整体・身体観 2
090414 花粉症奮闘記B
ずいぶん暖かくなってきましたが、現時点では、症状は出ていません。
きっとまだブタクサは花粉を飛ばしていないのでしょう、たぶん。
明日
(もう今日ですね)は雨のようですが、このところお天気も良く、日々快適に過ごしております。
090510 『身体のトラウマ』完成
数年越しで取り組んでいた「整体の本」が、とうとう完成しました。
……長かった〜っっ!! というのが書きあがっての正直な感想で、とにかく一段落して
(というか一段落できて)ホッとしました。
お世話になった皆様、改めてありがとうございました。
内容を簡単に言いますと、
一度できた(骨折や打撲、深い切り傷のような)ケガの傷痕は、身体の構造上、自力では完全に治しきることはできない
↓
傷痕は一種の“変形”として残る
↓
自然治癒力が低下する
↓
身体が不調になりやすくなる
という仮説に基づき、身体が不調になるしくみや具体的な施術方法を説明したものです。
どちらかというと、整体の「案内書」というよりは「教科書」に近いイメージですので、ややマニアックな内容です。
身体観や施術方法にご興味をお持ちの方、変わった施術方法をお探しの同業系列の先生方に読んでいただきたいなあ、と思っています。
お求めは、店に電話くださるか、
アマゾン、あるいはジュンク堂のような大型書店で探してくだされば見つかるかも? と思います。
A5版ソフトカバー、200ページで2,000円+税。技術書としたら、まあ、お買い得なほうではないかなあ、と思います。……といっても肝腎なのは中身なわけですが。
一応、目次を挙げておきます。
『身体のトラウマ 〜ケガによる変形の痕を修正する方法〜』
はじめに
【第1部】理論篇
第1章 身体の形を支える 皮膚・骨・筋/タテのつながり/ヨコのつながり
第2章 身体が不調になる原因 外的要因と内的要因/外傷と治癒
第3章 ケガ変形とその影響 ケガ変形/ケガ変形の影響
第4章 休縮筋と身体の不調 付着部のケガ変形と休縮筋/休縮筋とヨコのつながり/休縮筋とタテのつながり/休縮筋と自覚症状
【第2部】技術篇
第5章 施術手順の概要 ケガ変形と検査法/四診について/筋力検査について/修正(手技)について
第6章 四診 望診/聞診/問診/切診(脈診)/脈の読み方/東洋医学の考え方
第7章 筋力検査 筋力検査の概要/筋力検査の基本技術/筋力検査と修正までの手順
第8章 実際の施術のための補足 修正と再検査/「一段落」の目安
第9章 施術の実際 60代女性−Sさん/30代男性/40代女性@/70代女性/40代女性A/60代男性/50代女性
おわりに
よろしければどうぞ、ご笑覧くださいませ。
090517 花粉症奮闘記C
5月11日。今年もまた、私の花粉症は始まってしまいました……。
目のかゆみがないことを除けば、くしゃみ・鼻水にそれほどの改善は見られません。
そして目のかゆみがないことも、スギ・ヒノキ組からいただいた「
今年の花粉はいつもと違う、やたらにのどがおかしかった」という情報を考慮すると、別段不思議はないのかもしれません。
とすると尚のこと、「花粉症に改善は見られない」が現時点での結論になりそうです
(でも目のかゆみがないだけで、ずいぶん楽なものですね。目の不調がいかに鬱陶しく感じるかがよく分かります)。
これまでにしてきた施術の感触が良かった分、「く、くやしい、くやしすぎる……」と恨めしい気持ちが募ります。が、そう簡単にめげないのが私の数少ないとりえ。
「なにが効いたのかは分からないけれど、今年は花粉症にならなかった」よりも、「○○に施術した途端、ひどかった花粉症がいきなりピタッとなくなった」の方が、整体の効果として劇的なのでは?! と、考えを切り換えることにしました。……真っ最中の症状を、見事なくせるかどうかは分かりませんが。
ちなみにいま気になっているのは、足の親趾から足首にかけての範囲です
(足と鼻、なんていうとまったく無関係のようですが、皮膚や血管は“ひとつながり”で出来ています。無関係ではありません)。
私の花粉週間は、例年、約2週間。その間に“驚きの変化”が得られることを期待しつつ、もうしばらく闘ってみることにします。
090519 脈診礼賛!
私は整体に、東洋医学の検査法を使っています。
東洋医学の検査法は、4種類で1セット。セット内容は、「目で見る」「耳で聞く、鼻で嗅ぐ」「話を聞く」「手で触れる」の4つです。なかでもとくに重要なのが、「手で触れる」検査といわれます。
「手で触れる」検査には、いくつかバリエーションがあります。私が使うのは「脈診」です。西洋医学のお医者さんが脈拍を測るときのように手首の脈に触れながら、でも、検査しているのはまったく別のことです。
脈診でみるのは、東洋医学で言うところの気の状態、気のバランスの具合です。
もちろん、最初の3つの検査
(「目で見る」「耳で聞く、鼻で嗅ぐ」「話を聞く」)も、気の状態を推測するための検査です。が、これらは
身体を外から眺めて判断するものです。
しかし脈診は、違います。脈診は、その人の
身体を内側から観察するものと言われ、
身体の状態を、直接身体に聞くことができる検査法とされます。
症状について知りたければ、お客さんに聞くのが確実です。けれど施術部位を決めるために必要なのは、症状のあるところではなく
問題を抱えているところです。
問題というのは、症状を引き起こしている原因部分。整体では、それを目掛けて施術します。ところが身体のしくみ上、本当の問題点は自覚できません。つまり教えてもらおうにも、当のお客さんにも、症状の原因部分は感覚できないのです。
そこで、脈診が重要になります。脈診を始める前には、一応私もあれこれ予測は立てますが、最終的に施術の優先部位を決めるのは、脈診の結果です。
たとえば先日、「右肩のこりがきつくなった」と、お客さんが来られました。
伺ってみると、「右肩のこり」と「右手首が特定の動きで痛むこと」がこの日の主な症状でした。内容は、前回来られたときとほとんど変わっていません。私は、「前回の続きで、まだもう少し右足に施術できるのかもしれないなあ」と考えていました。
そこで、脈診をしました。
すると、私の予測に反して、「問題は上半身にある」ことを表す脈状
(=脈の状態)でした。
さらに細かい検査で調べてみると、問題があったのは上半身、しかも脈が示していた通り「手の小指」の周辺でした。
――と、こういったことは脈診をしていると珍しくありません。
以前は、「私の印象」と「脈の結果」があまりにも違っていたときなど、印象をとるか脈をとるか判断に困ったときもありました。
が、今なら断言できます。
脈は間違いません。もしも何か間違うとすれば、それはきっと私の“解読”ミスです。
使い慣れれば慣れるほど、理解が深まれば深まるほど、脈診の奥深さには感心・感動します。
こんなオモシロイ技術が、基本の方法は2000年以上前に書き残され、手首の脈を使う現在の方法は650年以上前に完成されたなんて、本当にすごいことです!
代々の東洋医家の方々も、脈診を勉強して使いこなせるようになっては「オモシロイ!」と言っていたのだろうなあ、と考えると、“同じことのくりかえし=歴史”が感じられて、それだけで嬉しくなります。
090523 子ども整体
珍しく、1日の間にお2人も、子どもさんに整体をしました。
5才クンは、今回が4回目。
1才クンは、今回が初来店です
(ご兄弟ではありません)。
お2人とも、以前からお母さん
(やご家族の方)が施術を受けてくれていて、「ウチの子、最近ちょっと大きなケガをしたんだけど……」というお話から施術することになりました。
「小さい子どもへの施術って、大丈夫なんだろうか……?」――しばらく前まで、私はそれが不安でした。
これから成長する身体に手を加えて良いのか? とか、
(何をされているのか理解できないまま施術して)「整体は怖い!」と大人になって拒否反応が出ないか? とか、わりとマトモな心配がひとつ。
そして目を背けてはならない現実として、施術者である私が極めて
子どもに嫌われやすい、という悲しい
(というか情けない)心配がひとつ。
前者の不安はめでたく解消されましたが、後者の不安は相変わらず継続中です。
今日も案の定、1才クンにしこたま泣かれました。
「こんにちは〜」と目線が合った瞬間から半泣きで帰りそうになられ、慌てて「ちょっと待って!」と引き止めて仕切り直し。
「どんなケガでした?」とお母さんから事情を聞く間も、お母さんに抱きついたまま不安そうにこちらの様子をチラッチラッ。
お母さんに抱っこされたまま施術を始めようとすると、私が近付いた途端、また号泣。
機転のきくお母さんが姿勢を変えてくれて、直接子どもからこちらが見えないようになったところで、ようやく施術開始。
開始後、1才クンはすぐ爆睡。
お母さんと、「良かった、気持ち良いんだろうねぇ」とホッとしたのもつかの間
(と言っても1時間弱ですが)、「終わったよ」と起こすとまた号泣。
ここまで分かりやすく泣かれると私はむしろおもしろかったのですが、泣き倒した1才クンの方は、果たして楽になりに来られたのか、却って疲れられたのか……。
ご本人の主観はともかく、顔色が良くなっていたので施術的には私は満足でした。
一方、終始ご機嫌に整体を受けてくれた5才クンは、なかなか根性が据わっています。こちらも、終わったときはつやつやの桃みたいなステキな顔色になっていました。
お母さんも、子どもさんも、本当にお疲れ様でした。
090531 こむらがえりになる
ある夜、ふと思いついて駅からの帰り道を走ってみ、ものの10歩も走らないうちに、右ふくらはぎがこむらがえりになりました
(……)。
たったったっ、と小気味よく地面を蹴っていると、右爪先が跳ねる度にびしっ、びしっと筋肉が痙攣するのが分かります。「お、お、つるつる」と思いながら、ちょっと面白いのでそのまま続行。
すると、とうとう自宅に着くまでの5分かそこら、私の右足はずっと、たったったっ、びしっびしっ、を維持し続けました。
動けなくなるほどつるでもなく、かといって途中で治まるでもなく、同じ調子でびしっびしっ、を繰り返すことに感慨を覚えながら、家に到着。ひとまずゼーゼーいう息を整えて、お茶の一杯も飲んで落ち着いてから、早速ふくらはぎを調べます。
予想どおり、右ふくらはぎが見事に熱を持っていました。
「どんな施術ができるだろう」とわくわくしながら検査をしてみると、案の定、問題があるのはふくらはぎではなくスネ、つまり下腿
(膝から足首の範囲)の後ろ側ではなく前側でした。
単純に言うと下腿の筋は、真ん中の骨を軸にして、前面−後面でバランスしています。
お互いの釣り合いがちゃんと取れていると、調子が良いシーソーのように伸びたり縮んだりをくりかえすことができます。けれど釣り合いが取れていない場合はそれがうまくいきません。
あたかもお相撲さんと子どもが座るシーソーのように、一方の筋は縮んだまま、もう一方の筋は伸びたまま、の状態に近付きます。
この、筋バランスの不釣り合いな状態が、こむらがえりの原因です。
2、3日の間、暇を見つけてはちょこちょこ右スネに施術をしたお陰で、スネの状態
(というか手触り)はずいぶん改善しました。こむらがえりになった以前より、よほどしっかりしています。これできっと、不意に走り出してこむらがえりになるような、情けないことにはならないでしょう、たぶん。
〜おまけ??〜
今回のこむらがえりでは、おもしろいことがありました。
こむらがえりの性質上、右ふくらはぎの痛みは2、3日続きます。私の場合、帰宅直後から翌日にかけて、しゃんと立って歩くことができませんでした
(仕方がないので、膝と腰を曲げてよろよろしつつガシーンガシーンと歩く、一昔前のロボット式の歩き方をしていました)。
おもしろかったのは、こむらがえり2日目の夜にあった太極拳教室でのことです。
家の中ではよろよろガシーンガシーンと動いていて、トイレに行くのも億劫でした。この状態で太極拳に行って、動けるんだろうか、という状態です。
行くかどうか迷ったあげく、「よろよろならよろよろで、それもまたおもしろいか」と気を取り直して
(開き直って)教室に行くことにしました。
道中は、「だいぶがんばってるけど結構よろよろ」です。
ところが太極拳の動きを始めると、まったく痛みなく(!)動け、絶対ムリだろうと覚悟していたタントウ功さえ、ストンと立っていられるのです!
(先生からは「もっと姿勢を低くしなさい!」と叱られましたが。)
「極力、筋バランスを崩さずに動くこと」が求められる太極拳では、型の通りに動こうとするだけで、体重のかかり方・支え方が違ってくるようです。
「おもしろい!」と一人感動し、帰路に着き、そしてお約束のように電車を下りてから自転車までの道のりは、再びよろよろ状態に戻っていました……。
090608 「治療法」と「対症療法」
きっと仕事柄、他の人よりよけいに気になるだけなのだろう……と、自分でもよく分かっています。分かってはいるけれどでも、気になって仕方ないのが、「治療(方)法」という言葉です。
何気なく新聞や雑誌をめくっていると、「○○
(=病名とか症状名)でお悩みの方に専門医が答えます」といった欄を見かけます。大抵の場合、私は、ささっと目を通します。
それらを読んだところで、整体屋の私とお医者さんとでは考え方も対処の仕方も違います。書かれてある内容がそのまま役に立つわけではありません。それでも目を通すのは、もっと素朴に、「お医者さん
(とくに西洋医の方々)は、〇〇をどう考えてるんだろう? どう対処するんだろう?」が知りたいからです。
大体の記事は、〇〇特有の症状、原因と進んで記事の終盤に対処法方が書かれます。私が「治療(方)法」という言葉の使い方に引っかかるのは、この終盤の部分です。
どう読んでも「治療
(=病気・症状を元から治す)」ではなく、明らかに「対症療法
(=治すわけではないけれど症状やつらさを軽減する)」とよぶべき場合であっても、「〇〇への治療(方)法は――」と書かれている場合が多いように思うのです。
私の理解では、
「治療」と「対症療法」は、本来まったく別物のはずです。そしてそのそれぞれに
異なる目的があるはずです。
具体的に言うならたとえば、「治療」には終わり
(治癒・完治)があり、「対症療法」にはうまく付き合っていくための技術というか作法というかがある、という感じです。
そしてその前提に立っていると、この2つを区別なく使われることには、どうも違和感が残るのです。
記事にされる時点で区別があいまいになるのか、取材されているお医者さんご自身にあまり区別の意識がないのか、それはよく分かりません。でも、「ここは『対症療法』、あるいはせめて『処置法』と書くべきなんじゃないのかなあ……」と、読んでいて割り切れない気分になります。
「『治療』なら完璧。だけど、『対症療法』は良くない、無意味」とかそういうことではもちろんなく
(といっても治癒できるならそれに越したことはないです。が、現実的に、現時点では無理な場合もあるわけですから)、「どっちもあり。どっちも大事」という立場から表記を区別してほしい――と、思うのです。
今朝の新聞でも見かけて、割り切れない思いにいまもムズムズしています。
090620 身体の不調と血行不良、そして、痛みと痒み。
このところずっと、痒
(かゆ)みについてあれこれ考えています。
あれこれ、といっても整体屋という職業柄、知りたいのは、
なぜ痒くなるのか?
どうすれば痒くなくなるのか?
――の、2点です。
実は私はこれとまったく同じ形式の〈問い〉を、数年前にも立てていました。その時の〈問い〉は、
なぜ身体は不調になるのか?
どうすれば不調にならなくなるのか?
でした。「痒み」が、「身体の不調」全般だっただけの違いです。
この〈問い〉を考えているとき、ずぅぅっと、私の頭に引っかかっていたのは、
身体には「自然治癒力」が備わっているのに、どうして不調になるのだろう……?
という素朴な疑問でした。
カイロプラクティックや整体の本を読んでいると、イヤでも、
自然治癒力のはたらきに感嘆させられます。
何しろ、病気は治す、ケガは治す、血圧も調整すれば、呼吸量も調整し、脳への酸素は絶やさず、体内の血液配分は適切で、バイキンは殺す、がんは抑え込む、腸内細菌は元気にはたらく……すべてが、自然治癒力のはたらきとされるのです。
ですが箇条書きに数え上げると一目瞭然ですが、結局のところ、「生きている」という活動そのものを指して「自然治癒力」と呼んでいるわけです。とすると「自然治癒力のすごさ」とは、実は単純に、「
生き物ってすごいね、生きてるってすごいことだね」という、ただそれだけのことです。
それはともかく。
当時の私の理解では、「身体が不調になるしくみ」は次のようなものでした。
「自然治癒力」は、「身体を不調にさせない」ためのしくみである。
にもかかわらず「身体が不調になる」のは、「自然治癒力のはたらきが低下している」からである。
この理屈を、次の理屈と比べてみます。
「警察」は、「犯罪を減らす」ためのしくみである。
にもかかわらず「犯罪が増えている」のは、「警察が弱体化している」からである。
……叱られそうな例文ですが、この文章なら、意味が通ります。それは、「警察」と「犯罪」が別々のものだからです。
でも、「自然治癒力=身体のはたらきそのもの」と理解してからもう一度先の文章を見直すと、その理屈は、
「身体が不調になる」のは、「身体のはたらき」が低下したからである。
と、単なる言い換えに過ぎないことが分かります。
結局、大事なのは、
「なぜ身体のはたらき(=自然治癒力)は低下したのか、弱くなったのか?」という、いちばん肝腎の、いちばん最初にあるべき〈問い〉です。
そこでもう一度、
そもそもなんで、身体のはたらきは弱くなったのか?
いったいなにが、身体のはたらきを弱らせたのか?
という基本の疑問に立ち返ります。その上で私は、
「自然治癒力」では太刀打ちできないくらい強い力で、身体が傷めつけられたとする。
↓
そうすると、それに合わせて筋バランスは変化し、局部的な血行不良は生じ、身体本来のはたらき(=自然治癒力)は低下する、かもしれない。
↓
じゃあ「太刀打ちできないくらい強い力」ってなんだろう? それは、「外傷」――いわゆるふつうの、ケガなのではないか。
と考えるようになり、そこから、
ケガの傷痕を改善しよう、
そうして身体のはたらきを立て直そう、
とする現在の施術方法に落ち着いたのでした。
さて、ここでようやく、痛みと痒みの話です。
私の経験から考えると、
ケガの傷痕
⇒筋バランスの偏り
⇒局部的な血行不良
という流れは大雑把には正しそうです。
そして、
血行不良は痛みを生む
血行不良はしびれを生む
というのも、
(血行不良を改善すると軽快することが多いので)正しそうです。
ではそれと同じ理屈で、
血行不良は痒みを生む
という可能性はないのだろうか、と、私は考えています。
そしてもう一歩踏み込んで、たとえば、
痛みは、筋の血行不良
痒みは、真皮(皮膚表面の奥。肌の土台部分)の血行不良
のような区別が、実はあるのではないかなあ? と考えています。
痒みに悩む人の肌を見せてもらうと、「こんなに掻いて痛くないの?」と驚くくらい、肌が深く破れていたりします。「痛々しいなあ」と思うけれど、そこまで破ってでも掻きたいくらい、痒みがきついわけです。
そこまでの痒みのきつさを考えると、まったく意味なくたまたま痒くなったのだとはあまり思えません。同じ場所が痒くなること、痒いところから少しでも外れると痒くないことなども、なんらかの意味――もっと言うなら“必要”の存在を想像させます。
同じ血行不良が原因で痛み・痒みが現れるなら、「痛みと痒みを分けるものは何か?」が気になります。
単純に考えると、痛いときにできることは、「我慢して動く」か、「痛くないように動くか」のどちらかです。痛みがあるから「何か問題があるらしい」ことは分かるものの、痛み自体はどうすることもできません。
それに対して痒みの場合は「掻いてすっきりする」という選択肢があります。外からのはたらきかけで、痒みを消せる場合があるわけです。この違いは、とても大きいんじゃないかと私は思います。
痛みはどうすることもできず、痒みは掻いてすっきりできる――この違いは、血行不良の生じている部位の深さ
(身体の外からの距離)に起因するのではないかしら? そしてもしそうなら、「痛みは、筋の血行不良」、「痒みは、真皮の血行不良」みたいな区別ができるのではないかしら? と勝手に想像しています。
「
痒みは手が届くけれど、痛みは手が届かない。だから痒みは掻けるけれど、痛みはどうにもできない」。痛みと痒みの違いがもしもこれだけであるのなら、整体をして痛みが軽くなるように、痒みが軽くなる可能性も高いはずです。……そうであってほしいなあ! と願いつつ、皮膚のお勉強に励む日々です。
090712 肘のケガと、副鼻腔。
数日前、不注意から左肘の皮膚に擦り傷を作ってしまいました。
自宅の階段を上がっているときにズボンのすそに足を引っ掛けて、壁によろけて擦ったのが原因です。子どもの頃にはしょっちゅうしていたような、ちょっとヒリヒリする擦り傷。「久しぶりにケガらしいケガ
(?)したなあ」と思い、それっきり忘れていました。
ところが、その日の夜から突然、ちょっとした変化がおきました。鼻水か痰か分からない何かが、ふとした拍子に、のどの奥を流れるのです。
ふいと顔を上げた瞬間とか、ちょっとぽかん口になっていたときに、鼻の奥
(たぶん副鼻腔)からのどにかけて、さらーっと何かが流れます
(後鼻漏(こうびろう)と言うそうです。お客さんが教えてくれました)。
ちょっとドキッとする独特の感覚に、「なんで突然?」と考えてみて、肘の擦り傷に思い当たりました。
もしも、
肘にケガした
⇒副鼻腔から液体が流れ始めた
肘に施術した
⇒副鼻腔からの流れがなくなった
となれば、
肘と副鼻腔のつながりが実感できて楽しそうです。これは、試してみる価値があります。
早速、期待しながら擦りむいた肘を調べると、骨・筋からは問題が見つからず、皮膚からいくらかのねじれが見つかりました。
そこで皮膚のねじれをせっせと戻すように施術して、様子を見ます。
あれから2、3日たちましたが、副鼻腔を流れる感触はそれきりありません。
肘の擦りむきは薄いかさぶたになっています。
どうやら、肘と副鼻腔の関連に介入できたと考えて良さそうです。またひとつ、小さな発見というかおもしろ体験ができました。
090717 靭帯への施術
このところ施術していて「おもしろい!」と思うのは、靭帯です。
姿勢のゆがみ、骨のゆがみ、筋バランスの偏り……とはいっても、突き詰めていくとその原因にあるのは骨やら筋、皮膚などにできた小さな傷です
(と私は考えます)。
これまでも、骨、筋、皮膚の傷には施術していました。
しかしそれだけでは施術が行き詰まるようになってきて、更なる解決方法を探っているうちに靭帯に思い至り、施術を試みるようになりました。
実際、検査をしてみると、靭帯からはちょっと驚くほどたくさん、傷が見つかります。
いまのところ、主に触っているのは膝、肘、背骨周囲の靭帯です
(背骨はひょっとすると、「靭帯」ではなく「小さい筋肉」に施術しているかもしれません)。
おもしろいことに、靭帯の傷が改善できれば自動的に筋バランスが変化し、骨の位置がピタッと定まる――そんな場合が少なくありません。
症状と靭帯の関連についても、たとえば、【「肩が痛くて腕が上がらない」
(“自称”四十肩・五十肩)の状態―肘関節の靭帯】とか、【股関節の違和感―背骨
(腰椎)の靭帯
(筋?)】とか、【首・耳の不調―膝の靭帯】とか、具体的な関連がいろいろ実感できて、楽しいです。
ちなみに、ここで言う「靭帯の傷」は、いわゆる「断裂した靭帯」とは限りません。
そもそも検査を受けるまでもない日常的なケガや、「放っておいたら治った」程度のケガ
(たとえば軽い捻挫)、あるいは同時にした他の大きなケガ
(たとえば骨折)にまぎれて忘れられた小さな断裂など、より軽度の傷も含みます。
私の理解では、靭帯の「仕事」には2種類があります。大まかに言うと、
1.関節を固定する“ガムテープ”としての仕事
2.関節の不安定を察知する“センサー”としての仕事
このうち2の方では、察知した不安定に応じて周囲の筋収縮を促すはたらきも備えます。
靭帯に施術するようになってからは、この“センサー”のはたらきが思っていた以上に重要であることを痛感しました。
そしてこの理解に沿えば「筋のはたらき」は、私が思っていた以上に繊細かつ緻密なしくみで、関節(=骨)を支えていることになります。
「筋のはたらき」を正しく回復するためにはそれに先駆けた「靭帯」の回復が欠かせない――このことはしっかり、肝に銘じておかなければなりません。
改めて、すごいしくみです。