のぞみ整体院
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本の感想 5

190322 『日本語を動的にとらえる』 小松英雄

 日本列島にあちこちから人が移り住んできて、その人たちが情報伝達をしあう必要から〈原日本語〉が作られ、さらには、そこでやり取りされた情報を記録する必要から書き言葉が作られた。ではその〈原日本語〉とはどのようなもので、それが社会の変化とともにどのように変化してきたのか。残された書き文字の資料から、どのようなことが推測できるのか。
 内容としては、日本語の特性、ラ行の扱い、濁音と清音、音便、係り結び、と、具体的な題材がわかりやすい言葉で説明されています(ただし言葉はわかりやすいですが内容は専門的なので、私の理解が追いつかない部分もありました)。そして、その全体を通して一貫しているのは「日本語学をもっとちゃんとしようよ!」という切迫感であり、また、ちゃんと日本語学を学問するための〈正しい研究の仕方〉を伝え残したいという、著者の切実な思いなのだと理解しました。

 具体的な内容で私がもっとも感動したのは係り結びの役割について書かれたX章です。これはもう、高校生のときに読んでいたかった! 専門知識のない私が読んでも目からうろこの説得力で、いまからでもX章だけでも教科書に載せてほしい。「係り結びの意味は強調です」と説明されて「ふーん」とだけ思っていた学生時代の私に、「違うねんって、もっとおもしろい意味があるねんって!」と教えてあげたい。きっと大喜びで食いつきます。

 それ以外にも、言語の基本が口語であることを重視した視点(聞き取りやすさ、発音しやすさが大事になる)や、そもそもの書き言葉は筆で書かれていたこと(墨継ぎや続け書きの切り方で文の切れ目が表せる。これは活字にはない特質)、五七調の持つ意味(漢字の当て字でだらだら書くと意味が読み取れないけれど、五、七で調子が切れる決まりになっていると文が読める)など、指摘されれば当たり前に思えることが、国語学の主流の解釈には反映されていないそうで、「え、そうなの?」と思えることがたくさんありました。

 本書を読み出してすぐ、著者は30代くらいの新進気鋭の学者さんかしらと想像しました。が、ハズレもハズレで、1929年生まれの、出版当時85歳の大先生でした。若々しく軽やかな文章に新進気鋭を感じましたが、おそらくは、〈異端〉の位置にあられる(もちろんホメ言葉です)学者の探究心に若さを感じたのでしょう。
 そしておそらくはその探究心が、日本語学の在り方に警鐘を鳴らさせる動機でもあるのだろうと勝手に想像しました。

 先行研究の雑さに向けられる鋭い批判と、批判の根拠を丁寧に提示する姿勢は、〈自分なりの考えを持つ人・持とうとする人〉には不可欠のありようで、教わることが多かったです。
 十数年前、私の組み上げた身体観・施術技法をある先生に話したところ、「学会で発表して批判を仰ぎなさい」と強く勧めてくださったことを、ほろ苦く、なつかしく思い出しました。結局私は学会発表の道は選ばず、本を書こうと決めたのですが、本書を読んで、あらためてあの先生の批判を仰いでみたい気分になりました。



 『日本語を動的にとらえる ―ことばは使い手が進化させる』 小松英雄
 笠間書院 2014年


190417 『90年代のこと』と『江戸の災害史』

 『90年代のこと』は、美しい装丁の小さな本です。著者のお名前に見覚えがあって、でもどこで見たのかは覚えていなくて、読んでみたいと思いました。
 著者の堀部篤史さんは、京都の有名書店〈恵文社一乗寺店〉の店長さんだったかた、とのこと。ああ、それで見覚えがあったのか、と納得しました。

 副題は「僕の修業時代」。内容は、題と副題にあるとおり、90年代に青春時代を過ごした堀部さんが、本屋さんとして、人間として、どのように自分の価値観を作り上げてきたかを振り返る、というものです。
 淡々と書かれた短いエッセイが12編。著者と同世代の私には、わざわざ振り返るほどの昔ではなく、でも環境の変化として考えると、確かに隔世の感があるかもな、な昔かもしれない90年代なのでした。

 嫌味のない、あっさり書いたようでいて丁寧な、実に魅力的な文章なので、するする読めます。
 本屋の現場の人間が書いた本、という意味で印象的だったのは、巻末のあとがき的短章「一九九六年、本屋は僕の学校だった」の中の、「POSレジを介して売上データを提供することで、その情報は取次店や出版社に共有される」のくだりです。
 ネット上の検索データや、クレジットカード・ポイントカードの購入履歴を通して、利用者は個人データを企業に売り渡しているのだという〈警告〉は、近年よく耳にしますが、〈POSシステムの導入前・導入後を現場で知る書店員〉の堀部さんは、2000年頃にはもう、その不愉快を肌で感じておられたとのこと。おそらく、その頃の私はまだ、一買い物客として「最近のレジはどこもバーコードになったなあ」と思っていただけだったろうに。

 堀部さんは、現在は恵文社一乗寺店を退職されて、河原町丸太町の路地裏で〈誠光社〉という書店をされているそうです。今度、行ってみます。


 『江戸の災害史』は、新書です。副題は「徳川日本の経験に学ぶ」。内容は、これまた題・副題のとおりで、江戸時代の災害と、その災害に幕府・藩・地域社会・個人はどう対応したか、が書かれています。

 日本は災害列島だから、の言い回しは新聞・テレビその他で耳にしますし、私自身も知った顔で言った記憶があります。が、まさか、ここまでだったとは……。
 大きな災害が起こるたびにくるくる元号が変えられて、しかも私が和暦・西暦に係わらず数字が覚えられない質なので、正確な頻度は把握できませんでしたが、もー……これでもかこれでもかと災害が起こる。地震、山崩れ、津波、大火事、噴火、飢饉、……。日本全国あちこちで。複合的に。
 徳川幕府は薩長とペリーその他の外国勢力に滅ぼされたのだと思っていましたが、実質は災害にやられたのだなあ、と、気の遠くなる思いで読みました。

 しかしそれでも260年も徳川の治世が続きえたのは、やはりそれなりの政治力・判断力があったから、なのだろうと想像しました。初期の〈公儀〉としてのはたらきや、後年の〈一揆・打ちこわし⇒領主・富裕層からの救済を引き出す〉を政治のシステムとして組み込んでしまう方策など、なし崩しといえばなし崩し、柔軟といえばいえる姿勢がフランス革命的大革命を回避させたとも言えそうで、興味深いです。

 災害が頻発するタイミングがもう少し早くて戦国時代の真っ最中か、あるいは徳川幕府が安定するのがもう少し遅くて初期の求心力がなかったら、災害への対応はもっとごたごたして早期から悲惨だったかも、と考えると恐ろしい。集中するときは数年ごとにマグニチュード6〜7クラスの地震が頻発して、さらに作物は不作続き。地震の被害で数人から数百人、数千人の死者があって、さらに飢饉で数万人が亡くなる、田んぼは山崩れで土砂まみれ……。当時の暮らしは、総人口は、どうなっていたんだ、と怖くなります。

 江戸時代の災害状況を知ることで日本列島のありようを思い、徳川政治を知ることでいまの政治のありようを思う、深くて恐ろしい本でした。


 以上、90年代と江戸時代。〈歴史〉の本を読んで〈いま〉を考えてしまいました。



 『90年代のこと 僕の修業時代』 堀部篤史
 夏葉社 2018年
 『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』 倉地克直
 中公新書 2016年


190625 『私の漢字教室』 石井勲

 〈ストレッチをした翌日からその周囲に激痛が出ました〉というお客さんから、「ここ(ウチの店)に来る前に行った整形外科では過剰な検査をされた上に「手術が必要」と言われてびっくりしました」と聞いて、げんなりしました。
 げんなりして、他人様の身体を扱うお医者さんがそんなことでいいのかよとあれこれ考えていたら、ふと、国民皆保険の別のありようをかつて提案していた吉田富三さんのことを思い出しました。で、吉田さんの本が読みたいなあとなって図書館に。そこで福田恆存さんとの対談本(『福田恆存対談・座談集 第二巻』)を見つけ、手に取ると、「この本(『私の漢字教室』)を読んで感動した」と吉田さんが話しておられたので、では私も読んでみようと、ついでに借りてきました。
 と、実に思いがけない巡り合わせで出会った古い本ですが、これが、おもしろかったのです(まだ読了はしていませんが)。

 著者の主張は、小学校の最初から、〈漢字で書くのがふつうな言葉〉は漢字で教えるべきだ、です。〈学校〉を〈がっこう〉と教えて、〈学〉〈校〉を習った後で〈学校〉と表記させるのではなくて、ひらがなを習う同じときから〈学校〉と教えて読み慣らしていく。そうして、当たり前に読めるようになったところで焦らずに書きを教えていく。このとき、部首に相当する文字はなるべく早くに教えておく。たとえば〈読〉より先に〈言〉を教える。そして部首(〈言〉)の意味に関連させて、複数の文字(〈読〉〈話〉など)を同時に教える。ただし、全部をいっぺんに完璧に覚えさせようとはしない。教師は、習った文字に出会う機会を増やすような、そんな教材を準備する。……。

 本書は3部仕立てになっていて、「新方式による実験報告」「新しい教育方式の提案」「国語国字問題 私見」とあります。第一部の実験報告が私はおもしろくて、ふんふん頷きながらバーッと読んで、第二部に入って少々減速しました。で、いまはまだ第二部の途中なので続きがどうなるか・私が最後まで読むかどうかはわかりませんが、第一部だけで充分説得的で、おもしろい本でした。

 昨今の国語教育がどんなふうにされているのか、自分は小学校のときにどんなふうに習ったのだったか。
 しばらく前に読み直した佐伯智義『科学的な外国語学習法』で受けたのと同じ種類の感銘を、漢字教育の本でも受けました(ついでに言うと、佐伯さんの『日本人のためのフランス語』は名著だと思います!)
 以前から、語学の勉強方法の指南書にはおもしろいものが多いと思っていましたが、日本語の勉強方法にもおもしろいものがあることがわかり、いい発見でした。
 これを読み終えたら本来の興味に立ち返って、いっしょに借りてきた吉田さんの本に取りかかろうと思います(そもそもの本命より先にこちらを読み始めてしまいました…)




 『私の漢字教室』 石井勲
 黎明書房 1961年

 『科学的な外国語学習法』 佐伯智義
 講談社 1992年

 『日本人のためのフランス語』 佐伯智義
 大修館書店 1989年


190628 映画『ニューヨーク公共図書館』

 図書館好きとしては観ておかねばと思った映画でした。
 〈図書館を描いた映画らしい〉以外の予備知識はまったく持たずに上映予定を調べていて、いますぐ行けば夜の上映に間に合う!と飛び出しました。18時50分始まりの22時30分終わり。「上映時間に間に合うか?」と「帰りは遅くなるなあ」に気を取られて気づきませんでしたが、窓口で聞いてびっくり、3時間半の大作映画でした……。図書館映画で3時間半。

 飽き性の私がそんなに長い間おとなしく座っていられるだろうかと心配しましたが、居眠りすることもなく、おもしろく観られました。
 私が期待したのは、世界有数の大図書館の仕組み。そこで働く人々。利用者とのやり取り、動き。ところが映画で描かれていた主なテーマは半公半民の大図書館をどう運営するか。〈魅力を最大化して〉どれだけ運営資金を獲得するか。とてもとても大事だけれど、泥臭い部分でした。

 最大化すべき魅力の一つに、図書館が主催する有名人のセミナー・講演があって、芸術論や歴史などを語る場面が挿入されます。そして、テキパキ話される運営会議。分館での小規模な話し合い。
 どの場面もはきはき話し上手で圧倒されますが、ドーピング気味というか粉飾決算気味というか、ハイテンションな自己主張と自信付けの色合いが強い〈アメリカ話法〉にくたびれる私としては、より地味〜な場面なほうに圧倒的に惹かれました。

 返却されたのか予約の本か、膨大な量の本を1冊ずつベルトコンベヤーに乗せて、バーコードを読ませて機械的に振り分ける作業場面とか、資料のデジタル化のために写真を撮っては画面で確認、ちょっと位置をずらして撮り直し、とか、窓口で貸出カードの作り方を子どもに教える親切だけどそっけないほどあっさりした日常場面とか、点字資料の作り方講習と読み方講習とか、映画冒頭、電話で淡々とこなされる資料案内(レファレンス)の光景とか。
 こっちの作業のほうがおもしろいしずっと見ていたいんだけどなあと思いながら会議場面を見ていたら、熱く語る人のまわりで、ほとんど発言しない、どちらかというとしらっとした態度で会議に参加している人たちがいるのに気づきました。ひょっとするとこういう人たちが現場では淡々と地味な作業をこなして〈運営〉を支えていたりするのかもしれん……。

 この映画を見ながら思ったのは、世界各国の図書館映画を作ってほしい、見てみたい!ということです。どんな本が置かれているか。利用者とスタッフの関係は? 建物と空間の雰囲気はどんな感じ? ……
 ニューヨーク公共図書館本館は、映画で見るだけでも立派で素敵で居心地がとてもよさそうでした。蔵書の大半は英語でしょうから私にはさっぱり読めませんが、空間を訪れてみたい気分にはなりました。



 『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』 フレデリック・ワイズマン監督
 2017年 アメリカ


190916 『アイデンティティが人を殺す』 アミン・マアルーフ

 「異文化共生には寛容の精神が必要」という、少々〈標語〉的になった気味がある結論の、その方法というか実体を具体的に語ってくれるエッセイでした。

 始めは、いわゆるアイデンティティの話です。自分が帰属意識を持つ要素は複数あって、そのそれぞれの要素がコミュニティや国や世界の人々と共通であったり異なっていたりする。それがふつうであって、その意味で〈私〉は唯一無二だし、同時に世界の人々と多くの点で共通している。
 〈私〉は「キリスト教徒」なだけでなく、同時に「レバノン生まれ」で「アラビア語話者」で「フランス語話者」で「フランス在住」でもある。「私はキリスト教徒」だけなら「非キリスト教徒」の人と〈私〉に共通点はないことになるけれど、その人がフランス語を話せるなら「フランス語話者」の部分は共通している。「アラビア語話者」の部分では多くのイスラム教徒とも通じ合える。

 一方、〈近代〉が西洋で始まったことにより、西洋以外の世界が近代化を目指そうとするときには、必ず同時にいくらかの西洋化が生じる。その西洋化は自文化の破壊・変形と無縁ではないため、いい意味の普遍化と悪い意味の画一化が起こる。そしてそこに、人々は反発し、屈辱を覚える。
 しかし、この流れはとめられない。
 では、どうすれば良いか。
 そこで著者が提案するのが、3種(以上)の言語を使いこなせるようになること。1つめは自身のアイデンティティの言語としての母語。3つめは普遍語としての英語。そしてその中間に、2つめの言語として何かもう一つ。これは種類はなんでも良くて、英語を介さずにその言語の話者と直接つながるための言葉であればそれで良い。多種言語話者を目指すあるいは育てる努力を続けることこそが、画一化が引き起こす〈多様性に対する貧しさ〉から私たちを救い出す――と、そんなような内容でした。


 全文を通して、悲劇としか言いようのない話題も多く扱っているのに、文体が優しく穏やかで、読んでいる誰をも不快にさせないよう心を尽くして書かれているので、雰囲気はまるで〈孫の自分を相手に、おじいさんがしてくれる昔語り〉の趣きです。

 私にとっての本書は、斬新で画期的な主張・アイディアを探すための本ではなく、大きな枠組みの中での世界を知り、ちょっとだけ勇気づけられながら晴れ晴れと気を引き締める、そんな本でした。
 ときどき読み返そう、と思うと同時に、マアルーフさんの他の本も読んでみたくなりました。本書の提案に従うと、原文で読めるくらいフランス語を磨いて原書で読みなさい、ということになるのかもしれませんが……いまは訳書を探します(^^;)。



 『アイデンティティが人を殺す』 アミン・マアルーフ著 小野正嗣訳
 筑摩書房 2019年(原著は1998年)


191114 心理関係の本を2冊続けて読みました

 『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか』
  松本俊彦編 日本評論社 2019年
 ほか一冊



 図書館で予約していた本の順番待ちがたまたま重なって、『「助けて」が言えない』とあともう一冊、2004年にアメリカで出版された心理関係の専門書の訳書を続けて読む巡り合わせになりました。どちらの本にも、私の後にまだ予約待ちのかたがおられますのでちょっと気分は駆け足です。

 先に読んだのは『「助けて」が言えない』。こちらは雑誌の書籍化だそうで、確かに構成も〈雑誌〉です。各界の専門家が書いた短い記事が19本と、書籍特典(?)として鼎談が収録されています。記事の本数も雑誌時に比べて増えているそうですが、どれ