のぞみ整体院
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整体・身体観 11

110223 事故の後の寒気、痛み、不眠。

 図書館でずっこけた私(110212)より、もう少し深刻な転倒をされた方が先日来られました。こけたのは来院の数日前。その翌々日から頭痛と手足の痛みが出始め、来られたときにはずいぶん頭痛がひどくなっていたそうです。

 この方はそれ以前からのお客さんなので、施術するのは初めてではありません。が、こういった事故の前と後とでは、身体の状態はがらっと違っています。前回と同じ調子で施術するわけにはいきません。
 また、ある程度時間が経ってそれなりに落ち着いた古傷と違い、事故直後の傷は変化の真っ最中にあります。その急激な変化の勘所をびしっと抑え、変化そのものになんらかの歯止めをかけなければ、しんどい身体を押してわざわざ施術に来てもらった意味がありません。なんとしても、結果を出したいところです。

 聞くと、転倒してぶつけたのは主に右のおしりと腕。翌々日から痛くなったのはぶつけた部分のちょうど左右反対側――左のおしりと腕だそうです。

 無傷の部分が数日後に痛くなるのは、ごくごく自然なことです。これはぶつけた右半身をかばうために起こります。痛みの出たのが見事に左右対称部位だったことに私は感心しましたが、実はこちらには施術の必要はありません。ぶつけた部分が立て直せれば、たいていの場合、自動的に改善します(たまに必要なときもあります)
 ということで、施術は右半身から始めます。

 しばらく施術してちょっと目途がついたところでふと思いつき、「眠れてます?」聞いてみました。すると、あ、と思い当たった気配で「眠りが浅いのか、ずっと夢を見ています」。
 ケガをして身体のバランス――特に左右のバランスが変わった場合には、眠れなくなることがあるようです。ずれ方が大きかったときなどはかなりの長期間、不眠が続く場合もあります。
 そうか、うまく眠れていないのか。納得しながらまた黙々と施術に戻ります。

 時間が来て、施術もひとまず一段落する頃には、お客さんの方にも少し話す元気が出てきたようです。「身体が温かくなってきました」と、ちょっと吹っ切れた様子で言われました。
 「寒かったんですか?」と私。これは暖房の効きの話ではなくて、具合が悪いとふつうに寒気が起こります。もちろん、この寒気は風邪引きとも違います。
 「はい、こけてからずっと」。

 なるほど、と納得してからお客さんには、寒気と不眠の状態を観察しておいてもらうこと、翌日にもまだ続くようならなるべく早めにもう一度来てほしいことをお願いして、その日の施術を終えました。

 不眠も寒気も、整体屋としては嬉しくない症状です。慢性的になったものをすぐに改善するのは難しいにしても、数日前の事故に伴って起きたものなら早急になくしたい! とやっぱり思います。

 「温かくなった」と聞いてそれなりの手応えは確信していますが、1回の施術で完璧ということはありえません。うまく保ってくれよ、と願うばかりです。

 その後、数日経ちますが連絡はありません。具合が悪ければきちんと時機を外さずに来てくださる方なので、おそらくいちばんひどい状況は抜けたのでしょう。とりあえず一安心です。


110302 またまた新道具、完成!

 2月の中旬頃から、新しい道具を使い始めました。今度の新作(?)は「キリの頭+手製の柄」というちょっと凝ったシロモノです。

 新道具製作に踏み切ったきっかけは、2月初めに靭帯の深い施術ができるようになったことでした。
 これまで使っていたキリの柄は、もちろん木です。が、先端からの距離が長いため、木を持って施術はできません。鉄の部分を直接つかんで施術していました。
 施術部位が浅くて軽い力で動かせる皮膚や筋肉なら、これで十分です。が、靭帯は違いました。

 靭帯の場合、作業が続くと指が痛くなるのです。ちょうど、金串で5枚複写の伝票を書き続けるような作業です。短時間ならともかく少し長く続けると、支える指先がへこんできます。
 ――整体屋は、指先の感覚が命。へこむだけならまだしも、このまま指先がどんどん硬くなって、靭帯はみれるけど脈はみれない、なんてことになったら悲劇です。

 というわけで兄に電話しました。作曲・演奏だけでなく元々の本職はギター製作者なので、柄の作り方を相談します。こんなのが作りたいんだけど、と説明すると、ああなるほどと飲み込んで、ああしてこうして、と事細かな作業手順を教えてくれます。
 ふんふん、と鼻息荒く聞いているうちに何だかどんどんできる気がしてきて、テンションが高まったところですかさずコーナンへ。薄い桧1枚と彫刻刀を買ってきて、早速翌日から作業開始です。

 適当な長さに木を切って中心線を引いて、角刀で三角にえぐっていって、程よい空間を作る。これが柄の半面になるので、同じようなものをもうひとつ作ります。それから、滑り止めにひも(今回はキネシオテープで代用)を貼り付けたキリの頭をその空間にはめ込んで、こってりめに塗った木工用ボンドで木−キリ−木をサンドイッチに貼り合わせて、そのまま輪ゴムでぐるぐるに固定してしばし乾燥。乾けば、持ちやすいように木を削って出来上がり。

 うわー彫刻刀持つのなんて何十年ぶりー、とかはしゃいで始めた作業でしたが期待以上にうまくいきました。気を良くした私は立て続けに3本製作。店用と自分用と細かい作業用(柄が短い)としました。
 どれもそれなりに良い感じで、ときどき柄の具合を削り直したりしながら、機嫌よく使っています。




 ところで新道具製作に先立つこと数ヶ月前(いや、もっと前?)――。
 キリを使う私に、あるお客さんが「キリよりも、こんな形のこんな道具の方が使いやすくないですか?」と具体的に説明しながら聞かれました。

 思いもかけない改善案に私は、「いえいえ。いまのところキリで満足しています」と即答。「でもきっとこっちの方が安定しますよ」「そうかなあ……でもそんな道具、どこで売ってるのでしょう?」といったやり取りがあって、後日私は道具屋、文具屋、画材屋……とうろうろ探し回ることになりました。

 このときの私は「キリ最高!」の気分で充実していたので“より良い道具”にはかなり半信半疑でした。が、このお客さんは実は私にとって予言者のような方なのです。数々の助言が、いただいた当初は理解できなくても長い目で見れば的確だったと思い知る。そんな反省を重ねているので、うっかり聞き流すことはできません。

 助言に適う道具を探してだいぶうろうろしたものの、結局そのときは見つからず、その後も見つからないまま今回新道具を作ることになりました。
 そして結果、そうして出来上がったものは見事に、お客さんのおっしゃった通りのものなのでした。


110308 幸福な1週間

 ああ、もったいない。それぞれ3週間ずつ間隔を開けて起こってくれたら、向こう半年くらいはずっと、じわじわ幸せを噛み締めていられたのに……と思わず恨み言を言いたくなるほど嬉しい出来事が、この1週間ほどの間に立て続けに起こりました。

 まずは前回の太極拳教室です。「腕の力が抜けていない!」という先輩からの総攻撃に意地になり、よーし、それなら何としても来週までに腕の力を抜いてやる!――と思っていたら両前腕にこれまでにない施術ができました。
 何をすればこんなところにできるのだろう? と自分でも不思議なでき方の癒着で、原因は不明です。左右の腕に同じような癒着――というとバレーボールのレシーブ? とか思ってもみますが、状況から考えるともっと子どもの頃にできた癒着のようです。しばらく考えて分からず、まあ良いか、取れたから、と理由は考えないことにしました。




 その前日、大好きな友だちから「すごい人がいるのだけれど会ってみたい?」というお誘いがありました。「あ、ぜひぜひ。いつ会えるの?」「この日とかこの日はどう?」「じゃあこの日!」「分かった、連絡しとくね」――というやり取りの下、後日、ヨガ教室に初参加しました。お目当ては、ヨガの先生です。

 あの友だちが言うのだからさぞかしすごい人だろう、と思っていたら予想に違わずすごい方でした。

 たとえばその日の教室では、私にはできない動きが2つありました。ひとつは、仰向けに寝た姿勢で形を決めて、ぐっとおしりを持ち上げる動作。もうひとつは、仰向けに寝て身体をねじり、そこからおしりを上げていく動作です。
 どちらも私がすると、おしりが上がりません。そしてどちらのときにも先生が手伝いに来てくれました。が、ひとつめの時には手を触れてみてすぐ手伝いを中止され、ふたつめの時には手を触れてそのまま正しい動き方を誘導されました。

 些細なことのようですが、この区別をされた瞬間「お」と思い、そして動き方を矯正ではなく誘導された瞬間、私は先生に惚れました。「動き方は正しく理解できているけれど、動けない」ことと、「動き方の理解が間違っているから、動けていない」こととの区別をうまくつけられる方、そして相手に抵抗を感じさせずに動き方を変更させられる方にはなかなか簡単には出会えません。
 しかもすごいのは、この惚れッぷりが少しお話するうちにみるみる倍増したことです。先生の語られる地道な正義感に大きく肯きつつ、いつか誰かに教えてほしかった私の大事な疑問を訊くことまででき、ものすごく実り大きな時間でした。

 誘ってくれた友だちと、珍客の相手をしてくださった先生にただただ感謝やわ……とうっとりしながら帰ると、予想通り、ガタガタの筋肉痛が始まりました。ヨガの途中から骨盤が外れそうな危機感はあったので覚悟はしていましたが、この筋肉痛はなかなか強烈でした。でもお陰で、右脇部分の肋骨周辺にあちこち施術ができました。




 そして土曜日。遠方より友来る。私の理屈っぽいブログを読んで興味を持っていてくださった方が、とうとうお客さんになってくれました(!)

 実際にお会いしてみると、想像していた通り、ココロザシに近いものを感じます。偶然同じ本に惚れ込んだことからご縁が始まり、活動分野は違うものの良く似たことを考え、私はいまその人の身体の立て直しに参加している。これはすごいことです。
 初対面は「ひえーッ」と感激しながら施術して、翌日にもまた来られたので今度はもう少し落ち着いて施術して、お互い改善の手応えをつかんでお別れすることができました。




 そしてこの間にもう1度太極拳教室がありました。ここでもまたまた急展開です。前回は腕の動きを注意された私でしたが、今回は腰の弛みを問題にされました。いわく、「アンタのはまったく力が抜けていない!」。

 さっと先生の動きを指差して「あれが正しい動き」(そりゃそうだ)。「アンタのはここが硬い」「ここが弛んでいない」としばらくダメ出しが続いた後で、親分肌の先輩が「ここに手を置いてごらん」と背中を向けられます。
 言われるまま骨盤に手を当てていると、骨盤がぐいーっと下に! びっくりした私が「うわっ、私のはこんなに動かんわッ」と感激していると、おそらくあまりの大騒ぎに呆れたのでしょう、先生が次の動きの説明を始められました。

 が、骨盤の動きにすっかり度肝を抜かれた私はまったくの上の空で、ぼんやり帰途につき、帰宅後、ふと思いついて施術を始めました。狙うのは、神闕(しんけつ)――ヘソです。

 ヘソにある神闕は、一説には“生命の出入りするところ”なのだとか。聞くからに力のありそうなツボですが、「どうやって使うのだろう?」。謎の多いツボでした。ヘソに鍼なんて打てるんだろうか……と思っていたのですが、後日調べるとお灸に使うそうです。納得。
 しかし私の技術では鍼・灸でなくキリを使うので、とりあえず検査をしながらヘソをいじってみます。――と、これが非常におもしろい。うまくいくとぐぐぐっとヘソのひねりが変わるのが分かり、「ヘソも生きているんだなあ!」と当たり前のことに感激します。

 生まれるとき、私はへその緒を首に巻いて出てきているので、ヘソも傷めているのかもしれません。そういえば子どもの頃、「ヘソのゴマを取ると腹痛になる」と言われました。本当かどうか確かめたくてひたすらゴマを取りまくってピカピカにしたことがありますが、腹痛にはなりませんでした。言い伝えがウソなのかと思っていましたが、その頃すでに私のヘソはおかしかったのかもしれません。いまになって、妙に納得しました。

 施術が一段落して試してみると、ぴくりともしなかった骨盤がちょっと下がるようになっています。これは、見込みがありそうです。




 ――といった具合で、やたらに嬉しいこと続きの1週間だったのでした。やっぱり、いっぺんに続いたのはもったいない。小分けにしてほしかった。


110322 「症状」と「原因」を区分する誤り

 ヨガの先生に引き続き、またまた先日、すごい方に会うことができました。
 ヨガの先生ご同様、この方も専門家でいらっしゃいます。専門分野の詳細は伏せますが(なんだか世界が狭そうなので)、整体関係の方ではありません。が、今回もやっぱり、とても大切なことを教えていただきました。

 それは、その先生から訊かれるままに、整体の作業の進め方を説明していたときのことです。私が、「ほとんどの場合、症状の出ている部分から原因が見つかることはありません。だから私は症状部分には施術せず、原因部分を探してそちらに施術していきます。その方が根本的な改善につながるからです」。そういうようなことを言ったとき、すかさず先生から、それは違うよ、とたしなめられました。

 おっしゃるに――、
 原因がどこにあるにしても、身体は、その部分を選んで症状を表したわけだから、そのことを軽んじてはならないよ、と。

 その言葉を聞いた瞬間の衝撃は、目からウロコ――というより知らず知らずの内に高くなって視界をさえぎっていた鼻ッ柱をスパーッと叩き折り、またたく間に視界を開いてもらった感激でした。




 理屈からも経験からも、「症状部分と原因部分が異なることはまず間違いがない」と確信しています。
 たとえば腰痛であれば、症状が出ているのは腰です。でも施術が必要なのは、腰ではありません。根本改善を目指すには、必ず、腰痛の原因となっている癒着を探し出し、そちらに施術する必要があります。

 けれどその癒着が肩こりでも頭痛でもなく、ほかならぬ「腰痛を」引き起こしたというその関連は、大事にしなければなりません。この関連をおろそかにすると、図らずも、施術者である私自らが身体を「症状部分」と「それ以外」に、さらには「現在の症状」と「昔の古傷」に分けることになってしまいます。

 身体を、“全体でひとつ”とみる東洋医学的身体観にとって、“分ける”は禁じ手です。たとえ分けても連絡させる、そうすることで“全体でひとつ”を維持し続ける、これが大事です。
 なのに、いつの間にか私は身体を区分して考えていた……。かなり情けない過ちです。

 いつからそういう仕方になったのだろう、どうすれば区分を取り払えるだろう……。帰宅途中からぐるぐる考え始め、そうするうちになんとなく対応策がイメージに固まり始め、さらに考えるうち、ようやく「よし、これで試してみよう」という仕方が具体的になってきました。

 翌日。
 さっそく母を実験台に、思いついた方法で施術してみました。――段取り的には悪くなさそうです。というよりむしろ、それまでの仕方よりも全体の見通しが良いように感じます。
 他のお客さんでも試してみはじめましたが、それぞれ良い感じのようです。

 整体が専門でなくても、私の説明をその場で聞いただけであっても、作業のはらむ問題点は、分かる人には分かってしまう、これはすごいことです。
 良い時期に、良い具合に目を覚まさせてもらったなあ……。指摘を受けたときの感激が、時間とともに、じんわり深い感謝に落ち着いてきました。


110328 膝のお皿と太ももの筋肉

 私の持病(?)の1つに、「腰というかおしりというか(正確には右の仙腸関節なのですが)、そこに時折、鋭い痛みがはしる」というものがあります。

 持病はたいてい、ふっと姿勢を変えたとき――たとえば寝返りを打つとかだらしない姿勢から身体を起こすとか、そんな動きの瞬間に起こります。
 一瞬の痛みは、うっ……と思わず固まるくらい痛いのですが、その余韻が去れば後には引きません。これがぎっくり腰とは大きく違うところです。

 ここしばらく、この持病の頻度が異常に増していて、ちょっと動くたびにピシピシ痛くなっていました。こうちょいちょい痛くなられては面倒だなあ……。うんざりしかかっていたところに太極拳教室の日が来ました。
 その日の課題(のひとつ)は、膝の動きです。

 先生の説明を聞き、「“腰の動きに膝を巻き込む”のではなく“足の踏ん張りに合わせて膝を変化させる”のだな」。そう納得して、自分に言い聞かせながら練習しますが、どうがんばっても固まったまま膝がちっとも動きません。と同時に右の仙腸関節には、ピシッと痛くなりそうな危険な気配が感じられます。

 と、ここでようやく、ピシピシ痛いのはもしかして膝に問題があるからか? と思い至りました。




 太ももの前側には大腿四頭筋という大きな筋肉があります。四という数字が示すように、この筋肉は4つのパートからできています。
 太ももの骨(大腿骨)を真ん中において、その内側にある内側広筋と、外側にある外側広筋。これはどちらも大腿骨と膝のお皿(膝蓋骨)をつなぎ、一部はすねの骨にまで達する筋肉です。

 残る2つは太ももの前側に重なってあります。
 より前側にある筋肉は大腿直筋と呼ばれ、骨盤から膝蓋骨をつなぎ、さらにすねの骨までつなぐ長い筋肉です。それより後ろ側、というか奥側にあるのが中間広筋で、こちらは大腿骨から始まって膝蓋骨に終わる短い筋肉です。

 それぞれ1つずつしかない内側広筋・外側広筋はともかく、前側に重なる2つの筋肉の意味が、学生の頃から私にはよく分かりませんでした。同じような場所で同じような仕事をしているのならいっそ1つで良いじゃないか、そう思っていました。
 が、これが大きな間違いなのでした。




 膝、と思った問題は、実は中間広筋の癒着にありました。
 中間広筋の状態が悪く、その補助を、大腿直筋やおしりの筋肉が引き受けていた。そしてこの癒着と補助に加減から、私の身体のあちこちにはちょっとした不具合が起きていたのだな、と今回見事に実感できました。

 不具合の一例を挙げると――、
 姿勢を変えたときのピシッという痛み(右仙腸関節)。歩くときの微妙な膝のぶれ。自転車をこぐときの左股関節のこりこりいう音。そしてこれはまだ確認できていませんが、太極拳のある動作をするといつも右股関節がつりそうになっていたのも改善できそうな気がします。

 今回のいちばんの勉強は、大腿直筋と中間広筋はやっぱり別の筋肉なのだな、と身をもって知ったことです。
 構造的に、2つの筋肉が連動してはたらくのは確かだろうと思います。けれど、膝関節・股関節に関わる大腿直筋と、膝蓋骨に関わる中間広筋の間には、本来はっきりと役割分担が存在します。私の場合、一方の具合が悪かったから他方がかばっていただけの話で、決してふだんから同じような仕事をしているわけではありません。

 なるほどなあ、と納得しながらふと気付きました。
 ――ということは、「歩くと膝が痛い」とか「軟骨が磨り減って」とかいう膝の症状も、膝関節ではなく中間広筋から考えていくとおもしろいかも――。思わぬところで新たな可能性も見えてきました。

 中間広筋。地味だ地味だと思っていたけれどちゃんとはたらきはあったのね。今更ながら、大いに反省です。


110330 傷痕が目立たなくなること

 お客さんから言われて嬉しい言葉に、「傷痕が目立たなくなった」というのがあります。
 手術の傷痕、子どものときにできた切り傷、火傷の痕……。白とか赤とかにつやつやと目立つ傷痕は瘢痕組織(はんこんそしき)といいますが、これはコラーゲンの塊でできています。
 できた場所によっては人目が気になる場合があるので、目立たなくなることは良いことです。

 ですが、私が嬉しくなるのはそのためだけではありません。傷痕が目立たなくなるということは、それ自体、施術がうまくいっていることのひとつの予測材料になるからです。




 皮膚や筋肉に傷ができると、傷口から体液・血液が漏れ出します。また、バイキンが入る危険もあります。これはどちらも不都合なことなので、身体はとにかく急いでその傷口をふさごうとします。
 糊気の強いコラーゲンを集め、固め、穴をふさぐ――これが身体の取る応急処置です。

 穴がふさがれば一安心。ですが傷口の治癒という観点からすると、これで作業が完了したわけではありません。実はまだ“修理途中”の段階です。

 身体がきちんと修理を完成するためには、集めて固めたままのコラーゲンを整理し、もう一度解散させなければなりません。そうしながらもともとの組織――血管とか筋肉とかに置き直していく作業に入ります。
 傷痕は、この時点でようやく薄く、目立たなくなっていきます。




 傷痕の部分は、たいていの場合、さまざまな感覚をなくしています。神経も血管も通わず、皮膚や筋肉としてのやわらかさも失ったまま、周囲(脳や身体)との連絡も少なくなっています。
 これらはすべて、応急処置に必要なコラーゲンの性質なのでそれはそれで仕方のないことです。問題は、いつまでも応急処置のままで止まっていることにあります。

 私にとって施術をして傷痕が薄くなる、目立たなくなるということは、途中で止まっていた傷口の修理が再開したことを意味します。
 ときには、一時的に傷口が痒くなる場合もありますが、これも、良いことです。血流が回復し始めた証拠といえます。

 お客さんから瘢痕組織が目立たなくなったとお聞きするとき、そして実際に周りの肌の色に馴染んでくすんで溶け込んでいるのを見せてもらったとき、私がやけに満足そうなのはこのようなわけです。
 ああ、良かったな、やっと、あるべき状態に落ち着けてきたな――傷口をじっと守り続けてきた瘢痕組織にお疲れさまでしたと言いたくなるような、そんな安堵にひたっているのです。


110405 元気と行動

 数年前、初めて整体に来られたときには疲労感でくたくただったお客さんがいらっしゃいます。顔色は驚くほど悪く、活動範囲は近所を出歩くのが精一杯とのことで、状態が悪いのは一目瞭然でした。

 このままではいつどんな病気にかかってもおかしくないなあ。
 ぱっと見た瞬間、限りなく確信に近い予感があったので、しばらくの間はなるべく頻繁に来てほしいこと、さらにそれでも状態が改善するまでにはかなり時間が掛かると思うことを最初に断わりました。

 どんな病気であっても、なってから立て直すのは大変です。
 ですから、これだけ状態が悪くてもいま病気でないのならチャンスです。なんとしても、病気になる前にある程度のところまで回復させてしまいたい。気持ちは焦ります。

 それからは、少し間遠になったりまた間隔を詰めてもらったりしながら施術を続けてもらい、今日に至っています。
 元気は徐々に力を取り戻し、やがて軽い仕事に就かれ、正社員になられ、いまはそこで残業までこなされているそうです。
 回復は、かなり順調と言えます。

 とくにここ最近は顔のツヤがぐんと良くなって、もう、以前感じたような病気への不安感に(私が)怯えることはありません。
 だいぶ良い感じですねえ――そう言って喜んでいた先日、そのお客さんがあるイベントに参加されることを聞きました。

 元気になられている確信はあったけれど、そんな活動に参加できるほどお元気だったとは! すごいすごい! 嬉しい勢いで、好奇心がとめられませんでした。
 で、私が決めた私的“整体屋の掟”「お客さんの個人的な生活領域には立ち入らない」をしっかり破り、気付いたら、「開催予定を教えてください、私も見に行きたいッ」と熱心に頼み込んでいました。




 身体が元気になれば心も元気になっていく、これは自然の流れです。お話を聞いた当初、私は単純にその視点で喜んでいました。
 が、よくよく聞くと、このお客さんは身体がくたくたになる以前には、何度もイベントに参加されていたそうなのでした。今回が初参加なわけではないと、後で聞きました。

 ――と、いうことは。
 くたくただった頃からしか知らない私としては「イベント参加」が驚きでしたが、お元気だった頃をご存知の方たちにすれば「イベントに参加できない」状態の方こそ驚きだったわけです。

 くたくたな状態で来られたからといって、それを基準に人の行動を判断してはいけないなあ……。嬉しい中での、ひそかな反省でした。


110410 心臓の痛みと背中のツボ

 ときに偶然は重なるもので、2回続けて「し、心臓が……」と痛みをこらえる人のそばにいる機会がありました。

 1度目はある集まりの場でのことでした。狭心症の持病(?)をお持ちの方が発作を起こされたのです。
 2度目は私の母でした。ぼんやりテレビを見ているときに目をつぶって難しい顔をしているので、座ったまま寝ているのかと思っていたら、ぽつりと「心臓の痛みがいつもより長い」。痛みをこらえていたのでした。

 1度目の方に動脈硬化はありません。発作が起こっても、それは神経性の狭心痛。そのことを私はたまたま知っていました。しかもこの方は発作の直後に薬を飲まれています。
 私が関わったのは、その効きが悪かったのか、つらい状態が続いていたときでした。

 また母にも、動脈硬化はないようです。若いときから数年に1度起こるか起こらないかの痛みで、このことで病院に行ってはいません。ですから狭心症かどうかさえ分かりません。
 ただ、いくら母が痛みに強いとはいえ、目をつぶって耐えられる程度です。狭心症だったとしてもかなり軽い部類に入るのでしょう。

 そんな2人ですので、(少なくとも直接的には)私がしたのは狭心症に対しての施術ではありません。あくまで心臓の痛みへのとっさの処置です。
 が、ここにはおもしろい共通項がありました。2人とも、施術が必要だったのは背中のど真ん中だったのです。




 どちらの背中も、施術前には、ぱっと触ると不自然なくらいに軟らかく、水っぽい感触がありました。それが施術をするにつれて、どんどんしっかりした手触りに変わっていきます。と同時に顔色や表情が平常に戻ってき、肩の力が抜けてきました。痛みも、どうやら落ち着いたようです。

 偶然続いたこの2例だけをもとに、「心臓の痛みなら背中に施術」と結論するつもりはありません。けれど、心臓の痛みと聞いて背中へ施術することに、それほどの不思議はありませんでした。
 背中と胸のバランスが崩れた結果、背中の緊張が虚脱し、その分、胸側の緊張が過剰になっている――と、そう理解すれば背中をまず立て直すのはむしろ当然のことです。なるほどなあ、と思いながら施術していました。

 が、同じような症状だったとはいえ、施術した場所がほとんどぴったり同じだったことに私は興味を覚えました。「もしかするとここは心臓の痛みに効くツボなのかもしれない」。

 で、手元の本で調べてみました。が、違いました(あっさり)

 本によると、心筋梗塞とか心疾患に効くツボ(心兪とか膈兪とか)は、私が施術した「背骨の真上」よりも少し外れた「背骨の横側」に位置します。
 そして一方で、私が施術した部分の周囲にあるツボ(至陽、霊台、神道、大椎など)には、心臓の痛みへの効果はないようです。近そうなものでも腰背の痛みがせいぜいで、後は頭痛や喘息など頭部・呼吸器関連への効果が中心です。

 ――なんだ、違うのか。予測は外れたものの、こういうズレがきちんと確認できたときは「やっぱりツボは鍼灸のためのものなのだなあ」と嬉しくなります。
 ツボは、“どんな仕方であっても、とにかく刺激すれば効果のある便利なポイント”として単独で存在するわけではありません。鍼灸の理論と鍼灸の技術、そして鍼・灸という道具の関わりのなかで使ってこそ、生きるものです。

 鍼を使わない施術者に、鍼のためのツボは使いこなせない――この、理論と経験に裏打ちされた、完成された技術体系特有の閉鎖性に、私はしびれます。安易に取り混ぜるのではなく鍼灸は鍼灸、整体は整体。お互いぜんぜん別の物と心得、きちんと使い分けることが大切なのだろうなあ、と思います。




〜追記〜
 1度目の方にはしませんでしたが、母には発作の翌日に改めて施術をしました。
 このときに目立った問題として浮上したのは足首のところにある癒着です。

 手応えや内容の深さからみても、応急処置的な背中への施術とは違い、足首への施術はより根本的な施術だといえます。
 そこでふたたびツボとの関連を調べると、やはりこちら(の周囲)も、心臓の痛みとは無関係のようでした。

 母の発作はまれなので、施術の出来具合を近々に確認することはきっとできません(もちろんそれで良いのです)。けれど足と心臓というのはなかなかおもしろい組み合わせです。長い目で、効果を期待したいところです。


110414 「整体でなにが良くなるの?」

 ブログを読んでくれている友人から、「言っている理屈はよく分かるけど、結局あなたの整体でなにが良くなるの、どんな症状が改善するの?」――鋭く、答えにくい質問を受けてしまいました。

 この質問が難しいのは、整体が(少なくとも私のしている整体が)ひとつひとつの症状ではなくその元にある身体の、全体の状態を改善しようとするものだからです。

 たとえばぎっくり腰であれば、痛くなるのは腰です。けれどぎっくり腰が起こるそのそもそもの原因は、身体全体の疲弊(ひへい)にあると私は考えます。




 一般的な疲労が「休息すれば回復する状態」だとするなら、疲弊は、休息しても自然には回復しない状態です。言ってみれば、「根本的に身体が弱った状態」です。

 疲労と疲弊の間のこの違いは、いわゆる自然治癒力との関係で理解できます。

 疲労の場合、自然治癒力のはたらきは正常です。
 たまたま一度にたくさんの疲れができて治癒が間に合わなくなったから「疲れた」と感じるだけのことで、作業を中断して休息すれば、やがて回復します。

 一方、疲弊では、自然治癒力のはたらきそのものが低下しています。
 こちらの場合、休んでも疲労は回復しません。その上、低下した自然治癒力のはたらきでは治癒力自体を立て直すこともできません。
 疲弊は、疲労とはまったく異なる状態で、事態はこちらの方が深刻です。

 また、疲労すると人は、「疲れた」と感覚します。けれど疲弊はそれ自体感覚することができません。
 身体が疲弊して疲れやすくなって「しんどい」と感じることはあっても、「私はいま疲弊している」と自覚することはできません。これも、疲弊の特徴です。

 私が整体で立て直すのは、この疲弊の状態です。
 ぎっくり腰でもヘルニアでも坐骨神経痛でも同じです。肩のこりや頭痛であっても、同じです。症状は問いません。

 疲弊が改善すると、とくにその部分に施術はしなくても、自然に症状は良くなります。さらに施術が進んでいくと、その症状を出さない体質というか状態へと身体が改善していきます。
 私が狙うのは、この状態です。




 どのような症状をきっかけに来られても、とにかく私は、身体の疲弊を改善します。そしてこの仕方で整体すると、結局のところ全身が元気になっていきます。
 肩こりに悩む状態から、そもそも肩がこらない状態へ。腰痛で寝返りに苦しむ状態から、腰痛だったことを忘れてしまう状態へ。

 どんな症状が良くなるのかと訊かれて答えに困るのは、私の目標が疲弊を改善することにあるからです。

 希望を言えば、「肩こりは良くなるの?」と漠然と聞かれるよりも、「私の肩こりは良くなりそう?」と聞かれたい。
 でも、内心いくら「この状態なら改善できる!」と確信できても、現実には、整体屋が「大丈夫大丈夫、この症状なら改善できます」と約束することはできません。

 確信してても、約束はできない。結局、やっぱり何だかよく分からない、説得力のないところに、話は戻ってしまいました……。


110415 疲弊と癒着、自然治癒力の関係について。

 前回(110414)の続きです。

 前回私は、同じ疲れた状態でも、自然治癒力が元気な場合は「疲労」、自然治癒力が低下して疲労が回復しない場合は「疲弊」と呼び分けました。
 では自然治癒力とは何か、疲弊とはいったい何なのか。

 私のイメージをひとことで表すなら、自然治癒力は、「必要な部分に必要なだけの血液が届く」状態のことです。疲弊は、「血液を循環させるための道すじが、一部で不具合を起こしている状態」を指します。

 細胞が生きるためには、適切な栄養と温度、酸素が必要です。生きている以上、余分なゴミ(二酸化炭素とか老廃物)も細胞は出します。これら物質のやり取りは、血液が担います。
 また身体の一部が傷ついた場合には、壊れた部分を見つけ、修理の材料を運び込み、不要なものを撤去する作業が必要になります。このときも、それぞれの仕事はさまざまな細胞やホルモンなどがこなしますが、すべての運搬業務は血液が引き受けます。

 血液が十分に循環していれば、細胞は元気に生き、できた傷は素早く修理することができます。
 自然治癒力は、この当たり前のはたらきというか状況に付けられた名前です。取り立てて特殊な“力”などではありません。

 ところで身体に傷ができると、そこはただちに修理されます。破れた血管は糊で貼る、隙間の開いた皮膚は糊で固めて穴をふさぐ。大抵、糊は多めに作られ、周りに少しはみ出します。
 このとき、はみ出した糊でできるのが、癒着(瘢痕組織)です。

 癒着のない血管(や皮膚とか筋肉)は本来やわらかなものです。自由に伸び縮みし、血液を自在に流します。ところがそれが癒着すると、その部分だけ硬くなります。硬くなって、自由な伸び縮みができなくなります。こうなると、その中を流れる血液の流れ方・血流量にも影響が出てきます。

 血液量が少なくなった部分では、栄養不足でゴミもたまり、細胞の元気はなくなり、傷の修理ははかどらなくなります。また流れの遅くなった部分では、血液は滞りがちになり、冷えてきます。
 これが、疲弊です。

 疲弊の原因は癒着があるからで、癒着の原因は身体に傷ができたからです。
 私が身体の傷痕に施術するのはこのためです。癒着がうまく剥がせたら疲弊そのものが改善します。これは、身体全体が元気になることを意味します。

 そしてこれに伴って、こりや痛みといったさまざまな身体の不調が改善します。改善する症状は、理論的には、血行不良・血液不足に関わるものすべて、癒着により変形した皮膚・筋肉のすべて、ということになります。
 ただし、改善の程度には個人差および私の腕前(!)が、大いに影響します。


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