のぞみ整体院
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整体・身体観 6

100212 身体の融通

 2月10日の毎日新聞に、オリックスの投手宮本大輔選手のことが載っていました。
 記事の趣旨は、ケガによる引退と、奥様でいらっしゃる海原やすよさんとの支え合いについて。整体屋である私の関心は、もっぱらケガの状況に向けられました。そこで記事の中からいくつか、要点を拾い出してみます。いわく、

宮本選手は、プロの中でもハイレベルの筋力があった。
右肘の手術をした。
踏み出す左足に力が入らなくなった。
「黄色靭帯骨化症(おうしょく じんたい こつかしょう)」と診断され、引退を決意。

 黄色靭帯は、背骨を支える靭帯のひとつです。それが骨のように硬くなって神経圧迫の危険性を生じる難病が、黄色靭帯骨化症。原因は、不明とのことです。




 たとえ新聞記事で見た有名人のことであっても、特定できる個人の身体のことをあれこれ言うのはあまり本意ではありません。ですがあまりにピッタリかつ具体的な内容なので、失礼を承知で取り上げさせていただきます。宮本選手、ごめんなさい。どうぞ気を悪くなされませんように。と、先にお詫び申し上げます(まあ心配せんでも、ご本人が読まれることもないでしょうが)

 記事の中で私の気に入らないのは、「原因不明」の部分です。ハイレベルの筋力、右肘の手術、そして投手という職業。これだけの条件が揃っていて、いったいどこが原因不明なのか。それが私には分かりません。




 筋力が強い、とくに手・腕の筋力が強いのであれば、それだけで背骨にかかる負担は相当なものになります。腕の付け根の肩関節は、大雑把に言えば、腕と背骨をつなぐ筋で支えられています。筋力がついて腕が重くなれば、その分、腕を吊り下げる背骨には大きな負担がかかります。

 また、右肘に手術をすれば必然的に、左右の腕の動きはアンバランスになります。
 多少筋力が強くても、「右腕が背骨を引く力」と「左腕が背骨を引く力」が釣り合っていれば、それでも背骨は真ん中に留まることができます。けれど手術をして右肘に大きな癒着ができ、その釣り合いが根本から崩れてしまえば、背骨が真ん中に留まることは難しくなります。

 そして投手は、腕を振りまわす仕事です。一般に言われるように、「右手ばっかり使っていると身体のバランスが崩れるよ」という考え方には、私は賛成しません。右手ばっかり使おうが、右足ばっかり使おうが、結局身体がしているのは全身の協調運動です。その程度の動きの偏りでバランスを崩すほど、ちゃちな作りにはできていません。
 ですからこれは考え方の順番を逆にして、「右手ばっかり使う⇒バランスが崩れる」ではなく、「バランスが崩れている⇒右手ばっかり使ってしまう」と解釈する方が自然と、私は理解します。

 ……ちょっと話が逸れました。私が投手の仕事を意識するのは、重い腕を振り回して背骨に負担をかける、その機会が多い仕事だからです。同じ試合に出ていても、どんどん球を投げる投手と、それほど投げない野手とでは、肩の運動量がずいぶん違います。投手は、腕を振りまわす機会が多い。問題にしたいのはこの点です。

 さて。以上3つの条件が重なれば、背骨はしょっちゅう、ぐらぐらします。靭帯程度の支えでは、骨を真ん中に固定できない。かといって背骨の位置が大きく外れれば、そのときは、脊髄を傷めます。それは、あまりに危険すぎる。それを避けるためにも、「もっともっともっと強い力で、このぐらつく背骨を固定せねば!」。その必要の結果が、黄色靭帯の骨化――ではないかと私は理解します。




 酸素が足りなければ心臓は肥大するし、摩擦が多ければ皮膚は厚くなる。そうやって、あちこちの辻褄を合わせながらしくみ全体の破綻を防ぐのが、身体のはたらきであり、生きているということだと思います。
 黄色靭帯の骨化にしても、身体にしてみれば、「緊急事態ではあるけれど病気ではない」、少なくとも「病気のせいでこうなった」とは“考えて”いないのではないかなあ、と、私なんかは思います。

 人の身体を見ていると、つくづく身体って、「全体の調和を志向する。そしてそのためなら各部分は、驚くほど融通を利かせ合う」、そんなものなのだなあと感心します。黄色靭帯骨化症も、そんな風に考えた方が理解しやすいように私は思います。


100216 「これが幻の湖ッ!?」的感動

 前回(正しくは2回前)の太極拳教室で、先生から、頭の傾きを注意されました。
 頭は、しゃんと立てておくのが正しい姿勢。それは分かっているのですが、私の頭は気付くとがっくり前に倒れています。気付くと倒れている、ということはずーっと気を付け続けなければ立てておけないわけで、そんな根気の持ち合わせがない私は、開き直ってふだんから倒しっぱなしにしています(要は、いつもうなだれている)

 不思議なことに、いつも倒しっぱなしの頭なのに、指摘されるときとされないときがあります。毎週毎週教室に行って、毎度毎度うなだれているはずなのに、「頭!」と言われるときと「手の位置はそうじゃなくて……」「足の向きはこっちの方に……」と言われるときがあるのです。
 「あまりにも手足の動きがひどいから、頭まで注意できないのでは?」と言われればたぶん、その通り。ですが同じように不細工な動きをしていても、先生の感じられる不自然さにはきっと、その時時で「注意すべき順序」があるのでしょう(と、いうことにします)
 で、前回は頭でした。




 教室で指摘された不自然さを正せるよう、自分の身体を立て直す――この方式で私は自分に整体しています。「頭!」と言っていただいたからには、頭を立て直す施術を考えなければなりません。

 私がこれまでにした大きなケガ・事故は、主に2つ。生後数ヶ月で寝返りを打ってベビーベッドから転落した事故と、小学生の頃、立て掛けてある和机を蹴飛ばして下敷きになり、頭を打ったケガ(情けない……)。寝返りの方は、落ちてもそのまま寝ていたそうですが、頭の方は出血し、何針か縫っています。
 このうち、頭のケガは、中心点がはっきりしています。机の角の当たった点です。一方の転落は、右半身全体で着地しているので、衝撃を受けた点があまりはっきり分かりません。ただ、どうやら右肩から落ちているらしいことだけは、分かってきました(←ケガのできようのひどさから推測)
 いまの整体を始めてから数年経ち、ずいぶんあちこち立て直しています。いよいよ残っているのは問題の深い傷、という見当もついています。そんな状況で「頭!」を指摘されたので、「ついに肩に施術できるときが来たのかも」と大いに期待しました。

 帰って早速調べてみると、期待通り、肩のややこしい関節からいろいろ反応が出てきます。ごそごそ施術するうちに、肩、鎖骨、背骨、胸骨、肋骨、首…と、右上半身の広い範囲を立て直すことになりました。施術が一段落すると、心なしか姿勢もしゃんとしたようで、なかなか良い感じです。
 準備万端な気分で、先日、再び教室へ。が、練習が始まってすぐ、またまた頭の倒れを指摘されました。「あららら、まだ立て直せていないのか」とがっかりしかけましたが、注意して聞くと、ちょっとだけ、先生のおっしゃりようが違っています。前回は、「頭が前に倒れている」。けれど今回は、「目線が下に下がっている」。
 これはひょっとすると、大事な違いかもしれない。そんな直感がはたらいて、今度は、目玉の筋肉を意識しながら施術することにしました。

 東洋医学の考え方で目玉と関係の深いところ。身体の構造・位置関係から目玉と関係の深いところ。しかもケガと関係していて……とぶつぶつ考えながらふと思いつき、何気なく、頭の傷を調べてみました。と、ものすごいたくさんな問題が、続々と出てきたのです!
 机の角の当たった部分からは、500円玉大の癒着が出現! まるで骨と皮膚が一体化したようで、頭の皮をゴイゴイずらそうにも、その部分だけびくともしません。そしてその周囲の皮膚にしても、あっちに撚れたりこっちで癒着したりと、ごちゃごちゃになっています。

 これまでももちろん、頭に傷があることは知っていました。施術だって、何度もしています。けれどこれほどのひどさが表面化して、頭の施術がはかどることは未だかつてありませんでした。




 以前あるお客さんと、「一番目立つところからしか施術できない」という話をしていて、「幻の湖みたいですねー」と言われたことがあります。昨日までは砂漠か空き地かだったかした場所に、一夜明けると、だったか一週間ほどするとだったか、湖ができている、という幻の湖です(いい加減な記憶でスイマセン)。「ロマンチックなたとえだなあ」と聞いていましたが、まさか私の身体でそんなことが起きるとは思ってもいませんでした。
 これまで何度探しても癒着を見つけられなかった頭から、突如、ごちゃごちゃに癒着が出てくるなんて! ぎやー、これはおもしろいわッ。と、またまた感動。

 頭の立て直しが一段落すると、目の奥に力が付いたような、充実した感じが出てきました。と同時に、肩のおかしさがまた目立ってきたり、肋骨・胸骨・背骨の3人衆からも施術できそうな気配が感じられたり、首の根のムチウチから、ようやく立て直せそうな手応えがでてきたりと、あちこちから反応が出始めました。きっと、頭がちょっとマシになった分、他の部分の頼りなさが自己主張を始めたのでしょう。
 おもしろいことに、姿勢の悪さも見事に復活しました。どうやら、姿勢を維持するには右上半身の安定が必要で、右上半身の安定を維持するには頭の安定が必要、のようです。この場合、頭と、右上半身全体は、組合わせで立て直さなければなりません。これは大掛かりで、楽しい作業になってきました。

 作業が順調に行ってうまく間に合えば、次回の教室では心持ち、頭がしゃんとしているでしょう! いひひ、楽しみですわ〜。


100226 傷をつなぐこと、癒着を切ること。

 いまの整体をするようになってからずっと、「私のしている手技は、身体にどう作用しているのだろう?」というのが大きな謎でした。

 これまで私が持っていたイメージというか仮説では、「切れた筋肉や裂けた皮膚には隙間があって、その隙間をふさぐ手伝いを、私は整体でしているのかなあ」と考えていました。
 筋肉も皮膚も、作りそのものはゴム紐と同じです。切れたり裂けたりすると、切れ端はぱちんと弾けます。その切れ端を元の位置に戻すのが施術の役割で、切れ端同士が近付くことで、身体は隙間を埋めることができる――そういうことなんだろうか……、とぼんやり考えていました。

 でも、ぼんやり考えながら、いくつかの矛盾にも気付いていました。
 たとえば、施術後すぐに、身体の状態が変化すること。
 「施術する⇒隙間を埋める」が正しい手順なら、施術をしてから隙間を埋めるまでには、いくらか時間がかかるはずです。しかし実際は、施術直後から変化は生じています(ただし、その変化を自覚する時間には個人差があります。早い人は施術直後に自覚されますが、人によっては、少し時間がかかる場合もあります)

 また、施術している筋が何筋なのか、特定できない場合があることも気になっていました。
 「切れた筋肉の切れ端同士を近付けている」。それが本当なら、理屈から考えて、施術する方向と筋線維の方向は一致していなければなりません。なのにときどき、筋線維の方向は上下、でも施術の方向は左右、といったことが起こるのです。これでは切れ端同士が近付くはずがありません。
 おかしいなあ……と謎は深まるばかりで、とても、納得には至りませんでした。




 それが去年の年末、「もしかして、つないでいるんじゃなくて、切っているのでは?」と180度考えを転換させたことで、めでたく視界は開けました。

 切れた筋肉や裂けた皮膚の隙間は、身体が自分で埋めています。
 傷を埋める補修剤には、糊気の強い線維の固まりが使われます。このとき、完全に過不足なく、欠けた部分を線維で埋めることができれば、それで問題はありません。が、ついつい余計に作りすぎて、傷の周りにある筋肉やら皮膚やらもぺたぺたと一緒に貼り合わせてしまう――そんな場合が割に多いのです。つまり、応急処置として、傷は埋めた。けれど傷でないところにまで糊がはみ出て、癒着もできた――これが、身体がおこなう「自然治癒」の実際です。
 埋めるべき傷の部分はともかく、不必要な部分にできた癒着は、身体のはたらきをあれこれ邪魔します(身体の不調は、この結果、起こります)。私が施術でしていることは、その余分な癒着を切り分けることなんじゃないかしら――と、こうイメージしてみたのです。
 たとえて言えば、破れた本の修理に糊を塗ったけれど、その前後数ページまで糊がしみて本が開かなくなってしまった(これが「自然治癒」の状態)。その糊をぺりぺり剥しながら、元通り本を開けるようにするのが私の作業、ということです。

 傷をつないでいるのではなく、癒着を切っている。そう考えると、いまのところ矛盾は見つかりません。
 どうやらこれで正しそうだなあ。自分で納得しつつ、施術を続けて2ヶ月が経ちました。
 首尾は、上々です。

 「切れたものをつなぐ」視点で見ていたときは、施術のすべての段階で「方向」の要素が必要になりました。「方向」を出すためにはいくらかの「距離」が不可欠で、そうなると必然的に、「距離」の少ない部分=極端に小さい部分の施術はとても難しい、あるいは場合によっては施術ができない、と考えていました。
 けれど「癒着を切る」視点で見ている今は、要は切れれば良いわけですから「方向」も「距離」も要りません。「点」があれば十分です。
 その結果、「皮膚の浅い層」や「関節の隙間」への施術がずいぶん、しやすくなりました。
 具体的には頭、顔、のど、わきの下、おなか、肋間、大腿の筋(ふとももの筋肉。ここは筋肉は大きいのですが、薄い筋肉が何重にも重なっているので、細かい作業はしにくいのです)。そして、すべての関節と、それを支える靭帯群です。




 癒着が外れ、伸びの良くなった自分の手足を動かしていると、ミミズとかカタツムリの目を思い出します。ぐいいと伸びようとしても癒着があると、きっとミミズの姿勢は歪み、カタツムリの目は精一杯伸ばしても左右で違う形になるでしょう。癒着が、体や目の、自由な伸びを制限するからです。
 私の手足も、「伸びたいんだけど癒着があって…」という状態だったんだろうなあ、と思うと、伸びきれないミミズの不自由さと通じるものを感じて、ちょっとしんみりします。

 ヒトの身体も、皮膚が自由に伸びるからこそ、骨や筋肉や血管やリンパや神経が、適切な位置に収まることができる。――そう実感するようになると、これまでの自分の施術を振り返って、あまりにも骨とか筋肉にとらわれすぎていたなあ、と反省したくなります。

 身体を支えるのは確かに骨や筋肉の仕事です。そしてそれは十分大切なことです。けれど、それ以前に「私」と「外の世界」を分けているのは、皮膚なのです。皮膚の状態が不完全なのに、「私」の中にある骨や筋肉にだけ完全さを願うのは、ちょっと無理があるのではないか。
 とすると、ヒトの身体も「脊椎動物」とか考えるより、もっとあっさり、「全体でひとつの細胞」とイメージする方が、ひょっとすると適切なんじゃないかしら。指とか耳とか複雑な形に惑わされて、手がとか足がとかつい考えてしまうけれど、もっと単純に全体を捉えなければ大事なことを間違うんじゃないかしら。
 と、またしても、留まるところを知らない妄想は広がっていくのでした。


100301 花粉症――今年の戦略。

 早いもので季節は巡り、またまた花粉症の時期が近付いてまいりました。

 5、6年前――だったかどうか、もう忘れてしまいましたが、「花粉症は、整体でナシにできるんじゃないかなあ」と思い立って以来、毎年、戦いを挑んできました。で、見事に敗退を重ねてきました。
 敗退、とは言っても微妙なセンで、軽くなっては、いるのです。私自身はほとんど薬を飲まずに済んでいますし、複数のお客さんから「軽くなっているみたいだけど、整体の効果?」と聞かれますから。
 けれど、軽くはなるけどゼロにはならない。薬の量が減ったとか、鼻はムズムズするけど飲まずに済んでいるとか、花粉の密集地帯に行くとダメだけど町なら割に平気とか。軽くはなっているけれど、でも、なんらかの症状は出るわけです。

 整体屋である私にとって、「軽いけど花粉症です」と言うのと「花粉症はなくなりました」と言えるのとでは、大きな違いです。
 というのも花粉症は、いまや代表的なアレルギー症状のひとつです。ということは、「花粉症をゼロにできる」事実がつかめれば、他のアレルギー症状もゼロにできるかもしれない、と明るい見通しを持つことができます。「軽いけど花粉症」が症状を抑えている状態だとすると、「花粉症はなくなった」の方は症状の元をなくせた状態。詳しく話すとややこしいので省きますが、もしも症状の元をなくせたなら、それはとっても画期的で素敵なことなわけです。
 そんなささやかで根が深い野望を達成せんために、私は毎年、花粉症ゼロ作戦に必死になります。で、そんななか、早くも今年の戦略が練り上がってまいりました。

 今年の戦略のヒントは、3つのことです。

 まず、1つ目。
 ここ1、2ヶ月の間ずっと、カイロプラクティックの専門学校時代のノートを復習しています。長らく東洋医学その他にかまけているうちに、いつの間にやら、むかし詰め込んだ西洋医学関係の記憶が怪しくなっていました。これはまずい、というのが、慌てて復習に踏み切った動機です。
 しかし頭から順にノートをめくっていると、ずいぶんたくさん、興味深い記述にぶつかります。
 塵肺(じんぱい)の説明の隅っこに殴り書きした汚いメモも、そのひとつでした。いわく、

直径5マイクロメートル以下のものでないと、呼吸細気管支(こきゅうさいきかんし)まで入り込み、沈着することはない。大きいものは繊毛(せんもう)で追い出されるなどして、気管ぐらいまでしか行けない。→大気の浮遊粉塵では塵肺は起こさない。

 鼻から吸い込んだ空気は、鼻→のど→気管→気管支→細気管支→肺と流れ込みます。大事なのは、この通り道そのものが、一連のろ過器になっていることです。
 大きいゴミは、鼻で止める。鼻を通過したゴミのうち、より大きいものは、のどで止める。それより小さいゴミは気管で止める、といった具合で、大きさによって「どこまで奥にたどり着けるか」が変わってくるのです。




 そして2つ目。
 花粉症は、「局部的な血行不良」と関係がある、というのが私の前提です。
 整体の目的は「局部的な血行不良」の解消ですが、その整体で花粉症がマシになったお客さんだけでなく、「運動するとマシになる」「風呂に入るとマシになる」という話も聞いたことがあります。ですから血行不良と花粉症の関連を疑うのは、それほど的外れではなさそうです。

 さて。先日早速、「花粉症が始まったみたい」と、お客さんが来られました。私が関係する方のうち、いちばんしんどい花粉症をお持ちの方です。
 その方の話では、鼻の症状はまったくないまま、いきなりのどが痛くなったそうです。「じゃあ鼻水は全然出ないんですか?」と尋ねると、「出ないことはないけど、のどの痛みの方が先だったし、のどのほうがしんどい」とのこと。

 これは、おもしろいことです。私の場合、反応する花粉はイネ科(? 近所のお医者さんいわく「6月やったらブタクサちゃうか〜」。それ以上の詳細は不明)ですが、のどの痛みが先行することはおろか、花粉症でのどが痛くなることもありません。鼻水と涙、くしゃみが出るだけです。
 「へえぇ、鼻の症状よりのどなんですねえ」と言いながら整体を始め、その日は、腰の骨(腰椎)の周囲に良い施術ができました。そして終わってみると、「のどが、ちょっと楽になっているかも」とおっしゃいます。とっさに、腰の骨−首の骨−のどの関連を想像し、もたもたとその状況を説明して、お客さんとはお別れしました。




 で、3つ目です。
 これは確か去年の初夏にお聞きした話です。
 その方は、ベランダで水やりをしたときだけ、花粉症の症状が出るそうです。「スギもヒノキも終わっているし、いったい何の花粉かしらねえ」と首を傾げられていましたが、マーガレットだったか何か、キク科の花らしいことに落ち着きました。そして同じように水やりをしていても、その花の側にかがみこんだ時だけ、くしゃみが出ると気付かれ、「きっとその花の花粉は重いのだ」という結論になりました。

 スギやヒノキは、山から町まで風に乗って飛んできます。キク科のその花は、花の周囲にしか花粉をまけません。そしてイネ科か何か知りませんが私の花粉症は、公園の側を通りかかったときにテキメン現れます。ということはその花粉は、スギ・ヒノキほど軽くなく、キク科ほど重くはない、と言えそうです。




 以上3つのヒントから、私はひとつの仮説を立てました。

花粉症の要点は、花粉が問題なのではない。同じ大きさのものを大量に吸い込み、それを処理しきれないことが発症のきっかけになっている(ただし一度でも発症した後は、花粉そのものが問題になります)

 この仮説にもとづいて、

@花粉症に直結する血行不良部位を、鼻〜胸の周囲と限定する。
A花粉症を引き起こす花粉の種類と、症状の内容に対応関係があるかどうか注意する。
B花粉以外のアレルギーもある場合、その粒子の大きさに注目する。

を、今年の戦略とします。

 大きい花粉に反応し、しかもくしゃみ・鼻水が主症状であれば、血行が悪いのは鼻かも、とか、小さい花粉に反応し、のどが痛くなる場合は首かも、とか、反応は小さい花粉、深い咳が出るのであれば胸の周囲に血行不良があるのかも、とか考えてみよう、というのが@とA。
 Bは、たとえば黄砂やハウスダストとの関連は、あるのかないのかどうだろう、という感じです。

   もちろん、実際の施術となると、経絡(けいらく)の考えに沿って進めることになるので、鼻に響かせるためにお腹に施術する、とか、膝に施術するとかいった方法になるはずです。けれど昨年までの戦略が、経絡の考え方を意識しすぎて、かなり遠回りかつ複雑だったことを振り返ると、今年のはずいぶん単純です。

 どうぞ、今年こそ、軽くなる⇒なくなったへと、脱皮できますように。


100314 キリ、復活。

 先日から再び、施術にキリ(錐。大工道具の。)を使うことにしました。
 理由はいくつかあるのですが、最大のものはやはり、使いやすいから。つるつると当たりの良い目打ち(千枚通し。大工道具・手芸用品・文具の。)に比べると、四角張った四方キリはどうしても肌への接触が鋭くなります。この鋭さが使いやすさの理由であり、同時に難点でもあって、お客さんへのキリの使用は控えていました。

 ですが目打ちに比べて柄が長いキリは、自分の背中に自分で施術をするためにはとっても便利です。お客さんに使わなくなった後も、“孫の手”感覚で自分整体には使い続けていました。
 で、気付いたのです。目打ちでするよりキリでする方が作業が早い、と。

 施術の意味を、「切れた皮膚・筋をつなぐ操作」と理解していたときは、皮膚・筋を“動かす”ことが目的でした。となると必然的に、作業にはある程度の移動(=目打ちの先で皮膚・筋を固定して、動かす作業)が伴います。
 ところが施術の意味を、「癒着した皮膚・筋を切る操作」と180度転換させて理解すると、必ずしも移動は必要でなくなります。癒着した部分を切り分けさえすれば良いわけですから、一点を“裂く”だけで十分です。

 そこで私は考えました。――移動する必要がないのなら、接触が多少鋭くても、それほど負担ではないのじゃないかしら……。施術方法が変わった今となっては、キリを使っても大丈夫なんじゃないかしら……。




 ということで早速ホームセンターへ。
 新しいキリを買ってきて、砥石でごりごり先を丸めて、シート状のヤスリでささっと仕上げ。お客さんに使うには長すぎる柄をのこで切り詰めて、転がり止めにテープを貼って出来上がり。
 以前細工したキリに比べて、はるかに鋭く仕上げました。けれど使い方が違っているので、接触の感じはそれほど気になりません。毎度恒例の実験台、母にも試してみましたが、大丈夫とのこと。
 「道具を代えたんで、痛かったら言ってくださいねー」とお断りしつつお客さんにも使っていますが、いまのところ問題はないようです。前回のお試し時に「キリの角が当たる」と指摘くださったお客さんも、今回はまずまず及第点の模様。めでたく、使えそうです。

 目打ちからキリに代えてつくづく思うのは、やっぱりキリは「切る」ためのものだなあ、ということ。表面のざくざくした感触が皮膚・筋をばしっと捉えるのか、施術をしていて上ッ滑りするような手応えがまったくありません。届かせたいところにすかっと入り込んで、こつこつこつこつ癒着を切り離している手応えが確実に返ってきます。
 これなら、がちがちに固まった背骨まわりの筋や、骨と骨の小さな隙間にある細かい靭帯といったややこしいところでも、楽々届きます。ムチウチ・脱臼系のケガでできた癒着には、この切り離し作業が確実にできるかどうかが、勝負の分かれ目です。もちろん目打ちでもかなりの効果が出せますが、「あと一歩!」の壁を、キリならきっとたやすく超えます。

 そしていわゆる固太り――皮膚・筋の比較的広範囲な癒着さえも、キリならわりに簡単に切れそうです。こちらは、現在私の右半身を使って実験中。途中経過では良い感じです。左手一本での作業になる右腕の皮膚や、底なし沼のように柔らかいお腹まわりの皮膚・筋も、キリの滑らなさが本領発揮、着実に癒着を切り分けます。
 このあと、固太り部分が細く締まるかは要観察。うまく締まれば、肥満について考えていた私の思いつきがひとつ実証されたことになります。残念ながら、固太りが軟らか太りになるだけで締まる気配がなかったなら、思いつきはハズレ、でも癒着が切れた右半身の可動範囲・操作性は確実に変わります。
 一石二鳥が狙えるか惜しくも一石一鳥に終わってしまうか、どちらに転んでも丸損はなし。ちょっと結果が楽しみです。


100316 脈診と未病

 数日前、カイロプラクティック時代の先輩から、脈診について聞かれました。これは、脈診の恩恵にあずかりまくりの私にとって、とても嬉しいことです。「中学校の保健体育に脈診導入を!」という密かな野望(?)を抱く私としては、一人でも多くの人に脈診を愛し、使いこなしてもらう必要があります。
 気合を込めて、私なりの知識を総動員してざっとしたあらましを話すと、「資料があるなら貸して」と教科書を持って帰られました。

 現在介護の仕事をされているその先輩は、「脈診で体調の急変が分かるか」ということに興味をお持ちのようでした。具体的に言えば、がんができれば脈は変化するのかとか、脳や心臓にできた大病を、脈の変化で察知することはできるのかとか、そんな感じのことを想像されているようです。
 実はこの疑問は、お客さんの中にもときどき考えられる方がいらっしゃいます。私が脈をみていると、「脈でがんがあるとか分かったりするの?」とか「便秘なのって脈で分かる?」とか、あるいはもっと漠然と「脈でいったい何が分かるの? 何を調べているの?」と聞かれることがあります。
 聞かれた私は「フフフ、一般の人には脈診ってきっと不思議なんだろうなあ」とおもしろく思いますが、ふと、ハテ、私はむかし脈診をどんなふうにイメージしていたんだろう? と過去を振り返ると見事に空白です。そういえば私は、鍼灸の教科書を勉強するまで脈診の存在すら知らなかったのでした(…)




 脈診を使い始めて数年が経ったいまでは、これは病気のことを調べる検査法ではないのだなあ、という実感を強くしています。鍼灸の方の書かれたエッセイなんかを読んでいるとときどきびっくりするような深読みが出てきたりしますので、おそらく、分かる人には分かるのかもしれません。
 が、私の理解できる範囲で言えば、「病気」ではなく「身体の状態」を知るために使う、それが脈診なんだと思います。




 脈診で調べるのは、気の調和の乱れです。気にはそれぞれ持ち場というか通り道があって、その通り道の範囲から大きく6つに分けることができます。そしてこの6つのバランスが適切かどうかを調べるのが脈診です。
 あっさり言えば、気の調和が「適切」であれば健康、「不適切」であれば不健康。でも「不健康=病気にかかっている」とはならないのが、脈診のおもしろいところです。

 乱暴なまとめ方をすると、西洋医学の考える健康・不健康は、

健康⇒発病(=不健康)

 東洋医学の場合は、

健康⇒不健康(=「病気」)⇒発病

となります。

 西洋医学の病気はいわゆる病気ですが、東洋医学の「病気」は、病んだ気、つまり「気の調和の乱れた状態」を表します。
 健康であれば発病はしない、発病するのは、それ以前に気の調和が乱れているからだ、というのが東洋医学の考え方です。で、そこにこそ「未病」という考えの生まれる余地があります。
 発病はしていない、目立った症状も出ていない、でも気は乱れている――これが未病の状態で、その時点で「病気」を発見し、立て直し、発病に至らせない。それが、未病を治すということです。

 これは、成功すれば成功するほど、ありがたみのない医学です。大病をずばっと治すでもなく、数時間に及ぶ大手術をこなすでもなく、難しい薬を処方するのでもない。病の可能性がある、といってもその時点ではけっこう健康に見えるわけで、しかもあくまで病は「可能性」。絶対絶対絶対病気になるよッ! というものでもないわけです。
 けれど、この医術――未病を治すことのできるお医者さんが、東洋医学(中国医学)では最高の名医と言われます。「事が大きくなる前に、まだ『可能性』であるうちに、芽を摘め」という考え方は、中国の古典『孫子』にも『墨子』にもよく似た話が出てくるので、医学に限らず中国古代(?)哲学共通の鉄則なのかもしれません。
 私はこの考え方がとっても好きです。このありがたみのなさげな医学を最高と言い、それを目指せと教える哲学をカッコいいと思います。そして、それを可能にするのが脈診という技術なわけです。

 話を冒頭に戻すと、「がんになったから」「大病が起きたから」脈が急変するのではなく、偏った脈(=気の調和の乱れ)を放置していたからいつの間にか大病ができていた、という方が正しいと私は理解しています。ですから「脈診で大病を見つける」よりも、「大病にさせないために脈診をする」方が本筋というか値打ちだと信じます。

 できた病気の早期発見よりもまだ早く病の可能性を察知し、事前に立て直す。そんな施術ができるのも、脈診あればこそ、です。なので、どうかこの特性を生かした使い方を、先輩には介護の世界で編み出してほしいなあ、と期待します。
 介護の世界で、なんてエラそうなことを言ってますが正直なところ、介護の世界でどんなことがおこなわれているのか、おこなえるのか、門外漢の私には想像もできません。が、もしもすごい使い方を編み出せたなら大発見! です。
 大いに期待しつつ、気長に待ちたいと思います。


100327 ガングリオン出現

 左手首の腫れ――ガングリオンに気付き、がっくり落ち込んだのは3月20日のことでした。
 脈診が好きで、整体屋で、自分の身体を実験台にしつつまめに手入れしてきたはずの私が、手首、しかも脈の位置にガングリオンを作るなんて言語道断――あってはならんことです。
 ぷっくり膨れた手首を見てはげんなりしつつ心当たりを探ると、キリのことが頭をよぎります。ガングリオンにつながりそうな変化といえば、道具を目打ちからキリに換えたこと、それに合わせて手技が微妙に変化したことくらいしか思い当たりません。そしてそのつもりで観察すると、確かに施術の後――右手でキリを使い続けた後に、左手首のガングリオンが膨張し熱を持つようです。

 「右手の酷使で左手が腫れる」、この関係は、まさに私の理屈に合っています。「おお、素敵、理屈通りやわ」と喜んではふと我に返り、「てことはやっぱしキリのせいかあ…」と落ち込む。
 そんなことを何度か繰り返して“がっかり欲”が満足した私は、がっかりしているのにもたちまち飽きて、さっさと開き直ることにしました。
 できたもんは仕方ない、というかこのガングリオンがなくせれば、お客さんのガングリオンにも対処できるようになる⇒良い実験台ができたじゃないか!

 というわけで。
 早速ガングリオン情報の収集に取り掛かりました。
 実は以前にも一度、ガングリオンについては調べたことがあります。お客さんで、できた方がいらっしゃったからです。そのときかなり集中的に調べ、「直接ガングリオンを突っつくのはまずそうだ」と判断し、それきり細かい内容のほとんどは忘れ去った――が、唯一「膜がひっくり返ったところに液が溜まる」というイメージだけが印象に残っていました。
 「何の本で見たんだっけなあ…確か手持ちの本だったんだけど…」とぶつぶつ言いながら本棚を漁って、『解剖学アトラス』(文光堂。第4版)の記述に再会しました。




 その前に――。
 ガングリオンについての一般的な説明はこんな感じです。

関節包や腱鞘(けんしょう)に粘液がたまってできる嚢腫(のうしゅ)。外から見ると骨が隆起したように見える。結節腫。

 これは国語辞典『大辞林』(三省堂。初版)にある説明ですが、医療系の専門書を見ても、内容は似たり寄ったりです。要は、関節や腱の近くに袋ができて、そこに液体が溜まって硬くなる。痛いものもあるし痛くないものもある。原因は不明、使いすぎが関係するかも、といった感じです。

 この説明を読んで私が気になるのは、袋はなぜできるのか、袋の素材は何なのかの2つです。そしてそれに答えてくれるのが、『解剖学アトラス』の説明――

関節包は2重の膜でできている。内側の膜が、頑丈さにムラのある外側の膜の隙間を縫って外側に飛び出、そのひっくり返った部分に液が溜まることでガングリオンができる。

です(専門用語が入るちょっと長い文章なので引用はやめました。ご興味のある方は「非連続的な骨の連結〜関節包(関節嚢)」の項をどうぞ。第4版なら24ページです)

 これを見ると、袋は新しくできるのではなく、外側の膜の隙間に内側の膜がはまり込んだ結果、袋状になることが分かります。袋の素材はもちろん、内側の膜です。ということは、ガングリオンをなくすためには飛び出た膜を内に押し戻すこと、そして二度と飛び出ないように内側で落ち着かせることが理想、と言えそうです。

 ――と、ここまで理解したところで私は勝手に想像を膨らませます。

問:いったいなぜ内側の膜は外側に飛び出すんだろう?
答:関節が動く拍子に、内から外へ、骨が膜を押すからでは? ぴちぴちに張ったところを内側から骨に押されたら、逃げ場をなくした膜は外に押され出るしかないでしょう。ちょうど、料理の裏ごしと同じような塩梅で。

問:じゃなぜ膜はぴちぴちに張っているのか?
答:……膜周囲の筋が緊張しているから? 筋がぴちぴちに張って緊張していれば、その傍にある膜だって緊張しそう。筋バランスに偏りがあれば関節の配置だって偏るわけで、そうすると関節の周りにある膜は余計に緊張しそうだし。

 と一人なぞなぞを繰り返し、結局、「とりあえずは筋肉を弛めるのが先決か。ならば、整体だな」といつも通りの結論を出し、段取りを立て始めることにしました。

 そんなわけでしばらく施術してみます。結果は後日、ご報告ということで。


100329 「切る」という表現について

 先日の記事(100314)について、Tさんから、大事な注意をいただきました。すなわち、

「キリで切る」という表現は誤解を生みませんか?


 医師や鍼灸師でない整体師が、人様の皮膚を切るのはそもそもご法度。が、「キリで切る」という書き方は、まるで皮膚を切っているかのような印象を与えませんか? というのがご指摘の内容です。
 実際に施術でしているのは、刺さらない程度に丸めたキリの先で皮膚を固定して、周囲の皮膚をこねるような方法です。マッサージでもなく鍼でもなく、厳密にはツボ療法でもありません(最後のはよく訊かれますが、ツボを選んで押しているわけでもないのです)。施術を受けられた方がこの作業を、(癒着に限らず)何かを「切っている/切られている」とはおそらく感じないでしょうし、もちろん皮膚に傷が残ることもありません。

 けれど、字面だけみれば「切っている=傷つけている」と理解されても仕方ありません。
 ご指摘を受け今更ながらに納得し、慌てて、この場を借りて訂正致します。

 で、訂正して何と言い換えるかが次の問題です。私がふと思いついて「『こそげる』はいかがでしょう?」とお聞きすると、「『こそげる』は全国的な言葉ですか?」とTさん。え、方言だっけ、と詰まってまたまた考え直し。結局「癒着を剥がす」くらいが妥当かつ無難かと落ち着きました。
 実は、私のイメージでは、鍋底の焦げ付きをごしごしこそげる感じ、お風呂のカビをこりこりほじくる感じがいちばん近い表現です。ですが、さすがに「癒着をほじくる」はちょっといくらなんでもアレですし、「癒着をこそげる」なら良いのか、と言われるとまあもっさりはしているけれど「ほじくる」よりは美しいし意味も適切だし、というところ。

 「ほじくる」「こそげる」よりは「剥がす」の方が漢語っぽい(?)し、なんとなく賢そう(?)にも見えるので「剥がす」に不服はありません。
 ですが、「『こそげる』は方言??」には未練があって『大辞林』(三省堂。初版)を開きました。

刮げる @物の表面を刃物などで削る。また、表面に付着したものを削りとる。A髪やひげをそる。

 意味の後に挙げられている例文を見ても、古い言葉なのは確かそうです。が、どうやら方言ではなさそうです。そして意味の感じはぴったりイメージ通りで、言葉として私はとても好きです。
 まったく却下してしまうのは惜しいので、話し言葉では「こそげる」を使おうと思います(ただしこれも、「皮膚表面を削っている」と理解されると困ります。厳密には癒着の表面、あるいは皮膚の裏側の表面となるのかもしれませんが、どちらにしても皮膚の内側での作業であって、皮膚そのものを破ることはしません)

 それにしても、言葉の習慣はついうっかり曝すもの。早いうちに「切る」の危険性を教えていただいて助かりました。言っていただかなければきっとまったく無自覚に、至るところで「キリで切る」「癒着を切る」と使い続けていたと思います。
 Tさん、ご指摘、どうもありがとうございました。


100404 ガングリオン続報

 これまでに分かった私のガングリオン――左手首の腫れの状況を簡単にまとめておきます。

・強い腫れに気付いたのは3月20日が初めて。が、そのモトはおそらく20年以上前からあったらしいことが判明(子供の頃からあって、てっきり骨だとばかり思い込んでいたのが、どうやらガングリオンだったようです。お恥ずかしい……)
・大きさの変化は、これまではなかったが、最近は頻繁に変わる。
・明らかに内容は液体(線維ではない)
・右手を酷使すると腫れがひどくなり熱を持つ。普段はほとんど熱感はない。

こんな感じです。場所は左手首。親指の付け根から2、3センチ腕に入ったところです。

 左手に問題が現れた場合、原因は右手にある――というのが整体をするときの私の理屈です。なので、とりあえずは右手の施術から取り掛かってみました。
 手順はとっても簡単。左手首のガングリオンをぐりぐりぐりぐりこねくり倒して、カンカンに腫らせ、熱を持たせます。で、その状態で右手の施術を始め、腫れ・熱がどう変化するか見ていきます。「より悪くしておいて、良くなるか観察する」。お客さんには絶対使えない乱暴な方法ですが、結果が分かりやすいので実験・観察を急ぎたいときには便利です。

 案の定、おもしろい変化が得られます。右腕全体の施術がきちんと進んでいるときは、腫れがすっと引きます。けれど見当違いのところに施術を集中させると、またどんどん腫れてきます(←これがおもしろい)。ふたたび全体の施術に戻ると、またすっと小さくなる。
 「おお、ちゃんと循環しておるなあ…」と妙な感心をしながら、場所を変えてごそごそ施術。腫れを確認しては、また別のところにごそごそ施術。そんな具合に施術していきます。




 個人的に、いかにもガングリオンらしくておもしろいなあと感動したのは、ガングリオン部分の癒着の仕方です。
 大雑把に言うと、人間の身体は外から順に@皮膚、A皮下脂肪、B筋膜、C筋線維、D筋膜、E骨膜、F骨、と層状に重なっています。そして私が施術するのはたいてい、@皮膚からB筋膜にかけての癒着、場合によってはE骨膜くらいまでの癒着を扱います。割に深い部分まで、施術の“現場”は広がっています。
 一方ガングリオンの場合は、どうやら裏返った関節包内膜と皮膚が癒着するらしく、@とAの間に“現場”があるような感触です。施術も、ごくごく浅い部分でおこないます。

 いまのところまだ作業は途中ですが、もう、ぐりぐりしてもほとんど熱は持ちません。腫れも、ごりごり押さえて探せば軽いしこりが手に触れる程度で、ずいぶん小さく軟らかくなりました。これなら、子供時代の私も骨とは思わなかったでしょう。
 位置の関係から、極端に手首をそらせると、軽い突っ張り感と痛みがあります。ただし全体として動きが良くなっているので、良い意味での筋肉痛的な要素もありそうです。

 もう少しごそごそ施術して、それから結果報告と致します。


100408 激動(?)の4日間と咽喉の施術

 4月3日から6日までの4日間は、整体的かつ精神的に、とてもめまぐるしく過ぎました。1行日記風にまとめるとこんな感じ――

3日 太極拳教室で、歩くときの足の運びを注意される。
4日 朝から筋肉痛に泣きつつ、股関節へ施術。
5日 難しいお客さんへの、もう一歩踏み込んだ施術ができず、落ち込む。
6日 落ち込みを引きずりつつ自分の身体であれこれ実験。思いがけない咽喉の施術に成功し、喜ぶ。

 喜怒哀楽というか起承転結というか、メリハリの利いた4日間でした。

3日 太極拳教室で注意されたのは、「後ろ足を前に持ってくるときに、腰の高さを変えないように」ということです。
 日常的な歩き方では、腰は高い位置に上げたまま股関節から足を振り回すようにして歩きます。一方、太極拳では腰を低く落として歩きます。腰の位置は低くして、股関節から振り回すというよりおしりから巻き込む格好で後ろ足を前に運ぶので、低く落とした腰の下を足が通過するときも、腰の位置は上下しません、正しくは。しかし私が歩くと無意識のうちに腰が上がり身体が伸びます。
 そこを指摘され、「そうじゃなくてこうだよ」と横でお手本を示してくださる先生に合わせ、丁寧に、右足を前に、次に左足を前にと一歩ずつ練習。理屈と動き方の感じをしっかり覚えたら、あとは自宅で復習です。ぺこりと頭を下げて、その練習はそれで終わり。教室は次の練習に移りました。




で、翌4日 前日たった2歩丁寧に歩いただけで、朝から股関節が筋肉痛です。今までいかに横着な歩き方をしていたのかとげんなりしつつも、痛みの場所がちょっとおもしろいことに興味を覚えました。
 前日のような歩き方をする場合、直接に力が掛かるのはおなかの奥の筋肉(大腰筋)です。そしてこの筋肉が痛みを出す場合、痛いと感じるのは多くは腰です(引越し作業翌日の腰痛と同じ感じ)。ところが私の筋肉痛はふとももの外側、気をつけの姿勢で手首が当たるくらいの位置に出ていました(大腿筋膜張筋?)
 これから推測できるのは、どうやら足を前に運ぶことよりも股関節の位置を固定しておくことの方が、私の身体には難しかったようです。で、心当たりの範囲を検査し、施術し、立て直してみました。すると直後に筋肉痛はなくなり、前日の練習を試してみると、割にすんなり歩けるようになっています。問題があったのはおなかやふとももの筋肉ではなく、おしりの筋肉のようでした(中殿筋?)




5日 整体に来られるお客さんは、症状もさまざま、状態もさまざま、もちろん、経過もさまざまです。とっても重症そうに見えてささっと良くなる方もいらっしゃれば、けろっと元気そうに見えて施術するとなるとなかなか難しい方もいらっしゃいます。
 5日は、もうずいぶん長い間お付き合いいただきながら大きな一山を越えられない、私にとってとても難しいお客様を前にして、がっくり落ち込みました。
 施術方法が独特、身体観が独特となった今では、施術に行き詰まると本当に困ります。本を調べるとか人に聞くといった解決方法が使えません。結局、自分の身体を立て直し、感覚を磨き、お客さんの身体から直に解決方法を拾い上げるしか手の打ちようがないのです。
 自分の身体のどこを立て直せば良いのか。どこを立て直せばお客さんの整体につながりそうなのか。――このことだけを念じながら、ただひたすら思いつめていきます。経験上、こういった問題は頭で考えすぎても答えは出ないし、仮に無理やりリクツをひねり出しても、そうして得たリクツは大抵見当外れです。一見非科学的なようですが、思考をやめた状態でじいっと思いつめ、煮詰まって煮詰まって動けなくなったところでぷかっと浮かび上がってくる直感の後を、静かに付いていく方が、はるかに簡単に、正解に近付きます。
 そう信じて、じいいっとがんばってみましたが、浮かび上がってくる気配はありません。思いつめ疲れて、その日は未解決のまま諦めました。




6日 午前中休みを利用して、昨日に引き続き自分の身体に意識を集中します。どこがおかしいんだろうなあ……とひたすら考えるともなく考えて、良い具合に煮詰まってきたそのとき、ふと、「咽喉……?」と鈍いひらめきが。
 なぜ咽喉か。それは私にも分かりません。差し迫って咽喉が痛いとかしんどいとか、調子の悪さを自覚することは、ここ最近ではありません。実際、検査を始めるまでは、「咽喉ぉ? 咽喉の何をみれば良いのよぉ」と自分のひらめきに対して思いっきり半信半疑でした。が検査を進めるうち、不思議な施術が要求されました。印象では、気管と食道のあいだの癒着を剥がすような感じです。
 「こんな施術、したことないなあ」と興味津々の気分で、検査結果にしたがいます。軟骨があってちょっと硬い感触の気管の裏をキリの先で押さえ、指でつまんだ気管をそこからぺりぺり剥ぐように動かして――と、途端にふわっと首の筋が弛み、位置がすとんと収まり、その一瞬で、施術が完成しました。「え? え? なに今の?」と驚いて、ちょっと位置を変えて第2弾の施術。さっきほどの感激はないにせよ、同じようにすすっと首が弛みます。
 おもしろいなあっ! と嬉しくなって鏡を見ると、首の形にあまり変化はありません。どうやら弛んだのは奥の筋肉のようです。第3弾、第4弾と施術を加え、触れる範囲の気道を一通り済ませてみましたが、それでもやっぱり見た目の変化はありません。が、腕の動きには大きな変化がありました。
 これまでは、太極拳で腕を動かすと、右手の動きに首が引きずられる感じがありました(そういえば、数回前の教室で、先生にもさらりと注意されていました)。首を動かした場合も同じです。首の動きに合わせて、なんとなく右手がうろうろ動くのです。それが、かなりきれいに分離するようになりました。腕をぐるぐる動かしても、首の位置はぴたりと決まってぶれません。気持ちの良い感覚です。




 咽喉もとには、血管、神経、筋肉が入り乱れ、血圧を感知するセンサーが備わります。それ以外にも甲状腺、副甲状腺、リンパ、……。大事な組織の密集地区です。したがって、たとえ自分の身体であっても咽喉の施術は軽い気持ちではできません。
 それを恐れ気なく施術できたのは、「癒着を剥がす」という目的と、「キリ」という道具、そして「一度押さえた位置からキリの先を動かさない」という作業方法が揃っていたからです。そのどれが欠けても、私は怖気づいて施術はしなかった(できなかった)でしょう。

 こんな風に咽喉を施術したのは初めてでしたが、とても良い施術でした。
 そしてこの施術は、5日のお客さんにも効果がありそうな予感がします。まったく同じ施術は不要だったとしても、なんらかのヒント――決して小さくはないヒントが得られた手応えはあります。次回の施術に心から期待したいところです。


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