のぞみ整体院
(完全予約制)072-250-5570

本の感想 1

090217 『新版 アメリカの鏡・日本』

『新版 アメリカの鏡・日本』 ヘレン・ミアーズ著 伊藤延司訳
角川書店 2005年




 整体とは無関係な本ですが、私の積年の疑問を晴らしてくれた本なのでご紹介します。

 内容をひとことで言うと、「江戸末から昭和敗戦にかけての日本およびその周囲の状況」を扱った本です。
 具体的な内容についてはとても ひとことでは表せないので省きますが、《訳者あとがき》にもある通り、「日本はなぜパールハーバーを攻撃したか」「なぜ無謀な戦争を しなければならなかったか」を極めて論理的に、明快に解き明かしてくれる本です。

 著者のヘレン・ミアーズ(Helen Mears 1900(1898?)〜1989)はニューヨーク生まれのアメリカ人。東洋学の研究者です。1920年代から1935年にかけて2度、中国と日本を訪ね、また、1946年には連合国最高司令官総司令部の諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとし て来日しています。

 英語版(原著『Mirror for Americans:JAPAN』)の出版は1948年(日本敗戦のわずか3年後!)。その年に翻訳家の原百代氏は著者から原 著の寄贈を受け、翻訳出版の許可を得ています。が、連合国総司令部(GHQ)により翻訳出版は不許可。占領終了後の1953年に、原氏の 訳で『アメリカの反省』と題して出版されます(残念ながら、当時はあまり注目されなかったそうです)。
 時は過ぎ、原氏の訳書があることを知らずに原著に出会った白子英城氏は、内容に強い衝撃を受けます。そして1995年、白子氏の強い勧め で出版されたのが、伊藤延司氏翻訳による、“本書のもと”になる本のようです(私が読んだのは2005年角川書店から出版の『新版』)。




 たとえば実の成ったリンゴの木を見て、ある人が「(実が)赤い」と言ったとします。
 別の人は、その同じリンゴの木を見て「大きくなったなあ」と言います。
 そしてまた別の人は「(実の数が)たくさんだ」と言ったとします。
 このとき、私もいっしょにリンゴの木を見ていた場合には、その感想に対して「なるほど赤い」とうなずいたり、「(苗からここまで成長 するのに)何年かかったかなあ」と話を合わせたり「いやいや今年は少ない」と反論したりすることができます。
 けれど私がリンゴの木を 見ていなければ、そしてそれ以前にリンゴの木の話をしていることすら知らなければ、「赤い? 大きくなった? たくさん? ・・・って何 のこと?」と混乱するばかりです。

 江戸末期から昭和初期にかけての日本の歴史・状況は、私にとって「見えないリンゴの木」でした。断片的な情報や主張を目にすることはできても、より長い時間とより広い視野で「結局なにが起こっていたのか」「日本は、世界はなにを考えていたのか」を知ることはできない。しかも厄介なことに私自身、「じゃあ具体的になにを知りたいの?」と聞かれてもうまく答えられない。
 ちょうど、「赤くて、大きくなって、たくさんなもの・・・って何のこと?」というのと同じ感じだったのです。

 明治〜昭和にかけて「つながり」の切れた日本の歴史は、私にとってどこか「他人事」のような感じでした。それが本書を読んで江戸⇒昭和が地続きになってみると、現在の日本が、歴史と無関係ではないことを痛烈に思い知らされます。
 扱っている内容が内容ですので、(とてもおもしろいにも関わらず)読み進めるのはけっこうつらいです。けれど著者のまなざしは(GHQと近い位置にいるアメリカ人でありながら)驚くほど公平で、複雑に絡まりあった当時の状況を解きほぐして表現する聡明さ・筆力には素直に感動します。そしてありがたいことに日本語訳も分かりやすいです。

 高校生のとき、「なぜ、日本史でも世界史でも20世紀に深入りしないのか」「なぜ、江戸⇒明治⇒大正⇒昭和の流れからは、一貫した印象が感じられないのか」不思議でしたが、この本を読んでようやく納得できました。
 本書の内容を学校で完全に教えることは難しいとしても、せめて参考図書として強力にプッシュしてほしい!と願わずにはいられない、稀にみる良書でした。


090228 『生活環境主義でいこう!』

『生活環境主義でいこう!』嘉田由紀子語り/古谷桂信構成
岩波ジュニア新書 2008年




 2006年から滋賀県知事になられた嘉田由紀子さんへのインタビューがもとになった本です。
 嘉田さんは、埼玉県生まれ。高校の修学旅行で滋賀県を訪れてから琵琶湖周辺の生活に興味を持ち、京都大学の学生時代以来ずっと、琵琶湖を取り巻く生活環境全般に関わってこられたそうです。

 本書では、環境問題への関わり方を大きく3つに分けています。  書名にもあるとおり、著者が提唱するのは3つ目の立場「生活環境主義」です。

 生活環境主義の基本にあるのは「現場からものを考える」こと。
 そしてこのとき大事なのは、「現場にいるそれぞれの人・村の考えを重視する」のではなく、「(個々の村の村人たちがもっている)生活の中のシステムをこそ重視する」、という姿勢です。
 この姿勢は、「人の考えは分からないが、人々の考えは分かる」という言葉に見事に要約されています。




 いろいろな意味で、すごい本でした。
 瑣末な方から言うと、まず、これが岩波ジュニア新書であるところに驚きました(!)。ちょっとフリガナが多いだけで、内容は全然ジュニアじゃあない。りっぱに大人向け入門書です(まあ、私の頭が「ジュニア」である可能性も否定はしませんが)
 瑣末じゃない方の驚きは、嘉田さんの視線の鋭さです。大学院時代の留学中でも、初めて訪れたアメリカを見る嘉田さんの冷静さにはちょっと感動してしまいます。1970年代の「豊かなアメリカ」に圧倒されつつも、同時にそれを「エネルギーの無駄遣い」と疑問視する視線。過剰に憧れるのでもなく、過剰に攻撃するのでもなく、「無駄遣い」と感じる素朴な感覚は素敵だと思います。
 そしてエピソードや語り全体に現れている行動力と説得力。ひらめき。読みながら何度も「カッコいい人だなあ!」と嬉しくなりました。

 内容については、別段目新しいことは書いてありません。「土着の環境に合わせて分相応に暮らそう」と、至ってシンプルな内容です。

 シンプルで目新しくもないこの本を、それでも印象的で大切な本だと感じてしまうのは、結局私が「近代自然主義」か「自然環境保全主義」、どちらかの視点からしか考えられなく(あるいは考えにくく)なっているからであり、そして(分相応はともかく)「土着の生活」を実現するような実際の行動を何もしていないから、ということだと思います。
 我ながらこれは、ちょっと情けないことです。

 ……でも、差し当たりするべきことを思いつけないので、とりあえず、近いうちに琵琶湖博物館に行ってみようと思います。


090328 琵琶湖博物館

 とうとう、行ってきました、琵琶湖博物館。
 『生活環境主義でいこう!』(090228)を読んでから、1ヶ月での念願達成です。

 JR草津駅を降りて、バスに揺られること25分。のどかなあぜ道的道路を走り抜けるころ、近代的風車が見えてきます。何にも予習をせずに行ったので(そして別に復習もしていないので)確かなことは分かりませんが、きっと風力発電をしているのだろうなあ……と思いつつ見ていると、かなり風がきついのが分かります。さすが水辺、と感心していると、まもなく到着。

 琵琶湖博物館の建物は2階建てです。
 まず2階に上がって「琵琶湖のおいたち(A展示室)」と「人と琵琶湖の歴史(B展示室)」、「湖の環境と人びとのくらし(C展示室)」を見ます。その後1階に下りて「淡水の生き物たち(C展示室の続き)」を見ます。
 全体の広さを把握しないまま見物を始めてしまったので、少し急ぎ目に回って3時間弱(わりとゆっくりめ?)。良い感じの広さでした。

 印象としては、結構「理科的・生活的視線」の強い博物館でした。ショーケースのなかを眺めて歩くだけじゃなく、顕微鏡を覗いたり、より詳しいビデオがあったり(至るところに!)、「触ってごらん」展示があったり、「靴を脱いで上がってね」展示があったり。

 「実際に使った人がいる」というリアルな便所もありました。木のフタ付きの和式、見るからに“ぼっとん”。私はしませんでしたが、これはする人がいても仕方ないな、と納得。久しぶりに昔ながらの便所を見て、私も妙な郷愁を感じました。

 他にも、顕微鏡で見る石、動物の化石、小型の象の復元(?)、水遣りの桶とくるくる回す手動の「水」引き上げ機(名前は忘れましたが傑作です!)、長いミミズ、ギギという魚(ニョロニョロ(@『ムーミン谷の仲間たち』)のモデル? 動きがそっくり!)、プランクトンの出産と排泄のビデオ、お土産売り場の魚の顔の絵葉書、……。

 おもしろいものはたくさんあったのですが、いちばん驚いたのは、フナとかコイが入ったトンネル型水槽での体験でした。
 トンネルは、C展示室1階の入り口すぐにあります。そこでフナとかコイの泳ぐ姿を見た瞬間、嗅ぎなれた近所の池のにおいを、確かに私は感じたのです(!)。

 こんなにおいの幻覚(なんと呼ぶのでしょう?)、海遊館その他の水族館で感じたことはありませんし、琵琶湖博物館でも他の窓式水槽では無臭でした。見慣れた魚の見慣れた姿に、懐かしさのあまり、脳みそがつい勘違いをしたのかもしれません。
 懐かしい、とはいえ近所の池のにおいなので、お世辞にも良いにおいとは言えません。が、そのにおいを感じた瞬間、「ここは水族館ではない! 近所の池だ!」とイヤに強く確信している自分がいて、ちょっとびっくりしました。恐るべし、嗅覚の記憶!


091017 『成人病の真実』近藤誠

『成人病の真実』 近藤誠 文春文庫 2004年(単行本は2002年 文芸春秋刊)

 「無症状の成人病は、本当に治療が必要なのか?」という視点から、病気と患者と医者の関係を見つめなおす。著者は放射線医。
 取り上げられているのは、高血圧、高/低コレステロール血症、糖尿病、脳卒中、そしてがん、インフルエンザ。インフルエンザに関しては、2009年流行中の新型ではないが、薬と発熱の関係が詳細に論じられているので、十分(以上に!)役に立つ。

 なお、「成人病」は現在「生活習慣病」と言い換えられているが、著者はこれらの病気を「生活習慣が原因の症状」と主張する立場を採らない。そのため、あえて「成人病」の“病名”を使っている(「古い本だから昔の“病名”」というわけではありません)




 時節柄、お客さんとインフルエンザの話題になりました。そのお客さんには、まだ小さなお子さんがいらっしゃいます。話が進むうち、「解熱剤とかって大丈夫なの? 座薬は?」と意見を聞かれました。

 私は医者ではありませんので、医者的判断はできません(当たり前ですが)。ですが、知識で得た「お医者さんの意見」なら紹介することができます。
 そこで、数年前に読んだ近藤誠先生のご本と、さらに数年前に受けた内科学の講義内容とを記憶の底から引っ張り出し、「かなり危険、と私は聞いています」と答えました(頭にあったのはライ症候群発症の危険性です)

 ちなみに、「近藤誠先生のご本」の内訳は『医原病』、『患者よ、がんと闘うな』、『成人病の真実』の3冊です。まだ他にも何冊か出されていますが、現時点で私が読んだのはこれだけです。
 内科学の講義は、私が専門学校生時代に受けたものです。れっきとした内科医の先生が講義してくださり、ずっと愛用しているノートが手元にあります。




 さて。お客さんが帰られてから、久しぶりに『成人病の真実』を開いてみました。
 数年前に読んだときは、書かれている内容の率直さ、近藤先生のスジの通し方に感動し、一気に読了しました。今回は、そのとき以来の再会です。

 差し当たり、インフルエンザ関連の記述に目を通します。読み進むうち自然と、うむうむ肯いている自分がいます。論理展開の丁寧さ、公平さ、熱意。どれをとっても直球勝負で、すごい説得力です。
 「要点は押さえつつ、それ以外の部分はきれいに忘れる」という神業のような私の記憶力との相乗効果で、とっても新鮮な気分で読み返すことができました。数年の時を隔てても、やっぱり衝撃の本・尊敬すべき著者でした。

 何より、あいまいなことははっきり、「あいまいです」とおっしゃる点が素敵です。
 簡単に割り切れるほど、あるいはあっさり断言できるほど、人体も医療も単純ではない――そのことは、私のような医療系業界“最異端”の者でも、悔しいほど、本ッ当に悔しいほど、よく分かるからです(……でもそこがまた人体・医療のおもしろいところ、大きな魅力でもあるのですが)

 以前この本をお貸ししたお客さんからは、「私みたいな素人にはエライ難しかったわ〜」と言われました。見かけは普通の文庫本、でも内容はしっかり専門書なので、「そうだったかも」と、私も思います。けれど、その苦労を乗り越えても読む価値のある、きっちり本音で書かれた貴重な本だと私は思います。

 インフルエンザ大流行のいまこそ、お役立ちの一冊、ホンモノの助け舟! とりあえず、分かるところだけパラパラ読むだけでも、気の持ちようは変わるはずです。
 私も、また近いうちに読み直します。今度はちゃんと、ノートを取りながら読みます!


091222 『水泳の基本』阿部延夫

 発売元は星雲社、発行元は創栄出版。1994年に出された本です。
 著者は、水泳動作の原則を、「自然に」「大きく」「真っすぐに」「そして、前へ」という4点に置きます。そしてこの4原則に準じた上で、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライの泳法について解説したのが本書です。

 本書の大きな特徴は、

「どのような意識で動きを作るべきか」
「またそのために指導者は、何をどう伝えるべきか」

が、強く意識されている点です。




 すごい、本でした。
 「うーん、おもしろいっ」「ああ、私もそう思うわっ」とぶつぶつ言いながら、一気に読了。平均すると、2ページに1回感動し、20ページに1回、大感動したような状態です。
 泳げないし泳ぎたいとも思わない人間が読んでも、感動できる水泳教本。とっても貴重だと思います。

 巻末の略歴を見ると、著者は、釜石、仙台を中心に、水泳指導に当たられている(いた?)方だそう。
 書かれた本を読むだけで、たくさんの教え子に関わりながら、「指導者の投げかけた言葉が、泳ぎ手にはどう伝わっているのだろう」とか、「どう言えば教え子に、正しく動きを変えさせることができるのだろう」とか、そんなことを真剣に考えつつ丁寧に指導者生活を送られる著者の姿が想像できます。私はまず、そのことに感動しました。
 そしてまた、その上でたどり着かれた結論(=本書の主張)に、全面的に賛同します。

 というのも。
 話題は水泳で、書かれているのは泳ぎ方についてのあれこれなのですが、根本的な中身は身体操法の基本・本質だからです。

○動きには、意識して「変えられる動き」、「変えられない動き」、「変わってしまう動き」がある。
 ⇒動きを変えるためには、「なにをどう意識するか」が重要。

○連続的な動きのなかで一部分を意識する――それには益と害が伴う。
 ・益は、一連の動きにリズムができること。
 ・害は、動きの連続性が途切れること。無駄な力が入ってしまうこと。

○不可抗力でそうなってしまうのは、「自然な動き」。
そのように見せるために意図された動きは、「不自然な動き」。
 ⇒一流選手の「自然な動き」を「不自然に」真似ると、動きの目的を外すことになる。

 こういったことは、別に水泳に限ったことではありません。だからタイトルが『水泳の基本』なのは、非常にもったいない。せめて、『水泳を題材に語るスポーツの基本』とか『水泳で見る身体操法の要諦』とかに改題して、読者の間口を広げてほしい!――と願います。




 下手な言葉で私があれこれ誉めるより、一“読”瞭然。ちょっと引用してみます。
 たとえば65ページにある「バタフライのリカバリー」についての記述は、こんな感じです。

 リカバリーではとくに意識すべきことはありません。それよりも意識しようとしたときに問題が生じてくるのです。
 強力な腕のプルの反動で、手が水上にはね上げられますが、それから入水までは自然の成り行きに任せることです。それが最善のフォームになります。
 このリカバリーについて、3種類ほどのアドバイスがありますが、そのどれもがバタフライに良い結果をもたらすものではありません。


 また、ちょっと長いですが、24ページにある「クロールの肘曲げプル」についての記述はこうです。

 水中でのプルについて“肘を曲げる”動作を奨めるケースがあります。確かに、Aクラス(引用者注:上級者)の人の水中写真をみると、角度はいろいろですが曲がっています。
 が、これは当人が曲げようとしているのではなく、水抵抗のため曲がらざるをえないのです。
 曲がり具合も、泳ぐ人の腕構造とかローリングの程度によりきまることで、一律に同じになる性質のものではありません。
 泳ぐ人には、どのくらい肘が曲がっているかわからないのです。
 自然に曲がる形と、自分の意志で曲げた形では、曲がりの質が違ってきます。この違いを知ってほしいと思います。
 したがって肘の角度は、意識すべきでないし、意識させるべきでもありません。すべて成り行きに任せることです。
 肘曲げを意識すれば、その結果は身体が左右に蛇行し、バランスを欠いた泳ぎになるだけです。

 ――分かった風に引用していますが、リカバリーもプルも、水泳と縁のない私には具体的な動きは分かりません。なんとなくイメージしながら読んでいるだけです。
 けれど、引用部分で主張・注意されていることについては、とてもよく理解できます。さまざまな身体操法に、共通する内容だからです。

 本書では、無駄な意識を持たせないことと、「アドバイスする」その行為自体が、必ずしも適切とは限らないことの2点が、何度も強調されます。
 そしてその“代案”として、正しい泳ぎ方とその意識付けが説明されます。説明は、極めて具体的で、論理的で、分かりやすく、経験に裏付けられて迷いのない、簡潔で鮮やかな言葉で語られます。
 上の2つの引用文は、たまたまぱらっと開いたところから拾いましたが、全篇、こんな感じです。




 写真はなく、ときどきイラストがあるだけの地味な作りで、けれどその内容は鋭く本質を衝き、言葉にしにくい内容を分かりやすく丁寧にまとめ切る――これぞ教本、と呼ぶべき本でした。
 (付け加えるとイラストも、地味ながら適切で、とても分かりやすい。イラストレーターの方のお名前も書いておいてほしかったです。)

 久しぶりに、たくさんの人に読んでほしいなあ! と思う本に出会いました。
 『水泳の基本』というタイトルに騙される(?)ことなく、どうぞ一度、手に取ってごらんくださいませ。身体の動きやしくみ、各種スポーツに興味をお持ちの方なら、めちゃくちゃ楽しめること、請け合いです。
 (…でももしかして絶版? 品切れ? としたら図書館/古書でお探しください。私は堺市の図書館で偶然見つけました。)


100307 『ヘヴン』川上未映子

※以下は、川上未映子さんの小説『ヘヴン』を読んでの感想です。物語の内容に触れていますし、かなり偏った感想かも……という気もしますので、『ヘヴン』未読の方で物語を先に知りたくない方や、変な先入観を持って小説に向かいたくない方は、どうぞ、この先は読まないでくださいませ。


 あらすじを紹介しすぎるのもどうかと思うので、ざっとした人物配置だけまとめておきます。

「僕」…書き手。中学生、男子。クラスの男子グループから苛められている。右目が斜視。
「コジマ」…中学生、女子。「僕」の同級生。クラスの女子グループから苛められている。両親の関係にこだわりを持つ。
「百瀬」…中学生、男子。「僕」をいじめる男子グループの一人。率先して手を下すわけでないが、リーダー格の一人。
「母さん」…「僕」の母。父親の再婚相手で血のつながりはない。





 ……でもまったくあらすじを書かないのもどうかと思うので、やっぱり簡単なことだけ書いておきます。

 物語は、クラスで苛められている僕とコジマが、手紙で交流し始めるところから始まります。友達ができることで僕の世界は広がりを見せますが、しかしそれとは関わりなく、クラスでの暴力は続いています。苛められる日々のなかでコジマはひとつの信念を抱くようになり、その信念に共感しきれない僕は、ひょんなことから百瀬と話をする機会を持ち、彼の世界観を知ります。
 その後、これまでにない方法でコジマと僕は追いつめられ、急速に、物語は終息します。





 『ヘヴン』は、雑誌の『群像8月号』(講談社)で読みました。読後強い衝撃を受け、とっても大事な何かをもらったことだけは分かりました。が、それが何なのかは、よく分かりませんでした。
 あれから半年近く経ち、ようやく最初の衝撃が収まってきたのか再読してみようという気になり、先日、半日掛かりで読み直しました(努めて丁寧に読んだわけではなく、単に読むのが遅いだけ)

 2度目でも、やっぱりすごい本でした。
 ただ、1度目に読んだときは、比較的「僕」の立場に近いところで、「僕」といっしょに物語世界にのめり込んでいた、巻き込まれていたように思います。ですから“読んだ小説の感想”というよりは“体験”に近く、私の価値観を直接揺さぶられた衝撃で、何がなにやら分かりませんでした。「コジマの理念に共感しながら共に進むことはできず、百瀬の達観に反論もできない」⇒「私の価値観はいったいどちらの味方…?」と、ぐらぐらしていた感じです。
 それが今回は良くも悪くもちょっと距離ができ、小説を小説として読めたように思います。
 で、以下に述べるのはその感想です。




 今回大事に感じたのは、「現実は、身体の感覚を伴って生きなさいね」ということでした。
 コジマの様子は前半と後半で一変しますが、後半のコジマの語る信念や百瀬の達観は、相応に理路整然とまとまっています。けれど、身体の感覚が否応なく持ってしまうある種の逸脱というかエエ加減さ、ふてぶてしさは、その信念・達観からはほとんど感じられません。頭で組上げた精緻な理屈、という印象がとても強い。

 どんどんどんどん純化され、煮詰められていくコジマの信念には、ちょっと分かりやすい怖さがあります。そして(その信念そのものに、読者である私自身の考えと根本的に相容れない要素が含まれているため)、信念に結晶化されたコジマの考えを拒否するのは、少なくとも私にはそう難しくないように感じられます。
 一方、現実を冷めた目で見つめて、少し離れたところから達観している百瀬の理屈には、反論しにくい懐の広さ(?)があります。反論しにくいけれど正しくはない。正しいと言ってはいけない怖さがあって、けれど一面の真実というか現実を見事に突いているのは確かなようで。百瀬クンから面と向かって「文句ある?」と聞かれると「う……」と答えに詰まる感じがあります。

 「説得力を持つかどうか」だけを基準に考えると、きっと、コジマの信念にも百瀬の達観にも説得力は、あります。
 けれどその一方で、前半のコジマが世界を捉えるときの、きらきらした言葉の美しさや、暴力を受けている僕の、痛みや恐怖。非常階段で感じる風や空、雨の手触り、様子、におい。身体の感覚を受け止め、引き受けた上でつむぎだされる言葉だけが持つ、独特の重さというか生々しさ、迫りくるような存在感は感じられません。
 だからこそ、物語の終盤で僕の目に、コジマと百瀬がだぶって見えるのではないか。まったく逆の立場に置かれ、全然違う理屈を組上げた2人にも関わらず、同じに見えてしまうのではないか。――そう思いました。




 自らの考えをとうとうと語るコジマや百瀬に比べて、書き手の僕はほとんど何も語りません。全文すべて僕の視点で語られ表現されていますが、その大半が感覚の表現です。コジマや百瀬が語るような理屈立った考えは出てきません。
 もちろん、語らないから考えていないというわけでは全然なく、学校を辞めるとか親に相談するとかクラスで堂々と反論するとか暴力で対抗するとか、一通りの、「自分が苛められている現実」への打開策は考えてみたようです。けれど、考えた結果、いまの僕には実行できない、実現できないと判断して、諦めています。
 この感じは、とても、地に足が着いている印象を受けます。

 この、地に足が着いた感じは、僕の母さんにも共通しています。腕の出血におびえる、離婚を迷う、血のつながらない息子の斜視を思いやる。描かれる出来事はそれほど多くありませんが、起こったことのひとつひとつを受け止め、丁寧に考え、答えを出すことを急がない。そんな母さんの姿勢がよく分かります。そしてその姿勢は、息子が苛められている事実を聞いたときも変わりません。
 コジマと百瀬の考えを聞いてから僕と母さんの様子を見ると、語らないけれど感覚している確かさ、結果を出さずに矛盾を矛盾として保留するつよさ――言ってみれば、地道に生きている感じが、とても鮮明です。
 そして私は『ヘヴン』を読んで、この、僕と母さんの在り方そのものに感動したんだなあ、と今回納得しました。

 いきなり話が飛びますが多くの心理学関係の本では、心の問題には大いに注目する反面、身体にはまったく目が向けられません。「当たり前でしょ、心理学なんだから」と言われればそうなのですが、私は、そのことに悲しくなります。脳関係の本でもそうです。心=脳、という理解をまるっきり否定するつもりはありませんし、生き物として脳が大切なのも確かです。
 でも、その脳を生かすのは身体です。ブドウ糖と酸素でしか生きられない脳のため、身体は全力を挙げてブドウ糖と酸素を脳に送ります。身体のどこかに大量出血があっても、脳の血流量は最後まで優先的に確保されます。他の部分を犠牲にしても、脳へ血液を送ろうとするのです。
 そんな全身のはたらきを見ていると、脳や心だけを取り上げて、個別に論じるなんてこと、果たして本当にできるんだろうかと妙な気分になります。

 きっと、整体屋として日々、身体のすごさに感動している私としては、誰かに、「大切なのは脳みそだけじゃないよね、私たち、脳みそだけで生きてるわけじゃないよね!」と言ってほしかったのだと思います。そしてそんな私の願望が、川上さんにそのつもりがあったかどうかにはお構いなしに、『ヘヴン』にその構図を当てはめさせたのだと思います。

頭だけで組立てた理論は危うい。
身体の感覚を大事にしながら、地道に生きることが大事なんじゃないの――。

と。




 また半年後に読めば感想が変わるかもしれませんが、2度目の感動は以上のような経緯で起こりました。
 めちゃくちゃ素敵で、奥行きの深い本です。未読の方は、ぜひぜひどうぞ。
 半年かけて気持ちの整理がついた私は、これでようやく、川上さんの他の本が手に取れます。これも、喜ばしいことです。


100524 吉田富三先生の本

 どういった話の流れからかお客さんとの世間話が医療保険に及び、その続きで吉田富三先生のことが話題になりました。

 吉田富三先生は、1903年生まれのがんの研究者。国語審議会委員も2期、務められました。
 1964年に日本医師会の会長選挙に立候補され、落選。その後、立候補の真意であった医療保険制度についての自説を法曹雑誌(?)の『ジュリスト』(1964年9月1日号)で展開されました。

 私はその記事のことをある本で知り(どの本だったのか失念。社会批評家?のパオロ・マッツァリーノさんの本かなあと思うのですが、自信がありません)、図書館に行って夢中で読んで、その論説の明快さと公平さに感激、なるほどなあと納得したのがたぶん、去年のことだったと思います。
 話題に上ったのをきっかけに先日また読み直したくなって、再び図書館に行きました。で、折角だから他の本も読んでみようと思って、『美と教養』『生命と言葉』「医学と人生」(『現代教養講座7』所収)の3冊を借りてみました。

 『美と教養』は画家の林武さんとの対談で、1968年に日本ソノサービスセンターから出版。
 『生命と言葉』(読売新聞社)は随想集。1963年から1971年にかけての文章が収録されています。
 「医学と人生」(ぎょうせい)は1965年におこなわれた2日間の講座の記録です。

 話題は主に、医療保険制度と日本語の将来についてです。当然ですが、3冊とも40年程前に書かれた文章なので、いくらかは時代背景が違います。にもかかわらず、話の筋道がまったく古びていないのが素晴らしい。文章とか用語の持つ時代性にちょこっとだけ手を加えれば、最近の著作としても十二分に通用する普遍的なまなざしだと思います。

 いま社会で起こっていることの問題は何か、どこをどう考えれば解決策が導けそうか、そのためには何をするべきなのか。そういったことが平易な文章で淡々と語られるのですが、その底には、さまざまな立場の人の利害とか、生活とか、生きがいとかを想像する視線が絶えず向けられていて、しっかり地に足が着いています。自説を強引に押し付けるでもなく、実現性の低い奇妙な思いつきや現実的な裏付けを感じさせない偏見じみた世界観・社会観を振り回すでもなく、あっちの人とこっちの人の立場を慮りながらお互いが落ち着ける点をじっくり探す、その中和点までの筋道を丁寧に分かりやすく展開する。
 際立って、着実な安定感。書かれている主張の内容もさることながら、ホンモノの知識人ってこういう人を言うんだろうなあ……と、嬉しくなりました。

 医者なんだけど、臨床医ではなく研究者。国語審議会委員なんだけど、日本語の研究とは無関係。
 あるいはそんな、ちょっと距離のある立場だからこそ、公平な考えが持てたのかもしれません。そしてもしそうであるなら、その微妙な立場に留まりつつ踏み込んだ意見を書き残してくださったそのことが、私はとても嬉しいのです。




 「今でも著作は手に入るのだろうか」と思って調べてみると、ほとんどの本がもう、新刊では手に入らないようです。
 医療制度とか組織一般とか日本語とか言葉とか思想とか、社会とか教育とかそんなようなことをじっくり考えている人たちにはきっと、重要なヒント満載の貴重な本になるだろうになあ。なんて残念なこと!
 「いまこそ本当の知性の声を聞け!」とか何とか気の利いたコピーを付けて新刊に混ぜて復刻してくれれば、本屋さんでぱらぱらっと見て一目惚れして買っていく人が少なくないように思うのに。私ならきっと買うな。きっと惚れるな。自信あるわ。どうして全集本とか出さないんかな、謎やわ、とぶつぶつ言いながら、とりあえず『ジュリスト』の記事を紹介した人がいてくれて(どなたか忘れちゃったけど)、図書館があってくれて、そして私は図書館が大好きで、良かった。


100914 『混沌の海へ―中国的思考の構造』山田慶児

 1975年に筑摩書房から出た本です。
 本文が約320ページ。Tのフィルター論に5篇、Uの極構造理論に3篇。2部構成の論文集です。

 全体の印象(?)は、うむむ、難しい……、という感じ。
 『混沌の海へ』全部に共通する主題は、副題にもあるとおり、「中国の伝統的な考え方とはどういうものか」。そして、この疑問を考えるために取り上げられる題材が、時節柄(?)、文化大革命、中国共産党の政策、「西洋の理論」と「中国の技術」の対照、……など。

 がんばって読みはしましたが、政治的な話題にも政策的な話題にも、そしてあまりに論理的すぎる話題にも私はついていけず、とっても飛び飛びにしか理解できませんでした。
 が、その飛び飛びの理解の中で2つも(!)おもしろいことを教えてもらえちゃったのが、この本のすごいところです。

 その2つとは、「中国人の考え方は、パターンを読むものである」ということ(「パターン・認識・制作−中国科学の思想的風土」)。それと、陰陽と五行の考え方の違いについてです(「空間・分類・カテゴリー−科学的思考の原初的、基底的な形態」)




 山田先生がおっしゃるには、パターンを読むということは、「対象を、個別的・具象的・意味的に多様なまま把握し、しかもそこに秩序を見出すこと」なのだそうです。この説明を読んで初めて、私は、長年「経絡」理論を誤解していたことに気付きました。

 中国医学では、顔色を見て、声の調子を聞いて、話を聞いて、脈をみる――いわゆる「四診」の結果を総合して、相手の体調を把握します。四診を使いこなすには、独特の予備知識(=中国医学理論)が必要で、その基本になるのが経絡に関する理論です。

 経絡は、「気」の流れる道すじを図に表したものです。重要な流れが12種類あるといわれ、そのそれぞれに、特有のはたらきと、またそれに対応する症状・徴候があるとされています。
 ですから施術者はたとえば、症状を聞いては「あの経絡がしんどいのかな?」。顔色を見ては「この経絡の状態が悪いのかな?」。そんな風に推理していくことになります。

 ただし、12種類ある経絡はそれぞれがばらばらに独立しているわけではありません。やたらに密接に連絡しあっています

 それぞれが完全にばらばらであれば、「めまいならこの経絡!」とか「頭痛ならあの経絡!」とか推理する――というか暗記しておくだけで用は足ります。
 けれど、経絡どうしがやたらに密接に連絡しあっていると、そうあっさりはいきません。「症状を聞いてアノ経絡がしんどいのかと思ったけれど、実際は、ソノ経絡のしんどさがアノ経絡に連絡してできたものらしい」といったややこしい事態が起こります。




 中国医学の理論を勉強した当時、このややこしさあるいは融通の利かせやすさに私は驚き、「経絡ってばうまいなあ。根本の理屈は単純だけど、あれこれこねくり回せばどうとでも説明できちゃうのだから!」と冷やかし半分、思いました。
 「こうならこう!」「ああならああ!」と、謎と答えが理屈で直結できる“法則”に慣れていた私には、「自分で解釈し発展させながら使う」種類の法則は、なんだか不思議だったのです。

 ところが山田先生の説明を読んで、その融通こそが経絡理論の本領だったのだ! と知りました。
 もとの理論はごく単純、でもその組合わせ方を変えれば、すべての事例が説明できる。“例外”も、存在させない。――それが、中国医学の目指すところだったのです。

 「謎⇒理屈⇒答え」ではなく、「謎⇒パターンに置き換える⇒理屈を考える」、この手順でもって相手を理解する。――そう納得すると、さまざまなパターンを集め、記録することの大切さがよく分かります。きっちり理屈を考えていくためには、まずさまざまな(理想を言えば、あらゆる!)パターンの種類や傾向を知る必要があるからです。
 中国医学(に限らず中国の文化全般)で、まるで義務のように膨大な量のパターンを書き残し、保管し、研究し続ける理由がよく分かりました。
 と同時に、改めて、経絡理論の完成度の高さを思い知りました。使っていて確かに、とっっても例外は少ないのです(網羅的過ぎて、何が例外で何が例“内”か判然としない、とも言えますが……)




 もうひとつの発見は、陰陽と五行の違いです。
 陰陽五行説のもともとは、陰陽説と五行説。2つの別々の理論です。どちらも、物事を説明する“パターン作り”の、基本となる理論です。

 陰陽説は、2つの対立する性質間の、勢いの強弱変化に注目します。
 五行説は、5つの特徴的な要素間の、相互関係・相互連関を扱います。

 陰陽が水−火、北−南、女−男などさまざまな二極対立を取り上げるのに対し、五行の方は、木・火・土・金・水と名付けられた決まった5つの要素を使います。




 つねづね私は、イメージしやすい陰陽説に比べて五行説は理屈っぽいなあと思っていました。
 そもそも、5という分け方が中途半端。一筆書きの星印(紋で言うところの「晴明桔梗」)は確かに5分割を描くけれど、丸にペケを書けば済む4分割の方がよっぽど描きやすい。西洋式の地水火風のように、4つの要素で考えようとは思わなかったのかなあ、と不思議でした。

 が、このイメージの仕方がそもそも間違いだったようです。山田先生によると、

 陰陽説は、丸の中に横線を1本引いて、上下に分ける2分割。
 五行説は、丸の中に丸を書き、内外でまず2分割。それから外の円をさらに4分割して、5にする。

 そんな手順を取るそうです。

 ――丸の中に丸、それから外側の丸を4分割! 目からウロコでした。

 中国医学や五行説を勉強していると、「土の要素だけが別格に扱われている」場面に、なぜかちょいちょい出くわします。方角でもそうですし(東西南北に対して中央)、季節でもそう(春夏秋冬に対して土用/長夏)。脈でも、土の脈だけは別格です。これが、私には謎でした。

 対等なはずの5つの要素で、土だけがなぜ別扱いになるのか。果たして、5つの要素は対等なのか、対等でないのか。いったいどっちなのだ??
 ですが、5の内訳を「内側の丸」+「4分割された外側の丸」と説明されると、大いに納得です。初めから、内側の丸は少々別物だったわけです。

 『混沌の海へ』では、内側の丸が混沌を、外側の丸が秩序を表すと説明されます。これも、具体的な意味は不明ながらイメージがめちゃくちゃカッコいい! そして荘子好きの私としては、混沌が重視されるだけで単純に嬉しい(混沌(渾沌)にまつわる話は、『荘子』の中でも特に好きなお話なので)

 長年の誤解と謎が解け、ついでに“おまけ知識”に感動までし、私にはとっても値打ちな本でした。


110125 近藤医師の発言をめぐる一連の論争に思うこと

 抗がん剤に懐疑的な立場を取られる近藤誠医師の発言をめぐって、紙上で数回のやり取りがありました。私が目にしたのは5つです。

 まず最初が月刊誌「文藝春秋」1月号に掲載された「抗がん剤は効かない」です。割に長めのやや専門的な記事で、いくつかのデータを挙げながら抗がん剤に懐疑的・否定的な見解が述べられます。
 ずいぶん以前から抗がん剤の効果に疑問を持たれている近藤医師ですので、新しい論点の披露というより新薬の評価も含めての総論、といった感じの内容でした。

 それに続いて同じ「文藝春秋」の2月号に、近藤誠医師と立花隆氏の対談が掲載されます。ご自身もがん患者である立花氏は“患者代表”の立場を取られ、そこから先月号の記事について語り合おう、という体裁です。

 その同じ頃、週刊誌である「週刊文春」1月20日号と「週刊現代」(すいません、こちらは号数を確認していません)に近藤医師への反論が掲載され、さらにその「週刊文春」の記事に反論する形で次の27日号の「週刊文春」に近藤医師の記事が載ります。ちなみに「週刊文春」と「週刊現代」の論者はそれぞれ別の方です。




 以前にも書きましたが、個人的に私は近藤医師の見解に大いに大いに賛成しています。けれど、だからこそもう一歩踏み込んで疑ってみたい――というか、近藤医師を否定しているお医者さんの意見がぜひ聞いてみたいと思っていました。
 一方の意見だけを聞いて納得し、信じきっていてはバランスが悪くて落ち着きません。比較するためにも反対意見が知りたかったのです。

 が、内容は残念なものでした。はっきり言えない事情があるのか、実績的にはっきり言えない状況なのか、それは分かりません。けれどどちらにせよ、あまりちゃんとした反論にはなっていないように私には感じられました。

 冷静に考えるまでもなく、「抗がん剤は効かない」なんて、抗がん剤を使って治療に当たるお医者さんには聞き捨てならない暴言のはずです。実際の生き死にの現場で、しかも軽くない副作用に苦しむ姿を目の当たりにしながら、それでも治療のためには使わなければならない。これは相当しんどい仕事です。
 言われたのが私であれば猛烈に反発したでしょうし、そもそも反論できるだけの信念というか確信というか覚悟(理論的にも心情的にも)がなければ怖くて使えないでしょう。

 ――と、部外者の私でさえ思うのに、反論が、弱い。
 こうなると、近藤医師が正しいか正しくないかよりも、なぜ強く反論しないのかの方が気になってしまいます。信じて治療に耐えている患者さんのためにも、強硬かつ論理的に反駁して、抗がん剤治療の説得力を思う存分、発揮すべきだったように思うのですが……。


110422 『ピアジェ×ワロン論争』 加藤義信ほか

 『ピアジェ×ワロン論争 「発達するとはどういうことか」』
  編訳著:加藤義信 日下正一 足立自朗 亀谷和史
  ミネルヴァ書房 1996年

 ジャン・ピアジェ、アンリ・ワロンはともに20世紀を代表する心理学者です。それぞれ特徴的な発達理論を作り上げました。同時代に在った2人は互いの論点を批評しあい、それはピアジェ×ワロン論争と呼ばれたそうです。
 本書は、未発掘だった資料も含めてその論争および当時の時代背景を概観し、2人の理論全体について解説を付けた“専門的入門書”です。




 またまたすごい本に出会ってしまいました。

 ピアジェは名前だけ、ワロンに至っては名前さえ知らなかった私ですが、すでに読んでいる途中から“大のワロン好き”になれてしまうくらい、中身の濃い本でした。

 もともとは、この本を読む前に読んでいた別の本の参考文献として、ワロンの名前が挙がっていたのでした。「誰じゃこりゃ?」と思って図書館で検索し、本棚であれこれ物色した結果「ピアジェとワロンが同時に勉強できそう」というお得感につられて読み始めたのがこの本でした。

 が、今となってはもう出会うべくして出会ったとしか思えません、この本もワロンも。

 ワロンの場合、発達心理学とは言いながら、扱うのは心だけに留まりません。筋肉や神経の発達というか成熟までが視野に入れられています。
 そして、感覚し運動する身体の作用と、主に言葉によって表現される思考・知能と、それを取りまく他者・社会との絡み合いから人間をとらえていきます。

 この視点が、整体屋である私にはものすごくありがたいのです。
 子どものお客さんに施術していて思うこと、大人の人の、子どもの頃のケガに施術していて思うこと、見聞きしたことを元に勝手に想像してみること。
 こういったあれこれを考えるとき、子どもの発達をじっくり観察した経験のない私はいつも材料不足に困ります。何を考えても実感とか確信がもてないのです。

 で、たぶんこうなんだけどとか、理屈から考えるとこうのはずなのだけどとか、推測ばかりが並ぶことになります。
 これじゃいかんと思って本を読んではみるのですが、今度は子どもをみる視点が問題になります。やたらと脳に偏っていたり情緒的すぎたり理論的すぎたりすると、私の役には立ちません。心と身体と人間関係が同時に盛り込まれていなければ、私の知りたいこととは外れてしまうのです。

 それが、ワロンならきっと私の知りたいことを教えてくれるはず!――本人の著作はまだ読んでいないので断言はできませんが、そんな期待に満ちた強い予感があります。

 これまで、西洋医学はもちろん、カイロプラクティックとか整体とか東洋医学とか、「教科書を通してのお勉強」についてはいろいろかじってきた私ですが、いまの私と、身体をみる視点がここまで一致しそうに思えるのは初めてのことです。
 まさか、発達心理学と重なるとは思ってもいませんでした。早速、ワロンご本人の著作を探して読まなければ!




 と、ここまで熱く思わせてくれた本書に大感謝です。
 主題になっているピアジェとワロンの理論以外にも、マルクスの観念論についてとか、英米とフランスの考え方の違いとか、おもしろいことをたくさん教えてもらいました。

 こんなふうに、重層的な視点を保ったまま物事を説明するのはとてもとても難しいことです。複数の著者が意見のすり合わせをきちんとして、時間と手間をものすごく掛けて作りあげたことがよく分かります。とても、親切な本でした。
 これからワロンを読む私の、貴重な足掛かりになってくれるはずです。


ページ先頭へ