のぞみ整体院
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整体・身体観 19

140319 実験「遠距離推測はできるか?」

 それまでに何回かお会いして施術をしたことのある人であれば、実際に会っていないときでも、具体的に体調が推測できたりするのだろうか?

 たとえば電話で話しているときに、「いまはここが痛いの」といわれて、すかさず、「それならここに施術するといいよ」みたいに的確に返事することはできるのだろうか? ――これは以前から興味のあるところでした。

 的確に、というのはいわゆる一般論的な助言(たとえば「疲れている→早く寝なさい」とか「腰が痛い→温めなさい」など)ではなく、その人の体調・体質と、そのときの症状に応じた、きわめて具体的・個人的な助言という意味で、その助言が正しく当たるかどうかが知りたいのです。


 これは別にオカルトとか丁半ばくちの話ではありません。
 中国医学の診断方法「声を聞いて体調を判断する」というのと、電話を使った、あたりまえの推測技術(のはず)です。

 そのときの症状は電話で本人からお聞きする、そのときの体調は電話の声からくみ取る、そしてそれまでに得ていた体調・体質の全体的な印象から現在の状況を読みとる、というただそれだけのことで、難しいことではないはず……。


 でも実際に試したことはありません。
 試してみたい野望はモリモリにあるのですが、この実験をするためには実験相手――私が「そこに施術してみて」とお願いしたときに、的確にそこに施術できる受け手役の人が必要です。しかもこれは実験ですから、もちろん私の読みが失敗する可能性だってあるわけで、そのへんのところは遊び半分。ある程度自己責任で、私の実験に、ニヤッと笑いながらつきあってくれる相手でなければなりません。


 施術ができて、遊んでくれる。そんなオモロイ友だち、私にはいないからなあ……、と実験をあきらめていましたが、先日、ふと思いついて、B先生に持ちかけてみました。
 手紙で書いたので二つ返事だったかどうかはわかりませんが、結果だけいうと、わりにうまくいったようです。「今度、その読み方のコツを教えてね」とまで言われたので、まあまあ、勘所は外さなかったのでしょう。


 結構、いろいろできるもんだなあ、と感心しました。
 で、感心していると、今度はB先生の方から、おもしろい実験、というか勝負事を挑まれてしまいました。

 もちろん私は受けて立つので、これまた楽しみなことになっています。単なる異業種交流が、異種格闘技戦ごっこみたいな風合いになってきました。
 ただ、こちらの話はちょっと立ち入った内容ですので、残念ながら、ブログには残せません。当事者だけで楽しんできます。


140511 『身体の話』、できました!

 2冊目の本、『身体の話』がようやくできあがりました。
 ぱっと見ての印象は、「思っていたのと表紙の色が違う……」。私のもともとのつもりではもっと赤くて深い色。ですからできあがりの色だと穏やかすぎるのです。が、しばらく手元で眺めていると、「……でもこれはこれでいい色かもしれないなぁ」。にま〜っと、愛が湧いてきました。

 不思議なもので前の本のときも、私の想定とは色のできあがりが違っていて、最初は不満→徐々に納得→愛着、の経緯をたどりました。とっさに文句を言いたがる、困った体質の現われなのか、たんなる馴れなのかはわかりませんが、おもしろいことです。

 内容は、題名どおり、「身体の話」をあれこれ書いています。ふだんお客さんにしている説明の、総集編、みたいな感じでしょうか。


 ご興味の方は、最寄の本屋さんでご注文いただくか、アマゾンで探してみてください。四六版のフランス装で136ページ、税抜1500円です。たぶん、本屋さんで偶然見かけて手に取れる、なんてことはないはずだと思いますので、先に中身をご覧になりたい方は図書館で聞いてみてください。

 以下に目次を挙げておきます(目次なので敬称略、です)

〜目次〜
推薦の辞 神田橋條治
はじめに
1 自分のための健康法を見つける/身体が不調になる理由/赤ちゃん・子どもと整体
2 癒着と施術の関係/ムチウチについて/整体のおもしろさ
3 症状の改善と悪化/睡眠と筋肉の点呼/身体が不調になるきっかけ
4 赤ちゃんと発達――脳と感覚と筋肉の連絡について
5 未病について考える/問診が大事/望診と聞診と脈診
6 血液と癒着の関係/身体の主張
7 肩こり、腰痛、頭痛/不眠/施術のタイミング
8 症例編 症例について/モデル症例@・A/症例@〜I
おわりに


140517 見学の影響

 先日はC先生のところへお仕事見学にお邪魔してきました。
 見学、の文字通り、私がしていることはひたすらじっと座っていて、お昼になったらご飯を食べて、また午後からじっと座っている、という、ただそれだけです。ですが、それだけで私の体調は、みごとに崩れます。

 実際、帰りの電車ではふらふらで、帰り着いてもふらふらで、翌日になってもまだふらふらしています。知恵熱みたいなものなんでしょうか? よく分かりません。


 ともかく、整体屋な私としてはこのふらふらが、自分の身体に施術をして、より丈夫になるための、そして整体の腕前を上げるためのチャンスといえます。が、これがじつに、とってもたいへんな作業なのです。
 まず、ふらふらの程度がずいぶんひどい。そしてどこが悪くてふらふらになっているのか、どこをどう立て直せばふらふらがなくなるのか、それがちっとも分かりません。ちなみに、今回は口の中とおなかの皮に施術が集中しましたが、理屈はさっぱり分かりません。まあ、結果は出ましたから用は足りたわけですが。


 私がふらふらになるのは、C先生だけでなく、B先生のところにお邪魔したときでも同じです。けれどこのときに起こるふらふらについては、かしこいお客さんが理由を洞察して説明してくれたおかげで、状況が納得できています。

 いまわからないのは、C先生のところで起こるふらふらについてです。
 ふらふらの原因はいったい何か。そして私自身の施術が進んで、より丈夫になったときには、見学に行ってもふらふらにはならないで済むのか。知りたいところです。


140601 心包経と不整脈

 中国医学でいう「気の通り道=経絡(けいらく)」には、心臓に関係するものとして心経(しんけい)と心包経(しんぽうけい)の2つがあります。
 そのうち心経は心臓そのものに関係して、心包経はその心臓を包む膜であるといわれます。その説明から私は、「お城と外壁」みたいな位置づけをイメージしていました。が、先日、興味深いお客さんにお会いしました。

 その方は、心臓に、人工のペースメーカーを使われています。つまり心臓自前のペースメーカー(=洞房結節(どうぼうけっせつ))に支障のあった方、です。
 そして施術を始めると、この方の中指には重要なケガがありました。

 中指は心包経の管轄で、洞房結節は心臓の一部です。ここから想像を広げると、心包経というのは心臓の外壁ではなく、洞房結節を指しているのかもしれないなあ、と思えてきました。

 これが正しいかどうかはわかりませんが、とりあえず個人的には、中指のケガと不整脈との関連には、今後、注意しておこうと思います。


140621 「隠れこり」を見つけよう

 理論と技術と道具、というのが私の整体の三本柱ですが、久しぶりに、技術面での改変が起こりそう、というか改変を起こしたい気分になりました。変えるのは、最初の検査の部分です。

 最初の検査というのは、お客さんの姿をじっくり見て、状態を判断する検査――いわゆる視診です。これはもちろん、これまでも使っていた検査ですが、ここにもうちょっとひねりを加えよう、というのが今回の改変です。私が外から見て「こっていると思われる」部分に、これまで以上に注目しようと思うのです。

 実はこの仕方は、もともとB先生がされていた方法です。先生は隠れこりとは呼ばれませんが、だいたい同じひっかかりに注目して、全身のバランスの崩れを探られます。
 ほとんど同じものなのにあえて名前を変えるのは、B先生の使われる呼び名が私には少々使いにくいことと、そしてひっかかりの基準が、先生と私ではちょっと違っているためです。ですがそれ以外の基本の部分、判断基準の理屈は、B先生に負っています。

 さて、お客さんに感じられる「こっている」部分とは違って、外から見て「こっていると思われる」部分には、自覚症状としての「こり感」があるとはかぎりません。単なる「こり」ではなく「隠れこり」と呼ぶのは、そのためです。


 これまでは、お客さんから自覚症状をお聞きして、そこを中心に施術を組み上げていました。それを、お客さんの自覚ではなく、お客さんを見て私が感じる「ここが、こってそう」という印象、つまり隠れこりを中心に段取りを立てていこうと思います。

 お客さんの感覚より私の感覚(=隠れこり)を優先することが、いいのか悪いのかはまだよくわかりません。とりあえず試してみよう、という段階です。

 でも、試してみて早速気づいたのは、私の印象で特定した隠れこりの部分と、脈診で問題をあらわす経絡(=気の通り道)の範囲とが、一致している場合が多いようだ、ということです。

 これまで何年と脈診をしてきて、漠然とした変化は私なりに把握できていたものの、施術とか症状とかとの関連はいまいちよくわかりませんでした。が、もしも脈の不調が、隠れこりを示すものであるならば、私にとって、これはおもしろい展開です。


140722 隠れこり、その後。

 本人にも自覚できない種類のこり(「隠れこり」と命名)を中心に施術をするようになってしばらくが過ぎましたが、手応えは良いようです。


 今年の春から来られているお客さん(Pさん)は、首肩のこりと足ゆびの激痛にお困りでした。
 足ゆびが痛いと、当然、歩くのが苦痛ですから、生活にさわります。Pさんもほとほと参っておられて、店に来るたびに、「なんとかなりますか……? 良くなりますか……?」と訊かれます。

 けれど実は私が見ているかぎりでは、Pさんの状態は、毎回少しずつ改善しています。そして、丁寧に症状の様子を聞いていくと、Pさんも、「たしかに前よりはマシかも……」といったんは納得されます。でも、それでも痛みがゼロになっているわけではないので、やっぱり不安が戻ってきて、「いつかは楽になりますか……?」。訊かずにはおれません。

 そんなPさんでしたが、今回ようやく、「マシになっている」と嬉しそうに来られました。


 まだ改善途中ではありますが、どうやら左手と左足、それぞれにできていた古傷の癒着が、右足ゆびの痛みに関係していたようです。

 このうち、左足の古傷の方は深刻です。来院当初から、かなり重点的に施術していました。
 一方、左手の古傷については、状況がちょっと複雑です。わりと最近にされた軽いねんざより以前に、別のケガもされている気配があるのです(こちらのケガにPさんは心当たりがありません)

 右足ゆびの痛みの原因が左足と左手にある――と、こういうような場合、施術は、左足、左足、今度は左手、また左足、といった具合に、順番交代に展開するのが通常です。このとき、展開の目安は、症状の揺れ動きを使います。

 ですが、Pさんのように痛みが激しい場合は、「症状の揺れ動き」が目安に使えません。自覚症状にほとんど動きがないからです。


 けれどそのときでも、隠れこりは、症状とは無関係に動いています。前回のPさんの場合では、痛みの部位は変化しませんでしたが、隠れこりの位置は、2時間の施術時間中に3回調べたところ、毎回、変化していました。

 つまり、自覚症状に対応させて施術を進めていくより、隠れこりに対応させて進める方が、きめ細かい展開が期待できるわけです。さらに、これは私の印象ですが、より本質的な施術ができているようにも思えます。

 思いつきでいうと、隠れこりの位置の変化は、脈の変化とも対応していそうな気がしていて、こちらもちょっと興味のあるところです。施術をしているときには時間が惜しくて、確認しようとは思わないので、確かかどうかはわかりませんが。


140902 施術の痕跡

 今年の春から、とあるお客さんに施術をすることになりました。長年、べつのお店で、気功整体的な施術を受けてこられた方です。

 一般に、「初めて整体を受ける」お客さんとはちがって、整体とかカイロプラクティックのようないわゆる民間療法的な施術を受けていた人の身体には、施術の痕跡のようなものが残っています。そとから身体に介入しました、という作業の痕跡です。(西洋医学でも、もちろん治療の痕跡は残ります。ですが、少し様子がちがうので、ここでは触れません。)

 そしてそんなお客さんに施術する場合、まず最初にすることは、前の施術跡と、私の施術方法との調整をはかることです。この方の場合も、その作業だけで6時間がかかりました。




 この「施術の痕跡」は、私がした施術でも当然、残ります。自分の腕が上がって、それまでしてきた作業が客観的に見られるようになると、てきめん、それが見えてきます。
 ああ、ここ施術が抜けてるな、とか、ここはきっちり施術しきれてないな、もうひと押しいるな、とか、そんな感じです。

 ほかの施術者の痕跡は、技法がことなる分、漠然とした複雑さ・いりくみ具合、みたいなかたちでしかわかりませんが、自分がしてきた施術はべつです。状況の読み方や考え方も含めて、かなりこまかいところまで痕跡が追えます。だからがっかりしたり腹を立てたり、かなり落ち込むこともあります(もちろん「よしッ! いいぞ!」となることもあります、念のため)

 で、そうするなかで思ったのは、結局のところ私は、読むことがうまいとかへたとかではなく、施術の痕跡が残っていること自体が、気に入らないのだな、ということです。
 「身体の状況を読んで、そとからあれこれ操作しました」という痕跡が見えるのが不自然で嫌。できるなら、痕跡自体を残したくない。べつの施術者が見たときに、「え、整体を受けていたのですか?」と驚くほど、自然な改善をめざしたい。

 で、ある時期から、方向転換しました。
 うまく読もうとするのではなく、できるだけ施術跡を残さない、操作の手触りを残さない施術がしたい。

 そのためには、こちらがあれこれ考えて「よいしょっ」と介入するのではなく、身体が変わりたがっている(というか戻りたがっている)ところを的確に見つけて、ちょこっとだけ動かす技術が必要です。

 いまのところ、B先生の真似で始めた「隠れこり」にしたがう施術は、うまくいっているように思います。理論らしい理論は一切使わず、行き当たりばったりのその場次第。私の浅はかな意図をなくすことで、かえって作業そのものに奥行きが増す、という実感も、私の好みに合っています。
 けれど、これで実際にどの程度痕跡が減らせているのかは、さらに腕が上がるまではわかりません。このあいまいさが楽しいです。




 ※ 前のブログを見直して、びっくりしました。「隠れこり」のところで、「元の技法はB先生のものです」という断り書きをしてませんでした。あわてて書き足して、お詫びいたします。


141021 中学生のお客さん

 夏の終わりに、中学生のお客さん、Pさんが来られました。身体がしんどい、というのがいちばんの悩みで、ちょっと学校も行きにくくなっているかな、くらいの状態になりかかっておられました。
 お客さんがおとなであっても子どもでも、例によって、私がすることは同じです。現時点での状況を聞いて、これまでにしたケガの状況を聞いて、それじゃあ施術しましょっか、と作業に取りかかります。

 お聞きすると、Pさんには大きなケガが2つあります。aとb、と呼んでおきます。けれど実際に施術をしてみると、その日に作業できたのはaにだけでした。そうすると考えられるのは、@施術がいま必要なのはaだけで、bのケガはさしあたり施術が必要でない。この場合、作業はかなり簡単で、あっさり状況は改善して、次回で一段落する可能性が高いです。
 ですがAbにも施術が必要となると、作業は大変になっていきます。いまは隠れているだけで、やがては混乱した状況が表面化してきて、施術が複雑になるからです。そうなると、作業が長引く可能性が高くなります。

 この両極端の展開が予測できて、しかも、どちらに転ぶかはわかりません。そこで、Pさんとお母さんにはそのような状況であることを説明して、今後の段取りを飲みこんでもらいました。




 2回目に来られたのは1ヵ月後です。このとき、Pさんの生活状況は少し改善していました。が、施術はbのケガに及び、展開としてはAになる、つまり長引く恐れが出てきました。
 Pさんとお母さんには私のその感触を説明して、なるべく早くにもう一度来てください、とお願いしました。

 3回目は、その2日後です。早く来てくれたおかげで、前回の「つづき」の形で施術が展開しました。施術をしたのはbが中心です。aへの施術は一段落したのかして、作業の必要を感じません。そして肝心のbへの施術に手応えがあったので、あらためて今後の段取りを組みなおし、説明してその日を終えました。

 その後、4回目の施術に来られました。これが先日のことです。Pさんは、3週間ほどの間にずいぶん元気になられていました。生活の改善ぶりは私の予測以上で、多少の無理はされたにせよ、めざましい変化・安定です。私もびっくりしましたが、お母さんも驚かれていました。
 順調にいけば、5回目の施術は、わりにすぐか、ずいぶん先かのどちらかで、それが済めば、あとはぼちぼち、具合を見て、調子が崩れたらまたそのときに来てもらって、と、そんな感じで一段落になりそうです。




 長引くかなあと心配していたPさんが、あっさり急激に改善した――そんなびっくりが嬉しいのは、Pさんの回復を目の当たりにすることで、よく似た問題に悩むほかのお客さんのことにも、連鎖的に希望が湧くからです。
 いま私が思うのは、同世代のお客さんQさんのことです。直球勝負で改善できたPさんと違って、Qさんは、もう少しハードルが高い。苦肉の策で、ひとひねりした搦(から)め手でなんとか改善を狙っています。
 Pさんにつけてもらった弾みがQさんにもうまく作用して、期待以上、とまでは言わないからせめて期待どおりの結果にこぎつければ、私は、ものすごく嬉しい。次回の、Qさんへのかかわりが待ち遠しいです。


141119 初めての共同作業

 今年の8月から来られていたお客さん(=Pさん)の施術が大きな大きな一山を越えました。
 来院当時のPさんの状況は、「整体をすることに意味があるの?」と、その点から疑わしいような状態で、私も、紹介してくれたQさんも、Pさんのお母さん(=P母さん)も、心のどこかで「所詮はムダな努力なのかも……」と、する前から半分あきらめているような、でもなにもせずにはおれない切実さに駆り立てられて、妙な期待だけは高まっているような、そんな不安定な心境でした。

 それが手応えを感じたのは施術開始直後、Pさんが気持ちよさそうに落ちつかれるのを見たときで、「これならなにかが起こるかも!」と、私と、付き添ってくれていたP母さんとの期待が、いくらかどっしりしました。

 で、それから数回施術をすると、改善の手応えは確実になります。が、次の1手が、私たちだけでは打てなくなります。そこで、関係者みんなでB先生に泣きつき(!)、無理をいって巻き込まれていただいて、段取りの助けを請い、なんだかんだと順調に進むうちに最後の壁を、Pさんご自身が蹴破った!――そんな格好になりました。




 私はこれまでずっと、ほぼ整体屋単独で仕事をしてきましたので、本格的な共同作業に参加したのはPさんの件が初めてです。

 整体屋が単独で整体の仕事をする場合は、極端にいうと、改善を喜ぶのは、施術の場に立ち会う私とお客さんだけです。

 それが共同作業になると、私の作業でB先生の判断はどう変わるだろう、それはどんな変化をPさんにもたらすのだろう、そしてそれに応じてPさんのご家族はどう対応を変えられるだろう、で、次回整体に来られるときに、その全体はPさんの身体にどう影響しているだろう、と、広い範囲で変化の循環がぐるぐるするので、それがとても楽しかった。
 そして同時に、「それぞれの人がそれぞれの範囲で専門のことをする」役割分担型の共同作業は、私の小さい頃からの憧れ『じごくけんぶつ』(※)そのままで、これがまたとても嬉しかった。

 もちろんいまでも私の仕事の基本は単独作業で、お客さんと整体屋とのあいだで「おおっ!」「いまの施術はいいですねえ!」とかいってるのが楽しいわけですが、共同作業も、これはこれでおもしろいものだなあ、と新しい発見がありました。
 ……まあ、共同作業はだれと組むか、どなたに組んでいただけるか、による部分がなんといっても大きいでしょうし、その意味で今回は、あきらかに恵まれすぎだったわけですが。


 ひと山越えて、Pさん、P母さん、Qさん、私が集まった場で、「はあ〜、やれやれ。ずいぶんばたばたしましたがなんとかなりましたねえ」「初めてお会いしたときには、こんな展開になるなんて、思いもしなかったですよねえ」「B先生になんて報告しましょっか」と口々に言い合う時間はなんとも幸せでした。


※:軽業師、祈祷師、歯医者のなかよし3人組が地獄見物に行って、地獄の責め苦を、それぞれの技能で“遊び”に変えて、さんざん楽しんでしまう話。江戸落語の『地獄めぐり』、上方落語の『地獄八景亡者戯』の後半部分と同じ趣向です。私は子どもの頃、もともとは紙芝居の『じごくけんぶつ』を絵本で読んでいました。


141203 使い心地のよい施術

 先日はじめて、「ああ、なんだ、整体なんて、ずいぶん簡単なものだったのだな」と、ぽつんと感じました。この仕事を始めて10年と少し、そんなふうに感じたのはその日がはじめてでした。

 思ったのは、「なにかのひょうしに腰が痛い」とお困りのお客さんが帰られた直後です。その日が2回目の施術で、腰痛の原因はおそらくアキレス腱断裂の、治癒後の癒着。原因と症状の関係はシンプルで、状況の比較的わかりやすいお客さんでした。

 けれど、簡単と感じたのは状況がシンプルだったからではなく、たぶん、6月から使いはじめていた「施術前の検査(140621)」――仮に直感検査とよびますが、それが、うまく私の方法になじんできたからなのだろうと思います。
 直感検査で隠れこりをぱっと見つけて意識をそこに集中したら、あとはなにも考えない。淡々と作業をこなすだけ。だから、簡単になったのだと思います。

 もちろん、これまでの仕方でも、なるべく頭で考えずに作業しようとはしていました。ですが、自然に(そしていくらかは必要もあって)、「あっちとこっちが関連して……」とか「あそこをゆるめたら次はあっちを……」とか、大まかな段取りだけは追っていました。
 だから、たとえ、あるお客さんの症状をあっさり改善できて「卒業!」といえたときでも、私には、整体が簡単な作業だったとは思えなかった。せいぜい、「おもしろいな」とか「なるほど辻褄があってるな」とか、そういう、どこかしら“納得”のにおいのする、自分の作業とか理屈のたしからしさをふりかえって確認する感じが消えなかったのです。

 ところが、それが、消えました。
 施術でしたことがすとんとそのまま腑に落ちて、作業も理屈も結果も見通しも一体で、“するべき作業をするべき手順で、過不足なく、ふつうにおこなった、だから当然、結果もそのようになるよね”と、いとも自然に感じていました。

 たぶん、これが私の「整体の理想型」なのだと思います。
 施術全体の使い勝手のよさが私にぴたりと合ってきて、私と技術の全体が、ひとつの道具になっている感じ。それが、とても心地よい。

 私に似合って着心地のよい服、が私にとって最高の服であるのと同じように、私が使って使い心地のよい技術が、私にとっての、最高の技術。それでいいんだ。
 この発見は、私にはありがたいものでした。私が変われば技術も変わればいいんだし、きっと、自然に変わる。――なにか、いままでとらわれていた、ひとつの焦りがなくなりました。


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