のぞみ整体院
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日常 8

190122 『身体のトラウマ』がほぼ完売いたしました

 先日出版社(大阪公立大学共同出版会(OMUP))から連絡があって、私の1冊目の本『身体のトラウマ』が完売――じゃなくて、ほぼ、完売したそうです。これも『神田橋條治の精神科診察室』のおかげです、どうもありがとうございます。
 しかし不思議なもので、『精神科診察室』は隅から隅まで精神科の話です。なのに、なぜそれで整体の本が売れる?? まさに、風が吹けば桶屋が儲かる、です。もちろん私は、在庫が無事に捌(は)けてくれて大感謝。出版社も、長らく場所ふさぎに困っていたでしょうから、喜んでいました。あとは、お買い上げいただいた『トラウマ』がいくらかでも愉しんで読まれることを願うばかりです。

 そもそも『身体のトラウマ』を作ったのは、2009年当時の私が〈身体の不調〉をどうとらえているか、そしてそれを立て直していくためにどんな技術・理論を組み上げたかを公の記録として残しておくためでした。
 わかる人にしかわからない、特殊な本だよなあ、と自分で承知しながら必死で書き上げて出版し、案の定、すんなりわかってもらえることの少ない本でした。そんな中、大きな救いとして思い出深いのは、私の母が通う洋裁教室の先生が、一読、「筋が通っている!」と認めてくださったことです。うれしくて、泣きそうでした(いま思い出しても泣けてきそうです)。

 その後、初めて送った神田橋先生への手紙にも同封し、後には、「大事なことが書き切れていないからもう一冊」と励まされて『身体の話』を書くことになり、なんだかんだで『精神科診察室』に至る、と。その最初のきっかけを作ってくれた本でもあります。
 そんな大事な本ですが、本来の目的はすでに果たしましたから、在庫切れになった時点で絶版にする予定でした。なので、これで売切れ御免、です。

 私の手元には店内閲覧用が2冊あるだけ。出版社にも無いようですので残りが若干数、流通のどこかと、どこかの本屋さんに売れ残っているだろう分が数冊? 古本は多数? 若干数? アマゾンにも新品の在庫は無いようです。
 なお、出版社にある若干数は、OMUPへの直接注文で購入可能なようです。書店に取り寄せをお願いしても、買えるのでしょうか。そこは私にはわかりません。
 買えなくても読んでみたい、とお考えくださるかたには、図書館のご利用をお勧めいたします。公立図書館・大学図書館ともに数館が在庫してくださっていますので、ご近所の図書館に相談くださればそちらから借りてもらうことができます。
 私自身、図書館にはたくさんの本と出合わせてもらいました。なので、私の本も、その流れに乗ってくれるのは嬉しいです。もちろん、販売在庫があるうちはお買い上げいただくのが嬉しいですが^_^;。

 ともあれ、ほぼ完売御礼、どうもありがとうございました。



 ……申し訳ありません、ほぼ完売、な状態を、完売、と私が早合点いたしました。完売と思って作った文章を無理やり訂正していますので、文章全体が無茶苦茶です。気に入りませんが、「公開したものを削除して、完売してからまた公開しなおす」わけにもいきませんので、このまま残します。
 図書館で借りるより買って読みたいとお考えのかたは、お手数ですがOMUPのホームページを確認してみてください。僅少な在庫がまだ売れていなければ、買えるはずです(当たり前ですね……)。



 いま見たら、『神田橋條治の精神科診察室』が、アマゾンの診断学一般部門でもベストセラー1位になっていました。もちろん、1時間ごとの更新ですから一時のことです。が、1位と言われるとそれだけで、「はあー、スゴイ、大したものだなあ!」と嬉しくなります。単純です。


190204 解剖学の総復習

 この数年、精神・心理関係の領域で貴重な学びを得る機会を贅沢に与えられる一方で、身体関係の勉強がサボりがちになっている自覚はありました。なので、お師匠さんとの本作りが気持ちよく終われたのをきっかけに、解剖学の総復習を始めることにしました。
 手始めに手に取ったのは『イラスト解剖学』の第7版(松村讓兒 中外医学社 2011年)です。返却日までに読み通すべし!のプレッシャーを与えるべく、近所の図書館で借りてきました。索引を除いて700ページ弱。正規の返却日までに読み通すなら1日のノルマはざっと50ページ。そりゃ無理だ。ちなみにいまは170ページ辺りを読んでいます。

 専門学校時代、私は解剖学の授業がなにより嫌いでした。聞いていても退屈で退屈で仕方がないし、暗記が苦手でさっぱり頭に残りませんから、ずううっと、教科書にある筋肉の絵をノートに模写していました。ひたすらシャカシャカ筋線維の色を塗るか、それにも飽きてぐうぐう寝るか。
 そんな学生時代でしたが、仕事を始めるようになると、ある程度の解剖学的知識は必須です。整体屋は外科手術をするわけじゃありませんから神経・血管の細かい走行まで覚える必要はありません。が、主要な骨・筋肉についての位置関係くらいは知っていないと頼りない。
 問題は、どこまでを〈主要〉と考えるか、です。上を見れば上、下を見れば下でキリがなさそうですが、ときどきは総復習をしておかないと、自分の想定している〈主要〉の範囲がどんどん小さくなるように思います。

 案の定、久しぶりに教科書を読み始めると、「あー、こんな筋肉あったあった」的にわんさか思い出します。実は『イラスト解剖学』を読むのは今回が初めてで、ふだん使っているのは『分冊解剖学アトラスT運動器』の第4版(W.Kahle H.Leonhardt W.Platzer著 越智淳三訳 文光堂 1995年)です。『イラスト』を読んで、「え、聞いたことない。完全に記憶から抜け落ちてる……?」と不安になる事項が『分冊』のほうには書かれていなかったり、『分冊』にある細かい説明が『イラスト』ではバッサリ省略されていたりで、それをときどき突き合わせたり確認したりしながら、『イラスト』を読み進めています。
 『イラスト』を読み終えたら、そのまま続けて『分冊』を通読する予定です。これでちょっとは〈主要〉の範囲が広げられるでしょう。

 これまでのところ、『イラスト解剖学』でいちばん感激したのは、「四足動物には鎖骨が未発達なことが多い」という説明です(88ページ)。前脚で着地したときに鎖骨があると、その衝撃が背骨に伝わって、走るたびに脊髄・脳にダメージが生じてしまう。だからあえて鎖骨は持たず、筋肉だけで肩甲骨を支え、衝撃を筋肉的に吸収しているのだ――。
 こういう、理に適った身体の機能に私は極めて弱いです。「えっ! そんな仕組みになっていたの!」と思い知ると、それだけでもう、「は――っっ」と感心してうっとり状態です。
 ヒトに限らず、どの生き物の身体もその生き物的に機能的。この事実にしびれます。


190205 図書館に寄贈してきました

 『神田橋條治の精神科診察室』を、堺市立・大阪市立・大阪府立の3公立図書館に寄贈したい、寄贈しよう――。
 そう思ってはいましたが、ありがたいことに初版がたちまち不足状態になりましたのでちょっと行けず、2刷が刷り上がるのを待って行くことにしました。

 で、先日、「2刷ができましたよ〜」と増刷御礼代わりにご厚意で見本刷りを持ってきてくださった出版社の社長さんに、「図書館に寄贈しようと思っているんです」と話すと、「そんなことなら寄贈用に、別にもう3冊、白柳さんにお届けしましょう。ぜひ「著者から」と言ってお渡しくださいよ」と実に気前よく・気持ちよく賛同くださって、ほんとにすぐに届けてくださいました。
 なので、その意気に私も応えなきゃ!と、いただいたその日の昼休みにさっそく堺市立の図書館(近所)に走り、さらに今日、午前中に大阪市立・大阪府立のそれぞれ中央図書館に自転車をかっ飛ばして行ってきました。いい天気なのもあって、気持ちのいい遠出でした。

 満足のいく本、後々まで残ってほしい本ができたときには図書館に寄贈する、が私の信念です。著者が死んでも、出版社がもしも閉めることになっても、開かれた形で本を預かっておいてくれる。それは図書館の極めて極めてありがたいはたらきです。そんな図書館のおかげで、利用者の私はどれだけたくさんの本に出合えたことか!
 ただし、図書館には受け入れできる本・できない本があります。寄贈すればなんでも預かってくれるわけではありません。なので、図書館に寄贈に行くときには毎度、「ぜひ預かってね! ね!」の思い満々でカウンターに向かいます。
 そんなわけですので、寄贈はしてきましたが、図書館からの受け入れの可否は返事待ちです。まあ、私の単著2冊さえ受け入れてくれた太っ腹な3館ですから、よもや『診察室』を受け入れ拒否にするとは考えられません。おそらくすんなり「可」になるでしょう。

 神田橋先生には、半分事後報告で寄贈のことをお伝えしました。「それはありがとう」と、こちらも喜んでくださいました。
 万事、めでたし。これでようやく、出版にまつわる私の〈お仕事〉はすべて完了いたしました。やれやれ、オツカレサン。


190208 太極拳、自主練習中。

 先日の太極拳教室は別用のために休みました。なので、それまでの復習がてら、気の向くままに簡単な自主練習とちょこちょこした施術をしています。
 自主練習の課題は、「陳式の手の形」と「陳式の腕の形」の2点です。2点といっても私にとって根っこは同じで、私的整体用語に翻訳して言うと、「手のひらの癒着が上肢の正しい動きを邪魔している」。

 ですから自主練習としては、ちょっと陳式を動いてみては、上肢の動きを確認して、それから手のひらの癒着を剥がす、それでまた動いてみる、なんてことをときどきしています。
 そうするうちに、これまでにはかけらも感じられなかった〈手の形と腕の形が正しくつながる感覚〉〈肩から指先までがすらっと連動する感じ〉の気配がちょこっと芽生えてきました。そして自分の肋骨とか胸郭に、これまでより実在感が湧いてきました。この感じは、施術的・太極拳的に〈まだ完成ではないけれど一歩前進〉の手応えです。

 おそらくこの先の展開は、〈肩甲骨〉⇒〈肋骨〉⇒〈横隔膜〉と連動範囲を広げていって、最後は〈呼吸〉と〈指先〉までが連動することになるのでしょう。
 仙人はかかとで呼吸する、と書いてあったのは『荘子』だったか『黄帝内経』だったかどっちもだったか忘れましたが、その理屈で行けば、仙人はかかと+手首で呼吸していたんじゃないかしら、と思います。なんと奥深い、理に適った身体観!

 とりあえずいまの私は、鼻づまりならぬ手のひらづまりで呼吸が通っていない状態です。うまく通しきるには、もうちょっと手間暇がかかりそうです。やれやれ。


190220 『身体のトラウマ』無事完売

 拙著『身体のトラウマ』が無事完売いたしました。
 お買い上げくださったみなさま、どうもありがとうございました。

 1月下旬に早とちりな記事を公開して以来、少々ハラハラしておりましたが、おかげさまで、1か月ほどで実現に至りました。今回は、アマゾンでも取り扱いなし、出版社のホームページも在庫なしとなっております、確実です。


 いや〜……、ほぼ完売、とか言っておきながら、そこから2、3年も在庫があり続けたらちょっと格好がつかないなあと、情けない心配をしておりましたので、ほっとしました。
 今後は、『身体の話』をどうぞよろしくお願い申し上げます。具体的な技術の説明は書いていませんが、内容は、こちらのほうが一般向けです、文章も、『トラウマ』の数年後に書いたものですから、ちょっとは読みやすくなっています(たぶん)。


190306 『神田橋條治の精神科診察室』の読まれ方

 しばらく前に、『神田橋條治の精神科診察室』をお買い上げくださったお客さんからお礼を言われました。なんでも、そのかたのお孫さん(高校生だったか、もう少し年長さんだったか…)が『診察室』を読んでくださり、なにか得るところがあったらしい、とのことでした。
 そして先日は、学校の先生をされているお客さんから、勉強になっている、何回も手に取って読み直しているとお聞きしました。

 嬉しいなあ、と思います。
 数年前に初めて神田橋先生のご本を読んで、「この先生なら私の疑問に答えてくださるかもしれない」と希望を持った私と同じ経験を、『診察室』を読んでしている人がいる、というのがとても嬉しい。その意味で、心理関係職以外の人におもしろかった、自分の役に立ったと言っていただけるのが、私のなによりの喜びです。


 で、ここからは余談になりますが、その学校の先生なお客さんから、「筋力テストは学校教師にも使えそうでしょうか?」と訊かれました。
 私は、あまり役に立たない、というか、役に立てようとしないほうがいいと思います、と答えました。

 筋力テストは、とても便利な検査法ですが、質問を○×形式にしなければなりません。「この物質は有害ですか?」は○×で答えられる質問なので筋力テストに適用できますが、「この人に合う物質はなんでしょう?」は○×では答えられないため、適用できません(正確にいうと、工夫すれば適用できるのですが精度が下がる上に二重三重の工夫が必要です)
 そして〈質問〉を〈言葉〉で表現する手続き自体が、情報・イメージをずいぶん単純化します。この単純化が、もったいないと思うのです。

 だから学校の先生は筋力テストを使わないほうがいい、使うと、現場の繊細な観察眼が鈍くなると思う。
 学校現場で先生が掴むべき情報は、○×のような単純なものでなく、もっと曖昧で渾沌として豊かなもの、のはずです。なんせ、丸まるの人間関係なわけですから。だから、その豊かなものを豊かなまま、イメージのまま言葉化はせずに把握して、理解して、対処していったほうがいい。私はそう思います。
 と、そんな意見を述べると、そのお客さんは、納得くださいました。


190312 透析拒否報道に思うこと

 数日前から新聞・テレビで取り上げられている透析拒否の報道を見て驚きました。透析をするか・しないかの選択権は、患者側にないのっ?という驚きです。
 今回の報道を見るまでは、「透析拒否の選択肢の提示」すらされていないことを私は知りませんでした。とすると、腎臓がダメになったら自動的に透析に移行、なのか……。
 でも私なら、透析をするか・しないかは自分でも悩みたいし、決断にも係わりたい。とすると、今の日本でそうしたければ、福生病院に行くしかないのか……びっくりでした。

 さらに報道の論調を見ていて驚くのは、「亡くなった女性の意思は尊重されていたのか?」式の取り上げ方をする〈有識者〉がおられることです。
 この方式の理屈立てが最近(とくに政治の世界において)多い気がして非常に気持ちが悪いというか腹立たしい。一般の(というか発言者の?)予想・期待と異なる決断をした人に対して、「意思が尊重されていないのでは?」「なんらかの圧力があったのでは?」と、一見同情的で、でもその決断を軽んじるような対応を取るのは流行なのでしょうか。「国民の理解が得られるよう今後も真摯に説明に努めたい」とか。
 アナタの出した答えはワタシの予想・期待と違っていたけれど、アナタはアナタなりに十分理解して十分考え抜いた上でその決断を下したのでしょうから、それをアナタの決断として尊重します、というのが「意思を尊重する」ことのはずなのに、なんで「圧力があったから/理解が不十分だから、間違った決断をしたのでしょう」と看做されなければならないのか。そのお為ごかし風な装いが不愉快です。


 透析といえば、数年前にも印象的な報道がありました。四国の病院で起きた修復腎移植です。
 病死した人の腎臓の、患部をきれいにして透析患者に移植するのが修復腎移植で、当時は大々的に報道されました。そしてその治療法の〈その後〉が、昨年、NHKの特集番組で放送されました。それによると、修復腎移植に問題はなく、アメリカでは件数は少ないながらふつうに行われる手術で、日本でも今後は認めていくことにする、とのことです。

 当時、四六時中流れ続けていたバッシング報道の〈訂正〉報道が、このひっそりした特集番組かと思うといたたまれないことですが、〈訂正〉報道がされないよりはマシ、なのでしょう。殺生なことです。


190405 念願のお礼参り

 2014年に『身体の話』なる本を作ったときに、複数の書店さんに挨拶に回りました。挨拶、というのは「こんな本を出しました、よければ店頭に置いてください」の営業活動です。
 その数年前、『身体のトラウマ』を作ったときにも同じことはしていましたので、勝手はわかっているつもりでした。売場担当のかたに実際に本を見てもらって、よろしくどうぞ、と言って帰る、ごくあっさりした作業です。

 ところが、とある大阪を代表する大型書店に挨拶に伺うと、「担当が会いますからここでお待ちください」とバックヤードの一室に案内されました。
 書店員さんは忙しいんだから、こちらの営業活動は、ささっと挨拶してささっと引き上げるが肝腎だ、の心づもりでいた私は〈長居する〉想定がありません。なんで私なんかに会ってくれるんだろう、ちゃんとした営業ってなにをすればいいんだろう、ていうか、もしかしたら私はすでになにかしらの失礼をしでかしていて怒らせてしまったんだろうか……がちごちに緊張しながら担当のかたを待ちました。

 ずいぶん待った気分で(実際はそんなでもなかったかもしれません)、いいかげん緊張し続けるのにくたびれた頃に、担当のかた(Pさん)が来られました。

 お待たせしました、の言葉とともにてきぱき名刺をくださって(たぶん私もお渡ししたはず……あまり記憶にないですが^_^;)、パラパラっと本をめくられて、「簡単にいうとどういう内容の本ですか?」。
 よかった、怒られるわけじゃあないようだ。ほっとしながらしどろもどろに説明すると、ふんふん、と聞いてくださりながら、じゃあこういうような本ですか、と、私よりよっぽど鮮やかに要約されて、「あ、そうです」。無事話が通じたことに私が気を抜きかけると、「それならこの本はタイトルで損をしています」。
 え? 顔を上げると、「一人でも多くの人にこの本を読んでもらおうと思うなら、タイトルはこういうことを考えて付けないと」と、タイトルに始まってタイトルだけには終わらない、本作りのあれこれを教えてくださいました。緊張のわなわなは、筋の通った助言を聞くうちに感激のわなわなになって、やがて、なんで私にこんな大事なことを教えてくれるんだろうの感謝のわなわなになって、お礼を言って帰りました。


 昨年、『神田橋條治の精神科診察室』を作ることになったときには、あのときに教えていただいたことをしっかり活かすぞ、の思いでタイトルとサブタイトルを作りました。結局、タイトルは助言者のかたの案が抜群に良かったのでいまの形になりましたが、Pさんの下さった助言から外れてはいないと確信しています。
 ですから、「改めてお礼を言いたいなあ……」。思いながら、いままで果たせませんでした。『診察室』の挨拶で行ったときにはいつも以上にレジ回りが忙しそうで、「Pさんは……」なんてとても言い出せずに、ささっと退散。でも〈忙しそうじゃないとき〉が想像できないお店なので、どうしようか……と保留にしていたのでした。
 が、先日やっと肚を決めました。やっぱり言いたいんだから、言おう。言いに行こう。

 で、行ってきました。
 Pさんご本人はレジにおられず、お会いできませんでしたが、代わりに事情を聞いてくださった書店員さんがこれまた実に感じのいい人で、私が「あのときは本当に嬉しくて」と言うと、「私も嬉しくなってきました」とにこにこ喜んでくださいました。
 延び延びにしていた念願のお礼参りが、おかげでとても気分よく、できました。こういう嬉しさは、なんとも格別です。


190418 書評と増刷

 『神田橋條治の精神科診察室』関連のご報告です。

 ・日本評論社の雑誌「そだちの科学」32号(2019年4月10日発行)に、杉山登志郎先生が書評を書いてくださいました。
 ・3刷が決定いたしました。

 満足至極の本作りができて、もはやすっかり私の手からは離れた『診察室』ですが、やはり書評でご紹介くださっているのを見ると改めて嬉しいですし、増刷決定となると「おお!」と思います。
 これもひとえにお買い上げくださったみなさま、お読みくださったみなさまのおかげです。どうもありがとうございます。

 先日は、お客さんな心理士さんに「神田橋先生のご子息が褒めておられましたよ!」と教えていただいて大興奮。ぜひ拝見したかったのですが、Facebookの壁に阻まれました。見方がよくわからない、というか見れない……。で、挫折。やれやれ、そのかたから概要だけでもお聞きしていてよかったです。

 初版⇒2刷のときには少し手を入れましたが、2刷⇒3刷ではいじりません。ただ刷数が増えるだけ。それもまた、嬉しいことです。


190426 観葉植物の植替え完了

 4月中旬から4回ほどに分けて、店の植木の植替えを全部済ませました。
 2、3年前、するべき時の植替えをしそびれたせいで、鉢の大半をダメにしました。植物に詳しいお客さんの助言を得て秋口だったにもかかわらず急遽植替えをして、その後は1度グリーンセンターのかたに相談にお邪魔して、ぼちぼち様子を見ながら手を入れてきました。が、ようやく、今回の植替えで一段落できたと思います。

 2、3年前のしそびれは理由あってのことでしたが、基本的に私の植木との付き合い方は、木がダメになりかけたときに、というか「ダメなんじゃないか?」と私が早合点で不安になったときに、余計な手出しをしてはごちゃごちゃいじって悪くする、のパターンが多かったように思います。
 そう反省するようになったきっかけはグリーンセンターのかたが写真をもとに推測してくださった「あなたがした植替えはうまくいっていたのに、その後の水やりをしすぎていたように思う。この傷み方は、植替えの失敗ではなく根腐れですよ」の言葉でした。たしかに私は自分の植替えに自信がなかったものだから、直後の一時期、追いかけられるように水をやっていました。そうか、意外に私、ちゃんと植替えできていたのか……。

 グリーンセンターからの帰り際、「観葉植物の鉢を10年以上管理してきたなら大したものよ、自信を持って」と励まされ、自信を持つまでには至らないものの、実際以上に「できていないんじゃないか」と心配することはお蔭で、なくなりました。
 心配すると、「何かしなきゃならんのじゃないか」とおろおろし始めて、〈どーんと構えて待つ〉ができなくなる。そして不安だけはあって何が必要かはわからないから、やたらな手出しをしてしまう。その有害さに、ようやく気づきました。

 今回は、植替え後のせっかちな水やりは我慢して、根が落ちつくのをじっくり待つつもりです。これで2、3年余計なちょっかいを出さずに過ごしておれば、きっと、わさわさ根が張るでしょう。それを、期待して待ちます。


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