のぞみ整体院
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本の感想 7

210622 「ラグリマ」 作曲:タレガ 演奏:白柳淳

 カテゴリーは〈本の感想〉にしましたが、「ラグリマ」はギター曲です。演奏しているのは私の兄です。
 「ラグリマ」はずいぶん以前、兄が練習しているのを初めて耳にして以来、ずーっと大好きな曲です。先日、YouTubeで公開していることを知りましたので、ご興味のかたはぜひご覧ください(こちらです)。

 いやー、素敵。人によって好みはそれぞれでしょうが、私的にはこの演奏が、というかこの表現のありようが完璧。
 地味〜で淡々と優しい音楽で、なんとも言えない穏やかさと懐かしさに浸りつつも、情感はざわざわ不穏に動き出して、しみじみしながら、じ――っと聴いちゃう感じが堪りません。


 ところで、これは私だけかもしれませんが、我が家の簡素なパソコンでは、ちょっと大きめの音に設定しないと残響音がきれいに聞こえませんでした。なんか音楽がポツンポツンしているな、とお感じの場合は少し音量を上げてみてくださると改善するかもしれません。


210923 中井先生と神田橋先生のむかしの雑誌記事

 2012年の雑誌「精神看護」に収録されている、中井久夫先生と神田橋條治先生の共同スーパーヴィジョンの記事を読みました。ご存知のかたには書くまでもないでしょうが、お二人とも、高名な精神科の医師です。実施されたのは2011年10月8日〜9日で、兵庫県は有馬病院の有志が主催されました。
 私が初めて神田橋先生のお名前を知ったのは2012年の夏ですから当時もこの勉強会のことは知りませんでしたが、ごく近所でオモシロイことされていたのだなあ……の思いと、そもそも整体業界で〈スーパーヴィジョン〉という文化があるのか・ないのかは知りませんが、少なくとも私の技法では成立しなさそうだし何より私には直系の師匠がいませんからスーパーな指導が得られることは望めません。なので、こんな勉強会が開催できる精神・心理業界の皆さんが、ただただ羨ましい……。

 内容は、めちゃくちゃおもしろかった!です。
 神田橋先生のスーパーヴィジョンは文章で読んだり見聞きさせていただいたりしたことがありますが、中井先生のは、見聞きはおろか、文章で読むのも私は初めてかもしれません。文字で読むと、私のノロクサしたペースでしか対話は展開しませんが(読むのが遅い)、頭の回転のすこぶる速いお二人のことですから、実際の会場ではものすごい速さで言葉が飛び交っていたはずで、その臨場感を勝手に想像するだけでもおもしろそうで羨ましい!

 記事に収録されているのは2つの事例で、どちらも患者さんは20代女性、主治医は精神科医歴10余年の男性医師です。生徒役のスーパーヴァイジーが「こんな患者さんをこんな風に治療しているのですが」と説明すると指導者役のスーパーヴァイザーが「それならこういうふうにしてごらん」「ここに問題があるんじゃないかな」みたいに助言する――と、そんな展開にはほとんどならずに、生徒役がちょっと何か言いかけると指導者役はその細部からどんどん連想を広げて思い付いたことをしゃべりまくる。脱線し放題のようでいて話の本質にはもちろん沿っていて、でも生徒役の具体的な相談事が解消できたのかどうかはよくわからない、でも読んでいて私はやたらにおもしろい……。まあ実際は、文章にされていない部分でも相談は続いているわけですから、そちらで解消できているのでしょうが。

 印象的だったのは、ひとつ、以前から私が個人的に取り上げてほしいと思っていた話題があって、あるとき、「是非そのことをここで話していただこう」と企んだことがあったのですが挫折して、もう今後おそらく私にはこの野望は果たせないだろうと諦めていたのですが、本記事の中で中井先生がさらっと指摘くださっていました。もう、それだけで私は、お礼を言いに行きたい!な気分です。

 ところで、雑誌掲載からずいぶん時間が経っているわけですが、気になるのは、この記事は何かしらの書籍に収録されているのかしら?です。私はたまたま何かでこの記事のことを知って、調べると、堺市・大阪市・大阪府の公立図書館と大阪府立大学の図書館には所蔵がなくて、でも幸い、大阪市立大学が保存しておられたので閲覧させてもらうことができました。私はそれで良かったですが、こんなに実の多い記事が雑誌としてそのまま散ってしまうのはあまりに惜しい! でも、こういうお願いって、出版社にすればいいのか、主催者にするものなのかがよくわからない。どう手続きすれば良いのかはわからないけれど、何とか残してほしいのだけどなあ……。※参照↓↓↓



 「中井久夫 神田橋條治 スーパービジョン@ 患者に嫌われることの意味」
  『精神看護』 第15巻1号所収 医学書院 2012年 
 「中井久夫 神田橋條治 スーパービジョンA 体験の共有が先、言葉はその後。」
  『精神看護』 第15巻2号所収 医学書院 2012年

※いま確認したら、医学書院のホームページから当該記事は有料閲覧できるようです! よかった! (ちなみにAはこちらから)


211225 トラウマと時間と数字

 『数学する身体』(森田真生、新潮社、2015)という本を読んでいたら興味深い話に出合いました。新潮文庫で132〜4ページ辺りです。
 一方に、眼球運動と数の知覚に深い関係があるらしいという研究があって、他方に、数字の知覚が時間の感覚とも雑じり合っているらしいという研究がある――という記述を読んで、EMDRの仕組みもひょっとしてこの辺りから説明できたりするのかしら……神田橋先生も年齢を数えさせることでトラウマ処理の助けとされているし……と、気になりました。
 もちろんこの本はそういったことを説明する本ではありませんからEMDRもトラウマも出てはきません。

 眼球運動・数・時間の3つに関連している脳の領域は後部にある〈頭頂間溝〉の一部で、認知神経科学者のスタニスラス・ドゥアンヌが〈hIPS〉と名付けたところだそうです。著書 “The Number Sense"に詳しいようですが、英語がさっぱりできない上にそこまで追求するほどEMDRと私の係わりも深くはありませんから、私の好奇心はここ止まり。
 ですが日進月歩の脳研究ですから、私が知らなかっただけでもうこの説明は常識なのかもしれません。EMDRも数読みも、脳の働きからすればそれほど不思議な技法ではないのかも、というのはおもしろいことです。


220201 『指数・対数のはなし』 森毅

 副題は「異世界数学への旅案内」。惹句には「13歳から95歳まで楽しめる数学の風景」とありますが、〈わかる〉じゃなくて〈楽しめる〉なところがミソでしょう。
 前半はメモメモ計算しながらがんばって理解して、大興奮する場面もちょいちょいあったのですが、中盤から後半にかけてはさっぱり意味不明な〈高級な数学〉(大学レベルとかまで入っているらしい…)が連続して挫折、日本語を追っかけるだけになりつつもどんどん読めて読了、40余歳の私はとっても楽しめました。なんというか、高校数学で習っていたあれやこれやはこういうことだったのか……みたいな全体像をぼんやり把握させてくれる本でした。細かい数式の一々を懇切丁寧に解説してくれるタイプの本ではなく、その意味で〈旅案内〉の本。
 最終章「指数世界への旅」によると、森さんご自身が数学少年だった頃に数学書をどんどん読んで意味不明な部分も含めて楽しんでおられたそうなので、〈わからなくても、読める本なら読み進める〉読み方で良かったのだろうと思います。

 高校時代の私は興味の持てない授業を受けるのがしんどくて(って、これは高校時代に限りませんが)、ひたすら寝るか・数学の問題集を解くかしていました。数学のセンスなんかちっともないのに、理科でも国語でもなくなぜか数学。公式を頼りに機械的にがちゃがちゃ数字をいじくることが集中できたし性に合っていたのでしょう。
 でもこのときの勉強というか〈いじくり〉に大局観はなくて、微分・積分も行列もベクトルも全部バラバラ。なんでこんなことしてるんだろう?は訊いちゃイカンことで、賢い人たちが考え付いたことだからどれも全部おとなしく習っておきましょう、みたいなことだと思っていました。

 それがこの本では、「あの方法でも解けるけれど計算がメンドクサイからこっちの方法で解きます」「ここでこう言っていることは、あっちの言葉で言い直すとあれです」式に〈ジャンル〉をひょいひょい飛び越えて連結する、あらゆる技法・数式を駆使して楽な解き方を探す・工夫する。しかも巻末に収載されている「シモン・ステヴィンの「小数」」という小論でも、著者のステヴィンさんは「分数より、私の考え出した小数の表記法のほうが便利ですよ! 使い慣れたらもう、分数には戻れませんよッ」な勢いで著者考案の小数表記法を披露。数学が、何かを記録・表現・研究するための道具として、より便利に・より簡潔な方向へと進化・発展してきたことが明示されます。
 あの問題はこう解く、この問題の解き方はこれが正解、ではなくて、もっと簡単に・もっと手抜きして解けんやろうか?を追求した工夫の積み重ねが高校数学のあれやこれやだと考えると、あらためて全体をたどり直してみるのもおもしろそうに思えました。

 飽き性な私のことですからいつまで続くかはわかりませんが、まずは総復習の第一歩、松坂和夫著『数学読本1』にかかってみようと思います。いやはや、まさかこの歳になって高校数学をおさらいしたくなるとは思いませんでした。



 『指数・対数のはなし 〜異世界数学への旅案内[新装版]』 森毅著
 東京図書 2006年(旧版は1989年)


220227 『流域治水がひらく川と人との関係』 嘉田由紀子編著

 副題は「2020年球磨川水害の経験に学ぶ」。本書96−97ページに収められた見開き写真が示す、熊本県人吉市を中心とした水害の記録と今後の治水についての提案をまとめた本です。元になっているのは2021年5月31日に開かれた「第2回流域治水シンポジウム」。

 毎日新聞の書評欄で紹介されていて、元滋賀県知事の嘉田さんが作られた本なので読んでみようと思いました。
 読む前は、ダム反対派が「いかにダムが環境に悪影響を与えるか」を説く本なのかと想像していましたが、違いました。〈環境〉視点もゼロではないけれど、それより〈有効性〉の視点から「ダム(だけ)では無理だ」を説いた本でした。この論点が私には驚きでした。

 私の理解した範囲で言うと、従来の治水は降った雨を川に集めてどんどん流そうとするものだった。そのために必要なのは大量の水を仮置きするためのダムと、集めた水が川から溢れないようにするための堤防です。いくつもの支流が集合して大きな川になるけれど、それぞれの支流から本川に流れ込むには時間差があるから、どんどん流れてさえいれば、この高さの堤防で間に合うだろう、そんな想定で立てていたのが従来の治水計画。
 しかし近年、集中豪雨の雨量が大幅に増えていること、土の地面や水田が減って川に流れ込む速さが増し、支流と本川の水位上昇にそれほどの時間差がなくなっていること、山林の荒廃が進んで川への流れ込みに加えて大小の土砂崩れが頻発していることなどから、既存の堤防では氾濫を抑えられなくなっている。だからもう、現実的にダムと堤防(だけ)では限界なのだ……。

 本書で提案する流域治水は、川以外の広範囲な地面に水を留め、川への急激な集中を減らそうというものです。堤防を川沿いに同じ高さでずーっと張り巡らすのではなく、要所要所であえて低くして周囲にちょっとずつ水を散らす。降った雨が地中に浸みこみやすいような仕掛けを作る。山林の手入れを適切におこなう。堤防の外側に木を植えて水害防備林とし、氾濫した水・漂流物の勢いを削ぐ。……。

 従来の治水が〈ダムと堤防〉式に簡潔なのに対し、流域治水はあれもこれもする。あれもこれもしてみて、それでも氾濫は起こるかもしれないから、あらかじめハザードマップを作っておいて、家を建てても安全な土地かどうかを判断する、既に危険区域にある家はかさ上げを補助する。あれもこれもで川への負担集中をなんとか減らし、人命に係わるレベルの危機を流域全体で回避しよう、と、そういう提案だと理解しました。

 従来の治水が「ダムと堤防を作ったから安全!」と呼びかけたのに対し、流域治水では「いろいろしてはみるけれどダメなときはダメだと思う」を前提に、ダメだったときのための最善策をも模索する。そこに現実的な説得力を感じました。
 そして、以前読んだ『日本林業はよみがえる』(梶山恵司著。大好きな本! 以前書いた私の感想はこちらです)やこれまた以前、滋賀のかたが案内してくださったむかしの水路(山が邪魔をして、氾濫した水がはけなかった経験から、ものすごい苦労をして掘ったという氾濫時の排水用路)の記憶などが蘇って、いろんな納得が連結しました。

 流域治水の考え方は新しいというよりむしろ古く、昔ながらの方法の良さにいまこそ立ち戻ろう、学んで見直して取り入れよう、というもののようです。その視点で書かれた一般書・専門書が、私が知らなかっただけでいくつもあるようなので、まずは『社会的共通資本としての川』(宇沢弘文・大熊孝編)と『川に生きる』(高橋裕)を探して読んでみようと思います。
 整体は血流と、川は水流と係わるものなわけで、読んでいると何かしら通じるものがあるのかして、学ぶことが多いです。とくに私がしている整体は、不要になったダムをどう壊すか、みたいな作業ですから猶更なのかもしれません。



 全般的にとても読みやすい、素敵な作りの本だったのですが、ひとつだけお願いが! このテの、具体的な地域と専門知識を扱う本については是非とも、固有名詞と専門用語にルビを振ってほしい! 簡単そう、あるいは常識的な読みのものにも初出は振ってほしい!
 万江川「まえがわ」が95ページ、基本高水「きほんたかみず」が179ページ。そこに至って初めて正しい読み方を知りました。一勝地地区、小川についてはたぶん最後までルビはなし。〈いっしょうちちく〉、〈おがわ〉で読んでいて良かったのか…な? そういえば球磨川「くまがわ」だって有名な川ではあるけれど、そこそこな難読名前ですよねえ?



 『流域治水がひらく川と人との関係 〜2020年球磨川水害の経験に学ぶ』
 嘉田由紀子編著 農山漁村文化協会 2021年


220416 『イスラーム医学』 マンフレッド・ウルマン

 おもしろい本でした!
 もう20年近く前のことになりますが、カイロプラクティックの専門学校を卒業して仕事を始め、新しい検査方法を使いこなせるようになったたもののもう一段階、施術の効果を深めるためには根本から〈医学的な考え方〉の視野を広げなきゃダメだ、と思い詰めていた時期がありました。そのとき手にしたのは中国医学関連の本数冊で、のめり込んで勉強しました。そうすると気になってくるのはさらに近隣の伝統医学はどんなだったの?で、それらしい本を探してみると、インドの医学書はすぐに見つかります。古いヨーロッパの医学書も、ある。けれど〈ヨーロッパに影響を与えた〉というアラブ・イスラム圏の医学関連書はうまく見つけられませんでした。

 中国医学の勉強に満足して、それ以外の本もいくつか手に取ったりやめたりするうちに私自身の考え方が定まり、いつしか伝統医学関連の本を読む機会はほとんどなくなりました。が、アラブ・イスラム圏の医学がどんなだったの?は微妙に引っかかったままでしたので、そんな私に本書はありがたいものでした。

 本書の内容は、タイトル通り、イスラームの伝統医学を概説したものです。
 とはいえ、時代的にも地域的にも扱われている範囲がめちゃくちゃ広いため、〈中央医学校で育てていた医師はこんなです〉的な系統立てはできませんし、〈これが決定版イスラーム医学〉みたいな本は作れません。
 そこで、900年代にアリー・イブヌルアッバース・マジュースィーが書いた『王の書』(正式名称は『医術の完全なるものの書』)を中心に、イスラーム医学のいくつかの立ち位置を見ていきましょう、という作りになっています。

 医学史的な流れでいうと、古代ギリシア医学の〈当時の完成版〉がアラブ世界に伝わり、多数の書籍がギリシア語からアラビア語・シリア語・ペルシア語その他に翻訳された。その〈当時の完成版〉というのが、100年代にギリシア医学を大成させたガレノスの著書群であって、医学の実践の場はともかく、アラブ医学界での理論的な支柱となったのはガレノス系統の医学だった。
 一方、ギリシア本国を始めヨーロッパ全土では古代ギリシア及びガレノスの知見は失われており、中世に至ってそれがアラブ世界から逆輸入。ヨーロッパでもガレノス再発見。←これが、アラブ医学がヨーロッパに影響を与えた、ということのようです。その後、ヨーロッパでは、顕微鏡により細菌を観察、病気の本体発見!となって、現在の科学的医学の方向へ舵を切る、という流れが起こる、となるようです。……大まかなところはつながりました。

 医学理論的な話でいうと、イスラーム医学(というかガレノス医学?)では熱‐冷、湿‐乾の2つの対立項目を使って体質や病気を考えていたようです。2×2で4つの項目(火・空気・水・土)。
 中国医学では、古くは陰‐陽、後に五行が付け加わる2段階構成なので明らかに系統が違います。ヨーロッパ式と中国式で系統が異なるのは知っていましたが、アラブ・イスラームはそのどちらに属するのか・属しないのかが知りたかったことの一つでしたから、理論はガレノス、という納得は収穫でした。しかしその一方で薬の処方にインド医学で使われる薬物が登場したり、インドにアラブ経由でギリシア医学が伝わっていたりするそうですので、書物に表れない実学の部分においてももっと多くの交流・混在があるのは確かでしょう。が、でも、独自の医学体系と呼ぶほどの理論体系は構築していなかったようです。

 おかげさまで長年のモヤモヤが晴れました。
 本の作りがとても丁寧で、それも嬉しいことでした。充実した索引、しかも難読文字にはフリガナ付き! 「吸角」の読みがわからなくなって索引を見ると、「吸角(すいふくべ)」と書かれていて感激しました。



 『イスラーム医学』 マンフレッド・ウルマン著
 橋爪烈+中島愛里奈訳 青土社 2022年


220512 『がんは裏切る細胞である』を読みましたが…

 なんというか、〈観察から想像していくこと〉が違えばこうも推測の方向が異なるか……という意味で、私には全編通して嫌な味わいの本でした。まるで、二人の探偵が同じ事件を捜査して、それぞれが独自の理屈を立てて全然違う人を犯人と名指しする、みたいな気分でした。
 トピックの一つ一つは、聞いたことがあるものも・ないものも「ふーん、そうなのか」「なるほどねぇ」な感じで読めるのですが、著者の立ち位置というかそもそもの視点が……なんというか……同じ現象を見聞きしても、あなたはそう解釈するのね、私はそうは思いませんけど、みたいな隔絶感が随所にあって、実に苦かった。進化生物学、というのがこういう立ち位置の学問であるのなら、私はもう懲りました。一方、この視点が著者に特有のものであるのなら、同じ分野の、他の人の本は読んでみたいと思いました。

 実はタイトルにある「裏切る細胞」という呼び方からして、私には苦い。裏切る相手は〈協力して身体を支える正常細胞〉全体で、がん細胞はそこから栄養摂り放題、分裂し放題に増殖して、いずれは身体を滅ぼすことも顧みず自細胞の繁栄だけを追求する方向に進化した、と、そんな解釈というか前提で全編が語られます。
 でもこれって、そんなにあっさり前提にしちゃって良い話なんでしょうか?? がん細胞、がんという〈病〉、ひいては身体のはたらきそのものに、もうちょっと奥深いものを想像している私からすると、こんなふうに〈悪意満々ながん細胞〉みたいな前提で書かれると、あまりに読んでいて痛々しい。

 がんを考えるときに――というか〈いかにもわかりやすく、これが悪役・これが原因〉みたいな状況を見たときに私が自分に「思い出せ」と思うのは、宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』に出てくる汚染された森・腐海(ふかい)です(次の段落まで、以下、ちょっとネタバレです。ごめんなさい)。腐海の森の樹々は有害物質を含んでいるため、森全体はもちろん、風で飛んでくる胞子までが忌避される。しかし主人公・ナウシカはその胞子と森を丁寧に観察して、汚染されているのは土壌であって、腐海はその土壌で育った森に過ぎず、むしろ樹々は身をもって汚染土壌を浄化していることを知る。
 がん細胞が、まんま腐海の森と同じだと言いたいわけではありません。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 がん細胞がなんらかの意味で〈不健康〉な細胞であることは確実だと思うし、身体の危機に深く関連していることも確からしい。そこは私も否定しません。ですがそれ以上のことはほとんどよくわかっていないのが実際のようで、これまで読んだどの本でも結局は〈さらなる研究が必要〉みたいな結論になっていました。であれば、がん細胞こそが悪の元凶か・腐海の森的〈悪の結果の現われ〉かは、保留にしたまま私は考えたいし、そうしないのはがん細胞に殺生です。積み上げた状況証拠を抱えたまま、〈裏切り者〉〈搾取する細胞〉〈宿主の命を奪う〉なんて表現してしまったら(「宿主」だなんて……まるで寄生虫呼ばわりよ……)、その時点で観察はゆがみませんか?と思う。

 本書に戻ってちょっと長い引用をすると、

「がんに関しては、戦争で使うような言い回しがよく用いられる(…が、)誤解を招く表現だともいえる。本質的に自らの一部であるものを、完全に根絶やしにすることなどできない。そういう攻撃的なアプローチが名案に思えるのは、私たちが「滅ぼすべき敵」としてがんを捉えているからである。だが実態はどうかといえば、多様な細胞からなる集団が、私たちから浴びせられるあらゆる治療法に呼応して進化している。それががんの本当の姿にほかならない。そういう見方をしない限り、私たちはひとつのリスクを冒すことになる。実際にはもっと攻撃性の低い治療法が存在するのに、それを軽視するか完全に無視してしまうかするおそれがある」(13ページ)

「正常な細胞と同じ環境に置かれていれば、がん細胞も正常な細胞のようにふるまえる」(‼ 158ページ)

「転移がんを効果的に治療するには転移自体への理解を深める必要があるし、どういうアプローチで治療を行えばいいかはがんをどれだけ理解するかにかかっている」(195ページ)

「クローン増殖がすべて悪だと単純に決めつけてはいけないし、がんの内部で頻繁に確認される遺伝子変異がかならずがんにつながるという思い込みも禁物である」(205ページ)

 著者にこの慎重さを貫くつもりがあるのなら、まずは用語を改めてよ……と、思います。

 ただ、もちろん、本書で私が注意を引かれた点もありました。
 ひとつは、〈感染性がん〉の話題です(139ページ辺り〜)。感染症医の岡秀昭さんが以前『プロの対話から学ぶ感染症』(岩田健太郎ほか著)でおっしゃっていた〈がんのように振舞う感染症〉との繋がりが気になって興奮しましたが、私には関連は読み取れませんでした(ちなみにその本の感想はコチラ
 本書で取り上げられていた感染性がんは、イヌとタスマニアデビルの症例(?)でしたので、丸山ワクチンが効くかどうかを試してみてほしい……と思いました。

 もうひとつは、「腫瘍に資源を与える」治療法(案)です(232ページ)。これは、私としてはさらなる研究を強く(!)待ちたい案でした。
 がんの暴走を抑える「適応療法」よりさらに踏み込んで、がんとその周辺の組織に資源を与える「がん周囲組織の養生療法」みたいな技法を専門家のかたに探ってほしい(!)と思っているのですが、本文中にそれらしい注は付いていませんでした。著者がさらりと提案しただけで、具体的な研究には至っていないのでしょうか……詳細が知りたいところです。



 『がんは裏切る細胞である 進化生物学から治療戦略へ』
 アシーナ・アクティピス著 梶山あゆみ訳
 みすず書房 2021年


220624 『拒食と過食の心理』 下坂幸三

 著者は、摂食障害の患者さんを、家族ぐるみで治療・改善しておられた精神科医です。1929年生まれ、2006年逝去。

 下坂さんのお名前は10年ほど前にも一度聞いていました。摂食障害のかたの関係者から整体で改善しないものか相談され、数回施術させてもらったものの私には手に負えず、また整体との関連も当時の私には見いだせず(いまなら見いだせる、ということではないですが)、これは一度ちゃんと勉強しなきゃダメだと思って、冴えた心理士さんなお客さんに相談しました、「私はどんな本を読んだら良いのでしょう?」と。そのとき教えていただいたのが下坂さんのお名前で、すぐに読みかけはしたものの、家族療法と整体ではいよいよ関連が見えず、途中で諦めました。
 それが今回改めて手に取ったのは、原田誠一編著の『複雑性PTSDの臨床』の後半に収録された下坂さんのむかしの論文「心的外傷理論の拡大化に反対する」を読んで感銘を受けたからです。すごい! すごい臨床家だ! 感激して、図書館でとりあえず2冊、借りてきました。その1冊が本書で、続けて読み始めたもう1冊は『心理療法の常識』です。(まだ途中ですが、これもすごい!)

 改めて読んでみて整体屋的に役に立つのか?と訊かれると、やっぱりちっとも立ちません(!)。ですが臨床家として教わることがものすごく多いし大きいし、何より読んでいて愉しい。唸る。にんまりする。所々で大興奮して、びゃーっと線を引きたくなる(もちろん我慢)
 「私には精神科医のお師匠さんがいます」と言うと、「整体屋がなんで精神科に?」と驚かれることがありますが、〈仕事の仕方〉が遠い同業者より、〈仕事の仕方〉が近い(レベルが近いとかいう意味じゃないです、念のため)異業種のほうがよっぽど話が合うし教わることも多い。だから整体屋的に役に立つかどうかなんて、極端に言えばどうでも良くて、相手の仕事ぶりに感激して、私もそっちに行きたい! そんなふうに仕事したい!と思えるかどうかが大事、なのだと思います。

 分厚い本でもないのにやたらに読みごたえがあって、読みこなすのに時間が掛かる。でも読んでいる最中が実に幸せ――これが本による学びの一番うれしい形だと思います。
 ああ! 講演でもなんでもいいから、下坂さんに一度お会いしてみたかった! でも2006年に亡くなられたのでは、全然間に合いませんでした……。



 『拒食と過食の心理 治療者のまなざし』 下坂幸三著
 岩波書店 1999年


220905 『新疆ウイグル自治区』 熊倉潤

 ふだんからお世話になっている大学図書館の新刊棚でばちッと目が合ったものの、読むまでもなく怖そうな本だろうことは想像できるからやめておこう、といったんはスルーしました。が、その数日後、再度図書館に行った際にもばちばちッ。また強力に目が合って、はあ…、やっぱり読めってことか……借りてきた次第です。が、そんな消極的な借り方・読み方で臨んだ本なのに、ぐったりなるほどの名著でした(。調べてみたら他の図書館では軒並み〈予約待ち〉でした。大学は夏休みでしたからね〜)
 そもそも〈新疆〉と呼ばれる地域はどういう位置にあるのか、どんな人々が住んでいるのか、中央アジア・西アジアの国々・ロシア・中国との関係はどんなであったか、中国の一部あるいは支配下に置かれるようになって以降の中央との関係はどうか、そういったことが、著者の私情を極力排した、宗教的・イデオロギー的主張と無縁の第三者的な筆致で淡々と丁寧に書かれます。

 著者の専門であることもおそらくはあって、中心に取り上げられるのは政治的トップの人事です。このときの中国共産党のトップは誰か、どんな方針を持つ人物か、新疆のトップに据えられたのは誰か、どんな距離感・政策でウイグルの人々に向かうのか。トップの人事が替わるたびに政策方針は変わり、新疆に許される呼吸量は変わる。

 読んでいて頭をよぎるのは〈不良息子〉を〈しつけ〉する親の言い分と、〈現場が大事にするもの〉を理解できない〈本部〉という、立場関係の認識+そもそもの価値観における二重のすれ違いで、そこに、民族的相違、宗教的相違、交通・通信手段の発達により中央と地方の距離が近くなったこと、科学技術の発達によって〈父/本部〉と〈息子/現場〉の力の差が圧倒的になりすぎたこと、などがかぶさってくる……。
 中国、というか漢人トップが考える〈幸せの条件〉は、ウイグル人に根付くそれとはおそらく根本的にズレている。ズレていること自体に優劣・良し悪しの意味はないけれど、ウイグル人にとっては、その時々の人事によって、そのズレに対して交渉・譲歩の余地がいくらかは残されるか・大幅に奪われるかが大きく揺れる。そしてその現在におけるひとつの極点が「職業技能教育訓練センター」で、そのありようを欧米の人たちは「ジェノサイド」だと批判するわけだけれど、著者の考えはそれとは異なる。〈民族の文化の抹殺〉を意味する「文化的ジェノサイド」のほうがしっくりくる部分がある、と著者はいう。確かに、そこで為されていることが、している側にとっては単なる〈しつけ〉でしかないのなら、「ジェノサイド」どころか、センターの名称はこの上なく適切な名前なのかもしれません……。

 扱っているのは政治とか民族問題といったジャンルになるのでしょうが、教育・心理系の関係者にも、重すぎる学びが得られる本だと思います。
 とりあえず私は、引きつづき熊倉さんの本・論文・雑誌記事を探して読んでみようと思います。講演があればそれも行きたいけれど、予定はないのかもしれません。私には情報が探せませんでした。



 『新疆ウイグル自治区 中国共産党支配の70年』 熊倉潤
 中央公論社(中公新書2700) 2022年


ニック・ダッフェルさんを訳してほしい……

 新年あけましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


 いきなりですが新年早々に見たテレビ番組の一つがNHKの「100分deフェミニズム」でした。常日頃からフェミニズム全般に強い関心を持っているわけでもない私なので、興味津々テレビの前で番組開始を待つこともなく、通常の「100分de名著」を自動録画設定していた加減でこの特集回も録れていて、ちらっと再生してみたら、以前にご著書を拝読していた沖縄の上間陽子さんが出ておられたのでおお、と思って見た、という、いささかぬるい熱量での視聴でした。が、上野千鶴子さんが紹介されていた本に引っ掛けて思い出した本がありましたので、それについて書きます。ニック・ダッフェルさんという人の本です。

 しばらく前の毎日新聞に短いコラムが載っていて、そこでさらっと紹介されていたのがダッフェルさんでした。検索すると、毎日新聞のサイトでいまも有料記事として読めるようですので、ご興味のかたはこちらをどうぞ(「ジョンソン首相就任 英国の分断が招く危機」遠藤乾)。
 私は覚えている範囲で書きますので正確な引用ではないですが、なんでも、ダッフェルさんが書かれたのは、イギリスの支配階級が抱えるある種の冷酷さは、幼時に親元から離して寄宿学校で過ごさせ、そこで徹底したエリート教育を施すことに由来するのではないか、みたいな本、だったと記憶します。

 遠藤さんの書かれた記事を読んだときから、これはとっても大事なことが書かれた本ではないかしら、と食いつき、読んでみたかったのですが、すぐに出るだろうと期待していた日本語訳はいまだ出ていないようです。アマゾンで調べるとたぶん、この本(『Wounded Leaders』Nick Duffell)。著者のお顔は初めて拝見しましたが、私が想像していたよりご年配だったようです(勝手に若い人だと思っていた)
 そんなに読みたいなら原書で買うか?とも考えますが、英語の本なんて買ったところで絶対読めない自信があるし、ならばそもそも買ったって仕方がない。

 もちろん、見た目はしっかりした本のようでいて中身はぐだぐだとか、それなりの肩書・知名度はあって何冊も本を出しておられるけれどどれもいまいち信用ならん著者の本とか、日本語の書物でも色々あるのは知っていますから、ひょっとしてダッフェルさんもその系統なのかしら……と失礼千万な心配をしてみたり、いや、でも、毎日新聞の記事を読んだ限りではそんな不安な感じはなかったように記憶するけどな、と思い返したり、モヤモヤするばっかりでスッキリしません。日本語の本であればパラパラっと拾い読みすればある程度、私自身の好き具合に見当もつけられると思うのですが、外国語ではそれがさっぱりできませんから、翻訳が出ない理由がわからない。
 ああ! 変な本でないのなら、どなたか訳してほしいのですが……。


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