本の感想 3
150906 『マルゼルブ』 木崎喜代治
『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』 木崎喜代治
岩波書店 1986年
数年前から手帳に「読みたい本」のリストを作っています。本書は、そのリストの古いページに載っていたものです。けれどリスト入りが古すぎて、なぜこの本を読みたいと思ったのか、どんな内容の本なのか。そもそもマルゼルブさんって誰だろう……? 木崎さんって誰だろう……? そういう動機とか背景をさっぱり忘れていました。そこで、ごくゆるいスタンスで読み始めたのですが、――いい本でした。
名門貴族の一員であるマルゼルブ(1721−1794)はルイ15世、16世の時代に出版統制局長、租税法院院長、宮内大臣を務め、最後は、「革命で裁かれるルイ16世の弁護」を買って出て、自身も断頭台にかけられ、72年の生涯を閉じる、という人です。
本書では、マルゼルブの役職ごとに章が分かれています。そしてその章ごとに、まずは当時のフランスの出版状況、政治状況、権力争いの構図がそれぞれ概説されます。それから、その概説に対応するマルゼルブさんの動きが語られます。
この、状況説明⇒行動紹介という丁寧な構成のおかげで、18世紀のフランスをぜんぜん知らない私にも状況・流れが追えました。
思いきり乱暴にまとめると、マルゼルブさんは、国王の専制主義にも人民の専制主義にも警戒し、自分の立場でできるだけのことをし、自分なりの筋を通しきった人、ということです。このままいけば、王国がどうなるか、国王がどうなるか、革命がどうなるかを冷静に見極め、予測し、その暴走をくいとめるために尽力し、けれど結果的には果たせなかった。
そのはたらきのいろいろも素敵ですが、随所に引用される手紙がまたなんとも素晴らしいです。とくに、不安に駆られたルソーにあてた手紙
(p119〜120)は、深いいたわりと慰めに満ちていて、私だったら、はらはら・おろおろしているときにこんな優しい手紙をもらってしまったら泣けてしょうがないだろうなあ……とうれしくなります
(実際は、ルソーさんにはそれでもいくらか不満だったようですが)。
ほかにも、ボワシーさんへの手紙
(p321〜332)や国民公会議長への手紙
(p336)などは、私宛でなくても泣けてきます。
そしてまた著者の木崎さんがすごいのは、劇的に書こうと思えばいくらでも書けそうな内容を、終始淡々と、地味に、誠実・穏やかな筆づかいで書き上げられたことです。
読んでみて、本がおもしろかったのはもちろんですが、マルゼルブさん、木崎さんにお会いしてみたかったなあ、とそれをしみじみ思いました。いい読書でした。
160321 『生のかたち』 原ひろ子 日高敏隆
『生のかたち』 原ひろ子 日高敏隆
思索社 1978年
しばらく前に毎日新聞に出ていた記事を読んで、原ひろ子さんのことを知りました。この人の書かれたものをなにか一冊読んでみたいなーとふらふら探していたところ、見つけたのがこの本です。
堺市の図書館から借りていま手元にあるのは思索社から出された一般書ですが、先に大阪府立大学の図書館
(中尾佐助文庫)から借りて読んだのは、「エナジー対話」という、エッソ・スタンダード石油株式会社広報部の配布本でした。
以前、べつの対談本かなにかで「エナジー対話」の担当者のかた
(これが高田宏さんだったのでしょうか。おぼえてなくてごめんなさい……)がインタビューされているのを読んで、そのときは「ふーん、そんなすごい本があるのか……」と思っていたのですが、これが、そのシリーズの一冊なのでした
(第9号)。たしかにすごい本です。内容も、無料配布
(!)という点も。つくづく、バブルだったのだなあ、と思います。
さて、内容ですが、原ひろ子さんは文化人類学者で、日高敏隆さんは動物学者です。異業種のお二人がそれぞれの視点を駆使して、性差、文化差から生き物全般、人間全般、地球環境との関係や教育のありようまで、要約できないくらい広範囲な話題で対話を展開されます。しかも本でいえば1、2行、ぽつんと口にされただけのような一言に、深い意味が読みとれたり、想像が刺激されたりしますので、いっぺんに何冊もの本を読んだような満腹感です。
学者的な人の書かれた本を読んでいると、事象の捉え方を雑に感じたり、物事の比較に一面的な単純さを感じたりして、ときどきうんざりすることがあります。しかしこの本ではその感じがずいぶん少ないです。原さんも日高さんも、「個」と「全体」を意識して、極力、ざっくりまとめた考え方・言い方にならないよう話されますので、「これとこれは単純に比較できない」とか「こことここは比較することで考えが深まる」とか「そこはよく知らないからなんともいえない」とか、微妙な区別に慎重です。
読んでいると、きっぱり・すっきりした納得や手軽な結論は得られないまま視野だけがどんどん広がっていくような、複雑なものを複雑なまま考えようとする、まっとうな爽快感があります。
私にはとても贅沢な本でした。
160403 京都の本屋さん
先日、『善き書店員』
(木村俊介 ミシマ社 2013)なる本を読んでいて、ふと、恵文社一乗寺店に行ってみたくなりました。
恵文社一乗寺店。すごくすてきな本屋さん! と、私も以前からお名前だけは知っていました。ですが、実際に「行きたい」と思ったのは今回が初めてです。
それで、京都にゆかりのあるお客さんに評判をお聞きすると、「私も行ったことはないけれどおもしろいらしいですねー。ちなみに四条河原町のマルイのなかのFUTABA+というお店もおもしろいですよ」と教えていただきました。
で、休みの日に行ってきました。
どちらも、おもしろいお店でした。大量の新刊書が網羅的に集められた大型書店ではないですが、きちんと、なんらかの基準で選ばれて並べられている本なのだ、という感じが伝わってきます。その意味で、とてもいい古本屋さんの雰囲気に近いなあと思いました。「ある人が一時期必要としていた本が、この店で手放された」というかたちで選ばれて集められた本の群れ、の雰囲気です。
そしてまた、この雰囲気はいい図書館にいるときの気分にも近い気がしました。新刊書が、あまり新刊新刊していないのです。「いつ出た本かは関係ないんです、おもしろそうだから並べてるんです」というような落ちつきっぷりが穏やかでやさしいのです。
どちらのお店でも、ぷらぷら本棚を眺めるうちに2時間があっという間に過ぎていて、帰るころにはすっかり気持ちよくへとへとになっていました。
160921 『医学書院 医学大辞典』
このところ、調べものをする必要が増えていまして、それで近所の図書館に行って本を見て、という作業をしています。で、先日、私の好みにびしゃりと合った本に出会ってしまいました。それが『医学書院 医学大辞典』です。
相当ぶあつい、わりと大判の辞書なので、手に持ってはとても使えません。どっこらしょと机に置いてページをめくります。と、これがまた、なんでも載っているのです。事項によっては専門の辞書より簡潔で詳しかったり、こんなことまで? 医学辞典なのに? と驚くことまで書かれていたり。関係ないのについついほかの項目まで読んだりして「へえ〜」とか感心したりして。久しぶりの、ただめくっていて楽しい辞典です。
気になるお値段はというと、20,000円。それくらいは当たり前にするよなあ、安いくらいだよなあ、と思い、けれど調べものの集中するこの一時期が済んだらそれほど頻繁に使う必要はなくなるので、買うべきかどうしようか考えていました。
――と、これが、近所の古本屋さんに4,000円で出ていることが判明! 大興奮のうちに購入しちゃいました。
図書館にあったのは初版で、私物になったのは第2版です。辞書の難しいところは必ずしも最新版がいちばん快適とは限らないところで、たしかに情報は新しいほうがいいのですが、使いやすさとか愛着は前の版のほうがよかったな、といったことが往々にして起こります。たんに慣れといえば慣れ。でもいまだに『大辞林』は初版派
(最新は第3版。初版が好きで買いかえる必要は感じませんでしたが、今回図書館で使ってみたら第3版もすてき!でした)の私にとっては使いやすさとか慣れとかいったなじみ具合は大問題です。
『医学大辞典』の場合、初版と第2版とでちがっているのは、なにより大きさです。サイズがコンパクトになって、そのかわりに文字が小さくなりました。中身は増えこそすれ、減ってはいないようで、そこは大いに安心です。
あると使いにくいので函と表紙は処分して、まず手始めに、これまで調べたところをもういちど調べなおしながら、ぼちぼち、なじんでいこうと思います。
170121 『子供時代』リュドミラ・ウリツカヤ
訳者あとがきによると、リュドミラ・ウリツカヤさんは、「現代ロシアで最も名を知られ最もよく読まれている作家のひとり」、なのだそうですが、私は知りませんでした。
本書も、毎日新聞の書評かなにかで目にして、私の「読む本リスト」に書き込んだきり、忘れていた本です。
でも読んでみると、これがとても優しい、いい本でした。短い6つの話
(ゆる〜く連作になっている)からなりますが、そのうちのいくつかには共通点があって、それは、切羽詰った危機的状況に立たされた子どもと、その子をとっさに、あるいはじっくり・どっしり支える大人の物語、ということです。
全篇、地味な話です。そして訳がすばらしい。孫娘が大事なものを壊して、困って泣いて、泣きつかれて寝て。目が覚めたら、おじいちゃんが修理してくれていた。びっくりして、「おじいちゃんが直してくれたの?」と訊くと、「そうだよ、ほれ。なのに、泣くんだから」。
ちゃんと直してくれた上で、「なのに、泣くんだから」なんて、困った・優しい口調でぼそぼそっと言われたら
(イメージ的には黒澤明の『椿三十郎』の伊藤雄之助。我ながら古いなあ)、ほっとして、ありがたくって、また泣けるよなあ、と、読んでいるこちらがじわっとなります。
のんびりしたおじいちゃんの雰囲気と、ちゃかちゃか活発な子どもの気分とが、自然な、静かな日本語に移されているので、映画を見るように、朗読を聞くように、時間の流れを感じられます。
訳者あとがきも読みごたえがあって、私には興味深いものでした。ロシア文学に伝統的に存在する、「幸せな子供時代」と「惨めな子供時代」の両極と、そこから距離をとるウリツカヤの作品、という理解が重要な話題のひとつですが、そこで紹介される本を私はひとつも読んでいません。けれどあとがきを読んで、いくつか、読んでみたいと思いました。
『子供時代』は、著者のウリツカヤさんと、絵を担当されたウラジーミル・リュバロフさんが、子供時代から続くお互いのよく似た境遇に感じ入ってつくられた本だそうです。きっとお2人とも、だれかに支えてもらったときに感じる強い充実感・充足感・安心感を、いつかの時点で確実に経験しているのだろうなと、じんわりしました。
そして久しぶりに「読む本リスト」をぱらぱら見返していると、なんと! 『クコツキイの症例』を見つけてしまいました。ウリツカヤさんの長篇です。チェックしていたことも忘れていましたが、今度はこれを読んでみたいと思います。
『子供時代』
リュドミラ・ウリツカヤ著
ウラジーミル・リュバロフ絵
沼野恭子訳
新潮社 2015年
170207 「十五人の殺人者たち」 ベン・ヘクト
短篇小説です。江戸川乱歩が編んだ『世界短編傑作集5』に収載されています。ジャンルとしては推理小説になるのでしょうが、手塚治虫の『ブラックジャック』的な小説、という印象です。
あまり内容を紹介すると実際に読むときの楽しさが減る
(書店のポップとかで「どんでん返しが最高!」「ラスト3行に驚愕!」とか「あまりに意外すぎる犯人!」とか読んじゃった日には、もう……(/_;))ので、筋は書きません。つくりは、15人の名医が集まってする秘密会合を扱った会話劇、といった感じです。
交わされる対話には医学的な内容が含まれますが、学術的に正しいかどうかはわかりませんでした。でも、わからずに読んでも、すてきで、楽しかったです。
『世界短編傑作集』1〜5巻は、3巻にあるパーシヴァル・ワイルドの「堕天子の冒険」が読みたくて手に取りました。それでついでに1巻から読み始めたのですが、5まで読んでよかったです。
ちなみに「堕天使〜」も、期待に違わず、よかったです。
ベン・ヘクトについては、ほかの本も探してみます。ネットで調べると、映画の脚本・脚色でも有名な方だそうです。
「十五人の殺人者たち」ベン・ヘクト
『世界短編傑作集5』(江戸川乱歩編 東京創元社 1961)所収
170328 『骨折・脱臼・捻挫・打撲 ヨガ養生法』 内海正彦
少し遠方の古本屋さんで、本書と、ばったり出合いました。
著者の内海さんは昭和5年生まれの柔道整復師です。数年前に、堺の図書館でべつの著書
(『捻挫と骨折の予防と治し方』)を読んでいて、大いに納得した記憶がありましたので、即購入しました。
数年前に読んだ記憶では、内海さんは柔道整復師ですが、ある時期に、ヨガの指導者である沖正弘さんに出会われます。そうして薫陶を受け、これまで自分がしてきた整復法は身体に無理をかけるものだったと気づかれ、ヨガ的な考え方を取り入れた方法へと移行してゆかれます。それが「術者が整復するのではなく、患者が痛みのないように動く、そうして自分で整復する」という方法です。
腕を骨折したのなら、腕の一方を術者が支えて、患者は、後ろに倒れこむような動きのなかで痛みのない状態を探りあてる。そうするとそこは腕にとって、筋肉のバランスの最もとれたところのはずだから、骨折前の骨の位置にいちばん近いだろう。だからこの整復がきっちりきまれば、固定はいらないのだ――というような内容だった、と記憶します。
そんなことを思い出しながら、ページを開きました。
以前読んだ本のほうは、おそらく専門家向けで、骨折とか脱臼の整復方法についてとか、踏み込んだことが書かれていました。今回読んだ本書のほうは、「一般向けに書きました」とのお言葉通り、応急処置の仕方とかリハビリの仕方とか、そちらに重点が置かれています。
文章は読みやすく、専門用語も極力使わず、と、概ね親切な本でしたが、漢字の成り立ちにからめたお説教とか、かなりな突込みどころも満載で、笑えばいいのか感心すればいいのか、なんとも愉快な本でした。
私が「説得力があるなあ」と感じる具体的な部分については、私は専門外です。そこで柔道整復師
(整骨院・接骨院の施術者)の友人に、「こんな技法ってどう思う?」と訊くと、「聞くかぎり、説得力はあるなあ」とのこと。
先方が興味を示してくれましたので、早速そちらに本書を贈ることにしました。実際に使われるにせよ使われないにせよ、絶対使えない整体屋の私が死蔵しているよりは、確実に役に立つはずですから。
170412 『十九世紀フランス哲学』 フェリックス・ラヴェッソン
著者のラヴェッソンさんは『習慣論』という本を書かれています。とても短い本(論文)ですから、私はフランス語の教材にしています。何回読んでも、辞書ばっかり引きながらでしか読めませんので、いまだに全体の内容はよくわかっていませんが、それでも相当、なじみ深くはなりました。で、そのつながりで、この本も読んでみようと思いました。
そしてもうひとつこの本を読んでみたいと思ったのは、共訳者が杉山直樹さんだったからです。以前、杉山さんがベルクソンとジャネ(わが敬愛するピエール・ジャネ先生!)とを扱った論文を書かれているのを読んで、それに感激して以来、密かに注目しているのです。
で、読んでみましたが……難しかったです(;_;)。書かれてあることの2割も理解できてないんじゃないかしら、という有り様でしたが、なぜか読んでいてイヤにはならず、「わからんなあ」とか言いながら立て続けに2度、読んでしまいました。2回読んでも、やっぱりよくはわかりませんでしたが。
それでもいくらか印象に残ったことがありますので、書き留めておきます。
・「Aが起こればBが起こる」という因果関係があるとして、「なぜAが起こるの?――それはAの前に−(マイナス)Aがあるから」「なぜ−Aが起こるの?――それは−Aの前に−2Aがあるから」「なぜ−2Aが起こるの?――それは−2Aの前に−3Aがあるから」……と続けていくとどうなるか?を考えるのが、哲学の重要な課題だったのだな、と知りました。
そうして、長い長い連鎖の果てを考えるのが哲学なら、短い連鎖を利用してなんらかの効果を得ようとする(「AでBが起こせるなら、Bを得るためにはAを集めればいい」)のが科学で、連鎖の要素を極々限られた範囲(=量)に絞り込むことで整合性を保つのが数学、という位置づけがあるようです。
そしてそう理解すると「哲学が大事」といわれる意味がわかるように思いました。近視眼的な実用追求だけでなく、時間的にも要素的にも、広い視野でものごとを考えることもしましょうよ、ということなのだな、と。
・内容が難しすぎて私の理解は越えましたが、それでも、訳文は見事! 注釈も見事! というのはわかります。これだけの注釈をつけるためにいったいどれだけの手間が掛けられたのか。日本語にしにくい(と思う)フランス語が、ここまでの訳文になるのだなあ、とため息が出ました。
・ピエール・ジャネは、叔父(伯父?)さんであるポール・ジャネに憧れていて、「私も心は哲学者だ!」みたいなことを短い自伝に書いておられます。それを読んだときは「ふうん」と思っただけでしたが、本書を読んで、ピエールさんがどういう流れの哲学を踏まえていたのか、意識していたのかが、いくらか理解できました。たしかに、ジャネ先生の初期の本、意識と無意識とか夢とかに注目されていた初期の研究は、哲学の流れをたどられているようです。
またしばらく時間をおいてから、読みなおすことにします。そのときはまた、きっと、もうちょっと理解が深まるでしょう。たぶん。
『十九世紀フランス哲学』
フェリックス・ラヴェッソン著
杉山直樹 村松正隆訳
知泉書館 2017年
170421 『大地の五億年』 藤井一至
230ページほどのそれほど分厚くない新書でしたが、内容はてんこもりでした。「土の特徴」にはじまって、「土の歴史」、「生物との関係」、「人との関係」、「現在とこれから」。
いたって平易なわかりやすい日本語で書かれているので、すらーっと読めてしまいますが、内容はしっかり“土”学者の視点ですから、ところどころで「あ、そうか!」と驚きがあります。
ちなみに私の最初の驚きは、15ページ目、「植物のないところに土壌はできない」です。そうか! 土壌は植物とセットなのか!
でも「土はあるけど植物はない」荒地のような環境はイメージできるけれど、「そもそも土がない」地面って……と思っていたら、18ページ目で「土の存在が月や火星と地球を分かち」と出てきます。
ここでまた、あ、そうか、土壌がない荒れ地というのは、月とか火星みたいな、あんな感じか、と納得。水と空気があって⇒植物が生まれて⇒植物が死んで⇒そこから土ができる、という流れが腑に落ちました。
以前、アリについて書かれた本を読んだときにも思ったことですが、自然科学系で観察(フィールドワーク)主体のすてきな本に出会うと、やたらにその研究者がうらやましくなります。私にとっては「ただの土」にしか見えないものが、酸性だとか豊かだとか古いだとか、何千年前にはこんな環境にあったとか……、読むべき情報が山のようにある「土」になります。これはとても愉しいことだと思うのです。
小学校では無理にしても、中学校くらいの副読本とかにしたら、視野が広がってよさそうだなあ、などと考えながら、おいくつくらいの方が書いているのだろう、と著者略歴を見たら、――私より若かった! すごいなあ……、30代でこんな本が書けてしまうのかあ……と、全然関係ないところでまた驚いてしまいました。
『大地の五億年 せめぎあう土と生き物たち』
藤井一至 著
山と渓谷社 2015年
170424 『世界の複数性についての対話』 フォントネル
図書館の中をふらふら歩いていて目に留まった1冊です。見たことない著者に見たことない書名。「なんだかややこしそうな本だな〜」と思いながらぱらぱら見ると、ずいぶん古い本でした。初版は1686年とのこと。
本屋さんなら買わなかったかもしれませんが(ごめんなさい)、図書館だったので借りました。
すると、予想以上におもしろい本でした。私が天文学に詳しくないので、書かれてある知識がどの程度いまも通用するのか、それはわかりません。
けれど、天文学に詳しい著者的な男性の「私」と、知的好奇心たっぷりのG侯爵夫人とが、星星の環境や軌道、その住人について、当時最先端の宇宙学・天文学をもとに想像して対話するやりとりが、穏やかで優しいのです。この穏やかさ・優しさは、言葉遣いのおっとり感もさることながら、差別的・偏見的な記述が少ない(というか意識的に差別観・偏見をひっくり返す記述が散見される)ことも大きいように思います。「複数性」はあるけれど、極力「階層性」は含まない、だから嫌らしくならない、という構図です。
この階層性のなさは、「私」と夫人の間にもあって、賢い人が無知な人に、一方的に講釈を垂れる式の本にはなっていません。適度な距離で、おもしろい話をおもしろがる人どうしで、さらっ、さらっ、と投げ合っている感じです。
こんなすてきな本を書かれるフォントネルさんとはどういう人なのだろう、と、あとがきを読むと、元は文学者で、途中から科学に興味をもって、入れ込んで、
最終的にはアカデミー・フランセーズに入って、王立碑文・文芸アカデミー(人文学者のアカデミー)にも入って、王立科学アカデミーの終身書記(事実上の会長とのこと)にまでなられた人だそうです。値打ちの程度はピンと来ないながら、バリッバリの偉い人感がただよっています。
でも文学者だから本書のようなやわらかい、読んで楽しい本も書けるのかしらと思ったら、だいぶ苦労して書かれたそうで、それがまたおもしろい。
図書館の特集コーナーというか展示コーナーみたいなところで見つけたので、新しく出た本かと思ったら1992年の本でした。ぴかぴかきれいな本だけれど、あまり読まれていないのかも。もったいないです。
『世界の複数性についての対話』
ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル著
赤木昭三訳
工作舎 1992年