のぞみ整体院
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本の感想 2

110523 『戦争ストレスと神経症』

 『戦争ストレスと神経症』(エイブラム・カーディナー著 中井久夫 加藤寛共訳 みすず書房 2004)を読みました。PTSD(心的外傷後ストレス障害)という概念を成立させるきっかけとなった本です。翻訳の元になったのは、初版本ではなく1947年に出た第二版とのことです。

 前線で戦ってケガをした兵士は、場合によっては戦列を離れ数年が経過した後でもさまざまな障害に苦しめられる――当時シェル・ショックとか戦争神経症とかいろいろな名前で呼ばれていたこれらの障害を、一括して「外傷神経症」として扱い、その全体的な状況を観察・分析した本です。本文は訳350ページ。なかなか長い本でした。

 1冊丸々おもしろかった――とは私にはとても言えませんが、それでも大切なことを多数教えてもらいました。
 たとえば、外傷神経症の核心は生理神経症であるとか、外傷神経症には急性期と慢性期の区別があるとか、外傷神経症は適応の一形式であり精神身体的人格機能の変化であるとか、その他いろいろ。

 整体屋として、「現在の身体の不調」と「以前の身体の古傷」を結び付けて考える私としては、思わず「そうでしょそうでしょ、あなたもやっぱりそう思うでしょ」と嬉しくなったり、「うーん、でもそう考えると対処法がなくなっちゃうのよ」と不満をもらしたり、ずいぶん一人でぶつぶつ楽しませてもらいました。

 整体の仕事をしていると、身体と心が別物でないことはよく分かります。
 身体の状態が良くなれば心が安定し、逆に、身体の状態が悪くなれば心も荒れる。この関連はかなり明確で、子どもの場合、癇癪(かんしゃく)の程度で施術の要不要が判断できたりするくらいです。
 正面切って心を扱うことはしないけれど、まったく無関係にはみなさない。そんな立場の私にとって、心の視点から身体を扱うこの本の内容は大いに勉強になりました。




 ところで私事ですが、ここしばらく、良い読書が続きました。
 心理の臨床家としてあくまで心に向き合い、心の視点から病める人間を扱い続けたピエール・ジャネ。
 心理の臨床家として人間に向き合った結果、心と身体と社会は切り離せないという結論にたどり着き、社会の改善のために教育に取り組んだアンリ・ワロン。
 そして心の問題とされていた戦争神経症を生理神経症、つまり身体の問題と結び付け、理解しようとしたエイブラム・カーディナー。

 お三方のおかげで、私の考えていたことがたった一人の思いつきでないことがよく分かりました。これは、すごい安心でした。彼らが本を書いていてくれて、それを日本語に訳した人がいてくれて、それを出版した会社があってくれて、図書館がその本を持っていてくれて、本当に良かったです。




 蛇足ながら本書を読んでいて、「外傷」という言葉の扱いが気になりました。
 ところによっては明らかに「身体的外傷」を指すようでいて、けれど別のところでは「心的外傷」を意味しているようにも思える……おそらくは「トラウマ」の訳なのでしょうけれど、身体的なのか心的なのかはっきりさせてほしいなあと思っていました。

 いつか説明があるかしら、と心待ちにして読み進めるも説明はなく、仕方がないので手元の医学辞典を引くと、「トラウマ=外傷」だったことを初めて(!)知りました。
 医学辞典巻末の和英辞典によれば、心的外傷といいたければ、ちゃんと心的を付けなければならないようです(psychic trauma)。――てことは私の書名『身体のトラウマ』は基本的に言葉遣いが間違っているのでは……。最後の最後で嫌な発見をしてしまいました。日本語版はもう手遅れなので、英語版を出すときに気をつけようっと。


111202 『人間の身体と精神の関係 コペンハーゲン論考1811年』

『人間の身体と精神の関係 コペンハーゲン論考1811年』
 メーヌ・ド・ビラン著
  F.C.T.ムーア校訂・編 掛下栄一郎監訳
  益邑齊 大ア博 北村晋 阿部文彦訳
 早稲田大学出版部 1997年




 ときは1810年、コペンハーゲンの王立アカデミーがひとつの論文を募集しました。これに応じたのがフランスの心理学者(哲学者?)メーヌ・ド・ビランで、選考の結果、めでたくビランが受賞します。
 ところがその後、受賞原稿は大半が紛失してしまいます――。
 そして時は移り1984年、ビランの死後、膨大に残された手稿や書写からムーア氏が原稿を再構成します。それが、本書の原書です。

 成り立ちが複雑な分、読んでいて少々分かりにくいところもありましたが、大まかな内容は次のようなものです。

 まず、コペンハーゲンが出したお題は、

人間を考えるとき、心理学的な仕方と自然学的な仕方があるけれども、この2つの考え方はどの程度関連しているのだろう?

というものです(実際の課題はもっと長いです)

 身体はまず物であって機械であって、それが心や感情を生んでいる――と考えれば、それは自然学的な理解になります。
 反対に心があって知性があって、それが身体を支配している――と考えると、心理学的な理解になります。

 動物でありながら知性をもつ人間を考えるとき、自然学心理学はどのように結び付くのか――。

 このお題に対してビランが出した答えは、その間に“生理学”を置こう、というものでした。
 単純に物理的な意味での身体ではなく、完全に精神的な意味での心ではない。その真ん中にあってはたらくけれどもそのはたらき自体は見ることができない――そんな生理を考えましょう。




 本文ではもっといろいろな話(感覚とか能動とか受動とか)が展開されますが、やや専門的すぎるのでここでは触れません。
 そして私の感激はもっと手前のところ――、そもそもコペンハーゲンの出したお題からが、いまの私の興味に同じ! と感激だったのでした。

 いまでこそ整体屋を名乗っていますが、もともと私はカイロプラクティックから勉強を始めています(心理学にはそれ以前から興味がありました)。カイロプラクティックの学校に入って、西洋医学的な知識を勉強して、それで現場に出ています。
 現場に出て、勉強してきた知識では足りないことを痛感して、それから東洋医学の勉強を始めています。そして、いまではフランス哲学・心理学に夢中になっています。

 この経過を私なりに理解すると、人間の「心」と「身体」について、区分する→区分しない→区分の意味を考える、と変化してきたことになります。

 区分するというのは西洋医学です。これは大体アメリカの仕方ですが、心と身体をすぱっと分けて、それぞれをどんどんどんどん専門化する仕方を取ります。
 区分しないというのは東洋医学です。一応は心と身体を分けるけれど、心には身体の、身体には心の要素がいくらかずつは含まれるから、どこまで分けてもきちっと分け切ることはできない。だから、全体は全体のまま理解しようという仕方です。

 そして区分の意味を考えるというのが、フランス哲学・心理学です(フランス医学は勉強していないので知りません)
 心と身体は確かに違うもののようだけれど、どちらも、ひとりの人間(とか生き物すべて)のなかでそれなりに調和・融合している――。では心と身体は何がどう違うのか、またそれぞれはどうつながっているのか、その辺りをじっくり考えてみましょう――と言って、ぐだぐだぐだぐだ理屈を展開するのが、フランス哲学・医学の私のイメージです。

 正直、長い理屈が多いので、読み始めるにはそれなりの覚悟が必要です。が、“当たり”の本に出会えばもう、私は大感激間違いなしです。
 積み上げられる理屈が緻密で、たいそう明晰で的確でめちゃくちゃにおもしろいのです。

 本書で繰り広げられるビランの理屈も、もちろんとってもおもしろいものでした。
 それもそのはず。私の好きなフランス哲学の流派は、まさにこの方から始まるの(だそう)ですから!


120423 『EBMスポーツ医学』

 『EBMスポーツ医学 エビデンスに基づく診断・治療・予防』
 マッコーリー/ベスト編 西村書店 2011



 久しぶりに、西洋医学関連の本を読んでみました。EBM(=科学的根拠に基づく医療)、で、スポーツ医学。いったいどんなことが書いてあるのだろう――。そんな好奇心から手に取りました。

 内容は、6部立ての全30章。
 1章ずつ、それぞれ独立した論文になっていて、書き手も異なります。それを「外傷・障害の予防」「外傷の管理」「慢性疾患」「上肢の外傷・障害」「膝および鼡径(そけい)部の外傷・障害」「下肢の外傷・障害」の6部にまとめたのが本書の体裁です。




 スポーツ医学的な本を読むのは10年ぶりくらい(は言い過ぎ?)になるので、どの程度内容が変わっているか、新しくなっているかは大事なチェックポイントのひとつでした。
 ――が。意外と変わってないものですねえ。

 “現場”色の強いスポーツ医学だから変わっていないのか、整形外科だから変わっていないのか、所詮は人間相手だからそんなにぱかぱかは変わらないものなのか。それとも単に、この本がそういう内容でなかっただけか。
 その辺りの事情は分かりませんが、とくに、衝撃的に目新しい情報には出会いませんでした。

 ただし、収穫がなかったかというとそうではなく、大事な思い違いをひとつ修正してもらいました。第21章「テニス肘の治療」と第30章「足底筋膜炎」の項にあった、ほとんど同じ内容の記述がそれです。

 それによると、テニス肘の痛みと足底筋膜炎の痛み、さらにはアキレス腱、膝蓋腱、回旋筋腱板(肩まわり)の慢性障害とは、どれも状態がよく似ていて、そのどれもが、炎症反応というより老化・使い過ぎで起こる反応に近いのだそうです。

 21章と30章を書いたのは別々の先生方なのに、どちらの章でも「テニス肘(外側上顆炎)/足底筋膜炎という名前は間違っている!」とのっけから断言。炎症じゃないんだ、呼び名を変えるべきなんだ、と懇々と説明されていました。




 現場にいる整体屋の実感としても、テニス肘とか足底筋膜炎が炎症ではない、というのはとても納得のいくものです。というのも、ケガの直後に起こる炎症とは比べ物にならないくらい、これらの症状は施術に手間がかかるからです。本書の説明を読んでいて、「ああやっぱりそうだよね、別物だよね」。安心しました。

 でもじゃあなぜ私はそもそも、「これらの症状は一種の炎症」と強固に思い込んでいたのだろう? 単に名前のせいだろうか? 不思議に思いながら読み進めると、これも納得がいきました。治療に、ステロイドが使われることがあるからです。

 ん? でも炎症じゃないのにステロイドっておかしくない?
 しかしこれも説明の続きを読んで納得しました。ステロイドの短期的な効果は患部に向けてのものではなく、周囲の筋肉の炎症を抑え、リハビリをしやすくするためのものだそうです。
 ただし長期的な効果はないうえに、高い再発率、副作用、さらに足底筋膜炎では足底筋膜の断裂を引き起こす可能性があるそうで、患部へのステロイド注入は推奨できない、とはっきり書かれていました。

 ――読みながら次々浮かぶ疑問に次々答えてくれる、まるで私のために書かれたような説明でした。おかげで、根強い思い違いはばっちり吹き飛ばせました。




 しかしこの本。タイトルに堂々とEBMをうたっているので「現時点の西洋医学的標準治療はこれ!」みたいな本かと思っていると、実際は、「この治療法には確実な根拠がない」「確実に有効と実証している研究はない」「有効とされているが無効」とかそんなのばっかり(!)
 深く考えればこれはこれで誠実なのかもしれないけれど、この本の名前も変更の余地があるよなあ……。微妙に、余計な突込みを入れたくなる本でした。


121203 『発明マニア』米原万里

  『発明マニア』 米原万里
  毎日新聞社 2007年


 初出は、2003年11月から2006年5月まで、『サンデー毎日』に連載されていたコラムです。著者の米原さんは、エッセイストにして作家、そしてロシア語の同時通訳者です。1950年に生まれ、2006年5月に逝去、ということは亡くなられる直前まで連載原稿を書かれていたわけですが、本書にはほとんど、その苦悩の跡が見られません。すごい根性です。

 実は私が米原さんの本を読んだのはこれが初めてではなく、5冊か6冊目になります。最初は、ロシア語通訳に関係した対談かなにかの本でした。
 鋭いことをケロッと言ってのける賢さと大胆さに魅了されて、立て続けに何冊か手に取りました。そのうちの1冊が『打ちのめされるようなすごい本』で、もう1冊が『オリガ・モリソヴナの反語法』でした。

 『打ちのめされるような』は書評集で、記憶違いでなければ、たしか日記風に書かれていたと思います。米原さんが絶賛する“すごい本”を何冊か読み、結果、私の好みとは合わないことが分かりました。
 じゃあご本人の小説ではどうだろう? と思いつき『オリガ』を読んでみたら、こちらはずいぶん素敵で、深い感銘を受けたことを覚えています(でも内容は忘れました。そのうちまた読みます)
 で、思ったのは、この人が読んだ本より、この人が書いた本の方が私は好きだなあ、ということでした。

 『発明マニア』は、そんな私の米原さん像を少しも裏切らない、大胆で度胸のいい、鋭くもバカバカしい、お茶目な本でした。
 ご本人いわく「せこい発明でこの世の大問題を解決するっていうしかけ」だそうで、国際情勢から国内政治、駅前の駐輪場から犬猫の愛撫まで、大半が実現不可能、でも問題の要点はピシッと突いた、ユニークでキテレツな発明が集められた本でした。


 実は、本書には書かれていませんが、『打ちのめされるようなすごい本』の方には闘病の実際がかなり細かく書かれています(たぶんこの本だったはず……)。それによると、米原さんはがんの告知を受けた後、自身のがんを使って、どの療法がいちばん効くかを実験されていた時期があったそうです。
 できることなら、その実験に私も整体屋として参加したかった、参加して、米原さんの感想をお聞きしてみたかった、とそれがいまでも未練です。今回も、『発明マニア』を読んでその思いを強くしました。きっと、ものすごい勉強をさせてもらえたろうになあ……。


130121 『習慣論』、とりあえず1回読了。

 昨年からの課題、「『習慣論』をフランス語原文で読む」が、ともかくも達成できました。
 原書で40ページ、岩波文庫で68ページの薄い薄い本ですが、読み終わるのに、2012年11月から2013年1月中旬まで、3か月弱かかりました。

 原文読んで、訳を見て、文章の切れ目、意味の切れ目を確認して、それから一々の単語を辞書で引いて、という面倒な作業を3カ月間、延々繰り返しました。
 おかげで、全体で何が言いたかったのかは、いまもさっぱり理解できてません。が、部分部分にある鋭い発想が痛快で、期待通り、おもしろい本でした。すぐ、2回目の通読に取り掛かっています。


 『習慣論』は、1838年に書かれたフランスの哲学書です。著者はラヴェッソン(1813〜1900)。てことは、25才の時の作品です(!)。

 ものの本によると、
 ある哲学の系譜は、
メーヌ・ド・ビラン→ラヴェッソン→ベルクソン、アランと続き、
 ある心理学の系譜は、
メーヌ・ド・ビラン→ラヴェッソン→リボー→ジャネと続くのだとか。
 つまりラヴェッソンは、心理学が哲学から分かれる前の、少し古い時代の思想家、ということになります。

 系譜の始祖にあたるメーヌ・ド・ビラン(1766〜1824)は生まれつき虚弱な人で、若い頃から、思うようにならない自分の不安定な体調に猛烈に苦しんできました。
 その苦しみから抜け出すことを願って、自身の体調を観察し、思索を深めてゆくうちに、やがて、身体と意志、運動と意識との関係に注目する哲学を完成させます(余談ですがビランは、私が施術してみたかった人のひとりです)

 で、このビランの視点に共感するのが、ラヴェッソンです。
 ある動きをするとき、初めは意識のはたらきが必要なのに(「まず右手をああして、こうして、それから左手を……」)、何度も繰り返して身体が慣れてくると(これが“習慣”)、意識の指示は要らなくなっていく――私たちも日常、ふつうに経験することですが、このときの意識のはたらき、意識と身体との関係を丁寧に考察したのが『習慣論』です。


 『習慣論』の翻訳は岩波文庫から出ていて、現在絶版です。私は図書館で借りました。
 借りてすぐ、通読を試みましたが、これがすごい直訳! というか見事な逐語訳(!)で、文字は確かに日本語なのに、通して読んでも意味はさっぱりつかめません(野田又夫先生、ごめんなさい)

 ただし本当に見事な直訳・逐語訳なので、フランス語を勉強するには極めて便利です。文章の切れ目、意味の切れ目が明快で、ここがこれ、ここがこれと対応できるのです。
 でも、勉強はそれで良いとしても、やっぱり私は、すらすら読んですっと分かる日本語の『習慣論』もほしい! と熱烈に思いました。

 現在主流の西洋近代医学的身体観とはちょっと違う、また、中国古代の身体観・医療観ともちょっと違う、その中間のような考え方。
 このおもしろい身体観への取っ掛かりに、ラヴェッソンは最適だと思うのですけれど……。どなたか新訳で出してくれないかなあ……。

(ちなみにビランは、混乱の時代に論文が散逸、残された原稿もややこしい事情があるそうで、こちらも日本語訳は意味不明でした。以前、2冊の本を3種類の訳で読み比べたことがありますが、どれも難解。途中であきらめた記憶があります。)


130505 フランス・スピリチュアリスム、というらしい。

 私の大好きなフランスの精神科医ピエール・ジャネとか、その叔父さん(伯父さん?)のポール・ジャネとか、同時代の哲学者ベルクソンとか、そのちょっと前のラヴェッソンとかリボーとか。その辺りの人たちをまとめて表す言葉として、「フランス・スピリチュアリスム」という呼び方があることを、先日初めて知りました(雑誌『思想』4月号「他者の意識/意識の他者」杉山直樹)

 おおお、そんな呼び名があったのか。これでやっと、「私が好きなのはフランス・スピリチュアリスムです」と言えるぞ、と思う一方で、この呼び名がどうにも私の好みに合わないのがいたく不満です。
 やっぱり今まで通り、単なる「ジャネ好き」で通そうかな。誤解を生む可能性と、「誰それ?」という空気を比べるなら、「誰それ?」空気の方がはるかにマシだもんね。


141108 ピエール・ジャネ 『心理学的自動症』

 去年の4月に発行されて以来、ずううっと買うのを我慢していた本です。が、とうとう買ってしまいました。『心理学的自動症』(松本雅彦訳 みすず書房 2013年)。ジャネ先生30才の時の大作です。
 これまで翻訳が出てなくて、題名と内容のさわりだけは他の本で目にするものの全文を読むことは叶わなくて、それでもどうしてもどうしても読んでみたくて、それで、私はフランス語の勉強を始めたのでした。ところが、ちっとも勉強が進展しないまま数年が経ち、もたもたしているうちに出てくれてしまったのがこの翻訳です。


 『心理学的自動症』の原書の方はとっくに著作権が切れていますので、ネットで公開されています。私も、最近になって、ダウンロードして印刷してみました。全文は、かなり分厚い、2部構成の本です。
 印刷ができて、小山のように積みあがった紙の束をみた瞬間に、――な、長い! これは先に翻訳で読んでしまったら、きっともう、原書は読まない(読めない)な……。そう悟って、翻訳は借りない・買わない・立ち読みしないを厳守してきたのですが、先日、図書館でうっかり手にとったことがあだになって、結局やっぱり買うことになりました。読んでみての感想は、どうせ誘惑に負けるんだったら、もっとさっさと負けておけばよかった! いままで読まずに我慢していたのが悔やまれるような、とてもいい本でした。


 内容は、当時はまだ心理学者だったジャネ先生が、カタレプシーと夢遊病の病状観察を足掛かりにして、意識と、その奥ではたらく下意識との関係を考察していく、というものです。
 専門外の私には心理学・精神医学の本質的な記述は、たぶん半分もわかっていません。けれど、観察→仮説→検証をていねいにたどるジャネ先生の姿勢が、それだけでぐぐっと、ありがたい刺激になります。長くて難しい本だけれど、やっぱりいつか、原書でも読もう、とうれしくなりました。


 そして、それと同時に、本書を訳された松本先生には、次はぜひ『人格の心理的発達』を訳してほしいなあ……とうっとり思いました。
 私がジャネ好きジャネ好き言っていると、「おすすめの本は?」と聞いてくれる方がときどきいらっしゃるのですが、ぱっと思いつくのは2冊あって、ひとつは、エレンベルガー『無意識の発見』のなかのジャネの部分。ちなみにこの本はアドラーの部分も素敵です。ジャネ先生の写真も男前です。
 そしてもうひとつが、市民大学の講義録である『人格〜』です。これは、単元ごとにさらりと読めるのですすめやすい。が、昭和35年(1955年)に関計夫先生の訳が出されたきり品切れ/絶版状態で、ふつうの書店では入手困難。しかもその訳は、文体が「です・ます調」でないのが私にはいまいち不満で、個人的に新訳(もちろん「です・ます調」の!) を熱烈待望しているのです! ああ、松本先生、出してくれないかな、出してほしいなあ……。


150112 ジャネの事例

 大好きな精神科医、ピエール・ジャネの『人格の心理的発達』(関計夫訳 慶応通信刊 1955年)を読んでいたら、とても好きな事例が紹介されていました。「第11章 利己主義と個人的関心」のところです。引用すると長いので、かいつまんで書きます。

事例…40代の男性。工場の職工長で、職人と交渉するのが仕事。冷水を頭に浸した事件(詳細不明)があって、それ以来、1年以上もの間、奇妙な感覚に悩まされている。自分の話し言葉が自分のものでなくなった、まるで他人から出ているみたいに自分をはなれたものなっている、と主張する。

解釈A…この男性はとても臆病で、職工長として、職人に話しかけたり命令したり叱責したりする自分の仕事に心苦しさを感じていた。
 ⇒この苦しさが、自分の話し言葉への違和感となってあらわれたのではないか。


というものです。これだけみると、心理関係の本としてはとりたてて目立つところはありません。ですが、じつは解釈Aにたどりつく前に、もうひとつ、べつの解釈が紹介されています。それが、

解釈B…調べてみると、この男性の聴覚は、反応が正常より遅いことがわかった。正常の場合は1000分の数秒で起こる反応が、この男性ではいつも、それよりずっと長くかかるのだ。
 ⇒外界から聞こえる音であれば、正常より遅く聞こえていても気にならない。いつ鳴った音がいま聞こえたのか、その正確な時間差がそもそもわからないからだ。けれど自分の声だけはべつで、発声した瞬間の「筋肉運動」と、それが自分の耳に「聞こえた」ときとの時間差が、明確にわかってしまう。そしてこの男性の場合はそこに明らかな時間差があるため、違和感を覚えるのではないか。


 この解釈Bが私にはとても魅力的です。

 『人格の心理的発達』は、1928〜29年にされたジャネの講義録です。実際にジャネが事例の男性に出会ったのは(講義より)15年ほど前のことで、そのときにした解釈はBです――。そう紹介したあとで講義では「ですがいまの私はこのように理解します」と解釈Aを話されます。どちらの解釈も、披露されるのです。この点がまた魅力的です。

 ちなみに15年前の当時、ジャネがこの男性にどのような治療をしたのか、その結果、症状はどうなったのか、それは書かれていません。そしてなぜか、講義のなかでは冷水の事件がジャネによって、「これはおそらく作り話でしょうが」と否定的に紹介されます。
 微妙に、「なんでっ?」とびっくりするような、あるいはもうちょっと深いところまで質問したくなるような“訊きどころ”がいくつかあるのですが、それでも、「私ならどう施術する?」「どこに問題があると考える?」と、そんな想像ができてしまう記述のていねいさと、ジャネの予測の幅の広さ・深さ、観察センスのよさに感じ入ります。


150415 『記憶と印象』と、その感想への感想。

 本好きのお客さんと話していたときのことです。私が最近(といっても少し前ですが)読んだ本として、史鉄生さんの『記憶と印象』をあげました。中国の伝統的な住宅“胡同(フートン)”をおもな舞台に、史さんの子ども時代から近年にいたるまでの想い出が、小説のようなエッセイのような夢の話のような語り口で、なんとも美しく、繊細にえがかれる短篇集です。

 「ブログに感想は書かないのですか?」とお客さんに訊かれました。じつは、書きかけましたが書けませんでした。書くための文章を考えていると、読後の心地よさが壊れそうで、惜しかったのです。

 でも、その方との会話をきっかけにインターネットを開いてみると、とてもすてきな感想に出会いました。山口大学の池田勇太先生が書かれた感想です。
 読んでいると、話のひとつひとつはもはやほとんど忘れているのに、『記憶と印象』を読んだときの、ほわぁっとゆるみつつ息を止めているような、独特の緊張感とすがすがしさの空気がよみがえってきます。――池田先生、すごいです。専門じゃないのに、授業が受けてみたくなりました。


150815 『ジャクソンの神経心理学』 山鳥重

『ジャクソンの神経心理学』 山鳥重
医学書院 2014年



 ジャクソンさん(John Hughlings Jackson 1835-1911)はイギリスの神経医です。中枢神経系のはたらきとか損傷とか病態とかについて広範囲な研究をされていました。

 私が最初にジャクソンさんの名前を知ったのは、ジャネ先生の本のなかで、たしか陰性症状と陽性症状について説明されていた部分ででした。
 ジャクソンさんのことが、ジャネ先生のどの本でどんなように説明されていたのか具体的なことは忘れましたが、「いつかこの人の本を読もう!」とだけは覚えていましたので(国会図書館に講義録を翻訳した古い雑誌があるのです)、『ジャクソンの神経心理学』という書名を見た瞬間、まよわず飛びつきました。

 で、私的にはやっぱり素敵な本でした。専門書なのでこまかい内容についてはわかったりわからなかったり、かなり怪しい理解なのですが、底を流れる考え方・ものの見方に筋が通っているので、読んでいて気持ちがいいのです(もちろん勉強にもなります)

 そしてそうなると、ジャクソンさんの立てられた魅力的な説のそれぞれが、どの程度、現在の脳科学研究と一致しているのかが気になってきます。
 そこで試しに、脳神経系、神経心理学系の本を数冊手に取ってみました。が、いまどきの本は、みごとに私には意味不明でした。

 時代が下るほどに研究は精緻になるけれど、精緻になった研究は、もはや私が知りたかったこととはズレている、という経験はときどきします。どれだけ高性能の顕微鏡を使って観察しても、そこで起こっていることへの理解は、“観察したこと”を“どう説明づけるか”によって左右されます。そして観察内容が増えていても、ジャクソンさんの仕方とはちがう仕方で説明づけられると私のような門外漢には流れが追えません。

 おなじ方式で、中国医学も生理学も、ある時点からパタッとついていけなくなりました。それでもまだ、中国医学は、分厚い中国医学史とかんたんな江戸医学史を読めばだいたいの流れが理解できたので助かりました。
 神経心理学も、本気で知りたいなら神経心理学史を探して読めばいいのでしょうが、ちょっとそこまでの思い入れは沸かないかな、という予感がします。それより、ジャクソンさんご本人の講義録を読みに、国会図書館に行きたくなりました。


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