整体・身体観 5
091208 スポーツと整体〜Tさんへの回答
(2010年12月27日、内容はなるべく変えずに本文を大幅改訂しました。)
またまたTさんから、おもしろいことを尋ねられました。
「泳いでいると、右肩が痛い。けれど、泳ぎたい。どう泳ぐのが良いのでしょう?」というのがTさんからのご質問。それに対して私は、「どう泳いでも良いのなら、自分流の楽な泳ぎ方を発明してみてはどうでしょう」。
「それは、
痛みを上手くかばう泳ぎ方を見つける、ということ?」再度訊かれるTさんに、「いえ、
痛む筋を使わない泳ぎ方を見つける、ということです」と返答しました。
Tさんのおっしゃる
痛みを上手くかばう泳ぎ方は、「基本の型に変更を加える」仕方です。
たとえばクロールならクロール、平泳ぎなら平泳ぎという基本の型が最初にある。けれど、基本の型通りに泳ぐと肩が痛い。だからちょっと変更して、腕の回し方を変えてみるとか、回す方向をずらしてみるとかして、痛くない方法を探し出す。――そういう感じです。
一方、私の言った
痛む筋を使わない泳ぎ方では、基本の型を想定しません。
「とにかく向こう岸にたどり着く!」という目的だけを想定して、後は滅茶苦茶。じたばた前に進もうとしていると、なんとなく進みやすい形ができてくる。それを「Tさん流の泳ぎ方」と名付けましょう、というのが私の考えです。
ただしこれは、「ある程度以上は泳げる人」で、「プールのような比較的安全な場所」でするのが絶対条件です。私のような泳げない人間は水にはまった瞬間パニックに陥り、そのまま溺れます。くれぐれも、川に突き落として実験するようなことは……って普通しませんね。
骨・筋のしくみは、多少の個人差はあれ、だいたいヒトに共通です。ですから滅茶苦茶とはいっても、結果的にクロールっぽくなったり、平泳ぎっぽくなったりはするでしょう。
けれどそこに予め理想のフォームを想定しないことで、より自分の身体に適した“自分流の泳ぎ方”ができるのではないか。規定された泳ぎ方からの外れぶりをこそ、“自分流”と解釈して楽しんでほしい――そう言いたかったのでした。
私は、スポーツの取り組み方には2つの仕方があると理解しています。言うなれば「形重視」と「動き重視」の2つです。
「形重視」では文字通り、形から入ります。頭の中に予め“理想のフォーム”のイメージを置き、自分のフォームをそのイメージに近付けるよう、動きを真似ていく。
一方「動き重視」では、動きの目的を優先します。投げるなら、飛距離か速さかコントロールか。目的を定め、自分の身体でもっとも効率良く結果が出せる動きを模索し、動きを作っていきます。このとき、ひとまず万人に共通の“理想のフォーム”の追求は横に置きます。
整体屋として見るならば、「形重視」よりも「動き重視」でする方が、その人なりの運動効率は良くなると考えます。
もっとはっきり言えば、理想のフォームはあくまで理想。そもそも身体条件のまったく違う人に、そっくりそのまま真似られるわけがありません。
「動き重視」で練習し、どんどんその動きを洗練させていけば、それがその人なりの理想の動きになる――私はそう考えます。そして現在理想とされるフォームも、先人がそうして作り上げた結果
(あるいは過程)の動きだと理解しています。
同じ目的を求めて動いても、各人でそれぞれフォームは異なり、そのそれぞれにその人なりの最適の段取り・結果が達成されている。それが身体のおもしろいところです。
ですから、フォームは無茶苦茶だけれどそこそこの結果を出す人に対して、「もっと良いフォームで練習すればもっと良い結果が出せるに違いない」と期待するのは見当違い
(ただし表面的なフォームの改造ではなく、動きの意味を変えていく種類の改造は、上手くすれば効果があるかも、とは思いますが)。
動きやすい動きには、たとえそれが他の人に比べて不恰好なフォームであっても、あるいはまた得られた結果が期待ほど良くなくっても、その人なりの“最適”が完成されている。その人にとって最大の力
(=目的)と、最大の無駄のなさ
(=形)が発揮されている、と私は考えます。
Tさんに、「Tさん流の泳ぎ方」を探してほしいと言ったのにはこういう思いがありました。クロ−ルとか平泳ぎとかの枠を越えて、「いまの身体に最適の泳ぎ方」を見つけるのはきっと、Tさんには楽しい作業だと思ったのです。
――が、いま気付きましたが、私は整体屋でTさんはお客さんなのでした。
整体で身体を立て直していけば、必然的に「身体の状態」は変わっていきます。そしてそうなれば慌てて泳ぎ方を編み出さなくても、勝手に泳ぎ方も変わるはずです。
となれば、「動き重視」で泳ぎ方を編み出すか。身体を立て直して自動的にフォームが変わるのを観察するか。どちらを試すかはTさん次第です。
ちなみに私は太極拳を後者の仕方で習っています。施術がうまく進んで、できない動きができるようになったときの満足感は格別です。
けれどこの仕方に落ち着く以前は、どうがんばっても先生の指示通りに動けない自分に嫌気が差し、「我流の太極拳モドキで通すしかないなあ」とぼんやり考えていました。この道を貫いていたら今頃は、新しい流派がひとつ誕生していたかもしれません
(!)。
091211 子どもの首が、痛くて動かせないとき。
先日、「首が痛い」とKちゃん
(=子ども)が来られました。以前からお馴染みのお客さんです。
事情を聞くと、前日にあった避難訓練の直後から首が痛くなったとのこと。避難訓練では、手すりを持って、大人に混じって、10階分以上のらせん階段を一気に駆け下りなければなりません。子供には相当の緊張です。
Kちゃんの首は、らせん階段の終わり頃から痛くなり始めました。が、まだこのときは痛みもそれほどでなく、普通に生活を続けていました。ところが翌日になっても痛みが引かず、しかも首がまったく動かせなくなったため、急遽来院されました。
施術を始めると、問題はやはり肩まわりから見つかりました。そして肩から背中、腰にかけての筋の状態を整えると、幾分痛みがましになり、帰る頃にはけろっと落ち着いていました。こうなれば、一安心です。
実はこのときまでに私は、Kちゃんと同じ状態になった子どもさんお2人に出会っています。
最初に見たLちゃんは、とにかくずっと、泣いていました。保護者の方にも様子が分からず、私もまったく事情が聞けず、結局満足に施術はできませんでした。そして後日、別の方からLちゃんが病院に入院したことを伝え聞きました。
次に見たMちゃんは、痛みに耐えて押し黙っていました。初めての場所に連れて来られて緊張していたのもあると思います。直接の会話はそれほどできませんでしたが、お母さんが状況を把握されていました。前日に、手をつないで長時間、混雑した町を歩いたことがあったと、教えてくれました。
別々に出会ったこの2人がおそらく同じ状態だとは思っても、Lちゃんには施術ができず、Mちゃんのときにはまだ確信が持てませんでした。
その後、ひょんなことから3人目――大人のお客さんのNさんが、子供の頃に同じ経験をされていたことを知りました。そしてそのお話をお聞きしてようやく、イメージが具体的になりました。Nさんは、お父さんの膝の上で、手を添えられてパチンコをした後に、首が動かなくなったそうなのです。
事情の聞けた2人――MちゃんとNさんに共通するのは、首が痛くなる前に、
一定時間、腕を引き伸ばされていたことです。
一般的に肩の脱臼・亜脱臼は、急激に強い力が肩関節に加わることで起こります。肩関節の配置がずれ、完全に関節の位置から外れてしまったものが、脱臼。同じく関節の配置がずれ、けれど完全には関節の位置が外れきっていないものが、亜脱臼です。
ところがこの2人の場合、それほど強い力が急激に加わった形跡はありません。むしろ持続的に、関節の距離を広げる力が加えられています。
肩関節が引っ張られ、抜けかけ、それを支えるために筋肉が緊張し、そこで大幅に筋バランスが崩れる。その結果、首の筋にけいれんか何かが起こり、急激な炎症につながる。――これが、この症状の原因だろうと私は理解しています。言ってみれば、首のぎっくり腰、あるいは強いこむらがえりとよく似た状態です。
筋バランスが崩れた結果、首が異常に緊張している――もしこれが正しいなら
(私はそう信じていますが)、いきなり首の筋緊張を弛めさせるのは危険です。最悪の場合、肩関節が脱臼するかもしれません。
応急処置としては、とりあえず2、3日の辛抱と覚悟を決めて、頭は傾けさせたまま、無理に動かさない方が無難です。そうして、本人にとっていちばん楽な姿勢で安静を保ちます。
先日来られたKちゃんは、「楽な姿勢になってみて」と頼むと、抜けかけた肩を下にして、横向きに寝転びました。不安定な肩関節を固定する仕方として、もっとも適切な姿勢です。
医学的な知識などなくても、こんなときの身体は、本当に驚異的なまでに理に適った動きをします。
その後、その姿勢のまま施術を始め、筋バランスが整うにつれ全身のこわばりは弛んでいきました。首の緊張と痛みが、楽になってきた証拠です。
091217 「肺トレーニング」の嬉しい誤算
「本当は横隔膜の麻痺ではないのでは?」と疑問を持ち、Aさん
(091105)に押しかけ整体するようになって、早や6回目の施術を終えました。顔、手の肌ツヤはずいぶん良くなり、概ね、お元気に過ごされているようです。
とはいえ、呼吸困難は已然、続いています。そして活発なAさんにとって自由に立ち歩きできないいまの状況は、とても苦痛です。
そろそろ、活動量を上げる準備に取りかかっても良さそうかなあ……。なんとなく、それらしい手応え――体力というか気力が、しっかり充実してきたような気配もあることです。
予
(か)ねて考えていた肺のトレーニング、略して「肺トレ」に取りかかっても良い時期なのかもしれません。
でも、いったい何をどうすれば良いのでしょう?
整体屋である私には、筋・骨・皮膚は、“お馴染み”です。付き合いが長い分、改善してきたときにどんな変化を示すのか、それに私はどう対応すれば良いのか、それなりに予測することができます。
けれど、今度の相手は肺です。「肺トレなんて、私、聞いたことないしなあ……」。ちょっと想像を超えています。
とりあえず、何をおいても“事故のないこと”が最優先です。そのうえで、機能回復を促進するような何かを考え出さなければなりません。
さて……と考えかけて、良いことに気付きました。Aさんは、
(私なんかよりずっとずっと)聡明な方です。こちらの要求をきっちり伝えれば、後はきっと、ご自分で何とかしてくださるに違いない
(!)。――すこぶる楽観的な姿勢で臨むことにしました。
私が要求したのは、次の2点です。
@呼吸量の上がらない軽作業であること。
A準備的な深呼吸を必要としないもの。
@では、持続的な呼吸を期待します。息が上がると疲れますし、その回復を待つために休憩が必要になります。けれど呼吸量を上げない程度の軽作業であれば、休憩を取らずに続けることができます。
Aも、@とだいたい同じことを狙っています。深呼吸で大きく息を吸うと、短期間は楽ですが、長時間の作業には向きません。深呼吸をして酸素を取りためて一気に作業をこなすのではなく、ずるずると作業をし続ける、そして疲れない。そんな状態を肺トレにしたいのです。
以上のような説明をし、さすがにこれだけでは漠然としているので、いくつか具体例を挙げました。たとえば、音読。あやとり。難しい考え事。
筋肉とちがって肺は、すべての活動に関係します。つまりどこかを活発に動かせば、血流・酸素消費量は増大し、自動的に呼吸・循環器系は忙しくなるわけです。ですから、声でも頭でも顔でも手でも、どこでも構いません。どこかを積極的に使えばそれが即、肺のトレーニングになります。
このとき大切なのは、むしろ、呼吸・循環器系を忙しくさせすぎないことです。忙しくさせて鍛えるのではなく、
慢性的かつ絶対的に呼吸機能が不足していることを、身体に気付かせるのが、肺トレの狙いです。
トレーニングとは言いながら、「鍛える」ことが目的ではない。
そして「慢性的・絶対的」を気付かせるためには、「一時的かつ急激に活動して、短時間で休止する」のは逆効果。無理なく続けられ、ちょっとくらいは疲れるけれど、飽きない作業。そんな感じの課題が最適です。
ごちゃごちゃと注文をつけながら、結構な難題をぶつけてみました。
もちろん、音読とかあやとりは、思いつきの一例です。もっとおもしろそうな作業があれば、それを適当に続けてみてください。そう言い置いて、施術を終えました。
そして先日。どんな作業をされたかなあ、と楽しみに伺いました。
「何されました?」とお聞きすると、「音読はちょっとしたけどしんどかった」とのお答え。
……ああ、そうなのか、あんまり続かなかったのか。ちょっとがっかりしましたが、もともと効果を確信していたわけでもありません。じゃあまた別のこと考えようかな、と思いながらお話を聞いていました。
――すると。
お客さんが来て長居をされたとか、イベントの企画に関わっているとか。私の想像した肺トレどころではない量の活動をこなされています。
びっくりして、「それは、十分動いていると言いませんか!?」――思わず、突っ込んでしまいました。
お聞きしていると、Aさんの目指す目標は、私の考えるよりずっとずっと遠いところにあるのです。
あれもしたい、これもしたい、と思いつく速度がとても速くて、それに引っ張られるかたちでAさんは、より高度な肺トレ
(というより活動そのもの!)を既に始められていました。そして、そんなAさんの次なる目標は、来月に開かれるコンサートを聴きに行くこと、なのだとか。
会場まで移動して、椅子に座って音楽に耳を傾ける。この一連の活動は、いまのAさんには重労働です。
でも、「したいことがあるんですが…」と持ちかけられるのは、私にも嬉しいことです。
私も、悠長に肺だけ
(=「部分」)に捕われている暇はありません。筋も骨も皮膚も、そして肺も含めた「全体」を見据え、しかも超のつく大急ぎで改善を目指さなければ、Aさんに大きく遅れます。
いよいよ、面白くなってきました。
091228 ほくろを取る
たぶん小学生の頃だったと思いますが、私は、右膝にあったわりと大きなほくろをカッターで抉
(えぐ)り取ったことがあります。
理由は、ほくろの黒さが何でできているのか知りたかったから。結局、見つかったのは単に黒いだけの皮膚で、期待外れな結果にがっかりしたきり、忘れていました。
それから時が経ち、数年前から、ふとした拍子に右の股関節がカクッと鳴ることに気付きました。立ち上がって歩き始める瞬間とか、歩く向きを変えるときとか、主にそういったときに鳴ります。
ごきっ、ごきっと鳴らしてみて、どこかの筋肉のバランスが狂っているんだろうな、くらいの見当はつくものの、どの筋がどうおかしいのかまでは予測できません。痛みもないし放っておくか、とそのままにしていました。
ところがさらに時は過ぎ、2週間前の太極拳教室でのことです。
その日は、「右足の力を右手に伝えてアチョッと打つ」みたいな動作を習いました
(←何のことだか分からないでしょうが、読み流してください。動作の名前を憶えていないのです)。
先生のお手本では、右手で突いた瞬間、全身にコツンと引っかかる感じが現れます。これは、全身の筋がうまく引き合ったときに生まれる、独特の感じです。
ところが私がアチョッとしても、その引っかかり感がまったく現れません。だらっとだらしなく腕が伸びるだけで、てんで、突きにならないのです。
仕方がないので例のごとく、できない課題を持ち帰り、1週間、練習しながら考えました。一体どこが悪くて、だらしない突きしかできないのか。コツンと引っかからないのか。でも、よく分かりませんでした。
抉ったほくろのことを思い出したのは、その次の週を迎え、教室を終え、その帰る道すがらでのことです。
私にとって、ひとつのことを意識し続けて、それでも分からなくて、ほど良く煮詰まったころに何かがひらめく――。これは、神のお告げも同じです。
帰宅して早速検査してみると、案の定、ほくろを抉ったあたりからいくつも問題が出てきました。さくさくと施術して、そこそこ状態が整ったところで試運転。するとこの時点でもう、股関節の音はずいぶん軽くなっていました。アチョッとしたときの引っかかり感も、少し手応えが返ってきます。
よしよし、もうちょっと練習と施術を重ねれば、なんとかなるぞ。ようやく、見通しが明るくなりました。
ほくろを取った、あるいは偶然ケガで取れた方は、そう珍しくありません。私が見ているお客さんのなかにも、ほくろを取った/取れた方が数名いらっしゃいます。
こけた拍子に顔を打ち、鼻の近くのほくろが取れた方は、長い間、ときどき無性に鼻が痒くなっていたそうです。それが、ほくろの傷痕に施術して以来、痒みがなくなったと驚いていました。
肩甲骨近くにあったほくろを手術で取られた方も、その周囲からあれこれ問題が出ていました
(たとえば手に力が入りにくいとか。ただしこの方の症状と問題はかなり複雑なので、あまり限局的な形では言えません)。
ほくろを「取る」。――作業自体はそれほど難しくもないのでしょう。なんせ子供がカッターででも取れたくらいです。が、後に問題が残らないわけではありません。
そしてその“後遺症”を考えるなら、できるだけほくろは取らない方が良さそうです。
実は私は背中にも、大きなほくろがひとつあります。ちょうど手が届かないところなので無傷ですが、目と手の届くところなら間違いなく抉っていました。……背中で良かったです。
100123 Aさんのこと
Aさん
(091105)が、お亡くなりになりました。
お正月が明けて、しばらくのことでした。
その前の週、最後の施術にお邪魔したとき、ちょっとくたびれた様子が目立ちました。そしてその数日後に緊急入院され、翌週、亡くなられました。
2ヶ月あまり関わった整体屋として、あれこれ思わないわけではありません。ちょっと施術を急ぎ過ぎていなかったか、とか、週に1回と固定せずに、しんどければすぐ呼んでもらうよう重々頼んでおけば何か変わっただろうか、とか。
けれど、あれこれ考えはするものの、総じて「間違った方向には進んでいなかった」という安堵と確信が私にはあります。
安堵し確信できるのは、私のしていたことに良い印象を残して逝ってくれたAさんと、Aさんの生き方・去り方を、全面肯定していらっしゃる奥様のお陰です。人が亡くなったことに使う言葉ではないかもしれませんが、悲しいとか残念とかよりも、すがすがしいとか鮮烈とか、そちらの印象の方が強いのです。
すごい人だなあ、と思います。
そして、良い関わり方をさせていただいたことに、心から感謝します。
――以上、ご報告まで。
100124 師匠の帰国と、新療法。
ああ、やれやれ。ようやくホームページの更新作業も一段落。後は友達に検閲してもらってオッケーが出れば公開だな。――そう思って周囲を見渡すと、私のまわりで2つ、大事な出来事が起きていました。
ひとつは、カイロプラクティックのお師匠が日本を去られること。
もうひとつは、先進医療に新しい技術が出ているらしいこと。
今回帰国されるお師匠は、AK
(アプライド キネシオロジー)と呼ばれる、ちょっと特殊な技術を教えてくださった先生です。セミナーのとき、説明を聞く先から疑問点を湧かせてはゴチャゴチャと日本語で質問を浴びせる私に、「ははあ、それはね……」という感じでおっとり答えてくれた優しい先生です
(セミナー中は通訳をしてくれる人がいました)。
詳しそうな同業の知人に聞いてみると、どうやら先生の帰国を今まで知らなかったのは私だけのよう。しかも察する感じでは、ずいぶん前から
(?)決まっていたことのようです。……気付けば、またまた世界から取り残されていました。
ともかく帰国前にご挨拶を、と思い、電話を入れてから訪ねました。
ずいぶん久しぶりでお会いする先生は、お元気そうです。そしてにこやかに「仕事はどう? 今はどんな施術をしているの?」と気遣ってくださいます。が、なんせあちらは日本語がさっぱり、こちらは英語がさっぱりなので、言ったら言いっぱなし、聞いたら聞きっぱなしという切ない事態。
しかも、私にとって今もっとも必要な単語「炎症」「急性」「慢性」くらいは行く前に調べておくべきなのに、それが英語で出てこない。「新鮮なケガ」と言い替えよう! と思いついて、ひらめきに感謝するものの、今度は「新鮮な」が出てこない
(…)。しばらく頭を抱えましたが結局言えず、図らずも「整体はともかく英語力の方は、まったく進歩なし」ということのみ、さらしてきました。
実は、お会いして時間があって先生の気が乗られれば、先生に施術を受けていただこうと思っていたのでした。
「いまはどんな施術をしているの?」と先生に訊かせてしまうほど、私のしている施術は、先生から教わったものとは違っています。まるで、「チョウチョの採り方を習いに行って散々質問もしたくせに、いざ原っぱに出てみたらトンボに開眼。チョウチョを忘れてトンボ採りに行ったまま、とうとう帰ってこなかった」――AKのセミナーにおいて、私はそんな弟子でした。
けれどあの時チョウチョの採り方を教わっていなければトンボを採ることもできなかったわけで、これはとても大きな恩です。だから私は先生に、「私がいま採っているトンボはこんなのです」と、きちんとお見せしたかったのです。
でも今回お会いして、それはどうやら難しいことを思い知りました。「ちょっと私に施術させてください」すら英語で言えない人間に、施術内容の説明なんて、どだい無理です。
潔く諦めて、とりあえずお礼だけはきっちり述べて、先生のお店を後にしました。
もうひとつの出来事。先進医療の新しい技術とは、「エピドラスコピー」というものです。
エピドラスコピー。聞き慣れない名前の意味は「硬膜外腔内視鏡
(こうまく がいくう ないしきょう)」。――背骨と硬膜
(「背骨の内側」と、その空洞に収まる「脊髄」との間にある膜)の隙間を通す内視鏡治療のことだそうです。
先日お客さんから、「この店
(のぞみ整体院)で言っていることとよく似た考えの記事を見たよ」と教えていただき、初めて知りました。記事は、朝日新聞1月8日の朝刊です。
私の理解をもとに要約すると、エピドラスコピーはこんな感じです。
椎間板ヘルニアや脊柱管狭窄症の痛みには、背骨周囲の癒着が関係している。だからその癒着を内視鏡で剥がせば、痛みはなくなる場合がある。
内視鏡を入れるのは、うつぶせになって、腰の骨から。この10年ほどで広がり、全国で2000件以上実施されているとのこと。自己負担分の費用は174,000円。2〜5日ほどの入院が必要。合併症として一時的な頭痛、まれに神経損傷、あるいは出血、感染症など。ただし現在のところ、重い合併症は起きていないそうです。
記事を読む限り、「癒着」に注目している点は確かに似ています。けれど全身と癒着をどう考えるか、それをどういう手順で剥がすか、といった点に、西洋医学と東洋医学
(?)の立場の違いが表れているようで、おもしろいなあと思いました。
整体の場合、痛い部分に直接施術をすると、たいてい、しくじります。「痛くないけれど問題の大きい部分」を見つけ出して、まずそちらを緩めてからでなければ、痛い部分には触れません。
たとえば椎間板ヘルニアであれば、痛いのは背中です。けれどその元になっている部分がたとえば頭とかにあるはずなので、それを見つけて、先に頭に施術します。で、頭が十分緩んだなら、その頃には背中の痛みが軽くなっているはずなので、それからようやく背中に施術します。
この手順に馴染んでいると、エピドラスコピーの処置「背中に癒着があるからそれを剥がします」は、とても大胆に思えます。――もちろん、お医者さんから見ればきっと、整体の仕方こそまどろっこしいのかもしれませんが。
そんな感想とは別に、この記事からは一つ、おもしろいことを教えてもらいました。
椎間板ヘルニアの例で言うと、私のイメージでは、
頭には、「癒着」はあるけれど「痛み」はない。
背中には、「ヘルニア」と「痛み」はあるけれど、「癒着」まではできていない。
――そんな状態かと思っていました。ですがヘルニアにエピドラスコピーが使えるということは、背中にも「癒着」はできている、ということです。
話し始めるとややこしくなるので「そんなものか」と読み流してほしいのですが、一般的に、
「痛み」は「急性炎症」の特徴です。そして
「癒着(正確には瘢痕(はんこん))」は「慢性炎症」の特徴です。
「急性炎症」と「慢性炎症」は、同じ「炎症」でもちょっと性質が違います。時間が経って「急性」⇒「慢性」に移行する場合もあれば、なんとなく両者が混在している場合もあります
(病理学の教科書の分類による)。
エピドラスコピーという処置方法が、とくに混在型を好むのか。それともヘルニアや狭窄症には、もともと混在型が多いのか。記事からはどちらとも判断できませんが、少なくとも、混在型はそう珍しくもないようです。これは私には意外でした。もっと稀なものかと思っていました。
混在型が意外に多いと分かっても、整体屋の仕方として大きな変化はありません。が、もしかすると、「頭を緩めるだけで背中の痛みも消える」人は
(「急性」⇒「慢性」の)移行型で、「頭を緩めた後で、背中も緩める必要がある」人は
(「急性」と「慢性」の)混在型――そんな違いがあるのかもしれません。ちょっと意識に留めておきたいと思います。
100129 ホームページ更新完了
ようやく、ホームページの更新が完了致しました。
案の定、またまた今回も難産、難産。最後の最後で完全やり直しを一度して、でもそのお陰でより「お店らしい」感じに仕上げることができました。
関係各位の皆様
(って、そんなたくさんじゃないけど)、どうもありがとうございました。
ホームページを新しくした一番の目的は、「施術でしていること」のイメージを、一度きちんとまとめる時期だなと感じたからです。
現在の施術方法を始めて4年か5年になりますが、今まで私は、自分の施術をうまく説明することができませんでした。
もちろん、施術の仕方や考え方の理屈、段取りの立て方なんかは説明できます。けれど、している手技・操作が最終的に、
いったいどんな具合に身体に作用しているのかは、よく分からないままでした。
ですからこれまで何度も、お客さんから「これはいったいどういう施術ですか?」と聞かれ、ごちゃごちゃと説明した挙句に、「でも最終的に何が起こっているのかは、スイマセン、私にもよく分かりません」と白状するほかありませんでした。
それを聞いて、たいていのお客さんはポカンとなって、「え、分からずにしているんですか……?」と呆れられます。そして半信半疑で帰られて、でも様子を見ていると確かに身体は変化した⇒効果があるのかしら……、と来続けてくださる方が“当院のお客様”でした。
が、これでやっと堂々と説明ができそうです
(ただし証明できたわけではないので、相変わらず「たぶん」は付きますが)。
今回の更新で、現在の施術イメージは一通りまとめられたかなと思います。これでしばらくの間、ホームページの大幅改訂からは免れられそうです。
100201 眠っている間に身体がしていること
睡眠には、2種類があるそうです。ひとつは、
深い眠り。眠り始めから30〜40分続く。
ゆっくりした、振り幅の広い脳波で、血圧や体温は低下する。
覚醒させることが困難な場合もある。
ゆっくりした、回転する眼球運動を伴う。
夢は見ない。
もうひとつは、
浅い眠り。約10分続く。
脈や呼吸は不規則で速く、血圧は大きく変動する。
顔面や指先に小さな痙攣が見られる。筋緊張が低下する、とも。
何かを見つめるような速い眼球の運動が出現する。
しばしば夢を見る。
一般的には、深い眠り⇒浅い眠り⇒深い眠りを90分周期でくりかえすのが、夜の眠りだそうです。
浅い眠りが、いわゆるレム睡眠。「速いRapid 目玉のEye 運動Movement」の頭文字を取ってREM。――間違っても、「レムさんの考え出した怪しい催眠術」ではありません
(←つい先日まで私はそう思い込んでいました。こんな私に眠りを説明する資格はあるのかしら……)。
こうして2つの眠りを並べてみて、ようやく、「眠っている間に身体がしていること」が、私なりに分かった気がします。と言っても理屈づけて解明したわけでは全然なく、「あ、なーんだ、そういうことか」的な思いつきというか思い込みに過ぎませんが。
ヒントになったのは、経験・観察に基づく2つのこと。すなわち、
1.整体の直後に、耐えられないほど眠くなることがある。
2.30分ほど眠ると、体調は変化する。
の2点です。
身体の状態が変化して眠たくなり、30分ほど寝たら満足して体調が変わっている――ということは、その30分の間に身体は、自身の状態を再調整している可能性が高いと言えます。そして私の施術で変えているのは、基本的には「筋の状態」なので、再調整の中身は、主に、筋に対してのものと言えそうです。
とここまで考えてひらめいたのが、寝ている間に身体は、
筋の点呼をしているんじゃないか、ということです。
ひとことで点呼といっても筋肉はけっこうな数です。数100種類ある筋肉の収縮能力を確認し、把握する。これには、いくらスピード勝負の神経でもちょっと時間がかかります。その点呼にかかる時間が、だいたい30分なのでは? と思うのです。
30分寝て点呼終了。時間がなければそこで起きるし、時間にゆとりがある場合はついでに動作確認もしておこう。それが、浅い眠りの時間に見られる小さな痙攣や眼球の動きなのではないかしら。で、それが済んだらもう一度点呼。また、動作確認。点呼。一晩中、そんなことを繰り返しているのじゃないかしら――というのが私のイメージです。
大脳には、身体記憶・感覚記憶を貯め込んでいる場所があるそうです。動作確認のとき、あちこちの筋肉をでたらめに動かしていれば、その近所の記憶を刺激することもあるかもしれません。そしてもしかすると、そのときに現れる脈絡のない記憶が、夢なのかもしれません
(!)。
そしてまた。大脳が起きているときは、身体にあれこれ注文がきます。散歩に出ようとか、本を読もうとか、人と会って喋ろうとか。
その注文に応じるため、大脳以外の脳みそ
(仮に、「身体用脳みそ」と呼んでおきます)は、大忙しです。重心のバランスをとって、あちこちの筋肉を縮めたり緩めたり、呼吸の速度、血圧、心臓のリズムを変えることも、身体用脳みその管轄です。
唯一、眠っている間だけは、大脳からの注文が入りません。あれせぇこれせぇ言われない間に全身の整備
(=筋肉の点呼)をしておこう――というのが、身体にとっての眠りなのかもしれません
(!)。
そんなふうにイメージすると、なんだかとっても辻褄が合うように感じられます。
朝から晩まではたらいて、寝ている間もはたらいて、いったい身体用脳みそに休むときはあるんだろうか……と思ったりもしますが、そもそも心臓や横隔膜はもとより、ふつうの筋肉にだってまとまった休憩時間はないわけです。
案外生き物なんてそんなものなのかもしれません。休みたがる、あるいは邪魔だから休まされるのは、ひょっとしたら大脳だけなのかも……と納得しかけて、「あ、でも寝ているときに大脳は記憶の整理をしているのか」と思い直し、そうすると大脳と身体がそれぞれの仕事をそれぞれでするプライベートタイムが睡眠時間なのかも、と考え直してみたり。
――答えの出ない問題ながら、あれこれ興味は尽きません。
100204 新技術・じりじり方式
詳しい経緯は省きますが、いずれ近いうちに、横隔膜の癒着を切る施術をすることになるだろう――そんな状況になりました。
「横隔膜の癒着を切るなんて、したことない施術やなあ…」。ぼんやり考えながら、とりあえず、その予習のつもりで四六時中、横隔膜のことばかり想像するようにしています。
横隔膜に思いをめぐらすのは、以前Aさん
(別のお客さん)から「横隔膜のマヒ」とお聞きしたとき以来です。ただ、そのとき想像したのは、「動かない横隔膜」のイメージ映像。今回イメージするのは、「癒着に苦しむ横隔膜の図」です。
「膜」といっても横隔膜は、実際は「筋肉」です。せっせと伸びたり縮んだりする部分なので、どこかが癒着しているとその動きがいびつになります。そのいびつの具合を、「なんとなく」かつ「具体的に」想像しておくのが、イメージ作りの目的です。
「癒着が真ん中にあれば影響を受けるのは心臓、胃、大動脈、背骨も近いからすい臓、肝臓も? 肝臓ってどこにあるんだっけ…」とかそんな感じの、ぶつぶつ言いながらする下調べが主な作業です。
数日間、ぼんやり想像を膨らませていると、だんだんとイメージが固まってきます。そろそろ良かろうかということで、まずは試しに、自分の横隔膜をゴソゴソ探ってみることにしました。
知りたいのは、どの程度まで目打ちを押し込んでも大丈夫そうかという手応えです。私の横隔膜に癒着があるのかどうかは分かりません。まあ、必要があればそのまま施術すれば良いし、必要がなければ手応えだけ感覚して予行演習としよう、そんな程度の予習です。
と、幸運にも
(?)、横隔膜の左側から問題が見つかりました。ただし中央部の、本当に練習したい部位からは外れています。惜しいッと嘆きつつ、まずは、手頃な練習材料で小手調べ、といったところでしょうか。ちょこちょこと施術しながら、横隔膜と皮膚の手応えやその距離感を実地で確認します。
――一応断っておくと、たいていの場合、こんな予習は必要ありません。というか身体の構造や皮膚・筋肉の状態は、人によってさまざまです。100人に同じことができたとしても、101人目にもできるとは限らない。結局は、どれだけ経験を積んだところで、最後はぶっつけ本番になります。
ただし、まったく施術したことのない作りの部分は、練習がヒントにつながります。そしてこれが私には大事なのですが、知識を持っておけばアタマが、手応えを知っておけば手先が、不必要に怖気づくことがなくなります。
横隔膜は、近所に、大事な臓器や大血管が密集しています。「下手に突っつくのは危険!」とやたらに怖気づけば、不安で手が出せなくなります。けれど、だいたいの位置感覚、手応えを予習しておけば、「下手に突っつくのは危険。だから、ゆっくり慎重に突っつこう」と冷静になれます。
そんなわけで、自分の横隔膜を使っての予行演習はとても重要なのです。
一通りの予習が終了し、まあまあこれで一安心と、ハレバレした気分で目を上げる。と、手近にいた母の横隔膜も、ほどよく具合が悪そうです。ついでだからもうちょっと練習しとくか、という下心も手伝って、母にも施術させてもらいました。
――いやはや、やはり練習はするものです。思わぬ発見がありました。
実際に施術してみると、想像以上に、他人の肋骨やお腹は怖いものでした。もっと浅い部分の施術、たとえば肋骨の間の筋肉への施術なら、日常茶飯の作業です。が、横隔膜は、肋骨の奥に位置します。その深さを突っつくのは、相当集中力が要るようです。久しぶりに、集中しすぎて疲れました。
そして整体をするためには、「ある一点を目打ちで固定して、そこを起点に皮膚を動かす」というごそごそした作業が必要です。これがまた、身体の他の部分とはずいぶん勝手が違いました。
腕やら足、顔なんかでは、ごそごそ動かすのは割合簡単です。皮膚は広々、骨は遥か向こう
(奥)にあって、その間にあるのは脂肪と筋肉くらいのもの。気分としては、凍った琵琶湖の上を一人、スケートですいすい滑るようなものです。のびのび自由に施術ができます。
ところが肋骨周囲は違います。どっちを見てもすぐそばに骨があり、皮膚は面積・深さともゆとりがない。これはまるで、満員電車で無理やり方向転換を試みるようなもので、ごそごそ動かす余地が、見つからないのです。
自分に施術をするときは、身体をひねったりその周囲の筋肉を意図的に動かしたりして、手の作業を手伝うことができました。一方、他人に施術をするときは、相手に動いてもらうことはできません。こちらの手作業だけで、施術をし切る必要があります。
うーん、なかなかやりにくいもんだなあ…。ぶつぶつ思いながら母に施術していて、ふと、ひらめきました。
いっぺんにサクッと動かそうとするから、ごそごそ動かす必要があるのかも。
サクッと動かすことを考えず、じりじりじりじり、数回に分けて、その場で皮膚をずらしてみたらどうだろう?
早速試してみると、良い感じです。骨に囲まれて手狭な肋間部も、反対に、骨が身近にないから頼りないお腹の皮膚・筋も、そして意外なことに、琵琶湖のように広々していたはずの手足の部分でも、場所によってはじりじり式の方が効果が大です。
おおッ、これは良いッ!
「なんで今までこうしなかったんだ」と自らの工夫のなさに呆れながらも感動し、おもしろいから、その後もしばらく自分の手首にじりじりじりじり施術していました。と、みるみる手首の形が変わります。これは、今までできなかった、嬉しい施術です。
想像以上に、良い発見でした。
ただし、現時点の印象では実際の整体の現場で、じりじり式を頻繁に使うことはないと思います。従来の方法に比べて、残念ながら、極端に作業効率が悪くなるからです。けれど、微小な部分への施術には、うってつけ。きっと、この方法でしか立て直せない部分も多いはずです。
ありがたい技術が、ありがたいタイミングで見つかりました。
100208 筋力トレーニングとストレッチ
整体の仕事をしていると、「ジムで鍛えた方が良いですか?」「ストレッチは身体に良いですか?」「ストレッチをしてから首が痛くなったのですが」と、そんな話題になることがあります。
そこで、筋力トレーニング
(略して筋トレ)とストレッチについて、私の思うところを一度まとめておきます。
筋トレとストレッチ。
伸び縮みする筋肉を、一方は縮ませて鍛え、一方は伸ばして弛める。一見反対のことをしているようですが、どちらも、筋肉の状態を変化させることが目的です。そして実は、どちらもそれなりに、危険な側面があります。
筋トレをして筋肉が痛いのは、「筋肉痛」としておなじみです。これは、重すぎる負担を受け、筋肉の線維が切れることで起こります。
以前、筋トレ好きの知り合いが話すのを聞いていて、「意図的に筋肉を切る」ことが筋トレの目的かもしれない、と思った記憶があります。あまり立ち入って聞かなかったので間違っているかもしれませんが、「たくさん切って、早くつなぐ
(=回復させる)」が今時の筋トレなのか……と密かに感心しました。
一方、ストレッチでも、少し伸ばしすぎると筋肉は切れます。もしくは、切れない代わりに、ストレッチをする前より余計に縮みます。「ストレッチをして以来、首が痛くなった」といった経験がおありの方は、それが、筋肉が余計に縮んだ状態です。
ストレッチをするときに「ここをもっと伸ばしたい!」と狙う部分は、ふだん「縮んでいる」と感じている部分です。たいていの場合、「縮んでいる=こっている」なので、感覚的にはだるい部分やしんどい部分を伸ばそう、という意識の方が強いかもしれません。
鍛えたいのは、弱い筋。ストレッチしたいのは、縮んだ筋。
別々に書くとまるで無関係なようですが、多くの場合、この2つの筋はとても近い関係にあります。
大まかに言って、ひとつの関節は、複数の筋肉に支えられています。
たとえば、「1つの関節」を「4つの筋肉」が支えている、といった感じです。この関節で、4つの筋肉すべてが元気であれば、問題はありません。
問題は、4つのうち1つ
(以上)の筋肉が弱くなったときに起こります。
筋肉4つで支えるべき関節を、筋肉3つで支えることになったとき、3つの筋肉はいつも以上に緊張しなければなりません。この状況が、「筋肉の縮みすぎ」の状態です。そして
(正確にいうと少し違うのですが)最初に弱くなった1つが、「筋力が弱い」とみなされる筋肉になります。
つまりひとつの関節でいうと、
一方に弱い筋があるから、それに合わせて縮みすぎる筋ができることになるわけです。
さて。話を戻すと、弱い筋を鍛えようとするのが筋トレ、縮みすぎた筋を伸ばそうとするのがストレッチです。
縮みすぎ、というと何だか悪いようですが、弱い筋の分もはたらくからこそ弛む機会がないわけです。そしてこの、「必要があって縮んでいる筋を引き伸ばす」点に、ストレッチの危険が存在します。筋肉のはたらきが邪魔され関節の安定が危うくなった瞬間、反射的に筋肉がもっと強く縮むからです。ストレッチで筋を傷めるのは、このときです。
そしてまた一方で、弱くなった筋肉をがむしゃらに鍛えることにも危険が潜みます。弱くなった筋肉は、「正常にはたらきながら筋力が弱い」のではなく、「正常にはたらけないから筋力が発揮されていない」状態です。言わば「病気欠席」の筋肉です。
筋トレでは、関節の位置を固定して動きの方向を制限して、その筋肉がもっとも効率良くはたらく状況を作ります。が、そんな状況を作られても、“病欠筋”にはたらくことはできません。
それでも課題をこなすとなると、身体は、“病欠筋”以外のはたらきでもって作業を遂行することになります。つまり、
いくつかの筋肉が替わりにはたらき、さも“病欠筋”がしたかのように課題をこなすことになるのです。これは、非常にしんどく複雑な作業です。そして、それをこなしたところで、実質的に病欠筋が強くなるわけではありません。鍛えられるのは、「病欠筋をかばうための筋」です。
「そもそもの最初に、なぜ筋が弱くなったか」は、ここでは触れません。が、筋トレとストレッチの危険さは以上の通りです。
しんどい筋肉を追いつめることも、必要があって縮んでいる筋肉を伸ばすことも、身体には、無駄な負担を押し付けることにしかなりません。ですから、少なくとも、あまり熱心にしすぎることはお奨めしません。
冒頭の疑問には、この文章でお答えできたかと思います。
「ど――しても鍛えたいッ!」「筋トレが趣味なんですッ」とおっしゃる方を強いて引き止めるつもりはありません。たとえ身体に悪くても、したくなるのが趣味ですし。が、「身体に良いならしてみよう」と思われている方には、「身体に悪いし、する必要も全然ない」と私はお答えしています。
そもそも、運動不足が気に入らなければ身体は勝手に動こうとします。せっかくの休みに出歩くとか、必要もないのに散歩に出るとか、これらはその現れです。いくら叱っても子供がじっとしないのも同じです。
逆に、せっかくの休みを家でだらだら過ごすのも、近所に出るのすら億劫なのも、決心して始めたダイエットや運動が続かないのも、同じことの裏返しです。いまの身体には「動くこと」の負担は大き過ぎる、というサインです。
計画を思い付くのはアタマ
(大脳)ですが、実際に動くのは身体です。しんどすぎる計画は身体に拒絶されて、続けることができません。
私はそう理解しますので、筋トレもストレッチも適当に――ムキになることなく、エエ加減に気が向いたときだけちょっとしてみれば良い、と考えます。がんばりすぎは、身体に毒。様子を見ながら無理をせず、くらいでちょうど良いと思います。
実はこの話は、
(すでに何度か登場いただいた)Tさんとの会話で出たものです。
会話には続きがあり、「筋トレは身体に悪いかもしれない、でもそれでも成績を上げたい、そのためには何をすれば良い?――と選手に聞かれたら何と答えますか?」という意地悪で難儀な質問に続きます。
こちらは、いろいろな意味でちょっと簡単にはお答えできない難問です。まだしばらく作文に手間取りそうなので、項を改めていずれお答えしたいと思います。