のぞみ整体院
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本の感想 4

170916 『生き心地の良い町』 岡檀

 数年前の毎日新聞書評で目にしてからずっと気になっていた本です。先日、ようやく読みました。いい本でした。なんともすてきな本でした。

 副題は、「この自殺率の低さには理由(わけ)がある」。
 一般的な調査が、自殺率の高い地域を選んで「なぜ高い?」を調べるものであるのに対して、岡さんは、自殺率の低い地域を選んで「なぜ低い?」を調べようとされます。
 この着眼点が、まず魅力的です。その結果、いわゆる犯人探し・悪者探しの逆を行く、いいとこ探し・おもしろいとこ探しの調査になります。

 調査対象に選ばれたのは、島を除いた町村のうちで最も自殺率が低いという(1973〜2002年までの平均値)、徳島県旧海部町です。
 自殺率の低さの理由の詳細は本書に譲りますが、この海部町が、これまたとても魅力的に描かれます。しかも楽園的・極楽的な、ふわふわヤワな魅力じゃなくて、どしっとその地に足が着いた・着けておくための、生活者としての工夫の魅力です。読んでいると、じつはこれこそが理想的な、目指すべき・維持すべき民主主義のあり方なのでは?と思えます。

 そして本書の内容は岡さんの博士論文が元になっているそうで、新米研究者として手探りで調査を進めるたどたどしさと、直感に従う、第一級の研究者としてのセンスのよさとが、みごとに混在しています。
 目の付け所は悪くないはず!と信じつつ、それをどう検証する? どう調査する? と、一歩ずつ調べ方を探っていく。その初心者らしい過程がきらきらしています。
 とくに素敵に思ったのが、地図会社へ協力をお願いするくだり(142ページ〜)です。著者の相談を受けた地図会社の社員さんたち3人が、著者にはわからない専門用語を織り交ぜて、ぼそぼそ相談しあう。そして、そのデータなら作れます、と回答して、実際に作ってくれる。この社員さんたちのカッコよいこと! プロはこうでなくっちゃ、と思う一方、岡さんのしたいことが明確で具体的だからこそ伝わるわけで、いい出会いだったろうなあ、とうれしくなります。

 いいとこ探し・おもしろいとこ探しの調査とはいえ、扱う題材は「自殺予防」です。「自殺」という行動や選択について、あるいは自殺者の遺族とのやりとりなど、デリケートな話題も出てきます。ですが、どの問題も、紋切り型の無難な書き方はされません。岡さんの経験や考えが反映された、迷い・揺れ・判断が率直に、しっかり言葉を選んで書かれています。そこに私は、誠実さを感じます。


 全体的に文章が平易ですのでかなりさらっと読めますが、読み終わると、センスのいい、公平・公正な人の書いた冒険譚をわくわくしながら読んだときの、すがすがしい、いい気分が残ります。
 また少し時間を置いて、読み直したいと思います。





 『生き心地の良い町 ――この自殺率の低さには理由(わけ)がある』
 岡 檀著 講談社 2013年


171110 ジャネ先生の転向?

 数日前に『マッド・トラベラーズ』(イアン・ハッキング著 岩波書店 2017)という本を読みました。
 マッド・トラベラーズとは、「歩きたい! ○○に行きたい! 行かねば!」という衝動にかられて実際に旅立ってしまう人たちのことです。すごいのは旅の手段が主に徒歩なことで、一日に数十キロの距離を往復したり、数ヶ月かけてヨーロッパの数カ国をまわったりと、相当な大移動をされます。
 この“病”は19世紀末の一時期に、フランスを中心に“流行”しましたが、その後、影をひそめます。こういった精神科系の“病”の流行とその終焉は、なにをきっかけに、またどういう背景によって起こるのか、あるいは起こらないのか。それを分析するのが本書の内容でした。

 内容(というか著者の主張)については少々わかりにくいところもあって、いずれ前書を読んでみようと思っているのですが、ここで取り上げたいのは、本書で知った、いたって私的な衝撃的事実です。


 ピエール・ジャネという人は、フランスの心理学者・精神科医で、「トラウマ」「PTSD」といった強い外傷体験にともなって起こるとされる「解離」という、心理状態というか防御的なはたらきを、ごく早期にとりあげた研究者・治療者として知られます。
 ですが『マッド・トラベラーズ』によると、ジャネが「解離」に注目していたのは初期の研究でのことで、ある時期からは「解離」概念自体を捨て去っていた(!)というのです。

 私は数年前にジャネを知って、惚れこんで、実質的なデビュー作が読みたくてフランス語を勉強しはじめました。が、もたもたしているうちにその本の訳書が出て、呆然として、でもなんとなくフランス語の勉強は(あんまり熱心でもないけど)続けていて、念願のデビュー作を(訳書と辞書をひたすら頼りに)ぼつぼつ読みはじめました。なのにそしたら今度は、後年には初期の考えを捨てていた、だなんて! 私、まだ半分も読めていないのに!

 私がジャネ先生を素敵に思うのは、観察と考察のセンスが抜群に良い!と思えるからです。ですから解離という概念を立てたのもセンスなら、捨て去ったのもセンス、なのかもしれません……。こうなったら、なぜ捨てたのかを知るために、なんとしても後期の本も読まねばなりません。
 もう〜……。どなたか訳書を出してくれないかなあ……(大泣)。


180209 「ジャネの心理療法」 アンリ・エランベルジェ

 施術中に、心理・精神科系の専門知識を「伝授」してくださるありがたいお客さんが(複数)おられまして、その中のお一人から奨められたのが「エランベルジェさんの『いろいろずきん』を『著作集』で読むこと」でした。「いろいろずきん」という物語には簡略化された絵本版もありまして、そちらは私も読んでいます。でもその方がおっしゃるには、著作集のほうがずっと深いよ、文章も長いし。
 それで、著作集版の「いろいろずきん」を読みました。絵本版とはたしかに全然ちがっていました。その感想は直接お客さんと話すことにして、ここでは、『エランベルジェ著作集2』の巻頭に収められた「ジャネの心理療法」について書きます。


 「ジャネの心理療法」は、ジャネ先生大好き!のエランベルジェさんが、ジャネ先生の弟子にして、これまたジャネ先生大好き!のシュヴァルツ医師の知見・技法をも補足しながら、ジャネの心理療法の要点をかんたんにまとめた短い論文です。

 ジャネの心理療法をまったく知らない人がこの論文を読んだとして、どの程度なるほどと思われるのかはわかりませんが、門外漢ながらジャネ先生の本を好きで読んできた私には、シンプルであざやかなまとめでした(そりゃあ、『無意識の発見』の著者ですから!)
 そしてそのなかに、しばらく前のブログで書いたひっかかりに関わりそうな記述がちょこっと出ていました。


 ジャネはある時期から「精神のはたらき」を「経済」にたとえるようになります。ごく大雑把に言うと、気力が充実した状態を「お金持ち」、疲れてふらふらになったら「蓄えが尽きた」、そんなようなイメージです。
 ある行動をして、それが完遂できてしかも満足な結末であったなら、それは「よい投資」をしたとみなされます。みんなでお祭りを企画して、へとへとにくたびれたけど愉しかった! この場合、疲労は報われて、さらにエネルギーを得ます。一方、ある行動が途中で中断したり、不満足な結末に終わると、それは「失敗した投資」であって、つぎ込んだエネルギー以上に疲労・消耗する、とします。

 そしてジャネによると、外傷性記憶は、「清算の済んでいない行為」のうちの一特殊例にすぎません。どんな事件、葛藤、病でも、どんな人生の一段階であっても、「それ固有の時間内に清算して収支を合わせるべきもので、それをやりそこなうと、病原性の未払い金が残ってしまい、心理力の消耗が起こる」と。
 『マッド・トラベラーズ』(イアン・ハッキング著 岩波書店 2017)は図書館に返してしまって手元になく、ノートも取らずに読んでしまったので記憶が曖昧ですが、私が「ジャネの転向?」と驚いたのは早とちりで、じつはジャネが強調したかったのは、「一特殊例にすぎない」外傷性記憶にばかり目を向けるのではなく、もう少し視野を広げて、より汎用性のある治療方法、清算の仕方を考えましょうよ、だったのかもしれません。近いうちに図書館で確認してきます。


 ところでこの短い論文には2つ、オマケ的にすばらしいところがあります。
 ひとつは、中井さんの訳で、「tension」が、「緊張」でなく「張力」と訳されていることです。本文注の最後に「訳者覚書」とあってこのことが説明されていますが、私も、ジャネ先生の訳書を読んで気になっていた部分でした。そうですよねえ! 張力じゃないとしっくりきませんよねえ! と、うれしかったです。

 もうひとつは、エランベルジェさんがシュヴァルツ医師の略伝を末尾に載せられていることです。優秀な師匠にダメな弟子、のパターンはよくありますから、ジャネ先生もそうだったのだろうか、と、私は勝手に悲しんでいました。ですがシュヴァルツさんは、抜群にすてきそうです。よかった、ジャネ先生、いいお弟子さんがおられたのね!
 本文を読み終えて、シュヴァルツさんって、いったいどんな人だろう?と興味が膨らんだところへ、みごとな略伝。まことに、痒いところに手が届くご配慮です。そしてそれを読むと、ますますシュヴァルツさんが好きになりました。若くして亡くなられているのが、なにより惜しい。ドイツ語ですが、いくつか本も書かれているようです。日本語訳を探してみようっと。



 「ジャネの心理療法」 (『エランベルジェ著作集2』所収)
 アンリ・エランベルジェ著 中井久夫訳 みすず書房 1999年


180417 『〈正常〉を救え』を読み進め中

 副題は、「精神医学を混乱させるDSM−5への警告」。DSMというのはアメリカ発、世界的に使われている精神科の診断分類で、邦題は『精神疾患の診断と統計マニュアル』。ハイフンの後の5は、第5版のことです。
 著者のフランセスさんは、5の前に作られた第4版の作成委員長を務められたかたです。本書では、第4版作成時の裏話や苦労した点、配慮・努力した部分とそれが計算違いに終わった苦い反省、そして現在のアメリカ医療業界を巡る過酷な状況などが描かれます。

 書かれた文章を読むかぎり、フランセスさんは、とても慎重で誠実な人のようです。そしてところどころに、ものすごく重要な主張や警告が書かれてあって、ああ、そうか!とかそうだよなあ!とか、唸りながら読んでいます。
 全体として、内容の濃い、丁寧に作られた本だと思います。訳文も、平易で読みやすい。

 であるのに、なぜかやたらと、読むのにエネルギーが要ります。気合を入れなきゃ読み出せないような、重さを感じるのです。
 なぜだろうか……? ずっと考えていて、ようやく、わかりました。

 フランセスさんは、第4版に関して、努力を踏みにじられた人です。製薬会社の広告攻勢に負けて、第4版は、過剰診断のダシに使われます。そのことに対する猛烈な怒りと悲しみは、抑えた筆致の中にもちらほら漏れ出ています。

 その意味で、本書はただの「警告」本ではなく、「被害者からの告発」であり「結果的に加害者の片棒を担がされることになった、自身の甘さへの懺悔」の本でもあるわけです。
 精一杯、危険を予測して配慮して、回避するよう努めながら、果たせなかった……。その無念と、だからこそ黙って見過ごせない第5版の甘さへの非難。
 それが、読んでいて痛いほど刺さるのだと気付きました。だから、読むのにエネルギーが要るし、かといって途中で放り出す気にもなれないのだ、そう理解しました。

 食べたら無くなる料理とは違って、本は形が残ります。一度作ったら形が残り、その影響は出版に遅れて広まり、持続します。
 この性質のために著者は苦しみ、その切実な苦しみが本書を作らせた。なんとも、悲痛な本です。書かれてある内容が重要だからこそ、なおのこと、痛ましいです。



 『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM−5への警告』
 アレン・フランセス著 大野裕監修 青木創訳
 講談社 2013年


180811 フランスのホメオパシー

 小坂井敏晶さんの書かれた『社会心理学講義 ―〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』(筑摩書房、2013年。53〜64ページ)という本で読み知ったのですが、フランスでは、ホメオパシーに保険が効くそうです。

 ホメオパシーは、薬効成分は薄めれば薄めるほど効果がある、という理念のもと、独自の「薬」を作っている民間療法です。しかしその「薬」は、科学的医学というか一般医学のほうからは、医薬品としての治療効果はない、と証明されています。
 ただし、医薬品とは呼べないけれど、まったく効かないわけではない、なぜならプラシーボ(偽薬)効果があるから――というのがミソで、効くと思って飲めば自然治癒力がより発揮されて(?)、実際に効くことがある。だから使えるといえば、使える。

 それに対して、でもそんなのしょせんプラシーボじゃないか、といって保険適用から外したのが、ドイツ、イタリア、スイス、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、アイルランド。
 フランスでも、保険から外せ、という動きはあるようですが、『社会心理学講義』が書かれた時点では、適用は継続されているとのことです。

 その理由が、ふるっています。「ホメオパシーに保険が効かなくなれば、患者はその代わりに他の薬を使用するだけだ。それでは結局、保険制度にとって、より高くつく」(フィリップ・ドゥスト=ブラジ保健大臣の説明)
 小坂井さんによると「医薬品の40パーセント近くがプラシーボとして使用される現況を考えると、薬用成分の含まれないホメオパシーを残す方が安全なだけでなく、保険の負担としても安上がり」。

 医薬品の40パーセント近く、という数字には驚きますが、プラシーボ的に処方される薬で副作用を出す(かもしれない)よりは、信頼できるお医者さんからホメオパシーとかそれらしい小麦粉玉を処方してもらうほうが確かに安全です。
 その考え方を、大臣の立場にある人が採用するところに驚きつつ、素敵だと思いました。


181209 『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』

 『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』
 キャシー・オニール著 久保尚子訳 インターシフト 2018年



 内容は、タイトル通り、大量に収集・蓄積された情報(パソコンやスマートフォンなどを通して集められる私的な情報や、なんらかのテストの回答など)の扱われ方・処理方法の実際とその怖さが書かれた本です。
 実は私はまだ4章までしか読めていません。あまりにおもしろい(きわめて悪い意味で!)本なので、すらっと読み通すことができないのです。1章読んでは「ふーん……」とうなる、を繰り返しています。

 著者は、ばりばりの数学者です。大学教授から金融、インターネットと活躍の場を替えながら数学を駆使し、仕事に携わりながら、ビッグデータの問題を間近に見てこられたかたです。
 著者の考え方が明晰で理論的だからでしょう、話が非常にわかりやすい。そして日本語訳も非常に読みやすい。頻出するカタカナの専門用語にはほとんどついて行けませんが(なんとなくイメージはできても具体的な実態はわからない…)、それでも、何が起こっているのか・何が起こりうるのかについての著者の説明は理解できます。

 ここ最近、パソコンやスマホを使う人たちと「近頃の検索はこちらの傾向を正しく読んできすぎて怖いよね」「履歴がきちんと〈活用〉されすぎていて不快」と言い合うことが増えました。アマゾンのおすすめの本とか、ずっと以前に一度だけ調べた地図検索とか、そういう情報がいつまでも保存されていて、「私の傾向」の情報がどんどん蓄積されて〈判断〉されている。これは膨大な量の計算を瞬時にこなせるコンピューターができた〈おかげ〉なのでしょうが、本書では、その負の側面が、生活に即した実例を使って丁寧に説明されています。

 ビッグデータは怖い、危ない、と言われていることの実際がわかりやすく説明されていますから、高校生の必読書にするか、中学校の授業で教科書代わりに使うかすればいいのじゃないかしら、と思います。
 メディアリテラシー、とかいうときに、情報を発信するときの作法ももちろん大事でしょうが、発信ほど積極的でない使い方をしているときでも情報は吸い取られている。そしてその吸い取られた情報が現実に活用される、そのされ方がなんとも怖い。その怖さが、本書を読んで初めて身に迫ってわかりました。

 パソコン・スマホがここまで身近になって、しかもその便利さと引き換えにはたらいている裏の仕組みを多くの人が説明できない現状を考えれば(情報の処理過程に高度な数学が使われている、企業秘密を楯に情報処理の方法が明かされない、などが原因で、知ろうとしても知りえない場合もあるそうです)、こういう、自分の経験・記憶・知識を飛び越えて、〈端末の向こうで起こっていること・なされていること〉を大雑把にでも理解しておくことは、もはや、倫理とか読み書きそろばんレベルの話なように思います。

 いや〜、怖い本です。この本は、世が世なら発禁処分とかになっていたんじゃないでしょうか……。


181215 『100分de名著 スピノザ エチカ』國分功一郎

 以前、私が作った原稿をある先生に読んでいただいたときに、私の考えを述べた部分に「スピノザ風(スピノザ的、だったかもしれません)」とのコメントが書かれていたことがありました。スピノザの名前は、18〜19世紀頃に書かれた哲学関係の本で何度か目にしていましたので、聞いたことはありました。が、どんな本を書かれた人か、なにをどう考えていた人なのか、ちゃんとは知りませんでした。それで、先生からの書き込みを見て、これもなにかのご縁だわ、と手に取って読みかけて、なんじゃこりゃ。即座に挫折したのがスピノザの代表作『エチカ』だったのでした。
 なので、今回、NHKの「100分de名著」で『エチカ』が取り上げられたのはとても嬉しいことでした。これをとっかかりに、スピノザさんの哲学をぜひぜひ下見させてもらおう! もちろん、本気で勉強するつもりなら、最後は、スピノザさん本人の著作に取り組まなきゃダメでしょうけど!

 テレビの放送は2回が済み、テキストも購入してみました。で、そのテキストを読み終わりました。読み終わっての感想は、「スピノザさんてば素敵〜。ぜひお友達になりたい」。

 ベルクソンの本を初めて読んだときにも思ったことですが、この人の書かれる哲学書なら私にも読めそう!な感じがします。なんというか、職人的な視点にしっくりくる〈哲学〉だと思うのです(たしかに前は、『エチカ』本文はとっつきが悪くて読めませんでしたが)
 スピノザの考え方に強く賛同というか共鳴する感性は、私は整体の現場で培いました。施術をすると身体の状態が変化して、その変化を受けて次の施術を組み立てる、変化させられなければべつの手立てを考える、そんなことを繰り返す現場のなかで、ああ、身体ってこういうものか、こう理解したほうが筋が通るな、と、腑に落ちる部分が増えてくる。この理解は、学校で習った〈西洋医学〉そのままではなく、自分の技術と経験と、そこから立ち上げた自分なりの理論に合った、もっと動的で個別的な理解です。
 その、動的で個別的な感じが、國分さんが紹介してくださるスピノザからも、ありありと立ち上っているように思うのです。

 なにかの本で読み知ったところでは、ベルクソンは、精神科医であるジャネ先生とお友達で、現場での観察・発見の模様をいろいろ聞いていたそうです。
 スピノザは、本書によると、生活のためにレンズ磨きを生業にし、趣味の釣りは〈達人〉級だったそうです。
 ベルクソンもスピノザも、純粋に頭で理論を組み立てるだけでない、観察と推測と検証の場を持っていたということでしょう。だからきっと、私にも読めそう、な感じが湧くのだと思います。
 もう一度、ちょっと親しい距離でもって『エチカ』を読んでみよう、また挫折する可能性は大だけれど、もう一回読んでみよう。そう思わせてくれるテキストでした。



 『NHK 100分de名著 2018年12月』國分功一郎
 NHK出版 2018年


181229 『数学の学び方・教え方』 遠山啓

 『数学の学び方・教え方』 遠山啓(ひらく)
 岩波書店(岩波新書 青版) 1972年



 分野的には整体とまったく関係のない、大人のための(おもに)小学生への数学の教え方・考え方の本です。

 遠山さんの本は、ずいぶん以前に同じ岩波新書の『数学入門』(上・下)を読みかけたことがあって、途中から難しくなりすぎて投げ出した記憶があります。
 今回の本は、そこまで難しくはならず、数学の基本的・理論的な理解の仕方と、そして、子どもにものを教えること・考える力をつけさせることについての遠山さんの哲学・見識がじっくり書かれています。おかげで、私にも、最後までおもしろく読めました。

 子どもに限らず、人にものを教えるということは、その場限り・その場しのぎの「正解」を教えることではなく、自分自身で問題に取り組み、じっくり考えて答えを導き出す「力」をつけさせることだ、という遠山さんの信念は、ひじょうに気持ちがよく、まっとうです。
 そして、そのためには、どうすれば子どもの腑に落ちる説明ができるか、教材を提供できるか。なにから順に説明すれば子どもにもイメージがしやすいか。内容が一段高度になっても子どもが混乱せずに対応・応用できるか。そしてその視点から見ると、過去の教科書はどの部分がどういう点で不親切だったか。遠山さんの経験に基づく見解が、具体的に説明されます。

 こういった具体的なことを「大人」が理解するためには、地道な試行錯誤と子どもの理解度の観察・子どもとの正直な意見交換(「わかった?」「わからへん」「どこがわからへんかな?」式の)が不可欠です。遠山さんは、それを丁寧に、おそらくはとても愉しんで積み重ねてきたのだろうな、という気配がありありと感じられます。なので、読みながら、遠山先生の生徒になったような、授業参観で見ている保護者になったような、わくわくした感じが味わえます。

 一流の「教師で理論家」の書かれた本です。「小学校の算数の先生」のための本にしておくのは、あまりにももったいない名著だと思います。


190201 『発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療』 杉山登志郎

 『神田橋條治の精神科診察室』の見本刷りをお送りしたお返し(?)に、杉山先生から本書をちょうだいしました。
 ぜひ読みたいと思っていた本なので、おおおっ! 嬉しいっ! と大興奮で読み始め、どんどん読み進めましたが、……うーん、難しい本です。

 文章は、とても読みやすいです。「小説仕立てで理論を説く」という離れ業の怪書(悪い意味でなく!)『子育てで一番大切なこと』より、私はこちらのほうが読みやすかったです、なんというか、一般的な専門書の形式で書かれていますので。
 そして私の読んだ感じでは、前半と後半に分かれているように思いました。前半の3章までは、お医者さん風、後半の4章以降は超お医者さん風。
 3章の〈少量処方〉までは「お医者さんの試行錯誤」の範囲にあるけれど、4章の〈複雑性PTSDへのEMDRによる治療〉からは「一般的・古典的な西洋医学の教科書」っぽくなくなって、「技術書」っぽくなってきます。ですから、たとえて言えば、理科の教科書と工作の教科書が一冊になったような印象です。

 これはもう、まさに、現場の人間が〈独自の理論・技法を紹介するための本〉を書くときの苦労のいちばんのところです。
 どの分野であっても「教科書」が扱うのは一般論で、現場の人間が扱うのは具体的な「相手」ですから、現場の人間が、べたっと均した一般論を組み立てることはほぼ不可能です(整体の話でいうと、右肩だけ凝る人と両肩が凝る人、凝ると頭痛が起こる人と凝っても頭痛にはならない人、は、同じ枠ではくくれません。症状名をつけると、みなさん肩凝りになりますが)。そして往々にして、最先端の現場の技術に理論は追いつけません。だから、理論的にわかりやすく説明する、は実現できない。
 ただ、実際に技法を使ってみれば、それがどの程度使える技術か・使えない技術かはすぐにわかりますから、良心的な人は、技術の使い方を説明しようとします。
 そうすると、理科の教科書+工作の教科書みたいな本になるわけです。

 幸いにも私は、杉山先生の診察場面を陪席させていただいたことがありますので、本書に書かれてある内容は、実際に目にしています。変化の起こり方も、知っています。パルサーのプチ体験もさせていただきました(めちゃくちゃびっくりしました(後述))。でも、もしそれらをなしに読んでいたとしたら、後半部分は半分もわからなかったかも、とも思います。
 その点、この本がとても親切なのは、YouTubeの動画で技法の一部を公開してくださっているところです。実際にトラウマ治療に当たる専門家は、動画を見ながら・本を読みながら、仲間とお互いに練習し合う、とかそういうことができそうです(軽いものまで含めれば、トラウマなんて誰にでもありますから、うまくいけば治療効果のほども体験できます)
 そしてそうやって実際に使ってみれば、読むだけでは不可解な「工作の教科書」の部分も活かせるだろうと思います。

 本書は、〈杉山式トラウマ解消法〉の基本書の一冊を構成する本だと思います。先生ご自身の現場での頭打ち体験から、技法の取り入れ、試行錯誤まで、コンパクトに順を追って書かれています。
 欲を言えば、伝統的な医療の領域と新しい技法の領域、というように、対象読者を誘い込む領域が広く混ざった本ですので、丁寧な注釈をつけてくださると親切だったかな、と思いました。薬を処方できるのは医師だけですから薬の名前に注釈は要らないにしても、「ここは読んでいて「ん?」となる人がいそうだな」と、ちょいちょい思いました。
 自分が本を作っているときに専門外のかたの意見を聞いていて、「〈読者にとって専門外の用語〉は、〈その専門内の人である著者〉には想像できないくらい、イメージしにくいものなのだ!」と指摘されて以降、私自身はせっせと注釈をつけるようになりました。そうするようになって人の本を読むからでしょうか、余計に注釈の必要を感じます。


 あと、おまけ的に、杉山先生にパルサーを持たせてもらった経験から私が言えることは、「交互刺激を転換する速さがとても大事!」ということです。遅い速さで右、左、右とブルブル交互刺激を転換しているときはなんとも感じませんでしたが、右左右と、ブルブルの転換が速くなった途端、私の全体に劇的な変化を生じかけました。うわっと私がびっくりした瞬間、それを見ていた杉山先生にパルサーを取り上げられましたのでびっくりしただけで終わりましたが、「リズムが合わないと変化なし、リズムが合うと大変化」の差は驚くほど鮮明でした。私は試していませんが、左右交互刺激のパタパタの速さにも同じことがいえると思います。
 ちなみにこのとき、「どの速さがこの人には合いそう、というのはなにで判断しているのですか?」と杉山先生に訊くと、そのときは「うーん……勘」と答えられました。本書ではそれが、脈拍から推測していることが明かされています(58ページ)。……ナルホド。



 『発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療』 杉山登志郎
 誠信書房 2019年

 『子育てで一番大切なこと 愛着形成と発達障害』 杉山登志郎
 講談社現代新書 2018年


190216 『平家物語』 石母田正

 私的に、読み応えの深い、なんともしびれる本でした。図書館で借りて読んで感激し、あまりに感激したのですぐに書店に買いに走りました。で、すぐに再読し、読了しました。飽き性の私が、珍しくおなじ本をくりかえして読んでしまいました。

 本文は200ページほどです。厚くも薄くもない新書ですが、きりっと締まった無駄のない文章で改行少なく書かれていることもあって、中身はひじょうに濃いです。そして大きな論題以外の、さらっと書かれた一文にも意義深い視点が散りばめられていたりしますので、一度通読しただけではもったいない!と感じます。
(以下、古典の『平家物語』=「平家物語」、本書=『平家物語』と表記します)

 最初に読んだときに印象に残ったのは、「平家物語」が書かれた意義について、でした。
 武士が台頭した当時の内乱があまりにすさまじかったため、圧倒的な現実に傷つき・衝撃を受けた人々にとって〈ファンタジーとしての物語〉はもはや必要でなかった。断絶した日常に〈納得〉し〈適応〉し〈生きていく〉ためには、自分たちが体験した〈断片的な現実〉に大きな意味・流れを持たせる〈記録としての物語〉が必要だった。そのために、新しい文体〈年代記的叙述形式〉が一人の作者によって作られた。
 その「平家物語」の原型は、〈語り物〉として琵琶法師が語り、聴衆に受け入れられたけれど、それでも描き尽くせない悲惨・無残な体験は、「平家物語」原型だけでは収めきれなかった。だからそこに聴衆・読者が自分たちの体験・思いをどんどん書き足していき、補った。現存する「平家物語」に記述形式が混在し、異本が多数生まれたのはそんな事情があったのだ……。

 そんな見解を読みながら、これは今風に解釈すると「社会的規模で生じたPTSDをどう癒やすか」という話につながりそうだな、と、そんなことを考えていました。
 ある一人の人が悲惨な体験をしたときには、その周囲の、〈悲惨な体験をしていない人たち〉がその人を包みこんで、慰めることができる、かもしれない。けれど社会全体が大きな災厄に見舞われ、その社会のみんなが被害者・被災者となったときには、だれがその体験を包み慰めることができるのか。「平家物語」の時代には、それを物語・語り物で克服しよう、慰撫しようとしたのだろう……。

 それが2回目に読んだときには、『平家物語』本文の最後の数文が強烈に響きました。
 「平家物語」で描かれているのは平家の滅亡にまつわる悲観・無常観・宿命観だけれど、平家は勝手に滅んだのでなく滅ぼされたのであり、そこには、滅ぼした側の人間がいたのだ。つまり平家滅亡のえげつなさは、えげつないことをしうる人間がいなければ起こらなかったのだ、と。
 終始学者らしい、端正な文章で書きつづられた本書は、当時の武士階級・時代状況に対する石母田さんの痛烈な批判・怒りの書でもあったのだと気づきました。

 3回、4回と読み重ねれば、また違う深みに気づけそうです。日を置いて、読み返したいと思います。



 『平家物語』 石母田正 岩波新書 1957年


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