッ!」とご本人以上に喜ぶ整体屋を前に、Zさんは(たぶん)ちょっと感動。「はあー、腕をちょいちょい突付いていただけなのにねえ……」とおもしろがっていらっしゃいます。
 まだ途中なのでもう一度寝転んでもらって施術再開。ちょこちょこちょこちょこ作業を続ける私の手元を覗き込んで、「ホンマにこれが効くとは……」とずいぶん喜んで(?)いただけました。

 大きな変化はあったものの、これで完全に痛みがなくなるとは私も思っていません。なのでそのことだけは説明して、様子を見てもらうことにしました。




 整体をする際、マニュアルめいた“法則”は極力作らないのが私の大切な方針で、具体的な“傾向と対策”はなるべく掲げないようにしています。
 良く言えば当意即妙、悪く言えば行き当たりばったり、でも本質は外さない施術――それが私の目指す整体なので、“法則”やら“傾向と対策”やらで自分を縛って視野を狭めたくないのです。

 でも整体屋をしていて得られる実感では、いわゆる神経性の痛みと言われるもの――股関節から足首にかけての外側とか後ろ側とか、肩から指先にかけての外側とか前側とか、要は広い範囲を線上に走る痛み・しびれ――への施術には、割にしっかりした“法則”があるように感じられます。
 すなわち、「皮膚の傷痕」が原因となっている場合が多い、しかも、足の痛みには腕の、腕の痛みには足の、皮膚の傷痕が原因になっていることが多い。そんなように思うのです。

 ただし、この考え方は、かなり特殊です。

 こういった痛みの場合、一般的には骨のズレが疑われます。腕なら首の、足なら腰の、背骨のズレです。そのズレが神経を圧迫して、痛みが出ていると判断されるのが、“主流”の考え方です。
 椎間板ヘルニアとかすべり症とか脊柱管狭窄症とか変形性関節症(脊椎の場合は変形性脊椎症?)とか。“症状名”で言えば、そういった感じの名前になるでしょうか。
 骨のズレが見つからなかったり、より神経の問題に注目される場合であれば、坐骨神経痛とか頚腕症候群とか胸郭出口症候群とかそんな感じの名前が付くのかも知れません。人から漏れ聞く限りでは、この辺りの判断はお医者さん・施術者によって多少の揺れがあるようです。

 でも、Zさんやあるいは他のお客さんのように、症状名が付けられながら腕・足の皮膚に施術して改善する場合があることを考えると、同様の症状のなかには骨や神経とは別の理屈から理解できるものも含まれている――そう考えることも可能です。

 とりあえず、この“法則”に囚われ過ぎることなく、けれどなんとなく意識はしつつ、適当に距離を置きながら施術に当たっていきたいと思います。
 いつの日か、もっとたくさんのことが分かるようになった暁には、もうちょっとはっきりしたことが言えるようになるでしょう。

 何にせよ、おもしろい施術でした!


100515 直射日光、頭痛、嘔吐と自律神経。

 真夏の炎天下に直射日光を浴びると頭痛になる――これは私の、いつの頃からかの持病です。

 以前、いったい何故そうなるのかが知りたくて実験をし、結果、「日光が目に当たる」ことに原因があると分かりました。ちなみに、そのときの実験内容は次のとおり――日傘(黒いもの、白いもの)、帽子、サングラスをし比べてみて、頭痛との関係を観察しました。
 実験それ自体は簡単なものです。が、結果は割にはっきり出ました。ですから私の場合に限っては、まず「日光と目の関係で頭痛が起こる」と考えて間違いはなさそうです(サングラスで頭痛なし。日傘は、黒ならほぼなし、白はややあり。帽子では、少し軽くなるけれど頭痛あり。すべての場合で、使用をやめればその直後に強い頭痛が起こる。最短で、5分前後の日光で頭痛になり、一度なると半日〜1日は、頭痛が続く)

 それ以降、夏場のサングラスは必需品になりました。
 が、いまはまだ春。今日なら大丈夫だろう――と高をくくって晴天のある日、自転車でうろうろ出掛けました。ら、1時間と経たないうちに頭痛発生。
 痛みの軽いのを良いことに執念で出歩き通したところ、帰宅後、急激に頭痛は悪化。汚い話でスイマセンが、猛烈な上げ下げのおまけ付きで、大いに泣かされることとなりました。

 「アカン、頭痛いわ……」とぐったり倒れているかと思えば突如起き出してトイレにダッシュ。下げだけならともかく、上げが加わると途端にめっきり消耗、虚脱。でまた、「アカン、頭痛いわ……」とぐったり倒れこんでしばらく休憩。で、突如起き出してトイレに……を繰り返すこと数度。
 実験好きの整体屋としてはこんな機会こそがチャンスなので、変動する頭痛の隙をついてはあれこれ自分に施術します。首周りや胸周りに施術をしては、吐き気や下痢を悪化させ、「アカン、ここの施術は違うわ」なんて“学習”しながら、ばたばたしたりぐったりしたり。
 痛い頭のその奥で、「あー、背中に施術しなきゃダメなんだろうなあ」とぼんやり分かってはいるものの、ヨイショと背中に手を回すのがどうにも億劫で動けません。「きっと首ががちがちに固まっていて肩が回せないんだろうなあ」と目安をつけ、仕方がないので上げ下げが落ち着いたのを見計らって、ひと眠りすることにしました。

 1時間ほど眠ったところで目が覚めたので、背中の施術に取り掛かります。頭は相変わらず痛いまま、胃のむかつきや全身の緊張もほとんど減っていませんが、でも背中に施術する元気だけは出ていました。
 ヨイショヨイショと背中に手を回して癒着を剥がし始めると、案外あっさりと一段落。強張って不快感の強かった胃部を始め、全身の力がふっと抜け、どうにか身体も落ち着きました。頭の痛みはまだありますが、こちらの回復にはいつも時間が掛かります。「よし、ふつうに動けそうだな」と安心できたところでお茶を一杯、一息ついてからもう一度寝ました(夜中なので)




 と、いうのが実は、先週のことなのでした。
 その後、背中、首、頭の皮、顔、顎といったところに施術を重ね、ちょっと改善できたかな、と思えたところで再び自転車で出歩いてみました。
 結果は、前回ほどの好天でなかったことも手伝って、頭痛は極ごく軽いものだけ、しかも帰宅後休憩しているうちに治まりました。上げ下げはもちろんなし。途中経過の試運転としては、まずまずの状況といえそうです。




 と、こういった実験にからめて、偏頭痛についてちょっと考えてみました。

 以前、内科のお医者さんから、「上げ下げを伴う偏頭痛には迷走神経が関係している場合がある」といったことを聞いた記憶があります。
 心臓とか内臓とか目の瞳孔とか、そういった調整を受け持つのが自律神経。自律神経には2種類があって、ひとつは交感神経、もうひとつは副交感神経と呼ばれます。
 迷走神経は、副交感神経の“仲間”です。脳から出発して、喉頭、気管、心臓、肺、胃、肝臓、すい臓、腸と複雑にあちこちに向かう神経なので“迷走”神経と呼ばれます。
 この迷走神経が調子を崩すと、頭痛、嘔吐、下痢がほぼ同時発生するのだとか。

 じゃあなんで迷走神経は調子を崩すのか。
 これは私は、「頭の血行不良に原因があるのではなかろうか」と、考えています。

 まぶしい光を浴びていると、私の眉間には、それはもうくっきりと深い縦じわが――しわというより溝ができます。この溝を作るのは、額の筋肉です。額の筋肉がずっと縮みっぱなしになっているからこそ、溝の深みが維持できるわけです。
 しかしこのとき、縮みっぱなしになっているのは額の筋肉だけではありません。その周囲の筋肉、つまり頭から首にかけての筋肉にも緊張が続きます。
 小学生の頃に左後頭部を強打し数針縫っている私の頭は、とってもいびつな形です。そしてもちろん、それを取り巻く皮の部分も、同じくとってもいびつです。そのいびつな頭と頭の皮が緊張を続ければ、血行不良は簡単に起こります。

 頭は、全身の中でも特に、血行不良に弱いところ。「酸素とブドウ糖は充分に必要、高温は厳禁」の脳みそを始めとして、抜群に運動量の多いまぶたや、粘膜大事!の鼻、目。身体の水分量のセンサーを果たす唾液など、頭周囲には、血液および水分の欠かせない部位がてんこもりです。
 「まぶしいなあ」と思い切り顔をしかめ、額のそして頭・首の筋肉を緊張させ続ければ、ほぼ確実に頭は“こった状態”になります。こりが続けば血液循環は悪くなり、必然的に、血液中の有害物質・老廃物は多くなります。この溜まった有害物質・老廃物が迷走神経をヘンに刺激するために、偏頭痛と上げ下げは起こるのではないか。
 ――こんな風に想像してみました。

 もしこの思い付きが正しく、そして頭の施術がうまくいったなら、その暁には私の「日光性偏頭痛(仮)」はきっとなくなるでしょう。そしたら、そしたら、てんで似合わないサングラスなんか、金輪際、もう二度と、使わなくても済むようになるでしょう! それは、素敵!
 淡い、けれどかなり切実な期待を抱きながら、しばらく実験に励みたいと思います。


100527 右腹の癒着、剥がれる。

 数年前、カイロプラクティックの流派のひとつ「AK(アプライド・キネシオロジー)」のお師匠と先輩、そのお2人から、ほぼ同時期に施術を受けたことがあります。
 当時、私が既に整体の独自路線を走り始めていたことをご存知だったお師匠からは、「お互いに施術をしあおう」という交換条件の下で施術していただき(名誉なこと!)、先輩には、私が自分から予約を取って施術をお願いしていました。
 結果的にはどちらも長く通うことにはならなかったのですが、偶然にも、お2人から「君は右の卵巣の具合が悪い」というようなことを言われたのが、強く印象に残っています。

 説明を受けていて、お2人の示された位置がほとんど同じであったことには感心し、けれど卵巣の不調にさっぱり心当たりが無かった私にその指摘はとても意外で、そして「なぜ皮膚でなく筋肉でなく筋膜でなく腸でなく、卵巣なのだろう?」という微妙な疑問だけが頭にこびりつきました。

 立体でできている身体には、当然、「深さ」があります。外から指し示す位置が確かに卵巣の付近であったとしても、実際に卵巣にたどり着くまでには皮膚、皮下脂肪、筋膜、筋肉、腸なんかが存在します。
 その途中のどれでもなく、卵巣と言ってしまえる根拠は何なのだろう? そしていったいどういった力がはたらけば、外界から隔絶された卵巣に問題が生じるのだろう?
 単なる揚げ足とりではなく、私には、極めて興味深い疑問でした。




 話は変わって、3週間前の太極拳教室からずっと、気分のハレバレしない日が続いていました。どうやら「教室で注意をいただく⇒自分で施術する⇒動きが変化する」という私の必勝パターン(?)が、上手くはたらいていないようなのです。理由は、分かりません。
 教室で注意はいただきます。それを受けて自分で施術もしてみます。そして確かに手応えは十分得られます。なのに、動きが期待通りに変化してくれないのです。

 これまでは、施術がうまくいけば筋肉のはたらきが変化して、それに伴って動きも改善できました。動きが改善できない場合は施術が上手くいっていないからで、そのときは大抵、手応えも良くありません。
 手応えがないまま施術を終えると、試しに動いてみる前から「あ、ダメだな」と分かる感じがあります。実際動いてみてもやはり改善はしていません。そんな予測が成り立つくらい、施術の手応えと出来具合、動きの変化には関連があったのです。

 が、今回は違います。ひと通りの施術が済んで「よしッ、これでどうだ!」と思って動いているのに、動きがちっとも変わらない。これ以上いったい何をすれば良いのか……途方にくれながらとりあえず施術を続けてみる3週間でした。




 それが先日の教室の後に、ようやく落着いたしました。
 “右斜め後上方へ力を出す”動きの拙さを指摘された日の夜中です。ぐうぐう寝ていた私は突然目が覚め、「ああ、右のお腹の皮の具合が悪い」と天からのお告げ(?)を受け、半分寝ぼけたまま施術に取り掛かりました。
 調べてみると、筋膜の深さにべったり癒着があります。方向からいって、腹横筋か内腹斜筋のようです。それを、明かりもつけずにべりべりべりべり剥がしながら、「この3週間の悩みが、この施術で解決するかもしれないなあ」と確信に近い期待を感じていました。

 お腹の施術が一段落しもう一度寝ようと思って寝返りを打つと、突如、右の心臓の裏側というか肺というか背骨というか、少し奥の方に差し込むような鋭い痛みが出てきました。
 あいたたたたと呻きながら「早いなあ、もう筋肉痛が出てきたわ」と一安心。これは、施術がうまくいった証拠です。




 いまになって振り返ると、この3週間の施術は、すべてが一セット――ひとつのまとまりだったことが分かります。
 セットの目的は全身のねじれを正すこと。そのために、右肩、右胸、背中から首にかけて、右足、頭、……広範囲に施術する必要がありました。
 けれどこの一連の施術は、一回で終わらせるには範囲も広いし内容も複雑すぎる。そこでやむをえずそれを小分けにして、ひとつずつ順番でこなすことにする。施術が小分けだから動きの変化はいちいち実感できない、が、総仕上げに当たる右腹の筋膜の癒着を剥がした瞬間、ひとつの変化が完成した――そんなところかと思います。

 全身のねじれの中心は右腹、というのがもしも正しいなら、その負担が卵巣部分に集中している可能性は否定できません。
 けれど整体屋の私にとって、「卵巣が悪い」のと「卵巣に負担が集中している」のとではずいぶん大きな違いがあります。

 お師匠にこの経緯を報告し思い付きを質問してみたいところですが、本国に帰国された今となってはそれも叶いません(というかそれ以前に英語の壁が……)。仕方がないのでひとり、「もしかすると、あのとき卵巣と言われたのはこれのことだったのかもしれないなあ」とぼんやり思いました。


追記:お陰さまで、動きは無事、改善しました。これでまた、今度の教室で泣かずに済みそうです。


100614 今年もまた、花粉症。

 5月17日。今年もまた、「花粉症追放計画」は挫折しました。
 そしていまだに私は、わずかながら花粉症を継続中。

 ときどきの発症とはいえ今年は長く、しかも割にはっきりと症状が出てしまいました。

 初めて発症した数年前に比べると鼻水の方はずいぶん軽くなり、いま目立つのは目の痒みとくしゃみ。曝露時間が長くなると目の痒みはテキメン現れますが、短時間だと痒みは出ません。くしゃみは、ごく短時間の曝露で現れます(ということは副鼻腔の近くで花粉が“溜まっている”のかも?)
 自転車でたらたら走りながら花粉地帯に入ればくしゃみを頻発し、反応が一段落すると症状が治まる、そんな日々を送りながら、果たせぬ花粉症追放に執念を燃やすひと月でした。

 またまた、課題は来年に持ち越しです。残念。


100620 ムチウチと「軽度外傷性脳損傷」

 6月14日の毎日新聞によると、軽度外傷性脳損傷(MTBI)について、ちょっと本腰を入れた研究が始まりそうな気配、のようです。
 正確には「長妻昭厚生労働相が4月、診断ガイドライン作成に向けた研究開始を表明した」と記事のリード文にあるので、研究が今後どのように進展していくのかは、まだまだ未知数のようですが、とりあえず、患者救済と予防啓発の立場から研究を促進することを約束した、のだそうです(記事の中ほどに将来の展望としてiPS細胞による脳機能の再生とかロボットスーツとかの記述があるので、進展の方向はもしかしてこっち??)

 記事によると、軽度外傷性脳損傷は、

豆腐を入れた容器を強く揺さぶると豆腐に傷がつく、それと同じ要領で、頭を強く揺さぶると脳にも傷がつく。実際に傷がつくのは脳の神経線維で、ただしその傷は所々にできる上に小さすぎるので、CTやMRIには映らない。
ムチウチや脳震盪で脳が衝撃を受けたとしても、事故直後から症状が出るとは限らない。数週間後に出る場合や、受傷後1年を経過しても障害が残る場合があり、注意が必要。

 ざっとこんな感じです。症状、患者数なども記事にはありましたが、ここでは略します。




 軽度外傷性脳損傷。略称MTBI。どっちも記憶にないなあ、新説かしら? と思いながら記事を読み始めましたが、読み進むうちに、しばらく前に小耳に挟んだ記憶が蘇りました。

 ここ最近(?)の例でいうと脳脊髄液減少症もそうですが、どうして「ムチウチによる後遺症」をあえて小分けにしようとするんだろう、と、部外者である私は不思議に思います。
 整体をしていての印象では、ムチウチに関連して手足のしびれが出る場合もあれば、偏頭痛・肩こりが出る場合もあり、不眠が出る場合もあれば、耳の症状が出る場合も、あるいは姿勢の変化に悩まされる場合もあり、……、と後遺症は極めて多彩です。
 ムチウチの衝撃がどこに集中するかによって傷める部位は異なるし、その傷めた部位の影響をどう受けるかによって症状の現れはさまざまになります。
 けれど、その原因がムチウチにあり、現れた多彩な症状がその後遺症だといえるのなら、わざわざその先を区分せず、「ムチウチによる後遺症」として一括で扱う方が理に適っているように思うのです。




 数年前、「めまい、不眠、長時間立っていられない」など日常生活に支障をきたすレベルでしんどいお客さんをみせてもらったことがあります。すでにすっかり成人された方でしたが、私の考えでは幼少時の交通事故が症状の原因で、重症のムチウチを立て直すことが施術の大目的と判断しました。
 “いまのつらさは数十年前の事故の後遺症”という説明にお客さんは意外なほど簡単に納得され、その線で施術を進めることにあっさり同意されました。
 その予想以上のあっさりさがふと気になり、当時はまだ今ほど「脳脊髄液減少症」が病名として知られていない頃でしたが、こちらから「どこかの病院でそんな診断を下されたことはありますか?」と尋ねてみました。するとその方はご自身でもその辺りの情報を集めていたらしく、「自分からもそう訊いてみたが、お医者さんからは『違うだろう』と言われました」と答えられました。

 お医者さんにしてみれば、検査で異常が認められなかったこと、事故から数十年が経過していたことなどが否定の根拠だったのかもしれません。そして「違う」こと自体は確かだったのかもしれません。
 けれど、「脳脊髄液減少症」と「脳脊髄液減少症未満のムチウチの後遺症」との扱いの落差を目の当たりにした私は、呆然と、落ち込みました。




 軽度外傷性脳損傷も、脳脊髄液減少症も、ムチウチの後遺症のひとつの“型”です。
 その個別の型を大きく取り上げるよりも、ムチウチは危険だということ、数年〜数十年単位で後遺症が残る可能性があること、いわゆる交通事故でなくてもムチウチは起こるということ(私が関わるなかで多いのは頭部の打撲。そういったことを、新聞には是非、大きく扱ってほしかった……。
 予防啓発――と言ったって、誰だって好きでムチウチになるわけではありません。けれど、せめてその警鐘にこそ、紙面を使ってほしかった……。毎日新聞の記事を読みながら、なんとも残念な気持ちになりました。




※この記事について2013年1月14日に「一見」さんより次のようなコメントをちょうだいしました。

軽度外傷性脳損傷はムチウチの一つの型であるとの理解は間違っています。
症状の記述を省いておられますが、手足の麻痺や高次脳機能障害は脳損傷による後遺症によるものでムチウチではなりえません。
患者の身体をさわる職業でありながら医学的に間違った情報を発信するのはいかがなものかと思います。

それに対して私は、同日、次のように返答しています。



一見さん、ご指摘ありがとうございます。

アメリカリハビリテーション医学議会、頭部外傷学際分科会の軽度外傷性脳損傷委員会による定義を見ました。
それによると、軽度外傷性脳損傷の原因は、@頭部打撲、A頭部対象物打撃とありますので、確かに、軽度外傷性脳損傷を「ムチウチの後遺症のひとつの“型”」と断言したのは言い過ぎなのかもしれません。
ですが、その同じ定義のBにはむち打ち症と、頭部への直接の外傷のないもの、とありますので、ブログ本文はあながち間違いではないと私は理解します。

軽度外傷性脳損傷が怖いのは、頭や脳に直接衝撃を加えなくても、脳に損傷が起こることはある、という点です。
ムチウチに遭って脳に傷を負い、それでも「頭は打っていないでしょう、だからムチウチのせいではないです」と退けられるご当人のつらさを考えると、定義のBは、大文字ゴシック太字、赤ペンで下線くらいの強調をしておいてほしいと思います。


100628 初めての脈状

 モノの本によると、東洋医学の検査法「脈診」で区別する脈状(=脈の状態)は、24種類あるのだとか。
 脈診を勉強し始めたときそのことを知って、「24種類の区別……。これは私には無理かも……」と諦めかけた記憶があります。

 ところがさらに読み進めると、「初心者は6種類の区別ができれば、とりあえず仕事はできます」との記述を発見。ひと安心。
 そうして、見様見真似――と言いたいところですが見せてくれるお師匠が私にはいなかったため、昔のジャッキー・チェンの映画よろしく、1枚の写真と説明文をもとに脈診を開始して、5年かそこらの月日が経ちました。

(↑2年ほど前、お客さんとして来られた鍼師の方に、「独学で勉強して使っていますが、本式から外れていますか?」と大胆にも確認したところ、「大丈夫」と請合っていただけました。おかげさまで私は安心できましたが、いきなり訊かれたお客さんはさぞかしびっくりされたでしょうねえ。スイマセン……。)


 で、その同じ本によると、昔から「脈診5年」と言われるそうで、まともに脈が診られるようになるには5年くらいの修行が必要なのだとか。
 せっかちで負けず嫌いな私は「いやいや、5年はかけ過ぎだ!」と逆らい、必死で使いこなそうと急いだ記憶があります。

 さて。そのときの必死の効用かどうか、毎日脈を取っているうち、初心者向けの6種類の脈は、1年と経たずに区別できるようになりました。
 さらに、そこから進んで、独自の脈の解釈方法なんかをあれこれ考え始めるようになってからは、すっかり「私ってば使いこなせているじゃないか!」なんて良い気分でいてました。

 そこからさらに時が経ち――。
 ここ最近、手の感覚がめっきり鋭くなったことに加えて視診の精度が急上昇。それに伴って私のなかで、「脈診の相対的地位」が下がりつつあることに薄々気付いていました。
 お客さんの状態をぱっと見てじっくり見ると、施術すべき部位がなんとなく目立って見える。ささっと触って検査をすると、ああ、ここがしんどいのだなと手応えの違和感を感じる。
 そんな状況が何度か続くと、「時間を使ってわざわざ脈をみる必要はあるのかなあ…」と不安になり、また、「脈診の結果を正しく施術に生かせているんだろうか?」といった疑念も持ち始めると、いっそう自信はなくなっていきます。

 ただ、そうは言っても、脈診本来の大目的「施術前後の全身の状態を把握する」大切さには、びくとも揺らがぬ信頼があります。ですから脈診そのものを省略する選択肢は、私にはありえません。
 むしろ「脈診なんて無意味!」というのではなく、「東洋医学の真髄のはずなのに、脈診ってほんとにこの程度のものなの?」というような、自分では使いこなせているつもりだけど脈診の本当の本領はさっぱり発揮できていないようなぐずぐずした感じが、どうにももどかしいのです。でも、何をどう深めていけば真髄・本領に近づけるのかがよく分からない――そんなイライラに、このところ、取り付かれていました。




 それが先日、新たな転機が訪れました。
 まったく知らなかった手応えの脈に、初めて、出会ったのです。

 その脈は、指先で触れると、ぽつ、ぽつ、ぽつと規則正しい手触りが返ってきます。と、不意に、くっと止まる。で、ちょっと突っかかりながらぽつっと打って、その後はまたしばらくぽつ、ぽつ、ぽつ…。そうするうちにまた、不意にくっと止まって、ぽつっと打って、また、ぽつ、ぽつ、ぽつ…。
 そんな脈です。

 最初は、不整脈かと思いました。で、他の部分の脈も調べ直してみると、やっぱり、他の部分の脈はすべて規則正しくぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ…と打っています。
 その瞬間、「これは不整脈じゃないわ、24脈のどれかやわ(名前は忘れたけど)!」と気付き、こっそり感激。脈の異常が分かれば仕事は先に進められます。名前を調べるのは後にして、ともかくその場は施術を続行しました。

 施術を終えたときには、脈の異常はすっかりなくなっていました。他の部分と同じように、規則正しい穏やかな脈に落ち着いています。
 そこで一安心してお客さんを送り出し、私はそのまま本棚に直行。

 調べてみると、脈状の名前は「結」でした。「血ながれ通ぜず、気めぐり散ぜず、脾間に積気あつて手足痛み、もだゆる事を主どるなり」とのこと(『脉法手引草』山延 年(やまのべ みのる)著 医道の日本社 1963)

 お客さんの状態は、多少の偶然はあるにせよ、恐ろしいほどに解説の通りでした。主な症状は、右腕の強い痛み(=手足痛み、もだゆる)。原因になっていたのは、盲腸の手術痕の皮膚の癒着(≒脾間に積気)でした。




 「脈診5年」は、単純に「習得に5年かかる」という意味でなく、「その脈を持った人にめぐり合うまでの時間も込むと、全部の脈を知るのに5年くらいはかかるだろう」ということなのではないか――そのことに、ようやく私は思い至りました。
 知識として知っていなければ、24種類も脈状が区別できること、区別する必要があることには気付けないでしょうし、また、実際にその脈に触れて身体に施術させてもらわなければ、脈の持つ本当の意味は体験することができないでしょう。
 その体験を踏むための5年であり、24脈であったのだなあ、と今回、つくづく思い知りました。

 良いめぐり合わせで教えてもらったお客さんに感謝しつつ、そして「やっぱり奥が深いなあ…」と感じ入りつつ、「今こそ、『脉法手引草』を勉強しなおすときが来たのだな」と腹の底から納得しました。
 今度はちゃんと、がんばって読みこなそうっと。


100630 Zさん、その後。

 痛いときには数日おきの間隔で来られていたZさん(100508)が、突然、ぱったりと来られなくなりました。

 「うーむ。私、何か粗相をしでかしたかしら」と考えてはみるものの、あまり心当たりはなく。最後に帰られる間際のご機嫌だった様子を思い返しても、調子が良いから来られないのだ、としか思えません。
 「明日来ても良いですか?」「3日後に来ても良いですか?」と、常に私の想定より早く来店されていた都合から、こちらもつい「次は〇日以内に来てください」と言っていませんでした。

 明らかに、まだ、し残した作業がある――と、それが気になる私としては、「症状が楽かどうか」よりも「取りそびれたままの爆弾(と言ってはちょっと過激すぎますが、要は問題点)」の方が心配です。「早く来てほしいんだけどなあ……」と心待ちにしていました。




 そしてようやく先日、ほぼ1ヶ月ぶりにご来店。
 予想していた以上に顔色は良く、声もしっかりされています。
 聞くと、比較的調子が良かったので、1週間ばかりお寺めぐりに出歩いていたそうです。歩いていると左膝の張り感はある、けれど以前のような左足全体のしびれとか痛みとかはあれから出ていない。それより、右足首を押さえると痛みがあって、それが気になる。とはいえ全体的に言ってそれほど具合が悪いわけではないし、神経ブロックの注射も打たずに済んだ、が、また数日後から旅行に出るのでその前に一度来ておこうと思った、とのこと。

 まあまあ、調子が良かったならそれは結構でした、ただ、いまの時期に1ヶ月はちょっと間が空きすぎ、せめて2週間くらいで来ておいてほしかったですわ。私が言うと、ああ、そういうものですか、じゃあ旅行から帰ったらまた来ましょうか。あ、是非そうしてください。
 話はあっさりまとまりました。

 その日は、気がかりだったし残し部分に施術ができ、かなり良い具合に一段落。「具合が良くても、2、3週間以内には一度、来てください」とお願いしてお別れしました。




 10日後、約束の通り、ご来店。
 旅行は、ずいぶん長時間の車の運転と、歩いて坂道の上り下り。かなり苛酷な行程だったそうですが、左足の坐骨神経痛様の痛み・しびれはなかったとのこと。見せてもらうと、右腕の傷痕も最初よりずっと、落ち着いた色になっています。
 「足の痛みはどうでした?」と聞くと、「足も腰も全然痛みは出なかった。ただ、腕が痛い」と今度はまったく別の症状を訴えられました。調べてみると、これは足とは無関係の問題のようです。

 整体では、これにはこれでまた別の施術をしましたが、こちらは、足の痛みとはまた違う系統の問題です。そこで、Zさんの坐骨神経痛様の痛みについての報告は、ひとまずこれで区切りにしたいと思います。


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