のぞみ整体院
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整体・身体観 9

101101 食事と栄養

 『漢方 日本人の誤解を解く』(劉大器 講談社)を、おもしろく読みました。
 筆者は、漢方の考え方に則りながら同時に、薬の“寒熱”をとても大切にされている方です。

 寒熱というのは、症状とか体質を表す中国医学の分類です。
 「顔が赤く汗っかきで、性格は活発」が熱の体質だとすれば、
 「顔が白く冷え性で、性格はおとなしい」は寒の体質。
 同じ風邪でも、発熱するのが熱の症状だとすれば、悪寒がして震えるのは寒の症状。
 そんな分類に使われるのが一般的です。

 それを筆者は「薬」にも適用します。
 つまり、身体を冷やす薬は寒の薬、温める薬は熱の薬と分類する。
 そして、寒の病気には熱の薬を、熱の病気には寒の薬を、処方する。




 薬に寒熱を考えることは以前からも普通にされていたようですし、食材を寒熱で区分する考え方も、それほど特殊とは言えません。
 けれど、漢方を使いながらここまで優先的に寒熱を重視する考え方は、私には新鮮でした(これまで読んだ本では、「陰陽」とか「虚実」とか「寒熱」とか、いくつかの視点を同列に扱って説明されることが多かったのです)

 私が系統立てて栄養学を習ったのは、10年近く前、カイロプラクティックの学生時代のときだけです。
 そのときの視点は、「ある栄養素の取りすぎ・不足で起こる病気」。中心にあるのは、栄養素と病気の関係でした。

 一方、歴史が古すぎる漢方薬においては、栄養素の視点は存在しません。
 にも関わらず、ちゃんと薬として通用し、病気を良くも悪くもする。
 改めてこれは、おもしろいことです。




 先日お客さんと話していて、あるスポーツ選手がお菓子をやめて野菜をたくさん食べるようにしているらしいと聞きました。
 栄養学的にみて、甘いだけで栄養素の少ないお菓子は身体に悪い、線維とミネラルの豊富な野菜を食べましょう、と指導が入ったのだとか。

 が、寒熱の視点からみると、そうとばかりは言えません。
 もしもお菓子が熱で、野菜が寒であったとすれば、作用は真逆になります。

 また、中国医学的に考えても、解釈は変わります。
 身体の状態によっては、甘いものがやたらに欲しくなったり、あるいは身体を冷やす食べ物を殊更嫌がったりといったことは当然起こると考えます。
 つまり「身体の状態と無関係に、摂った方が良い栄養・悪い栄養が存在する」とは考えないのです。

 食材にしても薬にしても、どの立場に立って評価するか解釈するかで結果はさまざまになります。
 そのスポーツ選手も、今もまだお菓子が食べたいと思っているなら食べてみてはどうなんだろうねぇ、案外、その方が健康に良かったりして。
 ――と、至って無責任な提案で、お客さんとの井戸端会議は幕を閉じました。


101104 手仕事の妙〜首の前側のムチウチを立て直す

 そう頻繁ではないですが、ときどき、神懸り的に絶妙な施術ができちゃうときがあります。

 大抵の場合、どうしようという腹積もりも、具体的な“戦略”も何もなく。
 ただただ目の前の状況を何とかしようと必死になっている瞬間、ふと気付いたら手が勝手に動いていた――そんな状況がほとんどです。

 先日も、そんな嬉しい“神懸り”がありました。
 その方の症状は、手首の痛み。
 問題(=癒着)があったのは首の骨の周囲。
 状況から推測するに、ムチウチに関する皮膚・筋肉の“傷”(ただし外傷はなし)が原因のようでした。




 整体をしていると、ムチウチの多様さには驚かされます。
 いわゆるムチウチ――車の追突事故によるものだけでなく、一見単純な打撲、転倒でもムチウチ的な問題は生じます。
 そして症状が首まわりに出ていても、癒着が首にあるとは限りません。

 以前、頭痛・肩こりなど頭まわりの症状で来られた方を例にすると、直接の原因は、数年前にあった車の追突事故でした。
 そして症状の元である癒着は、首まわりからではなく、おしり〜腰の骨から見つかりました。

 少し話がそれますが、車の事故の場合、おしり・腰への施術は重要になることが多いです。これは、症状の出方には関係ありません。
 上半身の体重を支えつつ、真っ先に衝撃を受ける部位、それがおしり・腰です。
 伝わった衝撃を引き受けてがくんと揺れきる首よりも、実際の損傷はおしり・腰の方が大きい、そう想定しておく方が整体をする際には確実です。




 話を戻すと、そのお客さんの症状は、前方への転倒によるムチウチが原因のようでした。

 後頭部をぶっつけてムチウチになる場合、癒着が見られるのは主に首の後ろ側です。
 車の事故によるムチウチの場合も、おしり・腰周囲の後ろ側の筋肉・靭帯から癒着が見つかります。

 どちらの場合も、施術が必要なのは、後ろ側の筋肉・靭帯です。
 そしてもし必要があったとしても、構造的に、背骨の前側の靭帯には施術することができません

 その、唯一の例外が首の骨です。
 ここなら、のど側から施術することができます。
 ただ、このときの私は「首の骨の前側から、ムチウチ様の癒着が見つかる状況」を想像していませんでした。

 施術を進めるにつれムチウチがあったらしいことは了解しましたし、実際、この日は首の後ろ側に施術も集中していました。
 皮膚・筋肉の状況も、一定以上、改善しています。
 けれど、あと一歩、弛みきらない。

 おかしいなあ、どうしたものかしらと内心焦りながら手掛かりを探し、ふと、行き当たったのが、のどでした。
 のど? と思いながらさらに慎重に検査を進め、その結果に従いながら作業を続けると、気付いたときには、のどではなく首の骨の周囲を前側から施術する格好になっていました。

 当初そんな施術をするつもりはまったくなく、頭で考えて必要を感じたわけでも全然なく、ふと気付くとしていた、というのが我ながら素敵です。

 手作業ゆえのおもしろさかどうか、余計な先入観とか思い込みをなくせばなくすほど不思議に理に適った、そのときその場に必要な作業が勝手にできちゃってたりします。
 もちろん、そういつもいつも起こることではないですし、そんな“神懸り”がいつも必要なわけでもないですが。

 その後、お客さんから経過をお聞きする機会はまだありませんが、きっと、大きく改善しているでしょう! 少なくとも、何らかの変化にはつながっているはずだと信じます。
 まさかこれだけの手応えがあって何の変化もなし、なんてことはないはずです。


101109 偏頭痛と足の裏

 「今日は偏頭痛がしています」と、お客さん。
 「偏頭痛? 珍しいですねえ」と私。

 ずいぶん長く来てくださっているお客さんですが、頭痛も偏頭痛も、そういえばここしばらく訴えられることはありませんでした。
 ですがその日は、少し細かい様子をお聞きする間も、頭痛をこらえるとき特有の、抑え込むような息遣いが目立ちます。
 だいぶ痛そうだなあ。
 話は早めに切り上げて、施術に取り掛かることにしました。

 脈を診て検査を始めるとすぐ、問題が右足の裏にあることが判明しました。
 とりあえずここから――、と手始めに右足裏の緊張を弛めにかかります。

 この方は右足の裏にも傷があるのですが、左足にも根の深い癒着があります。
 そしてこの日の施術は右足から始めましたが、右足裏の緊張の強さを考えると、より根本の問題は左足の癒着にありそうです。

 かちかちに緊張して痛々しい右足の裏をごそごそ触っていると、少しずつこわばりが弛んできました。
 と、お客さんの息遣いが穏やかになっています。

 「もしかしてマシになってます?」。
 お聞きすると、「だいぶマシ」とのこと。
 答える声も、確かにしっかりしています。
 結局その後、施術は左足の広い範囲に及び、途中何度か痛みが出たり軽くなったりしていましたが、帰る頃にはずいぶんすっきりしていたようです。




 偏頭痛の原因部位は、人によってさまざまです。
 このお客さんの場合は足の裏でしたが、おなかだったり顔だったり頭だったり手だったり。
 ほぼ全身。どこでも可能性はあります。

 これは、東洋医学的に理解するなら至って自然なことです。
 「気の通り道である経絡は全身を連絡しており、とりわけ、頭には多くの経絡が連絡している。だから、全身各部の不調が頭痛となって現れてもおかしくない」。頭痛の原因が全身にあることを、むしろふつうのことと考えます。

 が、今回の私は、その改善する速さに驚きました。
 1時間近くの施術が済んで「どうですか?」「大丈夫」ではなく、ぴこぴこっと施術するなりふわっと弛むタイミング。まさに一瞬の変化です。
 しかもそれが、足の裏と頭との間で起こったのです。

 施術した部分の筋肉が弛んで、ぽんっと脹らむとか温かくなるとかは、場所が近い分、分かりやすい。
 いかにも、ここをこうしたからこうなった、という感覚が持てます。

 けれど、足の裏に施術して頭の血流が良くなるとか、身体のどこかに施術した直後に手首の脈が変化するとか、こういったことは本当に不思議です。
 血管の筋肉や皮膚そのものの弾性なんかが関係しているのだろう、とその程度の予測はつくものの、精巧なしくみの全貌は私の理解を遥かに超えています。

 おもしろいなあ、と、今日も素朴に感心しちゃいました。


101118 皮膚、筋、ときどき骨、ときどき靭帯。

 私のしている整体では、「皮膚とか筋にできた癒着」を剥がしていくのが作業の中心になります。

 皮膚の下には皮下脂肪があって、その下には筋(=筋肉)、さらに骨、内臓とか脳――と、層状に重なる身体のつくりを考えると、私の扱う皮膚や筋は、かなり浅い部分といえます。
 ところが、うっかり「癒着は浅いところにある」と決めてかかると、痛い目に合うことがあります、――そうしょっちゅうではなく、ごくごく、たまに。

 この、“ごくごく、たまに”という珍しさが、施術する側にとってはクセモノです。
 たとえば幼少時のケガであれば骨のねじれが。
 また、ケガの状況によっては、靭帯断裂などと診断されていなくても靭帯の問題が。
 まるで狙いすましたかのように、ちょうど私が骨とか靭帯のことを意識し忘れた頃を見計らって、見つかります。

 皮膚・筋への施術と違い、骨のねじれには特殊な作業が必要です。
 靭帯の場合は、施術自体は皮膚・筋と同じで構いませんが、目標とする場所が少し深くなります。
 そしてどちらの場合も、「骨か? 靭帯か?」とあらかじめ予測した上で注意して探さなければ、検査で見つけにくい部分です。




 1週間ほど前、あるお客さんに施術していて、骨のひずみを見つけました。
 何気なく触っただけでも気付くほどはっきり目立つひずみなので、「うっかり見逃していた」のではなく、「施術が進むにつれて新たにひずみが表面化してきた」と解釈する方が適当です。

 こういった、急に目立ち始めるひずみは大抵、それ以前は他の問題(皮膚とか筋の癒着)に隠れていてほとんど存在を感じさせません。ですから、そのときまでひずみに気付けなかったこと自体に落ち込む必要はありません。
 けれどそれとは別に、骨のひずみに気付いた瞬間、ここしばらくの仕事ぶり――骨とか靭帯への注意がおろそかになっている私の施術内容に、はたと思い至りました。そして、こちらに私は落ち込みました。
 これを受け、早速先日から意識的に、骨、靭帯の問題を探すようにしています。




 大まかに言って、整体はいくつかの要素から構成されます。
 技法で言えば、「理論」と「技術」と「道具(施術者の身体を含む)」、とか。
 施術の指向で言えば、「根本的な施術」と「対症療法的な施術」、とか。

 これらの要素は、それぞれ区別はできるけれど複雑に絡み合ってもいて、すべての要素がまんべんなく上達していかなければ、整体そのものの腕前は上がっていかないと私は考えています。

 理論ばっかり考えていても技術が下手なら仕事にならないし、技術ばっかり練習しても理論や道具が伴わなければ視野の狭い、応用の利かない“単純操作”に終わってしまいます。
 かといって、理論も技術も道具も一度に――というのは現実には無理のように思えます。

 そこで私のたどり着いた結論は、覚悟を決めて、があっと一方に集中して、大事な本質を掴んだ瞬間、慌てて反対を振り返る。そして今度は、今まで見なかった反対の方にひたすら集中して、大事な手応えを必死で探す。
 そうやって、あっちこっち順番に突進していくしか腕前を上げる方法はないのだろうなあ……、となりました。

 そしてこれと同じことが、「皮膚・筋」と「骨・靭帯」の関係にも当てはまります。
 普段は、ともかく皮膚・筋への施術の腕前を優先的に上げるよう、必死になる。でもそれで行き詰まったらぱっと方針を転換して、骨・靭帯に可能性を求める。

 身体を支える基本を果たすのはやっぱり皮膚・筋のはたらきなので、“主”になるのはこちらです。
 けれど骨・靭帯の状態が悪いと、皮膚・筋のはたらきも必然的に不完全になります。ですから場合によっては、“従”のこちらが施術の要になります。

 「皮膚、筋、ときどき骨、ときどき靭帯」。
 骨、靭帯を忘れていたここ最近の戒めに、しばらくは、呪文のように唱えながら仕事をすることになりそうです。
 理想はもちろん、「ゆったり構えてすべての要素をがっちり視野に入れておく」ことですが、いまの私にはまだ、そこまでの余裕はありません。


101123 「実際の筋力」と「実際に発揮できる筋力」の違い

 ここ最近、太極拳教室での歩行練習が楽しくて楽しくて仕方ありません。

 歩行練習なんて地味で単純な練習なのに、なにがそんなに楽しいのか。
 それは、左右完全対称な仕方で歩きたいのに、どうしても同じにはできない!――そんなもどかしさを強く実感できるからです。

 太極拳の歩行では、ゆっくりゆっくり移動しながら、一方の足に完全に体重を乗せきります。
 勢いを使わずに歩くので、左右が非対称なのはいやでも目立ちます。
 私の場合、右足にはがしっと乗り込み過ぎで、左足はふらふらと頼りなくなります。

 この差を素直に理解すると、右足の筋力は強く左足の筋力は弱い、ということになるかもしれません。
 けれど、私の解釈はもう少し、ひねくれます。
 「実際の筋力の強さ」ではなく「実際に発揮できる筋力の強さ」は、「バランスする筋力の強さ」に制限される、と考えるからです。




 具体的に、右手で物を持ち上げる動作を考えます。
 現実に物を持ち上げるのは、もちろん右手の筋肉です。
 ですがこのとき身体のしくみの都合上、右手の筋力を発揮するには、その力は、どこか他の筋力とバランスする必要があります
 たとえば、左手の筋肉とか、右足の筋肉とか。

 このときのバランスは無意識のうちにされるので、通常、自覚することはありません。
 けれどこのしくみがあるために、右手の筋肉は、バランスする相手と釣り合う力しか発揮できないことになります。




 分かりにくいので、適当な数字を使ってみます。
 右手の筋力が10、左手の筋力が5、右足の筋力が12とします。

 右足とバランスした場合、右足の筋力は大きい(12)ので、右手は最大で10の筋力が発揮できます。
 ところが左手とバランスした場合、左手の筋力は右手の半分の強さしかない(5)ので、この場合、右手そのものの筋力(10)に関わらず、発揮できる筋力は左手と釣り合う筋力――5になります。




 バランスする相手が右足(12)の場合は、上限を作るのは右手の最大筋力です。
 ところが、バランスする相手が左手(5)の場合、上限を作るのは筋力の小さい左手です。
 つまり、実際に発揮される筋力は右手のものであっても、それを右手単独の筋力として評価することはできないわけです。これが、身体のしくみのおもしろいところです。

 ちなみに自然な動作では、右手に対してどの筋肉がバランスするかを決めるのは、筋力的な効率です。
 一方、意図的に動きを作る場合は、身体の動かし方を変えることで、バランスの組み合わせをある程度まで変えることができます。
 外に現れる姿勢や動きの力強さが変化するのは、ある筋肉を、どの筋肉とバランスさせるかが違うからだと私は考えます。




 身体のしくみをそんな風に理解すると、単純に見えたはずの歩行練習も、たちまち複雑さを増してきます。

 左足に体重を乗せると、なぜふらつくのか?
 左肩が悪いのか、右足が悪いのか、背骨の調子が悪いのか。
 この謎を突き止めるためには、私の大好きな実験・観察が必要です。

 左足に乗るとき意識的に右肩をぐっと入れ込んでみたらどうだろう?
 左足をもうちょっと外側に開いてみたら?
 左膝の向きが悪いのかな?
 首の向きを少し変えてみたらどう?

 ぶつぶつぶつぶつ考えながら練習していると、飽きるどころではありません、疲れて嫌にはなりますけど。
 しかもこのときに得た予測をもとに、整体で身体を立て直し、動きを改善しなければならない使命(!)が私にはあります。

 趣味と仕事が濃厚に入り混じった、絶妙の課題:歩行練習。まだしばらくは夢中でできそうです。


101124 「目の振れ」と整体

 今年の初め頃、「目がおかしくなった」とお客さんが来られました。

 それ以前から来てくださっている方ですが、目に症状が出たのは初めてです。
 このときは、突然の展開に不思議がる私以上に、ご本人がかなりびっくりされていました。

 見せてもらうと確かに、ふとした拍子に黒目がぱっ、ぱっと左に振れます。
 「わざと?」と聞くと、もちろん「いいえ」。
 “眼振(がんしん)”……? と思いながら口には出さず、とりあえず話を聞くことにしました。

 まず最近したケガの心当たりをお聞きすると、2、3ヶ月前の足のケガを挙げられます。
 それ以外に変わったことは? ――ない。
 じゃあそれかなあ、と、様子を見ながら施術を始めました。




 結果だけ述べると、施術は、良かったようです。
 数回施術して、一度、症状が消失。
 その数ヶ月後、別のケガをきっかけに目の振れが再発。
 ふたたび、数回施術して、消失。――これが数日前のことです。

 どの回も施術は全身にしましたが、中心になったのはやはり、足のケガでした。




 個別ではなく一般の話として、「足のケガと目の振れは関係するのか?」と聞かれると、それはなんとも言えません。

 関係する、といえば全身どこでも関係します。
 けれどそれは「足→目」の関係とは限りません。
 「足→腹」とか「足→肩」とか、「耳→目」とか「指→目」とか、どんな関係だって考えられます。
 たまたまこの場合が、足と目の関係だっただけの話です。




 目の振れているのを初めて見たとき、眼振かも、と思いながらお客さんにその名前は言わず、自分でも“確定”することはしませんでした。
 「診断を下せるのはお医者さんだけ」という法律(?)事情もありますが、慌てて「この“病気”!」と思い込んでしまいたくない気持ちも意識の底にはありました。

 「眼振=目の病気」とか「眼振=神経の病気」とか考えすぎると、私の視野は必ず狭くなります。
 このときの私はそれを避け、できるだけ広い視野を保ったまま、施術に臨みたいと思いました。

 結果的には、それが良かったのだと思います。
 「目の振れ」が「足のケガ」のせいだった、なんて、ちょっと推理して出せる結論ではありません。

 話を聞いて状況を見て、丁寧に検査をして施術して。
 そして、施術後に起こった変化をお客さんにしっかり観察してもらって、次回の施術前にお聞きして。
 この一連の流れ全体が「整体」であり、とりわけ大事なのはお客さんご自身の観察だと私は理解しています。

 今回の施術でも、良くなる確信を持って整体が継続できたのは、お客さんが観察していてくださったお陰でした。
 1回目の施術後に、「消失はしていないけれど改善した、振れる頻度が減っている」という変化をお聞きしていなかったら、あれほど落ち着いて整体は続けられなかったかもしれません。

 任せてくれたことはもとより、しっかり観察していてくれたお客さんに、ただただ感謝! です。


101128 のどの風邪を引く・続報

 「のどの風邪を引く(101022)」を書いたときに意識していた2人のお客さん――声を使うお仕事をされていてのどを傷めたお客さん――のもう1人の方が、先日来てくださいました。無事、“本番”では声が出たという、嬉しい報告とご一緒に、です。

 ご本人から、「声もしっかり出たけれど、背骨がまっすぐ立っていたので背中に力があって楽でした」と期待以上の好感触をお聞きできたときには本当にほっとしました。

 声が出たことだけでなくこういう変化も感じ取ってもらえること、またそれをお聞きできる立場にあることは、まさに整体屋冥利です。

 そしてさらに言えばこの方にとっては背骨の弱さというか頼りなさが、さまざまな身体の不調のいちばん大きな核心なのじゃないかしら、と私は以前から推測していました。

 「そろそろ施術も最大の山場を迎えるはず」という私の手応えとご本人の感じられた「背中のしっかり感」が、今このタイミングで一致したことは、私には吉兆に思われます。

 どうかどうか、この勢いで、だだっと施術が展開してくれますように。


101204 「整体は、症状に対してするのではない」という心構え。

 長く来ていただいているお客さんからちょっと意外なお言葉を頂戴しました。

 その方は定期的に偏頭痛が現れるので、いつもは、それをきっかけに整体に来られます。が、その日は偏頭痛がないまま、お元気な様子で来てくださいました。
 「お元気そうですねえ!」。
 私が言うと、お客さんは、そう言われれば、という感じでちょっと笑って、「元気な状態で整体に来たことはないかもしれません。なんだか症状がないと整体って来にくいんですよね」。

 それを聞き、なるほどなあ、そんなとらえ方をされていたのかあ……、とひそかに反省しました。

 たとえば“医療”的な職業を全部まとめて、“病気治し”系と“癒し”系に振り分けたとすると(って自分でしておきながらイヤな分け方ですが)、確かに整体は“病気治し”系に含まれそうです。
 整体は――とくくって悪ければ私の整体に限っては、技術においても理論においても“癒し”系とは言えませんし、またその方向を目指す気持ちも私にはありません。

 となると、「病気とか症状がないのに来ても良いのか?」という疑問が出てくるのももっともです。




 整体の仕事を続けていると、

・症状があるのに施術があまり進まない場合
・症状がないのに施術がどんどん進む場合

そのどちらもがありうることが、良く分かります。
 大胆な言い方をするなら、「身体を立て直す」という観点では、症状があるかないかはそれほど重要ではないのです。

 むしろ、“未病を治す”とか“予防医学”とか言い方はいろいろありますが、要は“病気になる前の不健康を健康にする”種類の施術はすべて、「症状のない状況でいかに身体を立て直すか」、この一点に懸かっていると私は信じます。

 これは家で言えば、いま雨漏りがなくてもズレている瓦は正しい位置に戻しておく、開け閉めに差し支えはなくてもきしむ扉には油を注しておく、そんな基本的な手入れです。
 明らかな症状(=雨漏りや扉の破損)がなくても不健康(=瓦のズレや扉のきしみ)がある場合はあるわけで、それを先回りして立て直すことが整体の本領です。
 そして私自身の経験で言えば、症状のないあるいは少ない状態でする整体は、予想以上の好結果につながる可能性が高い場合が多いのです。

 ちなみに冒頭のお客さんも、その日は症状がなかったにも関わらず整体は大忙しに展開しました。
 次から次へと立て直すべき問題が見つかって、おもしろいほど作業ははかどりました。もちろん、身体の状態も大きく改善した手応えがあります。――症状という目安がない分、その手応えが、施術した私ほどは、お客さんに“自覚”されにくい残念はありますが。




 ともあれ、お客さんのひとことで、私は大事なことを教わりました。

 理想的な整体は、将来の“病気”を回避するためにおこなうのであり、いまある症状をなくすことだけが目的ではない――と、お客さんにちゃんと伝えたいなら、私の説明の仕方や質問票の表現は不十分。見直すべき点はいろいろありそうだな、と、知りました。
 これは単なる表現力の問題ではなく、どちらかというと心構えの問題です。その点でも私の覚悟不足、大いに反省させられました。


101215 2つの焦点で身体を捉える

 12月の初め頃かそのもう少し前、突然に、身体への理解が一段深くなりました。
 これまでの仕方を「焦点が1つ」と呼ぶなら、ここ最近の仕方は「焦点が2つ(以上)」。――1つと2つ。言葉にするとちょっとした違いですが施術する立場からは、大違い。目からごそっとウロコが落ちたような大変化でした。

 どう違うのかというと、たとえばお客さんで、「右肩」と「左足」にケガがあり「腰全体」に痛みのある方がいたとします。

 以前までの施術では、「右肩」を選べば右肩(とそのケガに関連するところ)だけ、「左足」を選べば左足(とそのケガに関連するところ)だけ。どっぷり焦点が定まって、少し極端に言うと、1度に1つの関連しか考慮できませんでした。
 たとえ施術は全身におこなっても、状況を“読む”基準はあくまで1つ。「1つのケガ」だけでした。

 ところが現在の施術では、右肩と左足、均等に焦点を当てることができます。2つのどちらをじっくり見るかはその時々でかなり自由に選べて、「一方を選んだらもう完全にそっちに掛かりきり」という固定した感じはなくなりました。
 施術の最中こまめに“焦点の置き場”を変え、より全体的で複雑な理解をする――そんな良いリズムができています。




 「焦点1つ」での施術を「通りを普通に歩く」状態にたとえるなら、「焦点2つ」は「すたすた歩きながら瞬時に2本の通りを移動する」ようなものです。一瞬で見える風景ががらっと変わり、自分がいまどこにいるのか、どこから来たのか――そのつながりを見失います。

 焦点の数が1つから2つになった当初、私の中でちょっとした混乱がありました。お客さんの身体のあちこちに施術していて、その部分部分のつながりというか意味を、うまく連絡させながら把握することができなくなったのです。
 前回とのつながりも読めなければ1回の中でのつながりも読みきれない。でも、施術の手応えは悪くない――むしろ良い。

 どうなっちゃったんだろう……? と思いながら気付いたのは、この感じが、現在の太極拳教室に移った後に自分を整体していて感じた混乱ととてもよく似ている、ということでした。

 当時、お客さんへの施術はまだ「焦点1つ」でしています。ですから“対お客さんの整体”に混乱はありません。けれど“対私の整体”は、ずいぶん長い間、まったく展開が読めませんでした。

 どんどんどんどん施術は展開していくのに私は状況を把握できない、だから起こっている変化の説明がつけられない。
 「なんだか成り行き任せな施術だなあ。太極拳で要求される動きが複雑で緻密だから、それに対する整体も、私の理解を超えて複雑になるのかなあ」と、不思議にあっさり受け流していましたが、いま思えばすでに、自分の身体は「焦点2つ」で施術していたのかもしれません。




 私が現在習っている陳式太極拳は、手足を螺旋的に動かします。そしてこの螺旋の動きは構造的に、手足末梢の筋収縮のバランスを変えません。
 言い換えると、屈筋/伸筋の区別なく腕全体の筋肉が均等に収縮し、同時に弛緩していなければきれいな螺旋にならないのです。

 言うまでもなく私は、この螺旋がまったくできませんでした。それが、いまはちょっとそれらしくなっています。この「まったくダメ→ちょっとマシ」の変化を引き起こしてくれたのが、「焦点2つ」の施術だったのではないか、と勝手に想像しています。

 ――そしてこれにはまだ続きがあります。
 手足の螺旋がきれいに出せるようになった暁には(私はまだですが)、その次の課題「手足の螺旋と背骨との関連」が待っています。こちらはきっと、手足の螺旋以上に手強い相手。うまい解決ができれば、そのときはまた、大喜びで作文したいと思います。


101217 足がしびれて痛くて歩けない

 3週間ほど前、「足がしびれて痛くて歩けない」と、初めてのお客さんが来られました。来店時は、先日打った神経ブロックが効いていて、歩けないほどの痛みは抑えられていました。

 聞くと、最初に同じ症状が出たのは数年前だそうです。ある日突然左足に痛みが出、ひどくなると、続けて1メートル歩くこともできなかった。たまりかねて病院に行くとMRIを撮られ、ヘルニアと診断された。そのときは神経ブロックのために通院し、結局5回の注射で痛みが“治まった”。
 そしてそのまま数年間が無事に過ぎ、この2ヶ月ほど前に今度は、右足が同じように痛くなった――ということです。

 整体に来られたのは、再度打ち始めた神経ブロックの効きが悪く、しかも「次に何かあれば手術」とお医者さんに言われて覚悟が決まったからだそうです。
 こういった事情をあっけらかんと話されましたが、「手術は嫌だ、その前にできるだけのことをしてみよう」という意気込みはしっかり伝わりました。
 そして、施術を始めました。




 これまでに私は、「足がしびれて痛くて歩けない」症状の方3人に、施術させてもらったことがあります。お1人はすべり症、あとのお2人は坐骨神経痛と診断されていました。

 腰部椎間板ヘルニア、すべり症、坐骨神経痛。この3つはそれぞれ、身体のなかで起こっていることは異なります。
 ヘルニアは、背骨のクッションがつぶれたもの。
 すべり症は、背骨の位置が少しだけ前にずれたもの。
 坐骨神経痛は、「さまざまな原因によって起こる、坐骨神経の痛み」の総称です。ですから一概には言えませんが、腰やおしりまわりの問題が坐骨神経に影響していると言って間違いはなさそうです。

 「身体のなかで起こっていること」に注目すると3つの状況は異なります。が、「原因」の部分に注目するとそれほど事態は変わらない、と私は理解しています。




 背骨に限らず身体の骨は、複数の筋肉に複数の方向から引っ張られることで正しい位置を保ちます。これはたとえて言えば、綱引きの真ん中に立てられた旗のようなものです。
 赤組と白組が同じ力で綱を引けば、旗は真ん中に立っています。また赤組が少し強く引いてもその分白組が強く引き返せば、旗の位置は真ん中に戻ります。
 けれど赤組が強く引き、しかもずっと強く引き続ければ、旗はやがて安定を失い、倒れます。

 腰の骨で起こっているのは、これと同じことです。正常な状態では複数の筋肉に支えられ、骨は真ん中の位置にあります。ところが筋肉どうしのバランスが崩れ、1つの骨を、一方へと引き寄せる力が極端に強くなると状況は変わります。
 そしてこのとき生じる変化というか結果は、限界を超えた“引く力”がどこを直撃するかによって異なります。つまり、椎間板がつぶれれば椎間板ヘルニアに、骨がずれればすべり症に、筋肉のこりその他が神経に影響すれば坐骨神経痛になります。




 いずれの場合も、整体をするために必要な視点は、何が筋肉のバランスを変えたのか、です。
 私がこれまで見た3人の方は、皆さん、手の傷が原因になっていました。お2人は腕の傷、お1人は指の傷です。
 今回みせていただいたお客さんも、小指の先っちょにできた傷が、いちばん大きな原因だったようです。

 この4人のうち3人の方は、手の傷に加えて膝のケガ――特に膝裏(ということは十字靭帯? ふくらはぎの筋肉? ハムストリングスかも?)の傷も、関係が深そうに思えました。が、お1人の膝は無傷でしたし、3人の方もより決定的に影響していたのは、腕・指の傷でした。

 これまでに見せてもらった3人の方もそうでしたが、今回の方もやはり、施術中はずっと疑問(不満?)を連発されていました。「なぜ腰に施術しないのか」「なぜ指ばっかり触るのか」。至極もっともな質問攻めに防戦一方で答えつつ、それでもせっせと施術が続けられるのは嬉しいことです。症状の改善が伴っていなければ、こうはいきません。

 納得はできなくても通ってくださり、なんだかんだと言い合いしながらも全面的にこちらの自由にさせてくれる――そんなお客さんの度量がなければ私の施術は成立しません。「腰の症状で来られた人の、手指にばっかり施術している整体」なんて、自分でしていてもやっぱり不思議ですから。
 まったく、ありがたいことです。


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