整体・身体観 4
090927 続々・技術と道具
キリ
(錐)への移行を無事果たしその精度の良さに喜んでいたところ、1ヶ月ぶりに来られたお客さんから、「道具、変えました? なんだかカドが当たるのですが」と、ずばりのご指摘を受けました。
びっくりした私が、「ええっ、分かります?」と尋ねると、「分かりますよ〜」と、見事に感触の違いを述べられます。
「すごい……。実はキリに替えました。でも、そこまで的確に感覚されたのは初めてです」
「ええ〜、皆さん気付いてても言われないだけなんでは?」
「そうかなあ。うちのお客さんなら言ってくれはる気がしますけど」
「
(お客さんに)聞きました?」
「寝てはる人には聞きませんが、起きてはる人には、痛いかどうか聞きました」
「で、なんて?」
「大丈夫、痛くない、と」
その後、施術する場所が変わるとその方も、「そこなら別に痛くないなあ」とおっしゃっていたので、場所に依るのだとは思います。が、それにしても、道具の形を見ずに形状・材質の感じをずばり指摘されるとは……。すばらしい皮膚感覚です。
しかもその方が感覚されたのは、一般に「鈍い」といわれる太股の後ろ側でした。これもすごいことです。
形まで感覚されたことに感動していた私は、お客さんが帰られるとすぐ、自分でも試してみました。
もちろん、それまでに何度も、自分でキリの感覚を試してはいます
(危険すぎて、いきなりお客様用に使うことなんてできません!)。けれどそのときの判断基準は「痛いか/痛くないか」「鋭すぎるか/すぎないか」が中心です。
今回のように、「押された感触で、形が分かるか?」は、とくに意識したことがありません。好奇心満々、気合いを入れていろいろ場所を変えて試してみましたが、やっぱり私の皮膚では、カドの当たりまでは感覚できませんでした。
それはともかく、折角お客さんが指摘してくれたのです。早速、カドの当たりを改良せねば!――と、先だけではなく、もう少し広範囲にヤスリを掛けてみました。
が、しかし。感覚、というのは難しいものです。
分かる人には当たり前に分かるけれど、分からない人には「ある」ことさえ分からない。それが感覚です。
たとえば私は、「色目のはっきりした細かい縞柄」が苦手です。目にチラつく感じを強烈に感じるのです。数人の人に聞いてみたところ、この感じを覚える人はそれほど少なくないようです。
ところがこれが、分からない人にはさっぱり分からない。「そんな感覚があるなんて、どこかおかしいんじゃないの?」と同業の同級生にあっさり言われ、がっくりした経験が私にはあります。
キリに話を戻すと、では、私には感覚できないカドの当たりは、どこまで丸めれば十分なんでしょう? はっきり言って、よく分かりません。
そこで半分あきらめて、新たに目打ち
(千枚通し)を買ってみました。こちらは最初からカドがないので、カドを取る必要がありません。先を丸めるだけで大丈夫、頑丈なポンチと同じです。
シャコシャコシャコシャコ……ヤスリで先を丸めながら、「軸が滑りやすそうだなあ」とか「ちょっと軽すぎないか?」とか、問題点を感覚します。解決できる問題には、後で手を入れなければなりません。
「うーん。こんなに問題があるなら、せっかく丸めても使えないかもしれないなあ……」。あれこれ考えすぎて悲しくなりかけたところで、形がちょうど良くなりました。
ま、とりあえず試してから、と左腕に施術してみると――かなり、素敵です。軸は確かに滑るのですが、施術の角度で目打ちを持つと、軸に指が触れません。念のため、軸にも滑り止めテープを張っておけば十分でしょう。
よく見ると、軽くて、すらりと長くて、使い勝手も良さそうです。これならきっと、カドも当たらず、施術の精度も下げずにキリの代わりができそうです。
お客さんの緻密な感覚のお陰で、より良い道具に出会うことができました。
と、いうわけで、わずか数日でキリは保留。早くも、目打ちに移行することとなりました。
090929 「阪神・浅井選手肉離れ!」の報に思ったこと
先日、阪神タイガースのゆるいファンである母が、「浅井選手が太股の裏側の筋肉を傷めたんだって」と教えてくれました。
「なんで?」と聞くと、どうもよく分からないけれど、走っていて肉離れを起こしたらしい、とのこと。活躍してたのにもったいない、と阪神の戦力低下を嘆く母を尻目に、私は、肉離れなあ……と、別の物思いに沈みました。
肉離れもそうですが、筋断裂、腱断裂、剥離骨折を起こす原因のひとつには、練習方法の問題があるのではないか? というのが、以前からの私の疑問でした。具体的に言うと、「
適切でないトレーニング(特に局部を狙う筋トレ)」と「
フォーム重視の練習」が、不必要でいびつな負担を身体にかけているように思うのです。
もちろん現在の常識ではどちらも、基本的な練習方法とされています
(関係者の中には「状況は変わってきています」と話される方もいましたが、変わらない練習を続けられる方もいました。現場でも、揺れているのかもしれません)。
けれど実は基本的とされる練習方法は、時代によって大きく変わります。その代表ともいえるのが「うさぎ跳び」です。私の母の世代では、当たり前の練習メニュー。ところが現在はあまり推奨されていません
(腿の血管を傷めるから良くない、と聞いたことがあります)。
つまり、いま「基本的な練習方法」になっているからといって、それが必ずしも「正しい練習方法」だとは限らないわけです。
さて。
筋トレとフォーム重視を私が疑う理由は、
筋トレは、「筋の自然なはたらき方」を無視している。
フォーム重視は、「個々人の身体の条件」を無視している。
と、感じるからです。
動かす“関節”はひとつであっても実際は、目に見えないところで全身の“筋”が作用しています。たとえば「肘を曲げる」とか「膝を曲げる」とか「小指1本動かす」とか、そんな単純な動作であっても、筋は、常に全身で協調してはたらきます。それが「
筋の自然なはたらき方」です。
「
個々人の身体の条件」は、
(皮膚・骨・筋などにできた傷が引き起こす)ひとりひとりの動きのクセを指しています。
傷ができて筋バランスが変化すると、身体の動きにも偏りが生じます。それが、「足を組んだ方が楽」とか「つい頬杖をついてしまう」とか「カバンは必ず右手で持つ」とか「自転車で片手を離すなら、いつも左手」とかいった動きのクセです。これは良い悪いではなく、身体の必然から生じます。
「全体」ではたらく筋肉の「一部分」に特別な負荷をかけ、「動きのクセ
(ある動作への向き・不向き)」を無視して「固定化された理想の動き」を目標にする。それは、“個体”である身体に対して、本末転倒なのでは……? というのが、私の感じる疑問です。
この疑問に、科学的根拠とかデータはありません。あくまで感覚的、経験的、そして私の身体観・整体観に基く素朴な違和感です。
ところで、疑問が浮かんだら実験して確かめる――この手順が、私は大好きです。
とはいえ「偏った筋トレで肉離れが起こせるか?」のような、成功しても結果が悪く出る実験はしたいと思いません。ですので、こちらは“思考実験”だけで我慢です。
けれど、もうひとつの疑問――フォーム重視の練習については既に、ちょっと違った形で、5、6年前から実験中です。
それが、「太極拳の型
(フォーム)通りに動けるよう、整体で身体を変化させる」というものです。方法の詳しい内容は以前にもちょっと書いた気がするのでここでは触れませんが、この実験をしていると、身体のクセがいかにおもしろいものか、よく分かります。
まず、自分の身体にできない動きは、どうがんばっても絶対にできません。それが他の人の身体にはどれほど自然な動きであっても、無理なものは無理。徹底しています。
ところが姿勢が悪いなら悪いまま、妙なクセがあるならあるまま置いておいて、先に整体をします。そうして整体で身体のクセがうまく変えられれば、その瞬間、見事に動きが変わります。さっきまでその向きには曲がらなかった肘が当然のように曲がり、それまでの「曲げられなかった感覚」はもはや思い出せなくなります。
クセが変われば自動的に動き
(=フォーム)も変わる――それが自然であるなら、クセを変えずにフォームだけ変えることは、身体に無理を強いることなのではないか。私はそう確信します。
では、整体をしない
(あるいはできない)場合はどうするか?
私なら、自分のクセに従ったまま、つまり理想のフォームからは外れた動きのまま、「自分の身体にとっての効率的な動き」を探すと思います。
もちろんこれはそう簡単なことではないでしょうし、そうした場合、期待するような結果は出せないかもしれません。けれど、その工夫の中でできた動きは、自分の身体に適った動きのはずですし、少なくとも深刻なケガにはつながらないはず、と期待します。
冒頭の浅井選手が、無理なトレーニングをされていたかどうか、不自然にフォームを改造されていたかどうか、そういったことは分かりません。ただ、スポーツ業界全体で、このところよく肉離れの話を聞く印象があり、連想がてら、個人的な疑問をまとめてみました。
追記:
本文を書き終えてからふと、肉離れ情報で間違いがなかったか不安になり、ちょっとネットで調べてみました
(順序が逆!)。
結果、肉離れは合っていましたが、5月にも右足首を傷められていたことを知りました。とすると、浅井選手の右太股裏の肉離れは右足首の傷の影響、と理解する方が正しそうです。
浅井選手の場合はトレーニングやフォームの改造と無関係だったかもしれないのに、肉離れと聞き、ついつい勝手に連想してしまいました。もうちょっと調べてから書こう、と反省します。
091005 奇経八脈の使い方
奇経八脈と書いて、きけいはちみゃく、と読みます。
1本だけ
(=奇数本)流れる8つの脈、の意味で、東洋医学の「気の流れの通り道」を表す言葉です。
「気の流れの通り道」には、さまざまな行き方があります。
いちばん有名で重要な通り道は、「経絡
(けいらく)」とよばれることの多い「十二経脈
(じゅうにけいみゃく)」です。こちらは2本ずつの組に分けることができるので、「奇」の字は使いません。そしてこちらは「気の流れ」的に“本流・主流”なので、その状態を把握するための検査法が、いろいろ編み出されています。
ところが奇経八脈は、「十二経脈の連絡係」という扱いです。東洋医学の専門書を開いても説明は少なく、状態を把握するための正式な方法・検査法は、私はいまだに知りません。けれど、奇経を使わなければできない施術もあることだけは、確かです。
そこで、必要は発明の母。仕事のなかで必要に迫られるうち、八脈のうちの2本だけは、私なりの方法でなんとなく使いこなせるようになりました。
そして今回、また新たに1本、私なりの使い方が確定しそうですので、報告がてら、まとめておきます。
(その前に、ちょっと個人的なお詫びを一言。
Tさんスイマセン! 十二経脈を「左右」の組、と説明しましたが正しくは「陰陽」の組、でした。
自分で言葉にしながら「ん??」とひっかかったのですが、その場の話題に深く関わらなかったので流してしまいました。
「左右」の組と「陰陽」の組では大違いです!
ここで言い訳・説明するのはタイヘンなので、次回来られたときに、改めて訂正させてください、ゴメンナサイ!)
奇経八脈のなかで特に重要なのが、身体のど真ん中
(正中線)を縦に走る、2本の脈です。前側を走るのが任脈
(にんみゃく)、後ろ側を走るのが督脈
(とくみゃく)とよばれます。
任脈・督脈の使い方は、我ながらちょっと洒落ていて、かなりお気に入りです。
たとえば「右肩が痛い!」と言われて、左肩に施術したとします。左肩の施術がうまくいって、右肩の痛みは軽くなりました。これで“主”となる施術は一段落なのですが、この後に、ちょっとした事後処理が必要になる場合があります。このときに、任脈・督脈を調整するのです。
たとえ正しい操作であっても、施術をすると、身体のバランスは変化します。左半身に施術をすれば左半身の状態は変化し、それまで、それなりに釣り合っていた左右の身体のバランスは崩れます。
任脈・督脈への施術は、その崩れた左右のバランスを折り合わせるためにおこないます。言ってみれば任脈・督脈を使って、ちょっと左にずれた「ど真ん中」を新たな「真ん真ん中」に引き戻すための施術です。
さて、今回、新たに使い方が分かったのは、帯脈
(たいみゃく)とよばれる脈です。名前のとおり、帯のように腰のぐるりを取り巻きます。
個人的には、「奇経八脈のなかで、任・督の次に重要な脈はコレ!」と勝手に確信していました。が、実際のところ、どう使えば良いのか、さっぱり分かっていませんでした。それを教えてくれたのが、
(前述のお詫びの相手である)Tさんです。
まず、Tさんの状況を簡単にご紹介しましょう。
Tさんのケガは、上半身に1つ、下半身に1つ、おなかに2つ。
対する症状は、上半身に1つ、下半身に1つ、おなかは目立った自覚症状なし。
そしてTさんの施術状況は、
「上半身の症状がきつい」と言われて上半身に施術をする。
⇒上半身の症状は緩和する。が、入れ替わりに、下半身の症状がきつくなる。
⇒「今度は下半身の症状がきつくなった!」と言われて下半身に施術をする。
⇒下半身の症状は緩和する。が、入れ替わりに上半身の症状がきつくなる。
⇒(1行目に戻る)
Tさんの場合、「何をやってもさっぱりダメ」なわけではありません。「今度は上半身」「今度は下半身」と施術を交互に繰り返せば、症状は移動するからです。
ですが難儀なことに、「全体的に改善している」手応えはどうにも感じられません。まるで「下のものを上へ運び、上のものを下へ運び」しているだけで、一向に「減る」気配がないのです。
Tさんも私も、少しじりじりしてきました。
と、そのとき、私の頭に「帯脈!」の2文字が浮かんだのです。
カギになったのは、任・督脈の持つ意味です――とか気の利いたことを言えればカッコ良いのですが、ホントのところは、「左右の折り合いをつけるのが任脈・督脈なら、上下の折り合いをつけるのが帯脈かも!」と、苦し紛れの思いつきです。
「とりあえず試せ!」という心の声に引きずられ、必死かつ慎重に検査を始め、手応えが良かったので施術した、というのが実際です。
今回の施術結果が
(私に)分かるのは、また後日です。ですが、帯脈の使い方として、「上下の折り合いをつける」というのは、間違っていないと直感します。
そして帯脈の使い方がこれで合っているなら、使い方の良く分からない奇経は、あと5つ。また新たな発見があれば、ご報告したいと思います。
091009 この頃の、太極拳。
7月下旬に新しい太極拳教室に移ってから、早くも数ヶ月が経過しました。
今度の先生は、動作要求をきめ細かく丁寧にしてくださるので、物分りの悪い私でもなんとか付いていくことができています
(たぶん)。そしてそのお陰で、これまでになく膨大かつ複雑な「自分整体」をすることができました。
が。
その内容が膨大かつ複雑に過ぎたために、なにをどう整体したのか、自分でも追跡しきることができませんでした
(…)。なんせ「先生の要求通りに動こう!」と思っただけで、山のような施術が必要になるのです
(どれほど“動かし勝手”の悪い身体なのだ……)。
「〇〇を練習するためにはまず、あっちとこっちを立て直さなきゃ」。
で、ちょっと施術を始めると、思わぬところのバランスが変わったり芋づる式に問題点が見えてきたりして、作業量が急激に膨れ上がります。それで「ああ、アカン、ここがまだおかしいわ」とか「ここに施術したらあそこのバランスも変えとかなきゃ」とか、ぶつぶつぶつぶつ施術を重ねるうちに、そもそも何から手をつけたのか分からなくなっている――。まるで、盛り上がるだけ盛り上がったけど何の話をしていたのかは覚えていない、絶好調の世間話のような日々が、見事に続いたのです。
毎日毎日、「へえー、こんなところに、こんな施術ができるのか!」とか「あらら、私、こんなところも傷めてたのか!」と、驚きと発見の連続で、それはもう楽しくて楽しくて、しかも気が付いたら格段に身体の安定感は上がっていました
(当社比)。
「これは、そろそろ記録しとかなければ忘れるぞ」と振り返ってみると――、残念ながらもう、きれいさっぱり細かな内容は忘れていました……。
そもそもブログを書き始めた当初の予定では、
@太極拳の先生が教えてくれた通りの仕方で、実際に動いてみる。
A先生から訂正を受け、「できているつもりだけどできていない」動きの状態を確認する。
B確認した内容をもとに、自分の「身体のずれ」を探し出す。
C「身体のずれ」に整体する。
D動きが変化したかどうか、再確認する。
という手順を想定していました。けれどよく考えるとこれは、ひとまずは@ができると仮定された上での展開です。まさかいきなり@の時点から動けないとは思っていなかったので、すっかり予定が狂いました。
とりあえず明らかな成果として把握しているのは、
使う道具が変わったこと
数ヶ月前から私の(整体の)腕前が上がったこと
などです。
わずか数ヶ月に起きた変化としては劇的・奇跡的な成果です。本当に、ありがたいことです。
ところで、前回の太極拳教室では「パンチ」の仕方を習いました。
先生の「ここは拳
(パンチ)じゃなくて肘打ちでも良いですよ」の声に振り返ると、応用版の動きを見せてくださっています。
私はなぜか、昔から「肘での攻撃」が大好きで
(というとヘンな人ですが、形状的にいちばん“攻撃に向く”関節ですし、攻撃距離が近い分、動きに無駄感がなくて美しい)、反射的に、「おおっ、私もあれがしたい!」と飛びつきたくなります。
が、しかし。
実はあの動作には、危険な罠があります。素早い肘打ち動作は肩甲骨の動きが悪くてはちっともサマにならない――どころかかなり不細工に見えるのです。負けず嫌いの私としては、うっかり人前で練習するわけにはいきません。
「私もしたい!」とはやる心を抑えつけ、「いまの私の肩甲骨では、まだ不細工だからダメ!」と諦め、とりあえず、見て憶えて宿題とします
(そして、帰ってから1人でこっそり練習する)。
ちょうど、先々週に習った動き
(「雲手」を使った練習動作)にも、引き続き課題が残っています。
「雲手」は、全身を左右対称に使う横方向の動きです。連続的な重心移動に合わせ、なめらかに腕を動かす――と、こちらも肩甲骨のはたらきが絡んできます。
「雲手」と「肘打ち」。両方に共通の問題点を探っていけば、新しい何かが見えてくるかもしれません。
ということで、両方の練習を
(帰ってから1人で)、丁寧に何度か繰り返しました。力の入っていない部分
(具体的には筋)はどこか、重心を乗せきれない部分はどこか、などを探るための練習なので、形は重視しません。そうして不安定な部分を見つけるたび、練習を中断して施術。
それが済んだらまた動いてみて、不安定個所を探す……。
そんな作業を繰り返していると、最終的に、重要そうな部位が見えてきました。今回は、どうやら仙骨・尾骨
(ともに、おしりの骨)が重要だったようです。
「仙骨・尾骨のはたらきが悪く、重心を後ろに引きとめておけないため、身体が前のめりになる。その結果、やや上がり気味になる重心を支える必要から、肩の動きに制限がかかる」というのが施術の骨子かな、という印象でした。
考えてみると、これまであまり仙骨・尾骨に施術をした記憶はありません。確かにここは、手を伸ばしての疲れる施術に加えて、1人では検査がしにくいところです。今回も母に助っ人を頼み、ようやく半分くらい作業が済みました。
とりあえず今週は教室がお休みです。来週、動きが変化していれば、施術は成功といえるでしょう。
どうぞ、うまくいってますように。
091013 Tさんのその後。奇経八脈の今後。
先日、『奇経八脈の使い方』
(091005)にご登場いただいた、Tさんの経過報告です。中3日あけて4日目に、再度ご来院くださいました。
全体的な変化としては、症状のメリハリがはっきりした様子です。痛いところははっきり痛く、ぼんやりした違和感はより軽く、という具合です。痛む部位やその他の体調には、大きな変化はなかったとのことです。
痛みが明確になったのは、一見悪いことのようですが
(そして当事者にとっては明らかに不愉快なことですが)、整体の経過としては一概に悪いこととは言えません。
実は身体感覚の混乱が強い、よりしんどい時期には、むしろ漠然と全身がだるいとか、どこか分からないけれど何となくこの辺が痛いとか、あいまいな症状の方がむしろ目立ちます。「ここ、ここ、ここが痛いのよ!」と、痛みの所在を身体がはっきり訴えられているのは、それだけ感覚が良くなったからと理解できる場合もあるのです。
さて、四診
(=東洋医学の検査)が済んだら施術ですが、こちらの方も、良い具合に進みました。
私は自分の施術を、「身体の立て直し」とイメージしています。ずれた位置にある筋を元の位置に戻し、途切れた皮膚の連絡を元のようにつなぎなおす。施術がうまくいっているときは、動かした筋や皮膚が動かした位置に留まり、ピタッと収まる手応えがあります。
反対に、うまくいっていないときは、動かしても動かしても、しばらくするとまた、筋や皮膚が悪い位置に戻っている感じがあります。
前々回までのTさんは、3歩進んで2歩下がる、「動くのだけれど収まりきるわけではない」という微妙な状態でした。「あとひとつ! あとひとつ何か動かせれば、きっとピタッと収まるのになあ……」とそのきっかけを必死で探していたのが、前々回までの施術です。
それが今回の施術では、3歩進んだなら3歩分、ピタッ、ピタッと気持ち良く収まってゆきます。明らかに、前回おこなった帯脈への施術が効いています。
施術が終わって立ち上がってもらうと、さらに結果は一目瞭然でした。もともとTさんは背も高く、体つきもしっかりした方です。
ですが施術前は、実際ほどは大きく見えない、というかしっかり見えない感じがありました。それが施術が済んで立ち上がると、一本すじが通ったように首から肩にかけての感じがすうぅっと伸び、非常にきれいなのです。Tさんご自身も「首肩が楽」とおっしゃっていました。
とても良い、大きな変化を期待できそうな展開に、どうやら進めたようです。
最近では、Tさん以外の方にも意識的・積極的に、帯脈の状態を検査するようにしています。検査をした感じでは、
@今のところ、帯脈への施術は不要の人
A帯脈への施術が必要だった人
B帯脈かと思いきや、おなかへの施術が必要だった人
の3つの場合が見られます。
@の方はともかく、A、Bの方には私の腕不足をお詫びするよりほかありません。と同時に、ぜひぜひ今後の変化に期待してください! と心よりお願い致します。
帯脈の難しいところは、脈診の結果とは無関係に、施術の必要/不要がみられることです。この「脈診との無関係さ」は、
(同じく奇経八脈の)任脈・督脈
(にんみゃく・とくみゃく)に共通します。任脈・督脈も、うまく動かせなかったときは、脈診の結果とは無関係に問題を引き起こしました。
脈は、十二経脈の状態に応じて変動します。その脈に反映されないことこそが、きっと、奇経の奇経たる所以なのでしょう。
整体における使い方も、帯脈は、任脈・督脈とほとんど同じです。
通常の施術で動かした「局部の状態」を「全体」に反映させるために、帯脈に施術します。
おもしろいのは、任脈・督脈が左右のバランスを調整するのに対して、帯脈は上下のバランスを調整します。ちゃんと、奇経の道筋に沿った役割を、それぞれ受け持っているようです。
任・督・帯の三脈については、「ある程度施術が進むたびに、こまめに検査する」ことを習慣付けておけば、以後、トラブルは防げると思います。効果と影響の大きい脈だけに、上手くつきあいたいところです。
ところで、Tさんは、好奇心がすこぶる旺盛な方です。医療業界の方ではないそうですが、あれこれ調べて来られては、鋭い質問を頂戴します。
たとえば今回は、「目は、開けている時と閉じている時、どちらが自然な状態か?」と聞かれました。ちょっと不意をつく質問です
(ちなみにこれは、「陽の気が強い時は目は開いて、陰の気が強い時は目は閉じるのが自然」です。以前たまたま東洋医学の文献で見たことがあり、すぐにお答えすることができました。昼に起きて夜に寝る、という人間の生活は、ここから説明できるのだとか)。
前回話題になった奇経八脈についても、「早速、ネットで調べたよ」とのこと。そこでお話を伺っているうち、私の誤解をひとつ、見つけていただきました。
身体の真ん中を「縦に走る」奇経には、前述の任脈・督脈があります。そしてもうひとつ、それと近い位置を、衝脈
(しょうみゃく)という脈が走っています。
この衝脈の通り道を、どうやら私は間違えて理解していたようなのです。教えていただいた経路が正しいなら、そしてそこからさらに想像を膨らませるなら、衝脈もおもしろい使い方ができるんじゃないかなあ、という気がしてきました。
これまた、お陰さまで、おもしろい発見にたどり着けそうな気配です。
091105 後遺症は抗がん剤のせい、か?
事の発端は、Aさんの見舞から帰った母の言葉でした。
「Aさん、もう横隔膜が動かせないんだって。抗がん剤の後遺症だとかで」。
Aさんは、私にとって未知の人ではありません。けれど、直接見舞に伺うほど親しいわけでもありません。身近でもなく他人事でもない距離感のなかで、見舞特有の重さを感じながら、私は母の報告を聞いていました。
そこへ、冒頭の言葉を聞いたのです。
抗がん剤で横隔膜が動かない……? そんなことってあるのだろうか??
――直感的に、それはきっと違う、と感じました。そしてその直感に任せて私は母に、「Aさんに施術させてもらえないか聞いてほしい」と頼んでいました。こう見えて内気
(?)な私には、珍しい大胆さでした。
私が考えたのは、次のような状況でした。抗がん剤は点滴で入れた、とのことなので、
ア 最初に曝される腕の血管を、薬液で傷めた
イ 注射針が刺さることで、腕の筋を傷めた
ウ 点滴の間中、腕の位置を固定しておくことが、Aさんには負担だった
のどれかの可能性がまずあって、その結果、腕⇒肩⇒肋骨と問題が連鎖したのではないか。そして問題が肋骨に及べば、そこから横隔膜への連鎖はすぐです。
ついでに、私が考えた「可能性への反論」も述べておくと、
対ア 薬液が血管を傷めることはあるのか?――それは分からない。でも無いとは言い切れない、と思う。
対イ 注射針程度で腕の筋を傷めるか?――これは、ある。大問題にまで発展することは少ないけれど、他のお客さんでも、予防接種の傷痕から皮膚・筋に問題が見つかることは珍しくない。
対ウ 腕の固定が負担になるか?――身体が軟らかければそれほどの負担にはならない。でも既に、胸や背中の筋に傷があったとしたら、腕の動く範囲が非常に限られる可能性は高い。そして、Aさんの胸や背中には傷がある。
と、ア〜ウのどれが正解だったにせよ、腕の筋・皮膚に問題がある可能性は残ります。
そしてもしそうだとすれば、横隔膜が動かない原因が、抗がん剤の後遺症ではなく腕の問題、かもしれないことになります。
もちろんこれは飽くまで私の予測で、腕に施術をしたところで横隔膜は回復しないかもしれません。けれど、やってみて損はないんじゃないか――そう思って、母に申し出ました。
私の推測・説得を聞いた母は、明らかに迷っていました。が、返事を保留し、父とも相談をし、腹を決めた母は、翌朝いちばんで電話を掛けてくれました。
そして、その日の内に、Aさんのお宅へお邪魔することになったのです。
挨拶を済ませ、例のごとく“分かったような分からんような説明”をし
(一体いつになったら私は説明が上手くなるのか……)、いざ施術に入りました。
脈診の結果は、「腕に問題がある、かも?」。細かい検査を進めていくと、ばっちり、右腕から反応が得られました。
ここでようやく、Aさんに聞きます。
「点滴はどこに打ちました?」。
奥様は、「私は分かりません」。
Aさんは、即、「右腕」。――これで、確定です。
実際に施術していると、Aさんの右肘周囲は痛々しいほど痩せています。見た目にも、皮膚も相当弱くなっているのが分かるので、慎重に、黙々と、検査、施術、検査、施術を繰り返します。
右腕周囲の施術が一段落して全身を見ると、下部肋骨
(=横隔膜との関係大!)付近の筋の左右差が、先ほどよりはっきり目立ちます。そして肋骨周囲は、左側の方が痩せています。
その左右差を均すように、また、検査、施術、検査、施術を繰り返しました。
そうして、切りの良いところで施術を終えます。後は、よく寝てもらって身体自身の回復を待ちます。
帰り際には奥様が、「結果はまた明日にでもご連絡します」とおっしゃってくれました。
翌日、奥様からお電話を頂戴しました。すぐにAさんに代わられて、「何がどう良くなったかは分からないけれど
(※スイマセン、そういう施術なのです)、調子が良い。動く意欲があるし、実際、昨日より動けている」とおっしゃってくださいます。
昨日の今日という興奮と、施術者に対するリップサービスを差し引いても、具合が良くなっていることだけは確かそうです。上体を起こす、歩いて移動するといった動作に変化が現れているのが、ひとまずの証拠です。
あとは、この状態が維持できるかどうか、もう少し良い状態に改善できるかどうかが、腕の見せ所です。
次回、もう一度施術することが決定しました。
Aさんのような状況は、回復までのスピードが勝負です。気合を入れて、臨みます。
091118 猫背からの脱出
私の中学生頃からのチャームポイント
(?)、かなりな猫背がようやく改善できそうです。というか現在、既にやや改善しつつあります
(まだ途中)。
これは私にとって、本当に本ッ当にめでたいこと。なんせ中学時代の担任の先生に始まり、会う人会う人から「背中曲がってるよ」と指摘されるほど、極端な猫背なのです。
「猫背が気になって」と整体に来られたお客さんより私の方が猫背で、お互い言葉に詰まった、なんて笑えない話もあるほどです。
「背中曲がってるよ」という指摘は、「伸ばせば伸びる」ことを前提にしています。しかし私の背中は、「ついうっかり丸くなっていた」のではなく、「丸いのが標準」。がんばっても、あんまりうまく伸びません。
私の背中が丸いのは、きっと肋骨の角度が悪いから。
⇒肋骨を、あるべきところであるべきように支えるのは筋。
⇒ということは、どこかの筋に問題があるはず。
と、ここまでは予測していました。
が、どの筋がはたらいていないから肋骨の角度が悪いのか。それが、さっぱり分からなかったのです。
もちろん、直接の原因になっているのはきっと肋間筋とか前鋸筋のような肋骨周囲の筋肉です。けれど私の施術方法では、もっと全身的な立て直しを狙います。
ですから大元の原因が分からないことには、肋間筋とか前鋸筋だけに注目しても、施術はうまくいきません。
太極拳を習い始めたときも、「身体が前に倒れてる!」と何度も注意されました。1人目の先生とはお話しする機会があったので、「私はこういう体形
(?)なんです」とご理解
(ご勘弁?)いただきました。2人目、3人目の先生のときは、特に説明する機会がありませんでした。
そして先日、4人目の先生から2度目
(3度目かも?)の注意を受けました。2度目とは言っても久しぶりのことで、前回注意されたのは半年ほど前のことです。
注意の間隔が空いたのは、決して猫背が直っていたからではなく、「言っても直りそうにない/それより他に注意すべきところがある⇒だから言わない」だったはずです。
それを、久しぶりに注意されたその感じから、なんとなく「いまが猫背に施術するタイミングなのかも?」という予感がしました。
そこで今回は、特に猫背に注目して、自分整体をしてみました。
結果、予感的中。「筋」ではなく、広い範囲の「皮膚」から問題が見つかりました。
まず最初に施術できたのは、右腕の骨の、肩関節の部分です
(これは骨と筋への施術)。その後、右腕の皮膚と右足の皮膚、つまり右半身側面の広い範囲の皮膚から、よじれが見つかりました。
皮膚への施術方法は、これまたちょっと特殊です。皮膚の一点を目打ちで押さえて固定し、全体のよじれを引き伸ばすように手とか足全体を動かします。そうすると、徐々に皮膚の状態が収まってきます。
関節のむくんだような感じが取れて、すんなりすれば一段落。この感じは、ちょうど、ずり下がってしわになった靴下をごそごそ引き上げる感じに似ています。ピタッと収まった瞬間、すっきり違和感がなくなるところも同じです。
この状況を「これまで私は皮膚をよじったまま着ていたのだな」と想像すると、ちょっと愉快です。
肩の位置とか腰のすわりはいままでとは感じが変わり、鏡で見ても、これまでになく自然に背中がまっすぐです。“猫背でない人”の姿勢なんて、これまで体験したことがないからなあ、なんてちょっと照れながら、引き続き、変化を追っていきたいと思います。
余談です。
右手の皮膚を、左手で持った目打ちで押さえたまま、右腕をめいっぱい動かすのは至難の技です
(右手の位置に、左手が届かなくなるから)。
今回私は母に手伝ってもらいましたが、もしも1人でするなら“目打ちの固定具”が必要です。「なにで固定すれば適当かなあ?」と考えるうち、鍼に思い至りました。
鍼をぷすっと刺しておいて、1人でごそごそ動けば良いかも、と思うのです。
私は鍼師ではないので人様に打つことはできません。けれど、自分で自分に打つ分には自由です。
「一度試してみるのも楽しいかもしれない…」と、またまた妙な思いつきが湧きました。
そもそもむかしの中国には、お医者さんであると同時に武術家でもあった人が少なくないと聞きます。ちょっとオジイチャンな先生が、鍼を打ったまま気功や体操
(導引?)をしている――なんて、私的にはちょっと素敵な光景です。
実際にそんな奇特な方法を実践する人がいたかどうかは知りませんが、いなければ私が第一号。いずれ、機会があれば試そうと思います
(もしかしたら私が知らないだけで、鍼の、至ってふつうの使い方なのかもしれませんが)。
091122 無謀な試み
前回
(091118)の予告
(?)通り、早速ハリを試してみました。
ハリ、といっても私は一介の整体師、「手持ちの鍼」などありません。仕方がないので家にあった待ち針を消毒して、使うことにしました。
まずは、マッチの火で焼くところからスタートです。
チリチリッとひと焼きして、灰皿の水でジュッ。安物の針なのできっとあんまり意味はないと思いますが、とりあえず気分だけ、焼きを入れて消毒もして。それからおもむろに場所を定めて、右手の手首付近にプスッと一息。
――が、刺さりませんでした。
幼少の頃から注射とか針がダメな私。覚悟が足らんのかしら。もう一度、気合を入れなおしてプスッ。勢いよく刺しすぎ? もっとゆっくりが正解かしら。ゆっくり差し込むようにプス。
――やっぱり刺さりません。
針に押されて、肌がたわむ感覚はあるのです。ですが、たわんだまま骨にたどり着き、それ以上押せなくなるのです。
どうしようと考えるうち、むくむく言い訳の材料が浮かんできました。
考えてみれば。
これまで、鍼を打っているところを見たのが
(たぶん)数十回。
(↑学生の頃、バイト先の研修で垣間見させてもらいました。)
実際に自分が打ってもらったのは一度きり。
(↑その研修先の先輩に、ふざけて1ヶ所、刺してもらいました。)
しかもどちらの場合も鍼師の方は、鍼管
(しんかん)とよばれる専用の器具を使われていました。
てゆうことは私、中国鍼式に、鍼だけ持ってプスッと刺しているところって、見たことないのね! それじゃあダメだわ。――即、あきらめました。
そんなわけで、無謀な試みはあっさり失敗に終わりました。
せめてプスプス針を刺したままラジオ体操くらいできていれば、後々の話の種にできたのですが。残念。
091122 Aさん、その後。
先日は、Aさん
(091105)に3回目の施術をさせていただきました。
初回のときは、呼吸がしんどい、元気が出ない、としょんぼりされていたAさんですが、2回目以後のご様子をうかがって、たまげました。
近所まで、ちょっと車で出かけてみたというのです。もちろんAさんが運転して、です。
これは、あまりにも無謀です。なにも無かったから良かったものの、事故でも起こせば取り返しがつきません。
当然、私は抗議しました。しかし同時に「人間、気の持ちようやねえ……!」とつくづく感心しました。
Aさんの意図はきっとこうです。
Aさんは、原則的に私が訪問施術はしていないことをご存知です。ですからその原則を曲げて私に毎回来させるのは、気の毒だ。だから近いうちに自分が店に行こう。自分の車で!
――と、いうことなんだと思います
(確認はしていませんが)。
しかしAさんは大事なことをご存知でない。店は、2階にあるのです。車はタクシーで代用できても、「おんぶで2階」はちょっと厳しい。
次回伺ったときは、車より階段練習! とお願いすることにします
(……)。
身体の状態が良くなってくると、たいていの人が、以前より活発になります
(もちろん、個人差はありますが)。
休みの日は寝て過ごす→→→出掛けるようになる。
趣味はない→→→新しく習い事を始める。
普段から運動をしている→→→運動の量や質が変化する、などなど。
これらは、身体が元気になる⇒心が元気になる、の流れです。
ところが、いまのAさんはちょっと違います。
「息を吸うのが少し素直になっている」とおっしゃるので、身体の変化がないわけではありません。けれど、それよりもずっとずっとずっと心の方が変化しています。
私だって、心が元気になる⇒身体が元気になる、の流れがダメだとは思いません。最近の世の中がどちらかというとこちら
(心⇒身体)の流れを重視する傾向にあることも、ぼんやりとは知っています。
「生きがい」とか「気の持ちよう」とか「病は気から」とか。根っからの整体屋でありながら、「心⇒身体」系の言葉はすぐに思い付けても、「身体⇒心」系の言葉はパッと出てこないくらいです。
「身体がしんどければ気分も萎える」とか「身体が元気なら気分も晴れる」なんて、当たり前すぎて誰も言わなかったのかもしれません。が、当たり前かもしれませんが、整体屋として望ましいのはやっぱり、身体⇒心の順番です。
(「病は気から」は、元々は違う意味だったと聞いた気がしますが、いま現在の一般的な使われ方では心⇒身体ですよね…。)
いまになって、Aさんの心の変化を停めることはできません。とすると、身体の変化を心に追いつかせるしかありません。
「いったいどんな工夫をすれば、Aさんの身体を
大急ぎで立て直すことができるんだろう……」。
ぐるぐるぐるぐる。思考実験と文献漁り
(といってもあまりピンと来るのはないのですが)に焦る日々です。
091127 段取りの立て方〜ナガノさんのご質問への答え
私の整体に、
(技術的に)興味を持ってくれているナガノさん
(仮名)から、施術の段取りの立て方を聞かれました。
私がしている整体では、毎回毎回、施術する部位・方法が異なります。
今回うつ伏せで背中に施術したと思ったら、次回は仰向けで手の指に施術。またその次の回には、手の指と頭を交互に施術――といった具合で、決まった段取りがありません。それを、どのように選択・決定しているのか。
――それが、ナガノさんの疑問でした。
誤解を怖れず乱暴に言うと、段取りはありません。行き当たりばったりです。
たとえて言えば、地図と、時計と、コンパスだけ持って、ふらふら探検に出るようなものです。探検の目的地やルートを決めるのは、その日の天気と、体調の良し悪し。快晴で元気なら遠くまで行けるし、難所に挑戦するのもおもしろい。風が冷たく曇り空で、ちょっと風邪気味ならば安全策を取る方が無難。
でも、天候も体調も、その日になってみないと分からない。だから、あらかじめガチガチの計画を立てることはしない。
同じように、どこに施術すべきか、どこがいちばん問題の大きな部位かは予想ができません。お客さんが来られて、顔色や声の調子を拝見して、お話を伺って、脈を見せてもらって。その時点でやっと、「前回の施術の結果」が判断できます。
前回の施術が拙
(まず)ければ、今回は方針を変えなければなりません。割合良いようであれば、引き続き同じ方向で施術を進めるか、さらに発展させて別の方向に進むか、判断が必要です。
どちらにしても、「前回の施術の結果」が出揃わなければ、今回の施術の方向は決まりません。前もって段取りを立てることは、できないのです。
では、「前回の施術の結果」が出揃った後の、「行き当たりばったりの判断」は、どのようにしているのか。
(ナガノさんがお知りになりたかったのは、このことと思います。)
全身のあちこちに点在する「身体の問題」は、単独でみると「局部の問題」です。たとえば、「膝の筋がおかしい」、「のどの付け根がおかしい」、「鼻が曲がっている」。こういった状況を、膝、のど、鼻と、ばらばらに捉えると、問題があるのは「3つの部分」です。
けれどこのとき、東洋医学の経絡
(けいらく。気の流れの道すじのこと)の考え方を持ち出して、「胃経に問題があるのかな?」と考えると、「部分」が「一つ」にまとまります
(膝、のど、鼻はどれも胃経に含まれる)。
また別の解釈で、のどと鼻を上半身
(たとえば肺経、三焦経)、膝を下半身
(たとえば胃経、膝裏を考えて膀胱経)と捉えると、また別の関連が現れます。
ぱらぱらと見つかる「局部の問題」を、局部の範囲では解釈しない。お客さんからいただいた情報や自分自身の感覚を駆使して、「全体の問題」として捉え直す。これが、私の考える「行き当たりばったりの判断」です。
そしてこのとき俄然、常日頃から頭に染み込ませておいた身体観が必要になってきます。たとえば東洋医学の理論、筋のはたらきについての理解、解剖学・生理学・内科・外科……といった西洋医学的知識などなど、自分なりの理解の“固まり”です。
身体観は、身体の「局部」と「全体」をつなぐための基盤です。そして、「局部の問題」を「全体の問題」に読み直すために、
どのような解釈をするかが、その後の段取りに直結します。
先ほどの例を使うと、「膝」と「のど」と「鼻」と聞いて、「全部、胃経に関連してるなあ……」と感じる。そのぼんやりした感じが、解釈です
(あくまで感じ。断定しないところがミソです)。
ある解釈をすれば、その解釈に基づいて、関連部位が想定できます。
施術は、@想定された関連部位をこまかく検査し、施術する。Aそうして施術範囲を広げながら、つねに、全体の様子にも注意を払い続ける。そして、B時間や手応えを見計らって、問題の大きな見落としがないか検査し、大丈夫のようなら一段落とする。――こういった流れでおこないます。
次に来られた際、先の解釈
(胃経)が拙いと判断できたなら、その結果を踏まえて、別の解釈の可能性を考えます。
と、こんな感じに段取りを立てていきます。行き当たりばったりとは言え、まったくでたらめなわけではありません。
どんな解釈をすべきか、どんな解釈が適当か。その判断のための材料が、その場に立つまで揃わないから、行き当たりばったりにしかできないのです。
そしてだからこそ、仕込み――現場を離れたときに、身体観を十分に練り上げておくことが、必要になるのだと思っています。
ナガノさんは、「判断を生むのは経験?」とも聞かれました。が、私は経験はあまり関係ないように思います。
確かに、経験が浅くて緊張しているときは、手先は施術に集中させながら意識はお客さんと雑談を交わすとか、「予想不可能な展開」にさせず、もしなってもたじろがないとか、時間内に施術を一段落させるとか、説明のための筋道を追いながら施術するとか、「もっと分かりやすく説明して」と言われたときの対処とか、こういったことを難しく感じるかもしれません
(とくに時間と説明!)。
けれど、これらは馴れの問題で、判断とは無関係です。そしてまた単なる経験を漠然とどれだけ積み重ねても、本質的な、段取りや判断の洗練にはつながらないと思います。
段取り・判断を組み立てるためには、
- 古今東西の医学関連書に接して、身体についての知識と理解を深める。
- 自分の身体・動作を観察し、他人の目で評価してもらう(自分の身体のクセや問題は、自分のアタマでは絶対に把握できません。必ず、他人の目が必要になります)。
- そうして集めた情報を基に、自分なりの身体観を組み上げる。
- さらに、身体の各部はどのように関連するのか、どんなふうに影響し合うのかを意識しながら、身体観を発展させる。
こういった“お勉強”が必要と私は思っています。
問われたとき、ちょっと簡単に答えられる内容ではないなあ、と思ったので、その場での回答を避けました。
この文章がナガノさんの疑問に答え、役に立つこと、そして何よりまず、この文章をナガノさんが読まれることを期待します。
どうぞ、手当たり次第に膨大な知識を取り込み、身体観を組みあげ、ナガノさんなりの段取りのつけ方を習得されますように。