のぞみ整体院
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整体・身体観 12

110422 『ピアジェ×ワロン論争』 加藤義信ほか

 『ピアジェ×ワロン論争 「発達するとはどういうことか」』
  編訳著:加藤義信 日下正一 足立自朗 亀谷和史
  ミネルヴァ書房 1996年

 ジャン・ピアジェ、アンリ・ワロンはともに20世紀を代表する心理学者です。それぞれ特徴的な発達理論を作り上げました。同時代に在った2人は互いの論点を批評しあい、それはピアジェ×ワロン論争と呼ばれたそうです。
 本書は、未発掘だった資料も含めてその論争および当時の時代背景を概観し、2人の理論全体について解説を付けた“専門的入門書”です。




 またまたすごい本に出会ってしまいました。

 ピアジェは名前だけ、ワロンに至っては名前さえ知らなかった私ですが、すでに読んでいる途中から“大のワロン好き”になれてしまうくらい、中身の濃い本でした。

 もともとは、この本を読む前に読んでいた別の本の参考文献として、ワロンの名前が挙がっていたのでした。「誰じゃこりゃ?」と思って図書館で検索し、本棚であれこれ物色した結果「ピアジェとワロンが同時に勉強できそう」というお得感につられて読み始めたのがこの本でした。

 が、今となってはもう出会うべくして出会ったとしか思えません、この本もワロンも。

 ワロンの場合、発達心理学とは言いながら、扱うのは心だけに留まりません。筋肉や神経の発達というか成熟までが視野に入れられています。
 そして、感覚し運動する身体の作用と、主に言葉によって表現される思考・知能と、それを取りまく他者・社会との絡み合いから人間をとらえていきます。

 この視点が、整体屋である私にはものすごくありがたいのです。
 子どものお客さんに施術していて思うこと、大人の人の、子どもの頃のケガに施術していて思うこと、見聞きしたことを元に勝手に想像してみること。
 こういったあれこれを考えるとき、子どもの発達をじっくり観察した経験のない私はいつも材料不足に困ります。何を考えても実感とか確信がもてないのです。

 で、たぶんこうなんだけどとか、理屈から考えるとこうのはずなのだけどとか、推測ばかりが並ぶことになります。
 これじゃいかんと思って本を読んではみるのですが、今度は子どもをみる視点が問題になります。やたらと脳に偏っていたり情緒的すぎたり理論的すぎたりすると、私の役には立ちません。心と身体と人間関係が同時に盛り込まれていなければ、私の知りたいこととは外れてしまうのです。

 それが、ワロンならきっと私の知りたいことを教えてくれるはず!――本人の著作はまだ読んでいないので断言はできませんが、そんな期待に満ちた強い予感があります。

 これまで、西洋医学はもちろん、カイロプラクティックとか整体とか東洋医学とか、「教科書を通してのお勉強」についてはいろいろかじってきた私ですが、いまの私と、身体をみる視点がここまで一致しそうに思えるのは初めてのことです。
 まさか、発達心理学と重なるとは思ってもいませんでした。早速、ワロンご本人の著作を探して読まなければ!




 と、ここまで熱く思わせてくれた本書に大感謝です。
 主題になっているピアジェとワロンの理論以外にも、マルクスの観念論についてとか、英米とフランスの考え方の違いとか、おもしろいことをたくさん教えてもらいました。

 こんなふうに、重層的な視点を保ったまま物事を説明するのはとてもとても難しいことです。複数の著者が意見のすり合わせをきちんとして、時間と手間をものすごく掛けて作りあげたことがよく分かります。とても、親切な本でした。
 これからワロンを読む私の、貴重な足掛かりになってくれるはずです。


110502 分からないのが当たり前

 このところずっと、「施術内容を説明すること」の難しさに頭を悩ませていました。四六時中、頭の中は「どう言えばうまく伝えられるのだろう……??」。答えを探してじりじりしていました。

 それが先日、ようやく、あるお客さんのひとことで救われました。
 その方のおっしゃるには、「必ずしも説明を分かってもらわなくても良いのではないですか? “皆さん分かりにくいものなのですが”って先に断わっておけば、それで良いと思いますよ」。

 すらっと話されるお言葉を聞きながら、私の目からはウロコがどさどさっ。頭のつかえがスポンと腑に落ちて一気に肩の力が抜けました。――ああ、そうだ、そうだったのだ。




 たとえ自分の身体であっても、内臓の一々の動きを自覚することはできません。パクッと食べてごくっと飲み込んでそこそこの間隔でうんちが出ていたら、まあまあ私のおなかはまともにはたらいているのだろう、と想像できるくらいです。
 それに対して手足は、コップを取ろうと思えば手が伸びて、駅まで歩こうと思えばたったと歩いて、いかにも自分の思い通りに動かせている気がします。

 そしてこの2つの筋肉を見比べると、内臓の筋肉は、私の知らないところで勝手にはたらく。けれど手足の筋肉(骨格筋)は、私の思い通りに動かせるし、どうなっているか知ることもできる――つい、そう考えてしまいます。
 が、ここに誤解の元がある、というのが私の整体の肝腎な部分だったのでした。

 骨格筋は、私たちが考えているほど思い通りには動きません。
 というかそれ以前に、そもそも個々の筋肉のことは自分ではよく分かりません。腸の形がどうなっているのか、胃がどんな動きをしているのか訊かれても分からないのと同じで、腕にどんな筋肉があるのか、そしてそのそれぞれはちゃんと動いているのか、といったことは感覚することができないのです。




 「肩がこっています」とお客さんが来られて、私は検査をして、「なるほど、肩こりの原因は右膝にある」と私が納得したとします。
 どれだけこの納得が正しかったとしても、そして施術が的確だったとしても、お客さんに分かるのは肩がこっていることだけです。右膝の筋肉がまともでないことはお客さんには分かりません。「まともでない」ことは感覚できないからです。
 そして一方の私は、肩のこりを改善するためにこそ、施術は右膝にしなければなりません。

 とすると必要な説明は、「いま私は右膝に施術していますが、これは肩のこりを良くするためです。お客さんに、右膝が悪いという感覚はないはずです。でも、身体というのはそういうものです」ときちんと断ることです。
 私は、「分かってもらう」ための説明を考えるのではなく、「分からないものですよ」と知ってもらうための説明を考えなければならなかったのでした。

 ずいぶんモヤモヤ悩んでいましたが大事なことを教えていただきました。おかげさまで、すっとしました。


110509 アンリ・ワロンと整体屋な私

 ワロンがすごい!(110422) と感動してから2、3冊の本を手に取りました。
 まず最初に読んだ『児童における性格の起源』(アンリ・ワロン著 久保田正人訳 明治図書 1965年)は1930〜32年の論文集です。

 こんな書き方をすると、偉大なる先人に対して厚かましく聞こえるかもしれませんが、意外なくらい、というか衝撃的なくらい“人間観”が私と一致していました。
 人間観といっても、要は身体と心の話――神経と筋肉の発達についてとか、身体の発達と感情・情動との関係とか、内臓と筋肉の話とか、身体を支える筋肉のしくみとか、そういったあれこれについての理解です。

 私には、“私なりの身体観”があります。個人的には、「正しい」と確信しています。けれど残念ながらこれまで、同じようなことを言っている人には出会えていませんでした。
 おかしいなあ、合っているはずだけれど間違っているのかなあ……。答えは出せたけれど答え合わせはできない、誰とも答えが一致しない、中途半端で頼りない感じをずっと抱えていたので、初めて同じことを考えている人に出会えて大いに安心しました。

 が、ワロンは心理畑の人です。人間を、“心”の視点から考える立場にあるはずの人です。
 整体屋の私が“身体”視点で人間を考えるのは良いとしても、心理畑にいるワロンが、こんなにも“身体”への理解を深めてしまって良いのだろうか、ここまで“身体”視点に踏み込んでも、変わりなく“心”の視点を取り続けることができるのだろうか……。

 大きなお世話な余計な心配をしていましたが、続いて手にした『ワロン・ピアジェ教育論』で疑問が解けました。ワロンはある時期から完全に、足場を教育の方に移していたのです。
 別の本の解説を読んで、ワロンに社会的な視点があることは知っていました。が、32年以降に書かれた論文からは“心”や“身体”の視点より“環境・社会”の視点の方が、はっきり強くなっていきます。

 環境・社会とか教育となると私の視点からは外れるので、さしあたり私が以降の著作を続けてどんどん読むことはなさそうです。けれど1冊の本に、「80年前からわたしもそう思っていたよ」と後押ししてもらった感じは鮮烈で、とても嬉しいことでした。
 おかげさまで、やっと、自分の身体観に自信を持つことができました。ひとえに、ワロンさんのおかげです。


110514 自分の背骨に施術する

 お客さんから訊かれて「自分の身体は自分で施術しています」と私が答えると、大抵の場合、続けて「では手が届かないところはどうするのですか?」と訊かれます。
 ――「たとえば、背中とかは?」。

 これまで数回した背中の施術では、母の手を借りました。検査は全部自分で済ませて、必要な場所にキリを当てて、そこで母に「ちょっとここで持ってて」と頼みます。
 キリの固定を母に任せ、筋肉とか皮膚は私が自分で動かす――そうして癒着を剥がしました。

 この仕方は、簡単な施術であれば十分対応できます。
 けれどふだん私がお客さんにしているような、ちょっと込み入った施術をしようとすると、さすがにちょっと難しくなります。自分で動かせる筋肉・皮膚だけでなく、母に固定してもらっているキリの方も、動かさなければならないからです。




 “必要は発明の母”の言葉通り、私も、自分の身体というか腕前がその必要を感じて初めて発見ができる体質です。施術理論も身体観もそうですし、施術方法や道具についても同じです。
 ですから、「必要がないうちから考えても分からないし、どうせそのうち必要に迫られたらイヤでも勝手に思いつくだろう」、そう開き直って、特に「どうすれば自分の背中を施術することができるか?」とは考えませんでした。

 きっと、ある日突然「こんな形のこんな硬さの道具があれば自分の背中に施術ができる!」とひらめいて、ひらめいたときには既に道具のイメージは固まっているだろう――と横着に構えていたら、案の定、そうなりました。

 ある朝、ぼんやり歯を磨いているときにふと、くぎ抜き……とひらめきました。と同時に、「ああなるほど、くぎ抜きなら確かに適当だな」と納得。
 即座にコーナンへ向かいます。

 みちみち、「でもくぎ抜きは先が割れているぞ。妙な具合に突き刺さったりしないのだろうか……」と不安がよぎりましたが、くぎ抜きコーナーに着いてみるとそんな悩みはあっさり解決しました。くぎ抜きの隣の棚から、より理想的な道具が見つかったのです。
 その名も、先切金槌(レシートによると「さききりかなづち」。本来の用途は不明です)。片方はふつうの金槌風、もう片方が鳥のくちばしのようにすぼまって終わります。すぼまってはいますが、キリほど尖ってはいません。

 見た瞬間、「あ、これにしよ」。即決。
 買って帰って早速ごそごそ試してみます。

 キリを使い慣れた私からすると、尖り具合に物足りなさはあります。が、贅沢は言っていられません。そんな不満は後で削り込めば良いだけのこと。それより何より大事なのは、きちんと背骨が施術できているらしいことです。

 これは実際、かなりの感激でした。
 施術が一段落してから背中をすっと立ててみると、これまでまったく動かなかった部分の肋骨が滑らかに下にスライドするのが分かります。肋骨のこの動きを体感するのは、おそらく、私に物心が付いて以来初めてのことです。つい嬉しくて、くっ、すいー、くっ、すいーと繰り返し。ひとしきり感触を味わったところで、おお〜! と一人ひそかに自分に拍手(!)

 新登場の先切金槌――使い勝手には大満足でした。見た目は――正直、だいぶ物騒です。
 “自分施術”専用の道具なのでお客さんに使うことも見せることもありませんが、キリ、キリ、金槌と並べて置いた机を見ると、ちょっと不思議な光景です。とても“整体屋の使う道具一式”とは思えないところが素敵です。


110520 小指の痛み、ばね指と肘の癒着。

 ここ1ヶ月ばかり、左手の小指に軽い引っかかり感がありました。曲げたときにちょっと突っ張るような、動かしにくいような、小指だけがやけに目立って感じられるようなそんな感じです。
 なんだろう? とは思いながら気になるほどの痛みも違和感もないのでしばらく放置することにしました。そのうち、なんらかの変化があるかもしれません。整体屋的好奇心による観察を兼ねての放置です。

 が、いつまでたっても変化せず、しかも同じ調子で引っかかり感だけは続くので、放置しておくのが少し面倒になってきました。
 ただ待つだけなのにも飽きてきたし、ちょっと強引だけれど、こちらから直接攻撃をかけてみようか――。症状の悪化は承知の上で、小指の周囲に、ちょこちょこと施術してみました。

 と、案の定、翌日には見事に小指の状態が悪化しました。カンカンに炎症が起こり、ぐっと曲げたまま、痛みとこわばりで伸ばすことができません。
 あまりにも予想通りの展開に、しばらくの間は「いやーすごい、施術の効果てきめんやわ」と笑っていました。が、そこからの立て直し施術がはかどらず、痛みと腫れが数日続くことになると、さすがに私も焦ってきました。もしかすると、変形性関節症の始めとはこういう具合なのかもしれない……。

 そういえば私は、以前お客さんが「腱鞘炎になったかも」と来られたときも、大いにてこずって、泣きを見たのでした。そのときに、「いわゆる“使い痛み”をなめてかかってはいけない」と苦い苦い教訓を肝に銘じたはずなのに、懲りない性格というかなんと言うか……進んで自分の身体で再確認した格好になりました。




 散々苦労した挙句にようやく突き止めた原因部位は、左肘の癒着でした。皮膚にも小さな傷痕が残っているので、単なる打ち身ではなく出血もあった古傷のようです。おそらくは、子どもの頃に派手に転んですりむいたとかそういうケガのひとつなのだと思います。私自身にケガの心当たりはありません。
 どうやら、この傷痕が腕全体にねじれを作り、その影響が小指に集中、そしてその不都合の現われが、小指の引っかかり感だったようです。

 左肘の施術が一段落すると、直後から小指の痛みと腫れが引き始めました。まだ少し芯の感じはありますが、こういう状況の場合、完全に解消するにはある程度の段階が必要です。ともかく、原因が分かり施術が展開しているので、ここまでくれば後は時間の問題です。




 ああやれやれ、やっと動くようになったわ、とグーパーを繰り返していて気付きました。物心ついたときからずっとあった薬指のばね指が、ほぼ完全になくなっています。試してみると、右手の薬指のばね感も、つられて軽くなっています。
 ――腱鞘炎的使い痛みとばね指は、根が同じ。理屈で考えれば当然のこととはいえ、おもしろい結果がきれいに出て、なかなか興味深い施術でした。


110523 『戦争ストレスと神経症』

 『戦争ストレスと神経症』(エイブラム・カーディナー著 中井久夫 加藤寛共訳 みすず書房 2004)を読みました。PTSD(心的外傷後ストレス障害)という概念を成立させるきっかけとなった本です。翻訳の元になったのは、初版本ではなく1947年に出た第二版とのことです。

 前線で戦ってケガをした兵士は、場合によっては戦列を離れ数年が経過した後でもさまざまな障害に苦しめられる――当時シェル・ショックとか戦争神経症とかいろいろな名前で呼ばれていたこれらの障害を、一括して「外傷神経症」として扱い、その全体的な状況を観察・分析した本です。本文は訳350ページ。なかなか長い本でした。

 1冊丸々おもしろかった――とは私にはとても言えませんが、それでも大切なことを多数教えてもらいました。
 たとえば、外傷神経症の核心は生理神経症であるとか、外傷神経症には急性期と慢性期の区別があるとか、外傷神経症は適応の一形式であり精神身体的人格機能の変化であるとか、その他いろいろ。

 整体屋として、「現在の身体の不調」と「以前の身体の古傷」を結び付けて考える私としては、思わず「そうでしょそうでしょ、あなたもやっぱりそう思うでしょ」と嬉しくなったり、「うーん、でもそう考えると対処法がなくなっちゃうのよ」と不満をもらしたり、ずいぶん一人でぶつぶつ楽しませてもらいました。

 整体の仕事をしていると、身体と心が別物でないことはよく分かります。
 身体の状態が良くなれば心が安定し、逆に、身体の状態が悪くなれば心も荒れる。この関連はかなり明確で、子どもの場合、癇癪(かんしゃく)の程度で施術の要不要が判断できたりするくらいです。
 正面切って心を扱うことはしないけれど、まったく無関係にはみなさない。そんな立場の私にとって、心の視点から身体を扱うこの本の内容は大いに勉強になりました。




 ところで私事ですが、ここしばらく、良い読書が続きました。
 心理の臨床家としてあくまで心に向き合い、心の視点から病める人間を扱い続けたピエール・ジャネ。
 心理の臨床家として人間に向き合った結果、心と身体と社会は切り離せないという結論にたどり着き、社会の改善のために教育に取り組んだアンリ・ワロン。
 そして心の問題とされていた戦争神経症を生理神経症、つまり身体の問題と結び付け、理解しようとしたエイブラム・カーディナー。

 お三方のおかげで、私の考えていたことがたった一人の思いつきでないことがよく分かりました。これは、すごい安心でした。彼らが本を書いていてくれて、それを日本語に訳した人がいてくれて、それを出版した会社があってくれて、図書館がその本を持っていてくれて、本当に良かったです。




 蛇足ながら本書を読んでいて、「外傷」という言葉の扱いが気になりました。
 ところによっては明らかに「身体的外傷」を指すようでいて、けれど別のところでは「心的外傷」を意味しているようにも思える……おそらくは「トラウマ」の訳なのでしょうけれど、身体的なのか心的なのかはっきりさせてほしいなあと思っていました。

 いつか説明があるかしら、と心待ちにして読み進めるも説明はなく、仕方がないので手元の医学辞典を引くと、「トラウマ=外傷」だったことを初めて(!)知りました。
 医学辞典巻末の和英辞典によれば、心的外傷といいたければ、ちゃんと心的を付けなければならないようです(psychic trauma)。――てことは私の書名『身体のトラウマ』は基本的に言葉遣いが間違っているのでは……。最後の最後で嫌な発見をしてしまいました。日本語版はもう手遅れなので、英語版を出すときに気をつけようっと。


110604 知らないことの楽しみ

 整体に関係があるのかどうか、と前置きした上で、「カカツドウボウコウってご存知ですか?」――不意にお客さんから訊かれました。
 耳慣れない言葉にとっさに漢字が浮かばない私は、え……とちょっと考えてから、ああ、過活動膀胱かと納得して、「いえ、知りません。何ですか、それ?」と訊き返します。

 お客さんが教えてくれた話を乱暴にまとめると、過活動膀胱とは、急な尿意と多尿を足したような、そんな状態を指す言葉のようです。
 「それは病名なんですか?」と私。「数年前に病院に行くと、あれこれ検査をした後でそう診断されました」とお客さん。

 「その過活動膀胱が、どうもこのところ少しマシなようです」。ちょっと照れくさそうに、でもほっとした様子で話されました。




 そもそもこの方が整体に来られたのは、まったく別の症状がきっかけでした。突然の難儀な症状にほとほと困り、ご身内に勧められた勢いもあって覚悟を決めて整体に来た――まさにそんな感じでした。
 初回の問診ではトイレのことなど話題にも出ず、来院3回目で初めて少し話題に上り、5回目にしてようやく以前病院に行ったことがあると話されました。

 私がこの仕事を始めてしばらくの内は、実はこのテンポに我慢ができませんでした。
 とにかく早く、情報がほしい。症状についてはもちろんのこと、古傷があるならそれはいつ・どんな状況でできたケガなのか、病院ではどんな治療を受けたのか、他に傷はないか、手術はしていないか、……、そんなあれやこれやを全部知っておかなければ万全な施術はできない!――そう思い込んでいました。

 ところが年数を重ねるにつれ、そんなものではないのだ、ということが身にしみて分かってきました。
 「肩こり・腰痛で来るところ」と思っていれば整体がトイレと関係するとは思わないし、そうであれば無関係な症状をわざわざ言う必要はない。訊かれても、小さい頃のケガであれば忘れているだろうし、たとえ覚えていても言いたくないケガもある。

 答えられる範囲で情報をもらうことは大切だけれど、私の腕が上がって視野が広がれば、自然に分かること・できることは増えてきます。どれだけ偉そうなことを言ってみても、腕が稚拙ならもらった情報を捌(さば)ききることなどできないし、実際のところ、どれだけがんばったところで完全な情報など得ることはできません。
 教えてもらった情報は活用しつつ、同時に、これですべてではないと意識は払い続け、でも残りの情報は焦らない。どうせ、本当に知るべき情報はいつか自然に知れるのだ――と開き直って地道にできることからする。このところ、ようやくこの境地に近付いてきた感じがあります。




 冒頭のお客さんが、事前に知らされていない、しかも名前も知らない“病気”が良くなったと話されるのを聞いていて、なんだかとても良い加減な、得したおまけをもらった気分になっていました。

 狙い通りに施術が展開したときの感激はもちろんとびきり嬉しいものですが、お客さんの喜びから中途半端に取り残されて、少し遅れて出てくる「良かったね」感も、これはこれでなかなか嬉しいものでした。


110607 腫れは冷やすべきか?

 先日、「まさにいま、なかもず駅の階段で足をくじいて痛いのですが……」とお客さんから電話をいただきました。
 なかもず駅は、店の最寄駅です。そのまま来てもらうことにしました。

 店に着かれたのは電話からまもなく。10分と経っていません。がすでにもう、靴下の上からでも分かるくらいはっきりと腫れ始めていました。

 ケガの直後におこなう施術の場合、作業の段取りは、施術と検査動作を繰り返すことになります。足首であれば、簡単な検査動作は歩く、靴の脱ぎ履き、階段の上り下りなどです。
 検査動作をしても腫れてこず、痛みがひどくならないようであれば、それを初回の施術の一段落とします。


 痛い足で寝起きを繰り返すのはしんどいので、ベッドではなく椅子に腰掛けてもらって施術します。

 脈も取らずにちゃちゃっと検査と施術を始めると、みるみる腫れが引いてきました。ひと通り施術して腫れが引いたところで店内をてくてく歩いてもらうと、また腫れてきます。そこで再度施術します。今度は靴を履いて階段を使ってもらいます。また施術します。また歩いて、施術して、階段を使って、施術して、……。
 何度か繰り返すうち、腫れと痛みが落ち着いてきました。とりあえずは、施術に一区切りがついたようです。




 ところで常々疑問に思っているのですが、打ち身や捻挫などで腫れた場合、冷やすのは本当に適切な処置なのでしょうか。

 私の経験で言うと、冷やすよりも施術する方がよほど腫れは引くし、予後もよろしい。けれどこれは職業的解決方法なのでいまは考えず、あくまで「冷やす」ことの意義に注目したいと思います。


 そのむかし私は指圧屋さんでのバイトの研修中に、カンカンに親指を腫らしたことがあります。「痛い」と師匠に泣きつくと、「みんなが通る道やから冷やして耐えろ」となだめられ、丁寧に冷やし方を教わりました。が、帰宅して早速試したところ、腫れの痛みより冷やす作業の方が痛すぎて、即座に中止。それからはカンカンのまま放っていた経験があります。

 ――とそんな話を以前、料理屋の店長にしていると、元ラガーマンの店長も、「俺たちも冷やしていなかった」と賛成1票。冷やした方が治りが悪いと選手の間ではもっぱらの評判だった、というのです。




 理屈で考えると、打ち身や捻挫をすると患部の組織(=筋肉や皮膚の細胞その他)が壊れます。と同時に周囲の筋肉が反射を起こし、ぎゅっと緊張します。
 異変を察した身体は、壊れた組織を回収し修理部隊を送り込むために、患部に血液を集中します。けれど緊張した筋肉は血液の循環を邪魔するので、集中した血液が拡散できなくなります。これが、腫れです。

 腫れたら冷やせ、と簡単に言いますが、実際は、数分冷やして数十分保温する(=乾いたタオルなどで患部をくるむ)という2つの手順からなります(※10年近く前、学校ではそう習いました)
 これは、冷やすことで筋肉をより緊張させ、冷却をやめて保温することで緊張を緩和させる、それによって血液循環を助けるというのが狙いです。要は、血液を循環させるために冷やすというのです。

 でも、単に血液を循環させるだけなら、冷やすよりさする方が、しかも患部ではなく患部より少し心臓に近い部分を軽くさするとかの方が良いのではないか(←思っているだけで試したことはありません)? あるいはキネシオテープを貼ってみるとか、正食協会推奨の「里芋パスター」(『身近な食物による手当て法』正食出版)を試してみるのもおもしろそうです(←どちらも私は試していません)

 熱だから冷やす、というならまだともかく、「冷やす」ことそのものに目的がないのなら尚更、あえて冷やさなくても良い――むしろ冷やすと身体に悪い? とそんな可能性を考えてしまいます。

 ――が、ここまで「冷やす」ことに否定的なくせに、人から「痛いときはどうやって冷やせば良いですか?」と訊かれるとつい説明だけはしてしまいます。
 「冷やすのではなくこうしてください」と言い切れるような、効果的で簡単な代替案が手元にないからでしょうか……。




 後日、冒頭のお客さんと偶然、道で出会いました。様子を聞くと「一応大丈夫」とのこと。言葉の感じから、きっと芯の痛みはまだあるのでしょうが、ケガ直後の施術としてはそこそこの出来だったようです。安心しました。




※この記事について2013年7月11日に「かつ」さんより次のようなコメントをちょうだいしました。

冷やす時間が短いでしょ。
15分から30分は冷やし続けて感覚がなくなるまでやんないと。
冷やしちゃいけないと言われてた投手は今は試合後組織が壊れた肩と腕を長時間アイシングしてるよね。

それに対して私は、翌12日に、次のように返答しています。



コメントありがとうございます。

冷やす時間については諸説あるようで、いまの私にはよく分かりません(冷やしませんので)。個人的には、冷やすことよりその後の保温で血流を回復させることが重要、という説に納得しましたが、それを狙うには冷やしすぎてはいけないわけで、関節の大きさ、その周囲の血流量、腫れの程度とかまで考えると、かなり調節は難しいだろうな、と思っています。
冷やしてはいけない、冷やした方が良い、冷やすことにあまり意味はない、……。専門学校生の頃からいろいろな説を目にするたびに、現場も揺れているのだなあ、と思っていました。いまもその印象はあまり変わりません。


110615 ああ、顎関節。

 数週間にわたり、自分の両腕とくに左手の甲を中心に施術しています。
 きっかけになったのは左手小指の違和感で、これはまだ今もかすかに残ります。ただ、一連の作業を進めるなかで、おもしろいところに施術することができました。顎関節です。

 数ある関節の中でも、顎関節は、なかなかおもしろい関節です。きっちりした関節円板(あっさり言えば、背骨の椎間板と同じもの。膝にある同じものは半円形なので半月板と呼ばれます)を備え、左右の関節が対になって動きます。咀嚼の必要から、骨の大きさには不釣合いなほど強力な筋肉に支えられ、かなり複雑な動きをします。

 私の場合、ずいぶん以前から顎を動かすとガコッと音がするので、(もしかするとこれがいわゆる顎関節症だろうか……)と薄々思ってはいました。が、痛いわけでも動かないわけでもないので、特に気にしたことはありませんでした。
 ところが、いざ施術に取り掛かると、びっくりするくらいざらざらと問題が見つかります。

 問題の中心は左の顎関節です。もしやこれ関節円板がつぶれているんではなかろうか……と心配になるくらい関節の隙間が狭くなり、筋肉がガチガチに固まっているのが分かります(より正しく言えば、筋肉がガチガチに固まるから関節の間が狭くなるのですが)
 我ながらよくこんなの放っておいたなあ……。呆れつつ感心しつつ施術を進めると、それにつれて背中が軽く、どんどん平らかになり、怒りまくっていた肩が少しずつなだらかに下がっていくのが分かります。

 ――どうやら、私の猫背の大きな原因のひとつは顎関節の癒着だったようです。

 へええッ、顎かあ――! 感心していると、関節周囲からむくみが引き始め、顎から頬にかけての感じがちょっとすっきりしました。嬉しいおまけつきです。




 猫背なこと、ときどきある右耳の耳鳴り、前屈ができないこと、肩幅はあって腕はごついのに腕力に乏しいこと、左肘をひょいと曲げる癖、すぐに頬杖をつく癖、怒り肩。これまで自分で気付いていた私自身の身体現象のいろいろが、顎関節の癒着と考え合わせた瞬間、スカッと謎が解けました。真犯人が分かった瞬間の、名探偵の気分です(……いや、後付けで納得したから探偵ではなくワトスンか)

 なるほど、顎関節か。
 改めて納得したら、後は一段落するまで施術を重ね、身体の癖がどう変化するかを確認するだけです。

 腕への施術も十分おもしろいものでしたが、顎関節の施術とその効果の広がりは、私にとって、想像以上に興味深い展開をしています。これはまた、めちゃめちゃおもしろい施術になりました。


110625 2011年の花粉症報告

 今年は、花粉症の原因草(私の場合、多分ブタクサ)自体が不作だったようです。
 例年発症の時期には発症せず、半月ほど遅れた頃(6月初旬)にちょろっ、ちょろっと症状が出ただけでした。

 それも、くしゃみ、鼻水、目のかゆみと症状がすべて出揃ったのは1日のみで、残りの数回はくしゃみが2、3回続いて、「うーん、これは花粉症なのか……?」と首を傾げる程度の軽さでした。そしてそれ以来、なにも起こりません。
 情報によると、花粉症に関して体質の似ている弟も今年は軽かったそうなので、これは、私の変化ではなく草の事情によるようです。

 ……整体実験ができなくて残念だったような、花粉症をやり過ごせてひと安心だったような。ちょっと複雑な気分でシーズンを終えました(とはいえ今年も、きれいさっぱり症状をなくすまでには至れませんでした)


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