整体・身体観 10
110112 本の感想と食中り
新年、あけましておめでとうございます。ぶつぶつつぶやく身体日記、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
ところで新年早々、予想外の出来事が2つありました。1つは本について感想
(?)をいただいたこと。もう1つは食中りです。
本の感想は、と書きかけて、ここは本来“拙著”というべきなのですが、この言葉は正直に言うと、何だか使うのが恥ずかしい。謙遜しているのだか偉そうなのだか曖昧な言葉感で、私はどうも戸惑うのです。人が使っているのを聞いても特に気にはならないのですが、自分で使うとなると無性に照れます。
なので“本”で通しますが、一応、ここで言う本は“拙著”『身体のトラウマ』を指しています
(……あー恥ずかし)。
話を戻します。本の感想はお2人の方からいただきました。
お1人は、きっといちばん長く来てくださっているお客さんです。お正月明けに来られた際、「正月に途中まで読ませてもらいましたが男性的な、無駄のない文章を書かれますねえ」と、
(たぶん)褒めてもらいました。
続けて、「編集の人にずいぶん手を入れてもらったのですか?」と聞かれるので、「いえいえいえ、お世話になったのは大学関係の出版会で、そこにはいわゆる編集者はいてません。――でも私の場合は、最初からずっと読んでいてくださった先生はいらっしゃいますが」と答えると「ほほぉ」。
肝心なことが気になる私は、褒められた嬉しさについ、「ところで内容は分かりましたッ?」――勢い込んで、尋ねてしまいました。お客さんは、にやっと苦笑してごにゃごにゃっとそれらしいことを言われて、また、にやっと苦笑。この意味するところはきっと、「ゴメン、あんまりよく分からなかった」、です。
その見事な表現力に大笑いしつつ、――ああ、イカン、また我慢できずに余計な質問を投げてしまった……と密かに私は反省。どうも、ちょくちょく好奇心が暴走してしまいます。
もう1人の方は母のお友達です。母によると、偶然にもお正月に読んでくださり、偶然にも「男性的な文章を書かれるねぇ」と同じ感想をちょうだいしたそうです。
――そうか。私の文章は男性的なのか。
具体的な良し悪しの具合は分かりませんが、少なくともむかし複数の人から酷評された初期原稿よりは遥かに穏やかな感想です。とりあえず、あれだけ努力した甲斐はあったのだな、と嬉しくなりました。どうもありがとうございました。
食中りは、晩御飯で生カキを食べたその日の深夜から早速症状が出ました。
大抵の食中りには潜伏期間がある、と思い込んでいた私は少し裏切られたような、素早い身体の対応に感心するような、複雑な気分でした。
症状は、上げ下げで言えば、上げはなくて下げのみで、しかも散発的。ノロウイルスだとすればかなり軽症の部類かと思います
(4年ほど前にかかったときはこんなものではなかったので)。
職業柄、不本意とはいえ体調不良の状態も実験・観察のチャンスです。「食中りか……?」と気付いた瞬間から身体の観察を始め、おなかの張りに合わせてあちこち施術してみました。
その結果、前半は、おなかから咽喉もとにかけて身体の真ん中あたり、いわゆる正中線から問題が見つかり、後半には、左頭を打撲した際のムチウチの痕に施術することができました。これは、小学生の頃のケガの痕です。
おもしろかったのは、おなかや咽喉への施術では変化しなかったトイレ頻度が、頭の皮膚に施術した瞬間、がたっと少なくなったことです。「えーと、このタイミングで下げが停まってはまずいのでは……」と当事者としては大いに焦りましたが、おかげで頭とおしりの関連だけは強烈に体感できました。
ちなみに、頭のてっぺんにある百会穴は痔の特効穴として有名なところです。便秘のツボ、と聞いた記憶もあります
(こちらは手元の本では確認できませんでした。記憶違いかもしれません)。
原因のカキを食べてから既に5日ほど経ちますが、おなかの具合はいまだに完全とは言えません。下げはほとんどないものの、不快な張り感だけが残ります。死ぬ思いで上げ切って下げ切って、けれどピタッと2日で回復した前回に比べると不本意な予後です。
変なタイミングで頭に施術し、中途半端なところで施術を中断しているから悪いのだ――と見当はつくものの、施術を再開した瞬間急激に下げ始めるかも? と思うと怖くて施術できません。仕方がないので、今度の休みの日に覚悟を決めて続きをしようと思います。
110112 続・足がしびれて痛くて歩けない
足がしびれて痛くて歩けない
(101217)――腰椎椎間板ヘルニアのお客さんの続報です。
先日無事、一山越えることができました。
顔色がぐっと良くなり姿勢もかなり伸び、動作もずいぶんきびきびと美しくなっています。痛みがなくなって気も晴れ晴れしてきたらしく、「あれができた、これがしてみたい、あそこに行ってみたい」と、話される内容が意欲的になり活気が出てきました。
現時点で残っている症状をお聞きすると、朝起きた時の足の重だるさと姿勢の起こしにくさくらい、とのことです。
結局ほとんど一度もまともに、腰に施術はしていません。ほぼずっと、手の指と膝を中心に施術していました。
お客さんはそのことがご不満で、ずーっとぼやかれていましたが私もがんこです、なんだかんだと言い合いしながら、とうとう強情を通し切ってしまいました。
ところでその日、初めて私はお客さんに、実は今月末に用事で遠出する必要があったのだとお聞きしました。以前から決まっていた予定で動かせず、はらはらしていたけれど整体が間に合って良かった。さらっと気楽におっしゃいます。
これを聞いて、びっくりしたのは私です。痛みの軽快を急がれていることは感じていましたが、それほど近々に予定があるとは思ってもいませんでした。「腰に施術はしないの?」「本当に指が原因なの?」と毎回不安と疑問を並べつつも、実際はずいぶん大きな賭けをしていてくれたのだなあ……。なんとも、ありがたいことです。
整体としては、まだあといくつか作業が残っています。それが一段落すれば、いよいよ施術もひと区切り。もう一息、というところです。
110119 武式と陳式
武式
(ぶしき)と陳式
(ちんしき)――どちらも太極拳の流派です
(……“流派”と表現して良いのかどうか自信がありませんが、とりあえずここでは流派で通します)。
私がふだん習っているのは陳式
(の中の新架)という流派です。それが先日、初めて武式を習うことができました。
もっとも、習ったと言っても参加したのは半日だけのセミナーなので、96手順ある型の始めの9つか10ほどをもたもたと真似してきたに過ぎません。が、それでも十分楽しめたのが素敵です。
太極拳の中でも動きが派手な陳式に比べ、武式はずいぶん地味です。予め、友達から「地味だよ」と噂には聞いていたのでそこは予想通りです。……なるほど、確かに地味だわ。
でもじゃあ何が地味なのだろう? 自分なりに考えてみて、その要点のように思えたのが、肩関節と股関節の使い方です。
陳式では、手足の関節に掛かる力をできるだけ偏らせずに動きます。肘も膝も曲げきらず伸ばしきらず、動きに合わせてゆるやかにねじりながら、胴体からの力を指先へとつないでいきます。
この仕方は肩関節・股関節も同じで、曲げきらず、伸ばしきらず、ゆるやかに開いた位置を保ちます。
ところが武式では、肩関節・股関節の開きが少なくとも陳式ほどには要求されないようでした。すとんと肩は落とした位置で、股関節は特に意識せず比較的高い姿勢で。
私のイメージでは、陳式の基本姿勢を「大」の字にたとえるなら、武式の基本姿勢は数字の「1」というか縦の1本線です。そしてこの姿勢から動きを作っていくので手足の横への広がりが陳式のようには大きくなりません。
――というのが、9つか10、習ったところでの私の印象でした。
そしてここからはお得意の妄想です。
広範囲にわたって古傷がある私の身体には、陳式の動きを正しくなぞるのは至難の業です。とくに習い始めた当初は、その古傷に関連した筋肉や皮膚の癒着
(=慢性炎症に伴う瘢痕)があちこちに残っていたので「手足の関節に掛かる力を偏らせない」という最初の条件が、もう既に守れませんでした。
肘の動きを優先すれば肩が挙がる、肩を下げれば手首の形が崩れる、手首を整えれば首の位置が傾く――あちらをいじればこちらが狂う、そんな不毛なやりくりが順順に続くだけで、全体をぴたっと収めることができません。
ところがそんな身体の私がしても、武式はとっても動きやすいのです。肩と股という2大関節を自由にさせてくれるので、動きの要求が格段にゆるやかです。
と同時に、肩と股を開かずに動くので、陳式とは比較にならないほど蓄熱効果が高いのです! ちょっと動いただけですぐ身体が温まります。
動きやすい。すぐに体温が上がる。――この2点から想像するに、武式を編み出した武さんは@頭か首に癒着がある、A腰かおしりに癒着がある、B寒いところに住んでいる、のどれかではないだろうか。あるいはそんな人のために編み出した型が武式なのではないだろうか……と、またまた勝手なことを考えていました。
Bなら、確かに実用的ですね、と私は納得します。
が、@かAであったなら、私は猛烈に感激します。太極拳の理論を損わずに自分にできる動きを作り出して新たな型を編み上げる――太極拳に限らず、これは私の描く“運動の理想”そのものです。
フォームに身体を合わせるのではなく、身体に合わせて独自のフォームを作る――本当の意味で身体に良く、しかもその人なりの実用を達成するためには、この方式しかないのではないかと私は考えています。
そしてそれを自分でも確認してみたいけれど、実践するだけの能力も創造力も私にはないことを自覚しています。
だからこそ、もしも武式がそんな意図の下に創られたのなら――! と、考えるだけで私はわくわくしてしまいます。
実際がどうだったのか知りたいなあ。単純に習ってみて、おもしろかったなあ。そんないろいろな好奇心が刺激され、「武式を、いつかきっちり習ってみたいなあ!」と思うようになりました。
実際にいつ習えるのかはともかくとして
(本当に習うには教室が遠い!)、とても有意義なセミナーでした。
110125 近藤医師の発言をめぐる一連の論争に思うこと
抗がん剤に懐疑的な立場を取られる近藤誠医師の発言をめぐって、紙上で数回のやり取りがありました。私が目にしたのは5つです。
まず最初が月刊誌「文藝春秋」1月号に掲載された「抗がん剤は効かない」です。割に長めのやや専門的な記事で、いくつかのデータを挙げながら抗がん剤に懐疑的・否定的な見解が述べられます。
ずいぶん以前から抗がん剤の効果に疑問を持たれている近藤医師ですので、新しい論点の披露というより新薬の評価も含めての総論、といった感じの内容でした。
それに続いて同じ「文藝春秋」の2月号に、近藤誠医師と立花隆氏の対談が掲載されます。ご自身もがん患者である立花氏は“患者代表”の立場を取られ、そこから先月号の記事について語り合おう、という体裁です。
その同じ頃、週刊誌である「週刊文春」1月20日号と「週刊現代」
(すいません、こちらは号数を確認していません)に近藤医師への反論が掲載され、さらにその「週刊文春」の記事に反論する形で次の27日号の「週刊文春」に近藤医師の記事が載ります。ちなみに「週刊文春」と「週刊現代」の論者はそれぞれ別の方です。
以前にも書きましたが、個人的に私は近藤医師の見解に大いに大いに賛成しています。けれど、だからこそもう一歩踏み込んで疑ってみたい――というか、近藤医師を否定しているお医者さんの意見がぜひ聞いてみたいと思っていました。
一方の意見だけを聞いて納得し、信じきっていてはバランスが悪くて落ち着きません。比較するためにも反対意見が知りたかったのです。
が、内容は残念なものでした。はっきり言えない事情があるのか、実績的にはっきり言えない状況なのか、それは分かりません。けれどどちらにせよ、あまりちゃんとした反論にはなっていないように私には感じられました。
冷静に考えるまでもなく、「抗がん剤は効かない」なんて、抗がん剤を使って治療に当たるお医者さんには聞き捨てならない暴言のはずです。実際の生き死にの現場で、しかも軽くない副作用に苦しむ姿を目の当たりにしながら、それでも治療のためには使わなければならない。これは相当しんどい仕事です。
言われたのが私であれば猛烈に反発したでしょうし、そもそも反論できるだけの信念というか確信というか覚悟
(理論的にも心情的にも)がなければ怖くて使えないでしょう。
――と、部外者の私でさえ思うのに、反論が、弱い。
こうなると、近藤医師が正しいか正しくないかよりも、なぜ強く反論しないのかの方が気になってしまいます。信じて治療に耐えている患者さんのためにも、強硬かつ論理的に反駁して、抗がん剤治療の説得力を思う存分、発揮すべきだったように思うのですが……。
110128 汗、冷え、熱。
訳あって半年ばかり間遠になっていたお客さんが、先日久しぶりに来られました。
症状は、悪化こそしていないものの半年前と同じような状態で、私としては、まだ不本意な状態での現状維持と言えます。
「何か大事なことを見落としているのだな……」。見落とした手掛かりに目を光らせて状況をお聞きしていると、「足に汗をかくとそれが冷える」というお客さんの言葉が引っかかりました。冬なのに、汗です。
「足の汗は大量ですか?」「いえ、靴を履いて歩くとしっとり湿るくらいです」「スリッパでは?」「かきます。でも靴下で家の中にいる分には大丈夫です」「床暖房ですか?」「違います」。
歩いてしっとり湿るくらいの汗なら私の足だってかきます。けれどその汗が冷える感覚まではありません。
そして、この方の足の冷えは「寒いから」起こるのではなく、「汗をかく」ことが原因で起こるのです。これは、大事な点です。
汗には、大まかに言って2種類があると私は理解しています。
ひとつはふつうの汗です。上がり過ぎた体温を下げるため、意図的に、全身からまんべんなく吹き出されます。
もうひとつは、「しみ出た水分」としての“汗”です。これは意図して出るのではなく、勝手ににじみ出てしまう水分です。こちらの“汗”は身体の決まった部分に出ることが多く、体温を下げるはたらきとは関係がありません。
そしてこの「しみ出た水分」としての“汗”は、血行不良が原因で起こると私は考えています。
正常な状態では血液は、血管の中を流れています。
ところが血管に交通不能な事態が起こると、行き場をなくした血液中の水分が血管の外へと溢れます。これが「むくみ」の状態です。そしてそれだけでは収まらずにその水分が皮膚の外にまで溢れると、それが“汗”になります。
――というのが私の解釈です。
本来の汗は、熱を持ちすぎた結果、出てきます。けれど多くの場合、“汗”が出ている周囲は局所的に冷えています。そして場合によっては、その冷えを改善するために却って熱を持ちます。
熱を持ち、アセをかいている――であれば冷やすべき? と考えられるかもしれませんが、出ている汗がふつうの汗でなく“汗”の場合は、保温するか、むしろ積極的に温める方が身体の負担は減らせるはずです。
冒頭のお客さんの場合、靴やスリッパで足に制限をかけると、足の血行が悪くなる。その一方で、裸足に近い状態であれば一応の血行は確保できる――そんな状態と想像することができます。そしてこの想像が正しければ、施術すべきはおそらく足です。
検査をすると、足首の周囲からざらざらと問題が見つかりました。状況を説明するとお客さんも、「確かに歩いていて自分の足の動きに戸惑うことがある」と心当たりがおありのようです。
今後の施術で、足まわりの血行が良くなるかどうか、歩き方に安定感が出るかどうか。楽しみなところです。
110204 股関節の靭帯に施術する
久しぶりに、施術していて思わず自分で感激してしまうほどの大上達を経験しました。施術していたのは靭帯です。
骨と骨を直接つなぐ靭帯は、私の扱う施術部位の中ではかなり深い部類に入ります。
が、ひとくちに靭帯といっても、その所在はさまざまです。手の指や足首などにあるのは場所が比較的浅く、施術するのも割に簡単です。
難しいのは、背骨、特に腰からおしりにかけての部分や股関節周囲の靭帯です。この辺りは、構造がややこしい上に筋肉も厚く、相当深いところで作業しなければなりません。
私もこれまでに何度か挑戦していますが、どうしても最後のあとひと押しに自信が持てず、十分に踏み込むことができませんでした。
それが先日、ようやく踏み込めました
(!)。転機になったのは、私の股関節の靭帯への施術です。
検査をして、施術が必要なのは“太ももと骨盤をつなぐかなり深い靭帯”と分かった瞬間、「ああ、ここか……。ここ、難しいんだけどなあ」。正直ちょっとがっくりしました。
が、覚悟を決めてかなり深くまでキリで探ってみると、靭帯の
(?)じゃりじゃりした手応えがはっきり感じられます。そしてその深さを保ったまま作業にかかると、そのじゃりじゃりが少しずつほどけていく手触りまで、感覚できます。
――これは、すごい。
ここまでの深さに施術していて、ここまで細かな感覚をここまで鮮明に感じられたのは、私には初めてのことでした。
施術するのが浅い部分であれば、強い力でぎゅうぎゅう押し付けなくても楽にキリが届きます。この場合、指先の力が抜けているのでキリの感覚はかなり鮮明に伝わります。
ところが深い部分となるとそれなりにしっかりキリを支える必要が出てくるので、どうしても指先に力が入ります。そしてその結果、浅い部分ほどの鮮明さで施術部位を感覚することは難しくなります。これまで深い部分への施術に踏み込めなかったのは、この指先の鈍さが原因でした。
それがこのとき――相当深い位置で作業しながらじゃりじゃりまで感覚できたこの瞬間、「これならお客さんにも使える!」と確信しました。
ちなみに、股関節の施術の結果は良好です。
歩き方、立ち姿勢、肩の動きと筋の状態、股関節周囲の形、……、いろいろな部分に変化が現れています。
中でもおもしろかったのは、反り腰の状態が劇的に改善したことと、足の裏の皮膚が軟らかくなったことです。
反り腰は、私はてっきり首の癒着のせいだろうと予想していました。が、股関節への施術で改善したということは、原因はもっと直接だったわけです。これは良い勉強になりました。
一方、足の裏の皮膚は、どうも外反母趾に関係しそうな気配があります。地面への着き方、歩くときの足の動き
(軌跡)、そして足の裏とゆび全体の動作状態が変化し、膝の使い方がずいぶん軟らかくなりました。
膝が軟らかくなると足の振り出しが軽くなり、そうすると重心のぶれが少なく済むので歩き方から荒々しさが少なくなります。変化して初めて、自分のこれまでの“どたどたした歩き方ぶり”が実感でき、これもまたおもしろい発見でした。
110211 整体屋のハラハラする日常
施術が終わると必ず私は、お客さんに“いまの感じ”をお聞きします。
たいていの方は、「別に変なところはない」。ざっくりした感想を述べられます。
が、先日、あるお客さんから「首とおなかの調子がおかしいみたい」と言われました。
整体の作業は水道管工事に似ている、というのは私のひそかなイメージで、どちらも、まずは道路を
@掘り返し、
A工事して、それから
Bもう一度埋め直す――3つの手順が必要です。
整体では、まず全身を概観し(@)、それから肝心の施術に取り掛かります(A)。
一般的に整体といえばAの作業が花形ですが、個人的にいちばん慎重になるのはBの作業です。
改まって、どんな作業かと聞かれると説明に困るのですが、「今日はここまで」と判断するための“埋め直し”作業に相当します。
この作業にしくじると、帰宅後から次回の施術日までの間に思ってもいない症状が出て、お客さんをつらい目に合わせる可能性が出てきます。マッサージでいう“もみ返し・もみ起こし”のようなものです。
どれだけがんばってAを完璧にしようとも、Bに失敗すればしんどい目に遭わせる……。この危険性に、私は大いに恐怖します。
しかも冒頭のお客さんは、Bにしくじったときに現れるつらさが並外れて激しいと予測できる方です。絶対に、失敗はできません!
大まかにいって、施術直後に訴えられる違和感
(痛み、だるさも含めて)には2種類があります。ひとつは、恐るべき“Bの失敗”。そしてもうひとつは、単なる“一時的な違和感”。
全身のバランスを変えるために施術するので、違和感があること自体はごく自然です。そして一時的な違和感であった場合、早くて数分、遅くて2、3日ほどで消失します。ですから追加の施術は必要ありません。
一方、Bの場合は何らかの施術不足を意味します。急いで足りない施術を見つけ出して、ただちにしてしまう必要があります。
一時的か失敗か。確実に判断するためには2、3日様子を見ることですが、さすがにお互いそんなには待っていられません。状況をみて、その場で判断することになります。
このときも、「首とおなかの調子がおかしい」と聞き、私はすぐに検査をしなおしました。そしてその上で、「おそらく、一時的なもの」と判断しました。さしあたりそれ以上の施術はしない、という選択です。
で、そう判断した直後から、私の落ち着かない日々は始まります。本当に、一時的な違和感だったろうか、しんどい症状は出ていないだろうか……。当然、次の施術までの間を気が気じゃない思いで過ごすことになります。
で、一週間後。ようやく、次の施術日がきました。
お客さんの話をひととおり聞き終わった後で、「こないだおっしゃっていた首とおなかのおかしな感じですが、あの後どうでした?」。さりげなく、でも内心は勢い込んで尋ねると、お客さんはちょっと考えて、ああそんなこともあったっけ、と思い出されて「2、3日ほど完全ではなかったですが、いまはもう大丈夫です」。
――この一言を聞いた瞬間、私の両肩からどさーッと緊張の塊が落ちるのが分かりました。
これでもう、このお客さんへのこの日の仕事は半分以上済んだも同然です
(!)。大袈裟でなく、私にはそれくらい大きな安堵なのでした。
110212 図書館でずっこける
先日図書館の中を歩いていて、久しぶりに派手にずっこけました。ふと何かに気をとられ、ぼんやりしたまま柱の角を曲がった瞬間、キャスター付きの踏み台にけつまずいたのです。
とっさに踏み直ろうとしましたが、カラカラカラと走り出す踏み台に重心を取られ、釣られるようにしてこけました。
こけた瞬間は、とりあえずびっくりと恥ずかしさと自己嫌悪に圧倒されて痛みはそれほどありませんでした。が、冷静になってくるとやはりあちこち痛みます。
左手に本を抱えたまま左前方にこけたので、左腕を下敷きにして地面にどてっと倒れた格好です。
手を突くとか姿勢を立て直すとかそういう努力というか反射は一切起こさずにこけるのが私の流儀なので
(単に鈍いだけ?)、今回もこけ方だけは大変分かりやすいです。
こっそり「あいたた……」とか言いながらそれでも用事だけは済ませて、帰ったら早速、施術です。
こけたときにぶつけたのは主に左肘と左膝です。けれど歩いているうちに左親趾
(ゆび)の外反母趾の部分にも痛みが出てきました。「ひねったかな?」と思い返してはみるものの、靴も履いていたことですし、そんな感覚もなかった気がします。
検査をしてみると、やはり親趾から問題は見つかりませんでした。こけた瞬間の感覚どおり、直接ぶつけたのはやはり左膝の周囲だったようです。打ち身特有の痛みもあり、施術もそこそこできました。
左肘は、ぶつけた感触はありましたが、まだ施術はできていません。検査に反応しないのです。しかしあれ以来、左手首に軽い違和感は残るので、いずれ機会があるのでしょう。
おもしろかったのは、直接ぶつけた感触がなかったにも関わらず、おなかと腰の骨に施術ができたことです。とくに腰の骨の大量の癒着は、あることは知っていながら検査に反応しなかったためこれまで施術できなかったところです。もしかすると、こけた拍子のびっくりで、癒着が表面化したのかもしれません。これぞ、ケガの功名です。
こけたせいか施術のせいか、その後2日ほどは全身があちこち痛く、人知れずよろよろしていました。
私にとって「身体=整体の道具」です。こけた瞬間、心配したのは腕前が下がらないかどうかでした。が、作業の展開を見る限りでは、少なくとも現状は維持できているようです。ほっとしました。
――それにつけても恐ろしいのはキャスター付き踏み台です。太極拳と同じ仕方で重心を崩され、あっさりこかされたことが、なんとも情けない……。
110218 しもやけと足首
ここ数年、寒くなると足にしもやけができるのが私の“定番”でした。なるのは決まって、左足の薬ゆび
(=4趾)1本だけ。他の部分は冷えてはいてもしもやけにはなりません。
こういう、「左側だけ」とか「4趾だけ」とかいう現れ方は、まさに私の興味のツボです。左側・4趾を取っ掛かりに、どんどん想像を膨らませてしまいます。
「経絡でいえば4趾は胆経の領域だから、問題は右の胆経にあるのかしら、それとも左の三焦経かしら。はたまた全然予想外のどこかから影響を受けているのかしら……」。
が、足のしもやけだけでは少々情報不足です。想像はできても決め手に欠きます。そしてこういった場合、手当たり次第に検査して問題点を突き止めるのもひとつの手ですが、相手は所詮、軽いしもやけ。それだけの手間も面倒です。まあいいか、と放置したまま数年が過ぎていました。
ところで先日の太極拳教室です。
またまた、体重移動の左右差が気になっていました。が、前回
(101123)とはちょっと様子が違います。
前回気になっていたのは歩行練習のときの左右差です。これは主に、前後方向の体重移動における左右差でした。こちらの左右差は、「股関節の靭帯への施術
(110204)」がうまくいってからはほとんど気にせずに済んでいます。
一方、今回気になったのは横方向への体重移動での左右差です。この場合は、左足に乗せたときに比べ、右足には体重がきっちり乗せきれないことに気付きました。
ざっと考えた感じでは、
「前後方向の体重移動」に左右差
←←←「股関節の前後回転の不具合」が原因
「左右方向の体重移動」に左右差
←←←別の関節の「左右回転の不具合」が原因
――と想像することができそうです。
では別の関節とはどこか? ――検査した結果、足首でした。
体重を右足に乗せきるためには、右膝の動きに合わせて、右足首が自然にねじれなければなりません。けれど私の場合は足首の筋肉
(短腓骨筋?)に癒着があったので、右足首を一定以上にはねじれなかったようです。
なるほどなあ。納得しながら後日、右足首に施術します。
施術が一段落したら本来は、すぐに動作確認をするべきです。が、なんだかそれが面倒くさい。まあいいや、動作確認は次回の教室で試そうっと。横着してそのままにしていました。
――と、その数分後。ふと気付くと左足4趾にあったしもやけ特有の腫れぼったい気配が消えています。
あれっと思って見てみると、いつもはきゅっと縮こまっている左4趾が、他の趾に並んですっと伸びています。そして、赤みも消えています。
おおっ、しもやけなくなってる! 驚きつつ、納得します。――そういえば、足首も、胆経の管轄だったのでした。
110222 体重移動にまつわる誤解
先日の太極拳教室ではまたまたひとつ、私の思い込みが解決されました。
誤解があったのは体重移動についてです。
太極拳を習い始めた当初私が理解したのは、「均等に両足で立っているように見えても、太極拳では、重心は必ず左右どちらかの足に片寄せて乗せている」というものでした。
右足に10なら左足は0、右足が7なら左足は3。私の理解では重心の片寄せ方は割合はっきりしたもので、またはっきりさせておくことが当然なのだと思っていました。
が、そこに大きな勘違いがあったようです。その方式が通用するのは最初に習っていた型
(簡化)の話で、1動作の間に頻繁にこまかい体重移動を繰り返すいまの型
(陳式)では、7とか3とかよりも遥かに微小な比率で重心配分を変化させます。たとえば4.5とか5.5とかいった具合にです。
そしてこうなるとゆっくり上半身を左右に移動させている時間はありません。その位置で身体の向きだけを回転させる感じになります。
この回転の動き――股関節の回旋こそが、どうやら陳式の醍醐味だったようです
(! 今更!)。
力は腹から発生させるけどその力はいったん地面に落とし、踵かららせん状に上がってきたものを手に伝える――という説明の意味がやっと分かりました。
足の裏を地面に固定して踏ん張ると、その力は胴体に伝わります。その伝わった力でもって胴体を左右に動かしていたのがこれまでの私。ここで使うのは主に股関節の垂直方向の屈伸です。極端に言えば内股にしたり外股にしたりといった動きです。
一方、踏ん張った力をそのまま胴体には伝えず、股関節の部分で骨盤だけに作用させるのが今回の発見です。そしてこのとき使うのが股関節の回旋です。
理屈で考えると「股関節の回旋=太ももの屈伸」みたいに思うのですが、太ももの屈伸が骨盤そのものの形をほとんど変化させないのに対し、ここでいう股関節の回旋では骨盤自体にもねじれの力を伝えます
(=仙腸関節を動きに巻き込む)。力の方向が骨盤⇒太ももではなく太もも⇒骨盤になり、その過程で骨盤そのものをひねりあげることこそが肝腎だ、ということなのかな、と理解しました。
そう思って振り返れば、しばらく前に先生がそんなこと言ってらしたような……
(←あまり聞いてない、というか分かってない)。それはともかく、ひとしきりその違いをしみじみ納得したら、後は練習です。とりあえず、ひたすら動きを繰り返しては感覚の違いを確かめます。
練習する限りでは、まったくできない動きではありません。よほど意識して丁寧に動けば、少なくとも右足は一応それらしく動けます。
けれど、無雑作に動いても勝手にそうなる、という自然さ・当然さまではありません。これは、どこかに癒着があって、どこかの筋肉に無理がかかっている証拠です。
翌日。期待通り、がちがちに筋肉痛になりました。痛いのは、両足の太ももの前側
(大腿四頭筋)です。
整体的には、右股関節の靭帯と右足首周囲への施術はすでに済んでいます。とすると、残っているのはその真ん中――膝の周囲でしょう。私の場合、乳児期に右半身から転落しているので、とりあえず膝の外側を調べてみます。
と、見事に問題が見つかりました。股関節を支える大事な筋肉というか靭帯に、派手な癒着があります
(大腿筋膜張筋〜腸脛靭帯)。
まずはそこに施術すると
(この時点で筋肉痛は消失)、連鎖的にあちこちに変化が広がります。その流れを追いかけると、鼻、頬、のど、首と施術が展開して、再び股関節に戻ってきました。
そこまで施術が済んだ時点でちょっと動いてみます。――なかなか、良い感じです。踏ん張った足の動きに合わせて股関節がねじり上がり、と同時に骨盤がねじり下がる感じがあります。
試しに以前のような動きをしてみると、なんだか平板で物足りなく、力の連結が途切れるのが分かります。
この調子なら、良いだろう。身体の変化が確認でき、方向性も確信できたところで、続きの施術は明日以降に持越しです。