のぞみ整体院
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整体・身体観 14

111202 『人間の身体と精神の関係 コペンハーゲン論考1811年』

『人間の身体と精神の関係 コペンハーゲン論考1811年』
 メーヌ・ド・ビラン著
  F.C.T.ムーア校訂・編 掛下栄一郎監訳
  益邑齊 大ア博 北村晋 阿部文彦訳
 早稲田大学出版部 1997年




 ときは1810年、コペンハーゲンの王立アカデミーがひとつの論文を募集しました。これに応じたのがフランスの心理学者(哲学者?)メーヌ・ド・ビランで、選考の結果、めでたくビランが受賞します。
 ところがその後、受賞原稿は大半が紛失してしまいます――。
 そして時は移り1984年、ビランの死後、膨大に残された手稿や書写からムーア氏が原稿を再構成します。それが、本書の原書です。

 成り立ちが複雑な分、読んでいて少々分かりにくいところもありましたが、大まかな内容は次のようなものです。

 まず、コペンハーゲンが出したお題は、

人間を考えるとき、心理学的な仕方と自然学的な仕方があるけれども、この2つの考え方はどの程度関連しているのだろう?

というものです(実際の課題はもっと長いです)

 身体はまず物であって機械であって、それが心や感情を生んでいる――と考えれば、それは自然学的な理解になります。
 反対に心があって知性があって、それが身体を支配している――と考えると、心理学的な理解になります。

 動物でありながら知性をもつ人間を考えるとき、自然学心理学はどのように結び付くのか――。

 このお題に対してビランが出した答えは、その間に“生理学”を置こう、というものでした。
 単純に物理的な意味での身体ではなく、完全に精神的な意味での心ではない。その真ん中にあってはたらくけれどもそのはたらき自体は見ることができない――そんな生理を考えましょう。




 本文ではもっといろいろな話(感覚とか能動とか受動とか)が展開されますが、やや専門的すぎるのでここでは触れません。
 そして私の感激はもっと手前のところ――、そもそもコペンハーゲンの出したお題からが、いまの私の興味に同じ! と感激だったのでした。

 いまでこそ整体屋を名乗っていますが、もともと私はカイロプラクティックから勉強を始めています(心理学にはそれ以前から興味がありました)。カイロプラクティックの学校に入って、西洋医学的な知識を勉強して、それで現場に出ています。
 現場に出て、勉強してきた知識では足りないことを痛感して、それから東洋医学の勉強を始めています。そして、いまではフランス哲学・心理学に夢中になっています。

 この経過を私なりに理解すると、人間の「心」と「身体」について、区分する→区分しない→区分の意味を考える、と変化してきたことになります。

 区分するというのは西洋医学です。これは大体アメリカの仕方ですが、心と身体をすぱっと分けて、それぞれをどんどんどんどん専門化する仕方を取ります。
 区分しないというのは東洋医学です。一応は心と身体を分けるけれど、心には身体の、身体には心の要素がいくらかずつは含まれるから、どこまで分けてもきちっと分け切ることはできない。だから、全体は全体のまま理解しようという仕方です。

 そして区分の意味を考えるというのが、フランス哲学・心理学です(フランス医学は勉強していないので知りません)
 心と身体は確かに違うもののようだけれど、どちらも、ひとりの人間(とか生き物すべて)のなかでそれなりに調和・融合している――。では心と身体は何がどう違うのか、またそれぞれはどうつながっているのか、その辺りをじっくり考えてみましょう――と言って、ぐだぐだぐだぐだ理屈を展開するのが、フランス哲学・医学の私のイメージです。

 正直、長い理屈が多いので、読み始めるにはそれなりの覚悟が必要です。が、“当たり”の本に出会えばもう、私は大感激間違いなしです。
 積み上げられる理屈が緻密で、たいそう明晰で的確でめちゃくちゃにおもしろいのです。

 本書で繰り広げられるビランの理屈も、もちろんとってもおもしろいものでした。
 それもそのはず。私の好きなフランス哲学の流派は、まさにこの方から始まるの(だそう)ですから!


111213 施術と寒気

 整体を受けた後にときたま、ひどい寒気の現れることがあります。暖房の温度とか薄着とかいうことではなく、身体の芯から冷え込むような寒気です。

 初めの頃、私は、この寒さを「施術の不完全」の目安と考えていました。
 施術のし残しがあるから寒気が出るのだ、だから寒気がそれなりに収まるまで、施術は続けなきゃならんのだ、という理解です(この理由は、“科学的”には説明できません。私個人は、感覚的に納得していますが)

 その後、そうではない場合もあるのだとだんだん分かってきました。施術直後は寒かったけれど着替えているうちに落ち着いてきた、といわれる場合が出てきたからです。
 しかしそれがなぜそうなるのか、理由については分かりませんでした。ベッドから起き上がったときの血圧の加減? 施術前後の筋肉の状態と全身血流量の関係? いろいろ予測はしてみますが、あまりピンときませんでした。




 ところがここ最近、2度続けて施術後に寒気の出たPさんのことを考えるうちに、或る仮説を思いつきました。

 もしかすると、これは一種の“身体の記憶”ではなかろうか、ということです。

 身体の記憶――といっても、別にアヤシイ話ではありません。
 ケガをすると、皮膚や筋肉に一種の引きつれができます。引きつれは、施術を受けると弛みます。
 私の仮説は、このときついでに、ケガ当時の記憶が刺激されるのではなかろうかということです。

 全身の筋肉の状態(伸び縮みの程度とか緊張の具合とか)は脳が一括して把握しています。
 ですから、「このケガをしたとき」に「この筋肉が急激に変化した」と合わせて覚えておくことは、きっと脳には簡単です(しかもそうしておくと「この動きは危険だからしたくない」とか「前に痛い目に遭ったからこれをするのは怖い」とか、大事な“経験資料”に使えます)

 そしてまた、施術中に古傷の記憶がよみがえる場合があることは、複数のお客さんから聞いています。

 もしも、「ケガの記憶」と「筋肉の状態」と「施術」の間になんらかのつながりがあるのなら、寒気も、出血を伴うケガの「ケガの記憶」に含まれている可能性があります。

 ケガの記憶が意識に上るのは、ほとんど施術中の一瞬だけ――というのに比べると、寒気の方は、もう少し長い時間、持続します。寒気の記憶というか反応は、静めるまでに時間がかかるのかもしれません。


120110 腰痛と足

 昨年12月上旬からほぼまるまる1ヶ月、ぎっくり腰未満の腰痛・腰不安定に警戒態勢な毎日を暮らしました。私には初めてのことでした。

 ぎっくり腰未満、なので普段はどうもありません。ただかなり頻繁に、ふとした拍子にぴしッと、腰というか骨盤というか具体的には右の仙腸関節奥側に痛みが走ります。

 あイタっ、となって固まるとか、へなへな腰が抜けそうになるとか、立ったまま靴下・ズボンが穿けなくなるとか、咳をすると腰の奥に響いて痛いとか。
 痛みの具合が、これまでお客さんから聞いて想像していたそのままなので、痛いのも痛いけれど、その痛みが私にはおもしろい。もちろん、腰痛生活の不都合さは大いに納得しました。




 私の場合、腰痛の原因には心当たりがありました。
 直前にした右の鎖骨への施術をきっかけに、のどのイガイガと突発的な咳き込みが始まり、それに続いて腰痛が始まっています。

 要するに、下手な仕方で身体のバランスを変えたことが失敗だったのです。

 これがお客さんの身体であれば、全体の具合を見ながら施術の手順を考えて、バランスを急激に変えすぎずに問題を改善することができます。
 ところが全身を離れたところから見ることができない私の身体では、時々こういう失敗が起こります。

 こういった場合、実は安静療法が有効です。
 腰の筋肉が新しいバランスに慣れさえすれば良いので、本格的なぎっくり腰にならないようおとなしく生活していれば、痛みは自然に治まります。が、整体屋がそれではおもしろくない。
 ということで、根本解決を目指して再調整に臨みました。




 結果は、どうやら右足首外側と右膝内側の問題が原因だったようです。
 足首への施術で7割減、膝への施術でほぼ消失。いまはもう腰の痛み・不安感は気になりません。突発的な咳き込みがまだ少し残るので、再調整完了! とは言えないようですが。

 施術した感じから想像すると、今回見つかった問題は、右足首をぐねってできた癒着が原因かと思われます。
 ぐねったところに体重が乗って、すねの骨の先の方で足首の外側を、元の方で膝関節の内側を傷めたと考えると辻褄が合います。

 ぐねったのは中学時代のことかなあ……とそのあたりの記憶はあいまいですが、とりあえず、簡単なしくみの腰痛であってくれて助かりました。施術するのが自分の身体で、痛いのが腰で、しかもしくみが複雑となれば、とても困ったはずですので。


120212 出張整体

 2月3日に、久しぶりに出張整体に行ってきました。原則、出張はしませんので、数年ぶり、2度目の出張です。
 1度目のときはかなり遠距離でしたので、ベッドは車で運んでもらって私は身軽に移動しました。今回はそれよりはずっと近かったので、ベッド持参の電車移動に初挑戦!――でしたが、なかなか大変でした。

 地下鉄で出かけて乗り換えは1回。そこから後は主催者が車で連れて行ってくれるので歩く距離は知れているのですが、車内ではマフラーと手袋が邪魔だし、もこもこつるつるなコートを着ていたので肩に掛けたベッドのストラップが滑って歩きにくいし、と単純に「運搬」にてこずりました。
 汗はかかずに済むものの、冬には冬の苦労がありました。




 施術の方は、おかげさまで気持ち良く、問題なくさせてもらうことができました。ひとえに、主催者およびお客さんの皆さんのお気遣いの賜物です。


 個人的には、整体屋の私には当たり前のことが、非整体屋の主催者には新鮮なことだ、というのがおもしろいことでした。

 たとえば、施術の前後で受け手の顔色が変わることは、整体屋の私には必要なことです。きっちり仕事ができていればきっちり顔色は変化するし、またそうできていなければ施術は不足。なんらかの手を打たなければなりません。つまり多少の差はあれ、施術前後で顔色は良くなっていないとダメなのです。
 けれどその変化を見る機会は、ふつうの人には、なかなかありません。お客さんの段取りをしてくれていた主催者は、「部屋に入る前と後とで、受けた人の顔色・顔つきが変わっている!」と楽しんでくれました。

 また、施術が済むと、今後の施術予定(要/不要、頻度など)をお客さんに言います。「また来週」とか「1ヶ月以内」とか「もう大丈夫」とか。その予定の判断が「お客さんの手応え」とかなり一致していたそうで、それにも驚かれました。

 大工さんが一日仕事をすれば一日分家が建つ――そんな当たり前のことに非大工な私が興奮するように、誰かに、「整体屋にとって当たり前」のことに驚いてもらうのは嬉しいことです。
 整体屋だって、一時間仕事をすれば一時間分“身体の修理”は進むのだ、と妙に偉くなった気分(!)でした。

 ――終わってみれば、ただただ、楽しい仕事でした。
 主催者、ご家族の皆さん、すべてのお客さんの皆さんに、どうもありがとうございました。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。


120214 禅と整体

 井筒俊彦がおもしろい、と何かの本で読んだので、『意識と本質』(『井筒俊彦著作集6』中央公論社1992 底本は1991年出版の岩波文庫)を読み始めてみました。半分ほど読んだところでは、禅の、悟り以前・悟り中(?)・悟り以後での、ものの見え方が話題になっています。

 禅問答風に、花といっても花ではない、鳥といっても鳥ではない――とか言われるとちんぷんかんぷんですが、これを筋肉と言い換えると、すんなり分かった気になってしまうから不思議です。

 筋肉、たとえば上腕二頭筋は、腕の力こぶを作る筋肉です。一般的には、肘関節を曲げる筋肉といわれます。
 けれど実際は、肘関節を支える筋肉でもあれば血液を循環させるスポンジでもあって、熱も生み出せば、骨を鍛えて保護もして、……と役割はいろいろです。

 上腕二頭筋、と聞いてすぐに「ああ、あの肘関節を曲げるあの筋肉ね」と限定するのではなく、「あんなこともこんなこともそんなこともする、あそこにある、あのアレ」と幅をもたせて捉えなければ、身体のことは分かりません。これは、整体屋として日々、当たり前に経験することです。


 禅問答の言うことがこれと同じかは分かりませんが、たぶん、禅も一種の技術論だと思うので、まあ大体こんな理解というか実感で良いんじゃないかと思います。


 一度、「ああなるほど、あの感じか」と想像できてしまえば簡単・単純なことなのに、言葉で説明するにはやたらに難しいこと、というのはあるものです。

 施術の説明だって、難しいもんなあ……。
 そんなことをぼんやり考えながら読んでいると、無性に、京都の万福寺(禅寺)に行きたくなってきました。――行っても、ただぼけっと拝観して帰るだけですが。




 と、こんなことを書いていた翌日――。
 耳に症状のあるお客さんと目に症状のあるお客さんの、どちらもが、足首への施術で改善できそうな手応えを得ました。
 残念ながらまだ手応え段階なので結果は次回に持ち越しですが、うまくいっていれば、まさに、耳といっても耳ではない、目といっても目ではない、足首といっても足首ではない――です。なかなかおもしろいタイミングでした。


120224 新教室のおもしろさ

 11月から行き始めた太極拳教室が、じわじわ、本格的におもしろくなってきました。
 ――が、残念ながら、どこがどうおもしろいのかを言葉で説明することはできません。それが実にくやしくもあり、同時に、きっとこの説明のできなさこそが、今回の教室の魅力の本質なのだなあとも思います。

 説明できない理由は単純で、先生の教え方がほとんど言葉を介さない仕方だからです。お手本を示すときは、先生ご自身が動きながら「こうして……後ろに乗って、もう一度前に出て、……こう」と言われる。生徒が間違った動きをしていると、まさに手取り足取りで直される。
 こちらが「手をこうしろということですか?」と訊くともちろんお答えはいただけますが、やっぱり、言葉の説明より具体的な動作の直しの方が主です。


 身体が全体で動く以上、部分だけで話ができないのは当然です。下に向けていた右掌を上に向ければ、その影響は全身に及ぶわけで、逆に言うと、全身の作用がはたらくからこそ、右掌は下から上に反されるわけです。

 整体でこのことに直面している私は、これを仕事では理解しています。
 けれど実際の生活のなかでそれを明確に意識することはほとんどありません。簡単に「右掌は上向き/下向き」で済ませています。

 実用に即したこの仕方を、別にダメとは思いません。が、簡単な仕方であることは確かです。
 教室で、ひたすら言葉を介さずに太極拳を習っていると、言葉の説明を超えた、混沌とした身体のしくみそのものにどっぷり浸る感じがあるのです。簡単でない、身体本来の複雑なつながりをじっくり思い出す感じです。これが、いまの私にはものすごくおもしろいのです。


 そういえば、子どものときに習っていた習字教室の先生も、説明はせずに手を取って直された方でした。相手が子どもだから説明が通じにくいという事情もあるのでしょうが、良い先生に習っていたなあ、と今更に思います。当時にその良さが気づけなかったのが、もったいないです。


120228 子どもの落ち着き

 小学校低学年のお客さん、Q君のお母さんから「Qがこの頃、落ち着いてきたようです。授業中もごそごそすることなくしずかに座れていると、学校の先生から聞きました」と教えてもらいました。
 ――めちゃくちゃ、嬉しかったです。


 小さい頃にケガや手術をした子どもは、物心付く前から「しんどいのが当たり前」で過ごしています。楽だった頃を知らないので、自分がどの程度しんどい状態になっているのか、自分でもよく分かっていません。
 ですから、「しんどい」自覚もないままに、しんどい身体で生きて、育つことになります。

 しんどい身体は、不器用で落ち着きがなく、風邪や病気にかかりやすいのが特徴です。

 大人でもこのしんどさはつらいものですが、子どもの場合は、それが今後の成長に関わってきます。
 私が、子どもの身体をなるべく早く、しかもなんとしてでも改善したいと切望するのはこのためです。


 Q君の授業態度が変化したのは、おそらく身体にいくらか落ち着きが出てきたからだと思われます。
 大人の不眠でも、「寝る姿勢が落ち着かないから眠れない」という人は少なくありません。授業を聞くにも、「身体が落ち着かないから座っていられない」ことは十分、想像できます。
 身体が落ち着いていることは、それほど大事なことなのです。


120305 キリ[大]の活躍

 2月中旬から、キリ〔大〕を使い始めました。

 いつもなら、新しい道具を使い始めるきっかけには「それまでの道具への強烈な不足感・不満足感」があるのですが、今回は偶然の出合いがきっかけでした。
 別の用事で行ったコーナンでたまたまキリ〔大〕を手にし、ふと「これで施術してみたいなあ」と思ったのです。

 キリの大、中、小といっても、形は同じ四方錐です。柄の長さと、鉄部分の長さ・太さが違うだけです。

 しかしたったこれだけの違いが、劇的に使い勝手を変えるのです。
 小⇒中⇒大となるにつれ、施術の奥行きがぐっと深くなり、力強さが大いに増します。結局は、てこなのでしょう。

 実際、施術が難しかった関節奥の癒着や、かちかちに固まった太ももの筋肉の癒着が、これまでになく、さくさく剥がせています。
 膝裏の靭帯(十字靭帯)、骨盤の関節(仙腸関節、腰仙関節)、そして背骨への施術(深いところの小さな筋肉、靭帯など)、……。そんなややこしいところが、おもしろいくらい改善できています。




 3月6日〜9日まで臨時休業いたします。
 ご迷惑をお掛けしますが、どうぞよろしくご了承ください。


120318 寒と熱のバランス変化

 施術後に寒くなるお客さん、Pさんのことは前にも一度書きました(111213)。が、このたび、前回考えたのより遥かにマシなかたちで、「なぜ寒くなるのか」が分かったように思うので、ここに報告しておきます。

 前回立てた仮説は、「出血に伴う寒さの記憶が再現されるから、施術後に寒くなるのでは?」というものでした(読み直すと、我ながらかなり奇天烈で恥ずかしい……)
 それに対して今回の仮説は、「施術後に寒くなるのは、寒と熱のバランスが急激に変化するからでは?」というものです。




 たとえば人は、右足に問題があれば自然に右足をかばいます。すると姿勢は、当然、ゆがみます。
 しかしこの「右足のかばい」は筋肉の自動的なはたらきによって起こるので、本人に「かばっている」自覚は持てません。姿勢のゆがみも、自分で自覚することはできません(写真や鏡で確認することはできます)

 ところが施術をして右足の問題が改善すると、筋肉はただちにかばうのをやめます。姿勢は急激に変化します。しかし始めたとき同様、“かばい”をやめるのも筋肉の自動的なはたらきなので、本人に「かばいをやめた」自覚は持てません。
 自覚できるのはただ、姿勢が急に変化したことだけです。したがって「整体を受けたら姿勢がゆがんだ!」と感じることになります。

 もちろんこれは、それまでのゆがみを“ゆがみ戻した”だけのことです。新たにゆがませたわけではありません。
 ですがそれ以前のゆがみを自覚できない当人にとってみれば、反対方向に「ゆがんだ」感覚だけが確かな実感です。




 寒熱の場合も、これと同じことが起こっているのではないかしら、というのが今回の仮説です。
 熱に偏った自覚がないまま、身体から急激に熱の原因が奪われると、主観的にはものすごい寒が実感される――という想像です。

 この仮説では、「Pさんの寒熱バランスが整ったなら、施術後の寒気はなくなる」と予想されます。
 熱への偏りが少なくなり、寒熱のバランスがほどよくなれば、施術をしても寒熱のバランスが急激に動くことはないと思われるからです。


120324 PTSDについて思うこと

 このところの私の疑問のひとつは、「PTSDは本当に“心の問題”か?」ということです。

 PTSDは「心に傷を負った後で、長期にわたって続くさまざまなストレス性症状」の総称です。
 “総称”なので、その内容は、感情的なものから生理的な反応まで多様です。研究者の立場によっても症状の捉え方はまちまちのようで、読む本によっても微妙にイメージが異なります。正直、私には厳密な定義がよく分かりません。

 ただ、PTSDが古くは「戦争神経症」「鉄道脊椎症」などと呼ばれていたことや、むごい体験をした人のみんながみんなPTSDになるわけではないことなどが、私にはとても気になります。

 私は、古傷に施術して身体を“修理”する整体屋なので、「戦争神経症」「鉄道脊椎症」はおそらく整体の適応範囲だろうな、と推測できます。
 そしてPTSDになる人とならない人がいるということは、単に「むごい体験の場に立ち会う」だけではない何かがあることを予想させます。

 そんな漠然とした予測から、PTSDは“身体の問題”でもあるのではないかしら、と思っていました。
 心の受けた衝撃が症状を引き起こすのではなく、心と身体の受けた衝撃が複雑に組合わさって、症状を引き起こす――そんな理解です。

 そんなことを考えながら、何気なく、『ヴェーユの哲学講義』(シモーヌ・ヴェーユ著 渡辺一民 川村孝則訳 筑摩書房 1996)を読んでいると、読み始めてすぐのところで、「条件反射」の考察が書かれていました。
 時代が時代ですので、PTSDという言葉は使われていません(講義があったのは1933〜1934年)。けれど書かれてある内容はPTSDに重なります。

 ――なるほど。私がぼんやり思っていた「心と身体の受けた衝撃うんぬん」とは、「条件反射」のことだったのか。これは、目からウロコな納得でした。


 とすると、高いところに上ると怖くなる私の「高所恐怖」も、一種の「条件反射」。信用できない足に信用できない仕方で体重が掛かると怖く感じる「反射」なのでしょう。
 施術して足の裏の緊張が取れてしまうと、それ以来、高いところが人並みに平気になりました(断崖絶壁は怖い。けれど本屋の踏み台、池のそば、つり橋は平気)。「恐怖」を克服したからではなく、反射の「条件」が変わったから、と考えるとすんなり納得できます。

 微妙な心理学用語は、生理学の言葉に置き直したほうが納得しやすい場合がある。これは良い勉強でした。
 私には、「PTSD」も言葉を変えて、「恐怖・悲惨な体験がつくる条件反射」と捉える方が、よりしっくり理解できます。


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