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本の感想 6

200712 『プロの対話から学ぶ感染症』 岩田健太郎ほか

 『プロの対話から学ぶ感染症』
 著者:岩田健太郎 青柳有紀 岡秀昭 本田仁
 メディカル・サイエンス・インターナショナル 2020年



 この本は、4名の感染症科・感染症内科の医師が、それぞれ3例ずつ症例を持ち寄っておこなった症例検討会の対話録です。
 こんな患者さんが来られました、どの病気の可能性を考えますか? どんな検査をしますか? 実際に私がした検査はこうでした、確定診断がついた病名はこうでした、という具合に、全症例が〈実際の臨床〉風に進められます。
 この検討会の出席者が、著者である岩田健太郎さん、青柳有紀さん、岡秀昭さん、本田仁さんです。


 めっちゃくちゃ、おもしろい本でした。
 対話文なので読みやすい印象は受けますが、内容はバリバリの感染症の専門書です。非医者の私にはわからないことが多くて、具体的な病気・治療・検査の様子・詳細はほとんどすべてわかりません。医学辞典と英和辞典を横に置いて、ちょいちょい調べながら読みました。

 が、そんな読み方でもめちゃくちゃおもしろかったのは、対話の目的が〈珍しい症例の報告会〉ではなく、〈病の状況をどのように読むか〉、つまり〈まずは対面で得た手がかりからどの検査を選択するか、次に検査結果からどんな事態を想像するか、そしてそれに対してどのような治療で臨むか〉を検討し合うことにあったからです。少なくともその部分は整体屋にも理解できて、おかげで、非常におもしろく、のめりこんで読みました。

 本筋の症例検討に加えて読みごたえがあったのは、所々で語られる〈現場の医師〉である著者の方々からの批判・提案です。
 この薬で良くなったためしを知らないとか、この検査でわかることはほとんどないと思うのによくされているといった正直で辛辣な〈医療現場あるある〉。また、検査の仕組みが整っていないのに「感染者を見つけたら報告しなさい」と言われる不条理。その土地土地で流行している感染症を踏まえて診察を組み立てることの重要性。……。

 どの話も興味深く読んでいましたが、とりわけ個人的に衝撃を受けたのは、がんと診断されながら実際は感染症だったらしい患者さんについての話です。
 医師である近藤誠さんが〈切らなくて良いタイプのがん〉を〈がんもどき〉と名付けておられますが、岡さんはその正体は感染症によるものでないかと言われます。
 とすると、もしかすると丸山ワクチンが治しているのもその状態なのかもしれない、と私は勝手に連想しました。ワクチンの開発者である医師・丸山千里さんはもともとは皮膚結核を治したくてワクチンを作り、ご本人も、なぜそれが一部の治療困難とされるがんを縮小させるのかがわからないと言っておられた、と何かで読みました。
 がんと診断されているものがそもそもがんではなくアクチノミセス(放線菌。ヒトの常在菌の一種)による感染症の症状(? 病巣?)だとするなら、結核菌目的に作られた丸山ワクチンは、がんでなくアクチノミセスに効いているのだ、と考えるほうが理屈として突飛じゃないかもしれません。

 丸山さんとそのワクチン、近藤さんのがんもどき。どちらの考え・治療法にも私は、私なりに説得力を感じていて、と同時に、だからこそ、私の腑に落ちる形での批判・否定的説明も聞いてみたいと思っていました。が、これまで見聞きしたことはありませんでした。
 それが、岡さんのお言葉を読んで、ハッとしました。外科医と感染症医では、そもそも見えている世界がぜんぜん違っていて、丸山さん・近藤さんの〈発見〉はその境界に踏み込んだものなのかもしれない……。

 全文が実におもしろい、学ぶことの多い本でしたが、岡さんのこの1行に出合えたことで、私には、より一層ありがたい本でした。この本はいずれまた再読するとして、岡さんのご本も探してみようと思います。


200821 「建築家の休日」水原徳言(『ブルーノ・タウトの工芸』所収)

 正方形に近いような形の、わりに薄い写真集のような本です。ブルーノ・タウトさんが何をされたかたかは知りませんでしたが、明らかに欧米(系)らしい〈ブルーノ・タウト〉というお名前と、写真ページの工芸品が実に〈日本的〉で美しく、しかし、〈欧米+和〉の取り合わせで私が感じることの多い〈日本趣味的な嫌味〉を珍しく感じなかったことに、ちょっとした驚きと興味を惹かれました。

 本書によると、タウトさんはドイツの建築家だそうです。集合住宅に名建築が多く、ドイツにおいて地位も名誉も確立しておられましたが、ナチス台頭に反発し、亡命同然で1933年に出国。アメリカへ渡る前の経由地のつもりで来日しますが、結局アメリカへは行けず、1936年に招かれてトルコに移られます。しかし、持病の喘息と過労により1938年にトルコで急逝。58歳でした。
 日本滞在中は、文化も生活水準も異なる中で住宅設計の依頼はほとんどなく、また、日独友好を進める時世においてドイツから逃げてきたタウトさんに日本国の援助が届くことはなく、民間の有力者があの手この手で支えよう・活躍の場を見つけようと尽力された。その努力のひとつが、本書で主に扱われる群馬県高崎での工芸指導・制作の成果、ということのようです。

 明記はされていないようですので間違っているかもしれませんが、2013年頃に、東京のLIXILギャラリーが、タウトさんのデザインした工芸品やデッサンなどを展示したことがあったようで、そのときの図録的な位置づけで本書は刊行された、ようです。



 で、記事タイトル「建築家の休日」ですが、これは〈タウトの唯一の弟子〉と形容される水原徳言(みはらよしゆき)さんが1975年、月刊誌「上州路」9月号に書かれたものの抜粋です。

 文章は、タウトさんが来日した当時の群馬県高崎の状況に始まって、生活習慣・生活水準の大きく異なる外国人にとっての日本の一地方での生活、技術やデザインを通しての交流、それを支えるための経済・財政の苦労、日独の名士それぞれの思惑のすれ違い、そして〈弟子〉として両者の間に立つことの緊張・負担、交際・学びの喜び……淡々と、努めて客観的な記述になるよう意を尽くして書かれています。

 この文章が、実に美しく深いのです。誰をも攻撃しない、高潔で懐深い文章でありながら、さらにまだその奥に、表現しない・しきれない思いが渦巻いているらしいことが感じ取れて、でもその中身までは覗かせない。まさに〈奥ゆかしい〉感じに満ち満ちていて、読み終えてすぐ、また頭から読み返してしまいました。これは、回顧録のひとつの完成されたお手本だと私は思います。
 水原さんご自身のご活躍は、タウトさん絡みの視点で書かれた短い略歴からはあまり読み取れないのですが、1冊、ご著書が図書館で借りられるようです。ぜひ、読んでみようと思います。



 『ブルーノ・タウトの工芸』 庄子晃子監修
 LIXIL出版 2013年


200827 『シュヴァルの理想宮』 ニルス・タヴェルニエ監督

 本じゃなくて、映画です。
 神戸新開地にあるパルシネマしんこうえん、という映画館に初めて行ってきました。パルシネマさんは、新作を取り上げる封切館でなく、厳選した旧作を二本立て・入れ替えナシで上映する、昭和生まれには懐かしくもお得な、ありがたい映画館、でした。映写室の見学(!)もさせていただけます。今回の同時上映は『母との約束』。パルシネマさんには、またときどき通うことになりそうです。

 で、『シュヴァルの理想宮』です。いい映画でした。なんとも美しく、優しい。
 シュヴァルさんは、フランスの田舎の郵便配達員です。時代は19世紀末。実在の人で、理想宮も実在しますが、物語そのものはかなり創作なのだと思います。パンフレットによると、映画の中の重要人物であるシュヴァルさんの2人目の奥さん(フィロメーヌさん)についてさえほとんど記録に残っていないそうですから、この映画の中の物語=実話、とはしないほうが良さそうです。
 それを踏まえた上でざっとストーリーを紹介しますと、1人目の奥さんを亡くされた郵便配達員のシュヴァルさんがフィロメーヌさんと出会い、再婚。娘を授かり、その娘さんのためにとびっきりの宮殿を作ろうと、33年の年月をかけて巨大で不思議な風合いの〈理想宮〉をたった1人で作り上げる。その営みと、シュヴァルさん本人と家族の変遷が描かれます。

 理想宮のことは、推理作家の有栖川有栖さんがご本の中で触れられていましたので、存在は知っていました。でもそれがどんなふうに映画になっているのだろう? その興味で、観たいと思いました。
 ですがこの映画は、理想宮が主役の映画ではありませんでした。理想宮の作り手の、成長・変化の物語。神田橋條治先生の言われる〈発達障害は発達する〉の、理想的な姿、と私には思えました。

 映画の中のシュヴァルさんは変人・偏屈として描かれます。人間関係が苦手で、寡黙で、感情表現が良い具合にうまくできない。診断名としての〈発達障害〉ではなく、杉山登志郎先生の言われる〈発達凸凹〉が目立つタイプ、と言えそうです。凸の部分は継続力・根気、凹の部分は感情表現。
 凸の部分は宮殿制作で大いに発揮され、凹の部分は、フィロメーヌさん、娘さん、1人目の奥さんとの間の息子さん、そのお孫さんたちとのかかわりを通してじんわりやわらいでいきます。〈凸凹がある〉感じそのものは88歳で亡くなるまで変化しない印象を受けますが、人柄の全体に深みが増して、大事なことは伝えよう・伝えたい、と変わっていく。そのありようが優しいのです。

 映像もまた、きれいです。光と影、色合いの感じが素敵だなあと思っていたら、タヴェルニエ監督は、画家のアンリ・ファンタン=ラトゥールを意識したと、パンフレットにあってびっくりしました。ファンタン=ラトゥールは20年以上前に新聞で1枚の絵に出合って以来、好きで、一時期は、私にも買えそうな画集はないものか探していたこともありました。まさかこんなところで・こんな形で〈再会〉するとは思いませんでした。
 役者もよく、映像もよく、物語の意図もよく、とても気持ちの良い映画でした。これが映画館で観れてよかったです。



 『シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢』 ニルス・タヴェルニエ監督
 フランス 2018年


200914 『国家を考えてみよう』 橋本治

 なんとも恐ろしい本を読んでしまったので記録しておきます。

 著者の橋本治さんは、イラストレーターとしてデビューしてから、小説、評論、戯曲、古典の現代語訳、エッセイ、芝居の演出など実に多彩な仕事をされたかたです。
 語り口が独特で、それはたぶん、このかたの考え方が〈理屈を一つずつたどって文章で考える〉ではなく、〈図的・絵的に把握した全体を改めて文章で説明する〉方式を採るからではないかと思います。読んでいると、話題がぱっぱと飛躍するようでいて、全部を読み終わると「ああ、結局こういうことが伝えたかったのか……」がなんとなくわかる。しかもわかったときには〈文章〉式より立体的にイメージが掴める。そんな読書体験が得られるように私は思います。上質の技術書を読んだときと同じ感じです。

 で、そんな本ですので要約するのは難しいのですが、おそらく、論の取っ掛かりは本書の最後で取り上げられる、2012年発表の自民党の憲法改正案に対する深刻な危機感だと思います。この改正のどこが問題なのか、なぜ自分は問題と感じるのか。それを著者が丁寧に論じた本、と私は理解しました。

 本の書き出しは、〈国〉〈国家〉についてです。歴史的にも地域的にも〈国〉〈国家〉にはいろいろな意味があって、名前は同じでも意味・内容は同じではない。たとえば、近代以前の〈国家〉はある領域の〈領土〉を指し、近代以降はある領域に住む〈国民〉を指す。そんな話を皮切りに、土地と所有権と支配者と住民の、複雑多様な関係がわーっと語られていきます。

 ここまでで私の印象に残ったのは、江戸時代の〈藩〉と〈国〉の違いです。征夷大将軍や各大名が主従関係を結んでいるのは武士の階級とであって、百姓・町人階級は単なる〈支配地に住む人〉。だから百姓・町人は、支配の影響は受けるけれども、将軍・大名に忠義を誓う必要はない。大名が〈転勤〉して別の場所に移る場合、武士階級は付いていくけれど百姓・町人は移らない。その土地に住み続ける。だから〈国〉は百姓・町人において重要な行政区分・地名であり、武士階級には〈藩〉が大事になる。江戸時代の将軍・大名は、領土内の百姓・町人を支配してはいても、忠義までは求めていなかった、というのは興味深いことです。


 本の内容は、それから明治の話になって、新設された〈政府〉と福沢諭吉の『学問のすゝめ』。天皇主権と仰ぎながら、政府・軍の自由な暴走を可能にする大日本帝国憲法の危うさが語られ、主権とは何か、民主主義とは何か、という展開を経て、執筆当時の地方自治のめちゃくちゃぶり(例のひとつは、明らかに、わが大阪のことでしょうね……)、自民党の改憲草案への警鐘、と続きます。


 自民党が改憲案を出したとニュースになったとき、私は、その草案の中身も読まずに「改憲して何がしたいんだろう?」とそれが不思議でした。戦争がしたいのだろうという意見は新聞かテレビで見ましたが、「どこと?」「何を大義に?」を考えるとあまりピンと来ない。
 最近になって新聞記事で目にしたのは、改憲はアメリカの圧力によるもの、という説ですが、真偽のほどはわかりません。その同じ記事で、近頃はその必要がなくなったから改憲熱は冷めている、と読んだように記憶しますが、心底、そうあってほしいと願います。
 私が本書を読んで怖くなったのは、ひょっとすると、具体的な政策・方針を思って〈〇〇がしたいから改憲〉を訴えるのではなく、もっとただただ漠然と、〈国民の意見をいちいち問うのが面倒だから改憲〉なのかもしれない、と思ってしまったからです。ごちゃごちゃ言わんと、オレたちの好きにさせろよなーっ、で、改憲。これは怖い。

 読んでいるときは、本書180ページから200ページまでの最後の論説がとにかく衝撃でした。が、最後まで読み終わってから思い返すと、180ページまでの記述が改めて重みを増してきました。近々、再読します。



 『国家を考えてみよう』 橋本治
 ちくまプリマ―新書 2016年


201014 発達関係の本2冊

 必要があって、発達障害関連の本を立て続けに何冊か読んでいるのですが、実用性が高そうだと私に思えた本を2冊、記録しておきます。

 まず1冊目は小林みやびさんの『発達障害の子を育てる58のヒント』です。
 とにかくこの本は具体的! 著者の子育て経験をもとに書かれた本ですが、我が子に対してとにかく親身。なのに情だけに流され過ぎることなく〈技術書〉としてもちゃんと成立していて、試行錯誤の仕方、状況改善のための観察・研究の仕方がこれでもかと惜しみなく紹介されます。必死で、本気で頑張ってこられたことが一目瞭然!の本です。
 その人間力のおかげでしょう、読んでいて明るい気分になれます。なるほど、こうしてみればいいんだな、ちょっとずつでも試してみよう。行動へ向かう勇気が湧いてきます。まさしくヒントがもらえる本、だと思います。

 1か所だけ気になったのは、19ページの公園デビューが話題のところ。お散歩で連れてこられる保育園児の集団に我が子を紛れ込ませることを勧めている部分がありますが、これはナシだと思います。預かった子に責任を持つ保育士さんに対して、これはあまりに殺生です。ここだけは読んでいて引っ掛かりました。著者も筆が滑られたのでしょうか。
 続編(『発達障害の子どもと上手に生き抜く74のヒント』)も続けて読みましたが、『58』の方向性が合うかたにはお薦めです。やっぱり勇気がもらえます。


 もう1冊は、『改訂新版 子どもの発達が気になるときに読む心理検査入門』。安住ゆう子さんが編著者です。

 心理検査入門。ですが検査の中身は載っていません。って、考えてみればそれは当然のことで、検査紙自体に著作権があるでしょうし、そもそも、問題が堂々と公開されているようでは検査になりません。
 なのでそこは期待外れ、というか私の期待の仕方が間違っていましたが、おかげで、第3章の事例紹介と第4章の工夫のあれこれが読めました。

 第3章の事例紹介では、下は3歳から上は中学1年生まで、12人の子どもさんが心理検査を受け、その結果をもとに対応方法が工夫されたことが書かれています。『58』は1人の子どもさん、『心理検査入門』は12人。併せて読むと、状況理解と工夫の仕方の幅・奥行きがぐっと広がる気がします。
 第4章は、対応方法のヒントにもなる〈お手伝いを使ったトレーニング〉の紹介です。子どもの状態によってはかなり難易度が高そうに思えるものまで含まれていますので、全部試す・試そうとしてはダメでしょうが、読者それぞれが改変したり試行錯誤したりするための叩き台に使えそうです。

 きっと誰だって、わからないことがわかるようになれば嬉しいし、できなかったことができるようになれば嬉しい。じゃあそのためには何をどう工夫すればいい?のヒントになってくれる2冊(3冊)だと思います。



 『発達障害の子を育てる58のヒント』 小林みやび
 学研 2014年
 『発達障害の子どもと上手に生き抜く74のヒント』 小林みやび
 学研 2018年

 『改訂新版 子どもの発達が気になるときに読む心理検査入門 特性にあわせた支援のために』
 安住ゆう子編著 合同出版 2019年


201216 『江戸幕府の感染症対策』 安藤優一郎

 江戸時代に流行した感染症と、幕府のそれへの対応がコンパクトにまとめられた本でした。

 江戸時代に大流行した感染症として名前が挙げられているのは疱瘡(ほうそう。天然痘)、麻疹(はしか)、風邪(インフルエンザ)、そしてコレラです。
 疱瘡は江戸時代に何度も流行、とくに人口密集の江戸では毎年のように流行。麻疹は20〜30年ごとに流行。インフルエンザとコレラは外来の感染症で、インフルエンザはオランダか中国のが長崎に来て流行開始。コレラは、もともとインドの風土病だったのがヨーロッパのインド進出によりパンデミック(地球規模の大流行)、やがて日本にも上陸、という経緯をたどったようです。
 そしてそれとは別に、当時「御役三病(おやくさんびょう)」として恐れられていた三大感染症があったそうで、その三病とは疱瘡、麻疹、水疱瘡。どれも一生に一度しか罹患しないけれど死亡率が非常に高いから、子どものときに重篤化させずに軽く済ませておこう、それが子どもの役目だよ、仕事だよ、という意味で「御役」だそうです。
 大流行したのは疱瘡、麻疹、風邪、コレラ。御役三病は疱瘡、麻疹、水疱瘡。じゃあ水疱瘡は大流行しなかったのか?が気になりますが、水疱瘡はヘルペスウイルス初感染時の症状だそうなので、一度罹った人は〈熱の花〉〈帯状疱疹〉で再発症(というか再燃? ヘルペスウイルスは症状が治まるだけで、感染はずーっとしている。神経に棲んでいる)することはあっても〈水疱瘡〉にはならない、ということでしょう。
 そして一度罹ったら二度と罹らない疱瘡が毎年流行するということは、意外に感染力が弱いか、天然痘ウイルス自体が温度・湿度変化に弱くて長期間生きられないかとかいった理由で、流行っても局所的だったのでしょう。麻疹は感染力が強くて辺り一帯が確実に感染するので、世代が入れ替わって〈まだ罹っていない人〉が増えるまで再流行はしない=感染周期が長い、ということだそうです。

 本書によると、当時の感染症対策は、ほぼ外出自粛と神頼み(疫病の神様を追い払う貼り紙を戸口に貼る、とか)のみで、盛り場や人の集まる場所(銭湯とか髪結い床とか)の経済的打撃はすさまじかったようです。だから幕府が行なった(というか行ないえた)基本の政策は経済援助で、お金を配ったりお米を配ったり、その対象を〈その日暮らしの人〉に限ったり〈当人が病人〉〈家族が病人〉も含めたり、手続きを厳しくしたり緩和したり、あれやこれや、そのときどきで変わるけれど相当力を入れています。
 援助内容がときどきで変わるのは、その時までに積み立てられていたお金・お米の量がまちまちだったり、前回の手続きでは届けたい相手に届けられないから方法を変えてみたり、良い意味の努力・試行錯誤の結果、だったようです。
 なんせ江戸時代は、数年ごと〜毎年のように感染症の大流行があって、飢饉があって、江戸も末期になるとペリーが来たり長州が来たり、と、とてつもなく忙しい。上様のご苦労に、読んでいて痛ましいほどです……。

 経済援助の柱になったのは町会所(まちかいしょ)の備蓄で、財源は主に地主から徴収した積み金。そしてそれとは別に、豪商からの寄付・施行もあって、出す方はしぶしぶだったようですが、助けられた人は多かったでしょう。なんせ江戸50万人の人口のうち、〈その日暮らし率〉は半分以上だったそうなので、ものすごい貧富の差です。助けてもらわなければ、あっという間に江戸の町は足元から崩れます。

 本書では他に薬の話が興味深く、一方、後半は江戸末期の政治のごたごたが忙しくなりすぎてじっくり感染症対策するどころでなくなるのが残念なのですが、しみじみ思うのはこの時代、まだウイルスどころか細菌も発見されていません。「なんだかわからんけど人から移る、らしい」でパニックを起こしつつ対処を重ねている。
 それに引き換え、現代の日本は、細菌もウイルスもDNA・RNAまでもわかっているのに、外出自粛しか叫ばれないのはなんでなのでしょう……。原因がウイルスとわかっていて感染経路がわかっていて、それでもヒト全体の動きを制限せなならん意味が私にはわかりません。
 飛沫感染、ってお上品な言いようがまずいのかしら。アンタのツバや、アンタのツバにウイルスが居るねん、だから喋るんやったらマスクしといて、とか早々に言いまくっていたら、もうちょっとイメージしやすかったかも。学生時代、私が最初に「飛沫」と聞いたとき、「飛沫って具体的に何ですか? え、唾液? じゃあなんであっさり唾液、ツバって言わんのですか?」と先生相手に噛みついた記憶があるもんな……。



 『江戸幕府の感染症対策 なぜ「都市崩壊」を免れたのか』 安藤優一郎
 集英社新書 2020年


210111 「婦人公論」11/24号の、坂口恭平さんと斎藤環さんの対談を読んで

 お客さんに教えていただいて、雑誌「婦人公論」2020年の11月24日号に掲載された斎藤環さんと坂口恭平さんの対談を読みました。斎藤さんは著名な精神科医で、坂口さんは多才な人。畑とかゼロ円ハウスとか様々な試み・活動をされているかたです。このときの対談では、〈「いのちの電話」的な活動を坂口さんが一人でする〉という偉業「いのっちの電話」が話題の中心でした。
 ご自分の携帯電話番号を公表し、追い詰められた人からの電話に応答する、応答できなかったときは折り返し電話する、それが「いのっちの電話」です。

 お客さんが私にこの対談のことを教えてくださったのは、坂口さんが神田橋先生の患者さんだった時期があったからで、神田橋先生つながり(?)で、読んでみてくださいと言われたのでした。
 で、読みました。坂口さんのご発言・ご活動にはただただ頭が下がる思いでしたが、対談相手である斎藤さんのご発言には不満が残りました。それは、坂口さんが「神田橋先生にお会いして、よくなった」と発言したことへの応答部分です。
 雑誌が手元にありませんので正確な引用はできませんが、坂口さんが、〈神田橋先生から双極性障害とのつきあい方を教わったことで肩の力が抜けた〉みたいな話をされると、それに対して斎藤さんは〈坂口さんは立ち直ってすごい。双極性障害はなかなか治るものではないのに〉的な応答をされる。これが私には引っかかるのです。なんで、〈基本、治りません〉のスタンスで応答するかなあ……!?

 お医者さんにだって腕の良し悪しはあるし、〈治る〉という状態をどうイメージしているかもさまざまですから、何をもって〈治った〉とするか、自分はどの程度〈治せる〉〈治せると思っている〉のか、その内容もさまざまになります(これは「治」の字を「直」に替えれば、整体屋も同じ話です)
 だから、斎藤さんが双極性障害をどう考えておられるかについては問いません。でもこの対談の文脈で、〈ふつう治らないのに、治った坂口さんはすごい〉的な特別視は要らんでしょう、と思うのです。

 とりあえず、もし私がこの対談をまとめるならどうするかしらと考えて、私なら文末に参考文献を載せたいな、と思いました。なので、ここに載せておきます。
 まずは、大好きな講演録「双極性障害の診断と治療」が収められた『私の臨床精神医学 ―九大精神科講演録』(神庭重信編著、創元社、2014)。それとやっぱり、『神田橋條治の精神科診察室』(IAP出版、2018)。『私の〜』はもう一本の発達障害の講演録も素敵だし、山上さん、池田さん他、読み応えのある講演録がいくつも併せて読めるのでお得。一方の『診察室』は神田橋先生の診断体系が概観できてお得です。

 双極性障害は、斎藤さんの考える形では〈治らない〉ものなのかもしれません。ですが、揺れ動く気分の波とうまく付き合って気楽にやっていく道はあるよ、と示すことは現実的な希望であると思うし、雑誌の趣旨にも合うものだと思う。なんでそういう方向で仕立てなかったのでしょうね。不思議です。


210114 『新型コロナ 7つの謎』 宮坂昌之

 良い本でした! 実にわかりやすく、抑えた・科学的な語り口で、新型コロナと免疫のはたらきについての事実と状況を説明してくれる本でした。
 著者の宮坂さんは免疫学者だそうですが、私が勉強させていただいている(といってもときどきツイッターを拝読するだけですが)宮沢孝幸さんは獣医学者です。医療現場のことは現場のかたに聞かなきゃわかりませんが、ウイルス本体とか免疫のことは、私はいわゆる〈お医者さん〉じゃない方々から学んでいる格好です(学生時代の先生は内科のお医者さんでしたが)

 ただ、私がこれまで勉強してきた限りでは、説明してもらうのも理解するのも、やたらめったら難しいのが免疫のしくみです。〈登場人物〉がやたらに多いし、それぞれがまたやたら複雑に動く……。
 超入門と入門のレベルをざっと学んで、登場人物とその動きみたいのを大まかにつかんで、それからようやく、「で、何のお話でしたっけ?」聞く姿勢ができる、みたいな分野です、私にとっての免疫は。
 整体屋の仕事を始める前、たとえば高校時代の私にこの本を渡しても、きっとついていくのは難しい。でもとっても大切なことが書いてあるから読ませたい。うーん……と思ってネットを検索すると、良い記事と動画を見つけました。著者自らが本書をコンパクトに解説くださった記事と、日本剣道連盟の関係者に、いまなぜ対人稽古を禁止するのかを説明された動画です。記事は、いちばん最後のまとめ部分が重要です。外出禁止・移動禁止は一言も書かれていません。ここだけでも、高校生の私にはぜひ読ませたい。

 本の内容に戻ると、私がいちばん衝撃だったのは無症状の人が多い理由、でした。
 ふつう、ウイルスは身体に入ると、一つの細胞の中へと侵入します。侵入された細胞は、ウイルスに内部を荒らされつつも、「当細胞、ウイルスに感染中! 要警戒!」の看板を上げて、周囲の細胞に警鐘を鳴らしつつ、警備隊である白血球を呼び集めようとします。そしてこのときに生じる身体の緊急事態な状態に生じるのが、いわゆる〈風邪の諸症状〉です。
 ところが新型コロナウイルスは、侵入した細胞に〈看板を出させなくする〉はたらきを持つそうなのです。侵入された細胞はじっとひっそり黙っているしかなくて、あるとき突然、分裂・増殖した新型コロナウイルスが大量に飛び出てくる。で、周囲の細胞へと感染が広がっていく……。

 無症状のまま感染を周囲に広げてしまう、というのは感染者の細胞でも、感染した個々人でも起こっていることで、それがなんとも不気味です。
 そして問題がないから症状が軽いわけでなく、看板を出させないから症状が出せないだけ、というのも恐ろしい。多くの人が実際に軽症で済んではいるわけだけれど、「若者は軽症で済むから」みたいな言葉の裏で起こっていることを想像すると、むしろ余計に悪いようにも思えてきます。

 本では他にも抗体の種類や集団免疫、サイトカインストーム、ワクチン開発など、テレビや新聞で小耳にはさんだ言葉・仮説が説明・解説されています。
 エピローグにはマスコミ関係者の不勉強が指摘されていて、これには心底、同感です。料理をしたことのない人がしたり顔でする料理解説が聞くに堪えないのと同様に、医学のかけらを勉強してきたに過ぎない私が聞いても呆れるような意見・思い付きが堂々と主張されています。テレビ慣れしている人は、説得力ある風にしゃべることには長けているから、なお質が悪い。

 個人的な意見で言うと、今回の緊急事態宣言は私は必要なかったと思うし、宣言なんてしなくても、クリスマス前後と年末年始前後の、それぞれ2週間後くらいのタイミングに感染拡大のピークが来て、自然に急落するだろうと予想しています。小池さんに要請されるまでの菅さんの動きは、新型コロナに関する限りいちばんまっとうだったように思いますし、あれだけあれこれ言われながら、よく耐えてくださったなあと個人的にはありがたく思っています。
 私の期待通り、今週末頃にはがたっと感染者数が激減して、さっさと宣言解除に動いてほしいと切に願います。



 『新型コロナ 7つの謎 ―最新免疫学からわかった病原体の正体』 宮坂昌之
 講談社ブルーバックス 2020年


210319 『日本林業はよみがえる』 梶山恵司

 『日本林業はよみがえる』 梶山恵司
 日本経済新聞出版社 2011年



 2011年1月に出版された本です。そのわずか2か月後に、東日本大震災発生。
 最初に私がこの本を読みかけたのは2018年で、途中で一度、読むのを中断しています。たぶん私のことですから〈図書館の返却期限がきたから〉とかそういう理由で中断したのだと思いますが、今回、あらためて最初から読み直してみて、中断の理由はそれだけじゃなかったのかも、と思いました。なんというか、めちゃくちゃおもしろいにも関わらず、読み進めるのがかなりしんどかったのです。

 内容は、実に現実的で説得力に富んでいます。
 林業は、〈公共事業とか補助金に支えられることでなんとかやっていけるようなお荷物〉ではなく、きちんとしたシステムを構築しさえすれば利益を生み出すものだ、立派な産業なのだ、ということが丁寧に理路整然と、公平・簡潔な文章で説かれます。引き合いに出されるのはヨーロッパ、とくにドイツ・オーストリア・フィンランドで、地形や気候条件の共通点・相違点、産業化の在り方、政策の在り方、機械の選び方・使い方など大小さまざまな視点で比較・検討がなされます。

 ヨーロッパでも山林の所有者は細分化されていて、またその所有者自らが林業をしているケースは少ないから、森林組合的な団体がその所有者から経営を預かり、長期的な視点で森林を整備・運営し、経営を成立させている。
 そのために必要なのが森林についての専門知識・専門技術、施業についてのデータ化と記録、経営技術で、また、良き経営のための仕組みとして、〈運営主体〉と〈現場での作業主体〉を分けること、木材の販売ルートを確保すること、などが挙げられます。
 ヨーロッパでこういったシステム構築が進められたのは1960年代からだそうで、それほど昔じゃありません。ただそこから、着実に知見・工夫を積み重ねているのでしょう。


 とにかく、すごく勉強になるのです。現実にすることはないにせよ、なんだかとっても私も林業がしたくなるし、また、著者の分析的な記述を読んでいると、工夫・改善の余地が多いことも、実際の森林作業や人材育成など大急ぎで手を付けていかなきゃならないことがたくさんあるのもよくわかる。問題提起のされ方が、現実的で前向きなのです。
 なのに読んでいてしんどいのは、きっとこれと同じ状態が日本のあちこちの分野においても起こっているのだろうな、と想像してしまうからです。公共事業と補助金頼みの仕組み、記録を取らない、データ化していない、だから長期的な政策・計画が立案・実行できない、人材育成・後継者づくりがうまくいっていない、……。こういったことが、教育、空き家問題、水道や橋といった公共設備の保守・管理、少子化、そして災害後の再建(いわゆる〈復興事業〉。この言葉に嘘くささを感じるのは私だけ?)、……広い分野にわたって、〈さっさとすれば良いこと〉〈さっさとしなきゃならんこと〉が山積していて、でも現場の人たちだけでは解決しにくい部分もあって、政治とうまく噛み合わないと回らない・回せない、みたいな事情のために、じりじり停滞しているのじゃないかな……と思えてしまうのです。

 先代首相が首相の地位にあったとき、与党内部の人が「この人の後を継げる人はいませんから!」とにこやかに断言しているのをテレビで見て、ほんまかな〜…と思っていました。ところがそれについて、「何一つ仕事をせずに問題を放置しまくった長期政権の、その後始末をつけるのは誰にとっても大変だから、誰も次の総理をやりたがらないのでしょう」とどなたかが言っておられるのを聞いて、驚きました。〈後継ぎはいない〉にはそういう種類の〈いない〉もあるのか! 物は言いよう、そして聞きよう。この解釈の内容がホントかどうかは知りませんが、解釈の仕方として興味深く感じました。
 でもこの本を読んでいると、少なくとも林業に関しては、放置しまくっていたのは10年やそこらじゃないのだろう、と思えます。本書の最後には、〈適切な間伐や人材育成、林業再生に残された時間はあと5年程度だろう〉というような記述がありますが、そう書かれた当時からでさえ、もう10年が経っているのです……。

 ちなみに著者は、いまはなき民主党政権下で国家戦略室に招かれて、森林・林業再生プランを立ち上げたお一人、だそうです。そのプランは、いまはどうなっているのでしょう。
 今後、コロナに関連してニューディール政策的公共事業・人材活用をするようなことがあるのなら、ぜひ林業も進めてほしい!と、本書を読んで思いました。


210521 『流言蜚語』 清水幾太郎

 『メディア論の名著30』 (佐藤卓己、ちくま新書、2020)という本で紹介されていて、読みました。流言蜚語 (りゅうげんひご)は口コミとかデマ、広く取れば都市伝説も含みそうな、広い意味での一種の報道形態を指す言葉で、本書では、その流言蜚語の特徴とか意義などが社会心理学的に考察されます。
 私が読んだちくま学芸文庫版は東日本大震災を思って再編集された本のようで、第一部が「流言蜚語」という二部構成の論文で、第二部の「大震災は私を変えた」は2篇の中論文と2篇の小論文から成ります。ちなみに本書でいう大震災は2011年の東日本大震災でなく1923年の関東大震災です。1907年生まれの清水さんは、関東大震災の、とくに被害の大きかった地域での被災者です。


 読み始めてすぐ気づくのは、ものすっごく文章の巧い人だ!ということです。一文が相当長い文章でも内容がこんがらがらないし、ちょっと図が欲しくなりそうな入り組んだ論述が続いてもあれ? あれ?とならない。すごいなあ……と感激していたら、むかし読んだ名著『論文の書き方』の著者でした(!)。……うーん、さすが。説得力はありつつ煽動的でない、めちゃくちゃ論理的な日本語、の見事なお手本だと思います。


 第一部の「流言蜚語」は、立ち位置が前半では〈上から目線〉、後半では〈下から目線〉みたいな作りになっています。まず〈上から目線〉の前半では、危機的状況に陥ると人は必死で情報を求めるものだから、流言蜚語による混乱を防ぎたいなら早急に事実を公表すべきだ。それも断片的な事実でなく、因果関係のわかる、というか一連の経緯が聞く者に納得できる形で、事実の流れのまとまりとして公表するべきだ、と、公正で正直な情報公開のススメが、流言蜚語への対処方法として語られます。一方、〈下から目線〉の後半では、権力の抑圧に逆らって何事かを主張したいなら流言蜚語は使えるぞ、みたいな秘かな入れ知恵ふうの語りになります。
 そして第二部「大震災は私を変えた」では若き日の被災体験とその衝撃、今後の防災への提案が語られます。体験の内容はここには書きませんが、すさまじく、痛ましい。防災の提案として挙げられた〈まず橋を直すべし〉は私もまったく同感です。

 第一部の〈上から目線〉〈下から目線〉ふうの対照的な論述を読んだ私は、視野の広い人だなあという思いと、おもしろい作り方だなという興味を感じました。が、読後、調べてみると(といってもウィキペディアを読んだだけですが)そんな単純な話ではなかったようです。清水さんは戦前・戦中・戦後を通してジャーナリズムに携わっておられたのですが、その間の主張について転向したとかしないとか毀誉褒貶があるようなのです。ですが、「流言蜚語」が書かれたのは1923年、まだ第二次大戦前です。この時期からこのような二重視点みたいな書き方をされていたということは、その時々の時流に強制されて書き方を変えたのでなく、ずーっと一貫して〈本当の主張は表立っては書かない〉を通してこられた可能性が高いと私は想像します。おそらくは、尊敬していた大杉栄が軍人に殺された事実を知って以降、自説をあからさまに公開してはならない、という切実な恐怖心からくる警戒を自分に課されたのでしょう。
 計算と覚悟の上で〈二枚舌的論述〉を使い、説得力ある論理的な文章を書き続けるなんて、卓越した文章力がなくてはできないことです。時代を追って、清水さんの著作集を読んでみたくなりました。



 『流言蜚語』 清水幾太郎(いくたろう)
 ちくま学芸文庫 2011年


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